四季折々に想う。3 8月



8月1日(火) 水の日、洗濯機の日

 工藤新一、二十三歳。今年の三月に大学を卒業し、晴れて個人の探偵事務所を立ち上げた、押しも押されぬ名探偵である。
 二年前に幼馴染との恋人関係に終止符を打ったあとは気ままな独り身と探偵業に邁進していたのだが、昨年の秋も終りに近い頃、数年ぶりに再会した十二も年上で同性の公安警察官とお付き合いなるものを始めた。
 それから諸々の準備期間を経て、件の恋人である降谷零と同棲を始めてから二ヶ月が過ぎた。
 新たな住まいと定めたマンションは男二人でも窮屈さを感じさせない広さと高さがあって、ベランダからの眺めも最高だ。現役の公安が選んだだけあってセキュリティもしっかりしているし、これまで家住まいだった新一でも今のところ快適に暮らせている。
 ——ただ一つの問題点を除いては。

 誰かと暮らすということは、その誰かの生活リズムに慣れる或いは合わせる、ということだ。
 好きなものに時間も忘れて没頭し、夜更けに就寝するのが新一のスタイルだったが降谷はその逆だった。いや、就寝時刻はそんなに変わらないから彼の睡眠時間が新一と比べて極端に短いのかもしれない。
 かもしれない、というのは、休日の前夜に降谷とセックスをした後はベッドに二人で寝るけれど、普段は生活リズムの違いという理由から個々の部屋でそれぞれ寝ることにしていたから。
 正直に言うと新一にはそれがどうにも面白くない。
 恋人同士で、同棲までしていて。なんなら身体の関係だって一線超えている。……まだ片手で数えるくらいしかしていないけど。
 降谷も新一も、互いが多忙の身であるからしょうがないのは分かるのだが、想像していたような蜜月なんてものはなく、あるのは淡々とした日々だけ。
 仕方がない、こればかりはお互いの職業が特殊だからと自分に言い聞かせても、時に不定期な休みになったり数日も帰ってこなかったりで半月近くも顔を合わせない状況が続いたりするのだ。そりゃ不満も募ろう。

 これまでの生活を思い返しながら、新一は目の前にある白い筐体をぼんやりと眺めていた。
 静音が売りのドラム式洗濯機はその言葉通り、重たい回転音など立てずひゅうひゅうんと軽く左右に回転しながら中の洗濯物を洗濯している。ライトブルーのシーツ、サックスブルーの布団カバー、ブラックのボクサーパンツとネイビーストライプのパジャマ。
 まるで海のうねりのようだ。新一の気持ちとシンクロして、それは右に左にと静かに荒ぶっている。
 このまま洗濯と乾燥まで終わらせて、新一のベッドに張り直せば終わり。今朝の生理現象からの秘事の証拠は綺麗さっぱりとなくなる。
 とぷん、と音がして動きが止まった。流水音が排水口から聞こえて、ランプは『洗い』から『すすぎ』に移る。
 ——降谷と最後にシたのはいつだったっけ。
 セックスを覚えたばかりの身体は快楽に貪欲だ。
 後ろでも気持ちよくなれると知ったのは最近になってから。一人でするより何倍も強い快感を二人でなら得られることを新一は降谷とのセックスで少しずつ知り、学んでいった。
「あー……」
 まだほんの数回だからか全部思い出せてしまう。ちょっと途中とか最後らへんの記憶があやふやな時もあるけれど、あの深いキスも暴くような手つきも体内を行き来する灼熱も鮮明に覚えている。交わされるのは身体の熱だけでなく、恥じらいながらも伝えられる、好きだという言葉。そして何よりも雄弁な瞳の情炎。
「足りねぇ、足りねぇよ……降谷さん」
 洗濯機の天板に両腕を組んで顔を伏せた。
 足りないというより飢えるまでが早いというか。若い男の性欲はよく話の種に上がることがあるけれど、経験のなかった頃の新一にはいまいちピンとこない話題だった。
 今なら分かる。よく解る。
 今朝抜いたばかりだというのに、降谷とのアレソレを回想しただけで元気になっている現状。
 二人暮らしを始めた割には降谷と共に過ごしている時間がたいして増えていないのが目下の悩み事。
 そもそも何故別室就寝なのか。いやわかる。降谷がショートスリーパーすぎるからだ。新一の生活リズムを乱さないようにという余計な気遣いのせいだ。だが毎朝顔を合わせることすら稀なのはどうなんだ。
 同じ空間にいる時間を正確に計れば、同棲前と比べて確かに増えはしたのだろう——が、濃密な夜がクローズアップされた自分の記憶の中ではそれ以外の記憶は薄く引き伸ばされたような感覚で。
 足りないと感じてしまうのは、与えられる触れ合いから生まれた甘露を、身体も脳も覚えてしまったから。
 脱水から乾燥モードになり、数字は仕上がりまでの残り時間を表示している。掃除機とトイレ掃除に風呂掃除、それから昼食を作って食べて片付け終わる頃に仕上がる計算。一日の中で降谷と一緒に過ごす時間もこのくらいあればいいのに。なんて。
 こんな恋愛体質に自分を変えてしまった犯人を恨めしく思いながら洗面所を後にした。

 数時間後、青や水色の布に白い繊維質の塊がいくつも纏わりついていたのを四苦八苦しながら落として再度洗い直し。二度目の乾燥が終わる頃に珍しく定時退勤で帰宅した降谷の慧眼によって一連を見透かされ、秘事を暴かれた新一は。見事な逆ギレ芸をかまして自室に閉じこもった。
 せっかくの二人時間をふいにしてしまったと、翌朝になってから家主のいないリビングで激しく落ち込むと知っていたらそんな暴挙にでなかったのにと思ってももう遅いのである。



8月2日(水) パンツの日

 なんかおかしいと思ったんだ。
 昼過ぎ、探偵事務所に着いて直ぐにトイレへと駆け込んだ。
 スラックスを下げて履いていたボクサーパンツの左内側を広げてめくる。白いケアラベルに表記されているサイズはL。間違いない、降谷のだ。
 今朝は毎度のことながら降谷が朝早くに出勤、その玄関の閉まる音で目が覚めた新一は昨日のすったもんだと変な意地から籠城してしまった自分を責め、落ち込みからの二度寝へ。高木刑事からの電話で飛び起きればすでに時刻は九時を回っていた。
 捜査協力依頼に直ぐに行きますと言ったものの未だにパジャマ姿で。そこから朝食もそこそこにさっとシャワーを浴びて飛び出してきたのだが。
 警視庁に向かう電車の中でどうにも収まりの悪さを感じてはいたものの、捜査一課の面々と合流した後は違和感なんてものは謎の前では塵の如く消し飛んだ。
 昼頃に事件解決の目処が立ち、新一はお暇を告げてそこから近い場所にある事務所へと向かう最中に、違和感を思い出したのだった。

 下着も着替えも自室のクローゼットから持ち出したものだから、これはおそらく洗濯する時か取り入れた時に紛れたものだろう。降谷がこんなミスを犯すはずがないので、犯人は十中八九、自分だ。
「さて、どうする……?」
 真面目な顔で思案するのは、この後の行動。
 一旦マンションに戻り、着替えるついでに昼食をとるか。
 コンビニで下着と昼食を買ってきて、ここで着替えるか。
 探偵として生計が立てられるほどの収入などない新一にとって、無駄な出費は避けたい所。しかし面倒だなぁという気持ちが強いのもまた事実。
 ここでスパッと決断してしまえばよかった。
 うんうん悩んでいたら相棒の宮野志保から連絡が入った。なんでも歩美が持ち込んだ相談事が少々厄介らしい。
 事務所を飛び出した新一が事件を解決し、マンションの玄関を開けたのは夜の十時も過ぎた頃。揃えて脱がれた降谷の靴があるという光景に、帰宅中ずっと腰の辺りに留まったままの違和感は綺麗サッパリ吹っ飛んだ。
「降谷さん、帰ってたんだ」
 バスルームから水音がする。どうやら帰宅したばかりのようだ。降谷はいつも、リラックスして食べたいからと晩ご飯前にシャワーを浴びる。
 ぐう、と鳴ったお腹と、台風接近の湿度で汗だくになった体と。
 降谷の次にシャワーを浴びるより、いっその事一緒に入っちゃえば時間短縮になるんじゃないか、と考えた新一は本能のまま脱衣所に入っていった。
 新一くん?と水音混じりに自分を呼ぶ声。
 それに応えて、自分も脱いだ服を脱衣カゴに入れようとして。
 先人のものであるスラックス、シャツ、インナーシャツの上に無造作に脱ぎ捨てられていたボクサーパンツを見て目を丸くした。どう見たってこれは、
「ごめん、今日——」
 がらりと開いたバスルームのドアから顔を覗かせた降谷もまた目を丸くした。否、見ていたのは新一の、
「それ、僕のだよね……?」
「これ、俺のですよね……?」
 互いに目を合わせ、そして同時に吹き出した。
 次の日も仕事だったけれど、その夜は久しぶりに同じベッドで仲直りして眠った。


8月3日(木) はちみつの日

 コーヒーサーバーからマグカップへと注ぐと立ち上る香りに頬が緩んだ。
 盛夏であっても朝から冷たいものを飲むのは良くないというのが降谷の信条。調味料の戸棚から蜂蜜の瓶を取り出して、スプーンで掬ってコーヒーに垂らした。片手でかき混ぜながら反対の手で瓶の蓋を閉める。カップに入れたままのスプーンを指で押さえて一口啜った。うん、丁度良い。
 もう一口啜りつつ、戸棚に瓶をしまう。新一の母、有希子がくれたたくさんの引越し祝いの一つであるこの蜂蜜は、国産の中でもとりわけ甘くて芳醇な花の香を放つ逸品で、降谷はなんとなく特別だと思える日に使うようにしていた。
 まろやかな口当たりになったコーヒーはそれでも、胃に優しくないのは重々承知。普段はミルクでマイルドにしつつも、やはり時にはコーヒー本来の風味を楽しみたくもなるもの。
「ふるやさん、はよ。……いい匂いがする」
 トイレに起きてきた新一がキッチンに顔をのぞかせた。半分も開いていない目を瞬かせているのが可愛くて、そばに寄り頬に手を滑らせた。完全に覚醒していない新一はなすがままに顔を上へと向けてくる。キス待ち顔のようだと言おうとして堪えた。もう少し、このふにゃふにゃな生き物を堪能したい。
「おはよう。まだ五時だよ」
「ん……」
「寝る?」
「……」
 く、と寄った眉根は、日付を超えるまで睦み合ったせいでまだ寝ていたい気持ちと、起きて降谷とコミュニケーションを取りたいのにという葛藤の表れ。それが可笑しいやら愛おしいやらで、降谷はこの可愛い恋人をどうしたらもっと大事にしてやれるだろうかと悩むことだってあるというのに。
「ふるやさんもベッドに行こうぜ……しごとにゃまだ早ぇだろ……?」
 くあ、と大きな欠伸をして、目をくしくしと擦る仕草が本当にいちいち可愛い。
 このまま一緒にベッドに戻って、時間ギリギリまで温もりを堪能していたい。が。
「朝食の支度が——っと!」
 シンクの方に向けた顔を、両頬を挟んだ手によって無理矢理戻された。
 むに、と重なる唇。咄嗟に引こうとした頭をホールドしてくる力は弱い。のに、振り払えない。
 舌を絡ませるでも喰むでもない、技巧などなにもない、ただの口付け。
 ほんの数秒が永遠に思える。
 もっと深く味わいたいと両腕で細腰を抱えようとした所で、キスは唐突に終わりを告げた。
「しん――」
「蜂蜜の味がする」
「え?ああ、さっきコーヒーに」
「俺と一緒に寝てるよりも、そっちのが好きなのかよ」
「……えっ」
 反応が一瞬、遅れた。
 その隙に身を翻した新一が足音を立てて自室に駆け戻っていく。
 追いかければいいのに、初めて見せたかわいい焼き餅に動揺が収まらない。
 一歩、踏み出して留まった。ここで彼の部屋に乗り込んだら最後、出勤には確実に間に合わなくなるし、新一の仕事にも支障が出てしまう。
 ああ、悲しい哉、国家公務員。公安警察官たるもの、このような理由で遅刻などあってはならないのだ。
 身の内に湧いて出てきた欲望を、大きな息とともに吐き出した。冷水を頭から浴びでもしなきゃ、到底振り払えそうにない。
 身を切る思いで朝食の支度にとりかかる。放っておくと暑さを理由に平気で飯抜きをする恋人のために、食べやすさ重視で夏バテに強いメニュー。ちなみにお昼の弁当は昨日のうちに作って冷蔵庫にしまってある。
 朝食を食べ終えて身支度を整える段階になっても姿を見せないところを見ると、本気で拗ねたか寝落ちたか。これは今日も早めの退勤を心掛けねば。仕掛けられた甘い誘惑を蹴ったお詫びに何か美味しいものでも買って帰ろうか。
 コーヒーサーバーに残っていた一杯分をマグカップに注ぎ切る。今度はミルクを入れることなくブラックのままで早口に飲み干した。


8月4日(金) 箸の日

 工藤新一は頭脳明晰で迷宮なしの名探偵であるが、料理の腕となるとからきしである——なんてのは安室透/バーボンだった頃の調査ですでに把握していた。
 数少ない逸話だけでもうお腹がいっぱいになるような失敗談を、降谷が知っていることを本人は知らない。だがキッチンに一人で立たせないようにしている事ぐらいは感じ取っているものだと思っていた。
 引っ越したばかりの頃は「ただいま」の言葉を発する度に面映ゆくなっていたものだが、二ヶ月もすればだいたい慣れる。
 今日も今日とて職務をこなし、玄関のドアを開けたのは夜八時過ぎ。いつもと変わらない帰宅時間。玄関先に適当に脱ぎ捨てられたエスパドリーユシューズを外側に向けて揃え直し、自分の靴を脱ぐため靴ベラに手を伸ばした所で新一がキッチンから顔を出した。
「おかえりなさい、降谷さん」
「ただいま」
 毎日ではないけれど、こうして恋人が玄関まで出迎えてくれる時はいつも心がふっと和らぐ。安心感。幸福感。そんな簡単な言葉では収まりきらないこの感覚にぴたりと当てはまるものを、降谷はまだ掴めないでいる。
「こうも毎日湿度が高いと、日も射さないのに汗だく——」
 上がり框に佇む新一に話題を振ろうとして。
 ふと鼻先を掠めた臭いに、全身が総毛立った。
「焦げ臭い」
「へっ?……あっ」
 新一の顔がキッチンへと向けられるより早く降谷が走る。降谷が新居の条件として拘った直火タイプのコンロの横、無造作に置かれた菜箸の先端から微かに立ち上る煙。シンクの水に菜箸の先をつけたところで、追いついた新一がコンロの火を止めた。
 怒鳴りつけようと開きかけた口に反応した新一の息を止める気配。落ち着け、感情のままに叱るのはよくない。良くない……が、これはいかんだろう。
「調理中、火をつけたままで側を離れてはならないのは分かるよね?」
 はい、と小さな返事。その音で彼が十分に反省し、落ち込んでいるのが伝わってきた。
「……それが原因で大火事になることもあるし、この部屋だけでなく他の住民にも被害が出たかもしれない」
「それはわかってる」
 口の中でもごもごと返す新一の沈んだ顔を見ていたら、段々と怒りも収まってきた。これまで経験してきた数々の艱難辛苦を振り返れば、何が危険なのかくらい身に沁みているだろうし……と深呼吸をひとつ。
「まぁ、確かに君の料理の才能は壊滅的ではあるけれど、それを補って余りある推理力や洞察力があるわけだし。誰にだって得手不得手はある。これに懲りたら一人でキッチンに立とうとは——」
「……ンな風に思ってたのかよ」
 野菜炒めをしていたらしいフライパンを温め直すべく、チチチ、とコンロの火を付ける音と重なった新一の言葉。
「ごめん、聞こえなかっ」
「キッチンで何かする時いっつも一緒だったのは事故防止目的だったってのは良くわかりましたって言ったんだよ!ここはいいんで、降谷さん風呂入って来てください」
 え、と戸惑う間にも菜箸とポジションを奪われた。フライパンを凝視する新一の表情は怒っているというより——
「あ」
 己の失言に顔がカッと熱くなった。それから一気に青褪めた。
 謝らなければ。そう思うのに、新一から発せられるバリアがいつにも増して硬くて、近寄ることすら許されない雰囲気。
『美人は怒ると怖い』
 まさにその通り。いつもは愛嬌のある笑顔だったり締まりの無い顔をしていたから忘れていた。誰もが息を呑むほどの眉目秀麗な顔立ちを。そしてその端正な面が無表情を纏ったときの恐ろしさを。
「風呂。どうぞ」
 怒ってる。これは、物凄く怒っている。
 今はなにを言っても届かないだろうし、焼け石に水……どころか火に油を注ぎかねないと、降谷は大人しく従うことにした。

 シャワーで汗を流し、あがった頃には当然ながら新一の姿はキッチンになくて。ダイニングテーブルの上、一人分の夜ご飯だけが降谷を待っていた。
 盛り付けられたばかりの野菜炒めはまだ温かく、少しばかり焦げのついたキャベツと豚肉と。存在感を放つキャベツの芯に苦笑を漏らしたいのにできない具合の悪さ。
 もしかしなくても、新一が降谷のためにとおかずを作ったのは同棲してから初めての出来事で。美味しいとかちょっと塩っ辛いとか、キャベツの芯はもっと細かく刻むか汁物に使うんだとか。そんな話題すら口に出せず脳内で消化されていく。
 二人がけのテーブルで一人食事を摂ることに、今更ながら虚しさが込み上げてきた。
 この光景を、新一はいつも見てきたのだろうか。朝も、夜も。
 これでは、以前と変わらない。
 何のために新一と同じ場所で暮らし始めたのか。同棲は会いに行く移動の時間を惜しんだだけのものだったのか。
 降谷は仕事柄、朝は早く夜が遅くなることもしばしばで、当然のことながら仕事用の携帯は自宅にいても鳴れば直ぐに出なければならない。
 新一の時間を邪魔したくないからと寝室は別にしたけれど、それについて不満気な顔をされたのも覚えている。
 思いやっているつもりで、実は全然そうではなくて。
 共に暮らし始めて二ヶ月、徐々に出てきた些細な綻びやすれ違い。甘く満ち足りているはずの二人暮らしが順風満帆に行かないことに感じる微かな苛立ち。
 だが今回のことは明らかに降谷に非があった。
「明日起きたら新一くんに謝らないとな……」

 だがそれは、思わぬ事態によって叶わないものとなってしまった。


8月5日(土) ハードコアテクノの日

 自室のベッドに入って二時間後、仕事用の携帯が鳴らす電子音に深い眠りを叩き起こされた。
 舌打ちと共に上体を起こす。時刻は日付が変わってまだ一時間とすこし。発信元が管理官であり、こんな時間にかけてくるからには緊急性が高いものだと判断して通話に出ながらクローゼットを開ける。当たり前にワイシャツに伸ばす手が止まったのは、管理官が告げた場所が場所だったから。
『一年近く尻尾を掴ませなかった奴が見せた、初めての隙だ』
「……まさかまた悪い奴らになりすます日が来るとは思いもしませんでしたよ」
 様子見だけでいい、接触した人物を洗うのはこちらでやるとか言いながら、管理官はそれ以上の成果を言外に期待しているのが伝わってくる。
「工藤くんは出しませんよ。明らかに場違いだ」
 黒田の鼻で笑う声にムッとした。彷徨う手は求める物を探して何着も横にスライドさせていく。スキニーデニムはダメージ加工されたもの。白のコットンシャツとTシャツ、どちらにするか悩んで後者を選んだ。この時間から行くのだから、いくらか着崩したくらいが丁度いい。
 通話を終え、目的地の概要を調べてそれに見合った小物を身に着けたら完成だ。電車は当然走っていないから途中まで車で向かい、迎えに来た風見と合流する。
「すみません、降谷さん」
「お前が入っていったら悪目立ちしてしまうから仕方ない」
「そうですね……」
 黒縁眼鏡に鋭い目付き、骨の髄まで染み込んだ公安たるものの身のこなしは、クラブハウスの中では真逆となって浮いてしまう。
 渡されたタブレットには追っている人物の事細かなプロフィールが記載されていた。
「バイヤーと売り子のつなぎ役を纏めている男です。去年摘発されたグループにも関わっていて、暫く鳴りを潜めていたのですが、ほとぼりが冷めたと思ったのでしょう。先日からあちこち動き回っているとの報告が上がってきています」
「クラブハウスならお前たちを撒けると踏んだのか、もしくは絶対に情報が漏れないようになっているのか……」
 人目につかない場所で降ろしてもらい、深夜でも蒸し暑い渋谷の街をあてもなく彷徨うようにして目的地へと向かう。丑三つ時と云われる時間帯でさえ、昼間ほどの雑踏はなくともそれなりに人はいる。深夜の街こそ警察官が目を光らせて立ってはいるものの、蒸し暑い真夏の深夜では誰もが額に汗を浮かべて気怠げだった。
 スマホを耳に当て、誰かと待ち合わせしている風を装って地下へと続く階段を降りていく。突き当りには小さなカウンターと、鉄のドア。音漏れから察するに、今夜はハードコア系のようだ。インカムに切り替えてドアを押し開けた。



 まだ脳の奥でBPM数高めの拍音が鳴っている気がする。
 取引の証拠写真を数枚と、取引相手の顔写真も盗撮に成功したので纏めて風見に押し付けて。染み付いた汗とタバコと香水の臭いに耐えられなくてコンビニでペラいTシャツを買ってこさせて車内で着替えた。
 マンションのエントランスに辿り着いた頃には太陽はすっかり上がって、灼熱の前哨戦とばかりに瞳を刺す。蝉の合唱がこんなにも五月蝿いと感じたのは初めてかも知れない。
 登庁を午後からにずらした。とにかく一眠りしたいと悲鳴をあげる節々に歳を感じ……いや、まだ35歳だ。若者の範疇だと己に言い聞かせた。
「ただいま……」
「おけーり」
 玄関先にあるスニーカーが視界に入った。そのまま顔を上げていくと青のスリッパがこちらを向いている。素足は上に伸びて膝上で黒のハーフパンツに隠れ、白いTシャツにはモノクロにプリントされたLAの街並み。いつだったか母親がお土産で買ってきたけどあまり好みじゃないから部屋着にしていると本人が興味無さそうに言っていた一着だ。降谷がなんの気無しに検索したブランド名と値段を見て気を遠くした覚えがある。
 首から上にある恋人の表情が怒りでないことに安堵した。
「シャワー、浴びます?」
「うん」
「仮眠したら仕事?」
「うん……」
 そっか、と打たれた相槌は同情の色が濃く滲んでいた。降谷の胸中に湧いた、癒やしを求める気持ちに素直に従って口を開く。
「新一く——」
「わり、俺、出掛けてくる。夕飯も俺の分はいらないからさ、帰ったらちゃんと寝ろよ?」
 添い寝してくれないかなぁ、なんて。軽くおねだりして、その流れで昨日の事も謝ってしまおうなんて。
 瞬時に組み立てたプランは実行に移す前に崩された。
 ぽかんと口を開けたまま固まる降谷の横、ひょいと避けてシューズクローゼットからサンダルを取り出した新一は、マジックテープを脱着して素足に履くと降谷の肩をポンと叩いた。
「しっかり洗ったほうがいいぜ?——結構、キツい」
 え?と混乱する降谷を見向きもせずに新一は「んじゃ行ってくる」とだけ告げて出ていってしまった。
「キツ……い、って、」
 脇の臭いを嗅いでみたが、自分では分からない。いつもより汗臭い気はするが。うなじに手を当て、発汗具合を確かめた。加齢臭か。オッサン臭いということなのか。髪は汗やタバコの煙でべとついていて触りたくもなかった。もしかしたらヤニ臭が気に触ったとか。だが新一は赤井のタバコに嫌そうな顔なんて一度もしたことがない。それはそれで腹立たしいが。
 というか。
「どこに……?」
 部屋着というラフさ、バッグも持たずにポケットに財布とスマホを入れただけの身軽さで、夜まで帰らないとなると行き先は限られてくる。
 待てよ、と冷静であろうとする自分が疑問を呈してきた。
 降谷のこれは所謂一つの朝帰りというやつでは、と。
 鼻先を掠めた、いろんな香水が混じった臭いに愕然とした。
 新一のあの言葉は額面通り、堂々と浮気されるのはキツいという苦言なのではないだろうか。
 よくあるアレだ。妻が夫を見限って、『実家に帰らせていただきます!』と出ていくやつだ。
 ヨロヨロと中腰のままバスルームに向かい、洗濯機に脱いだ服を次々と入れてスイッチを押した。洗剤の量が若干おかしい気もしたが、もうどうでも良くて柔軟剤も適当に流し入れた。全身を二回ずつ洗ってもまだ臭う気がして、シャワーのあとは鼻うがいまでやった。
 仮眠から覚めても気力が湧かず、食欲もないまま家を出た。キッチンに残したままの昨夜のわだかまり。今夜、帰ったら謝ろう。……帰ってきてくれるなら。
 無性に、新一に会いたい。抱きしめて眠りたい。

 ——だが、その日の夜。新一はついに帰ってこなかった。


8月6日(日) ハムの日

「聞いてますか、風見さん!」
「ああ、聞いている。聞いているとも」
 のけ反る風見を追いかけて前のめりになる体を大きな両手が押し返した。
 大人の手のひら。あの人と同じ、この国を影から守る者の手。
 拳銃の訓練でできた胼胝、擦過傷の痕。危険な目に幾度も遭ったであろうその手をそっと包み込む。
「くくくくくどうくん」
「俺は降谷さんにとって何なんでしょうね……」
 伏し目がちになってしまうのは仕方がない。
 どうしたってこの人のように右肩となって支えることなんて不可能で。ならばせめてと自分に出来ることを模索すれば失敗続きで呆れられる始末。
 朝帰りの降谷は心身ともに疲れ切った様子で――そんな彼に、自分の顔色を窺わせてしまった。
 一緒に暮らし始めたらもっと深くわかりあえる思っていたのに、強く心で繋がりあえると思っていたのに。
 悔しくて、情けなくて。その場の勢いで飛び出してきてしまった。
 ハーフパンツとTシャツ一枚のラフ過ぎる格好では外もあまりうろつけず、一度実家に帰ってダラダラと時間を潰した。夜になり、マンションに戻ろうと思いながらも気まずくてなんとなく人混みに紛れたくて、渋谷の街を彷徨っていたらこの人に捕獲された。
 帰りたくない空気を察したのか、風見は中心部から離れたところにある小ぢんまりとした居酒屋に工藤を連れてきた。
「飲まないとやってられない時は、だいたいここに来る。俺の隠れ家的飲み屋だ。——降谷さんには内緒にしてくれると助かるな」
 土曜の夜であろうともいつ招集があるか分からないからと、風見はネクタイを緩めボタンを一つ開けただけで、アルコールは頼まずお茶類のみ。好きなのを頼むと良いとメニューを渡され、それならばと遠慮なく飲むことにしたのが一時間前のこと。
 これまで溜まりに溜まった恋人への不満や不安を新一は洗いざらいぶちまけた。最初は戸惑っていた風見もしまいには一緒になって「それは降谷さんが悪い」だの「あの人のマイルールへの拘りは、それはもう、もう……」と相槌を打って、何故か揃って「打倒・降谷」で意気投合してしまったのたが。
「——俺だって、風見さんに負けないくらい役に立てます」
「いやあの、まず手を」
「風見さんにあって俺にないものって何ですか。ガンタコですか。タッパですか。眼鏡はいつでも持ち歩いてるんで……あ、今日は置いてきたっけ」
「少しばかり飲み過ぎのようだ。そろそろお開きにしよう」
 だから手を離しなさいという言葉が、降谷に言われているみたいで癪に障る。
「風見さん、今、降谷さんが追ってる案件についてちょっとでもいいんで教えてください」
「それだけは駄目だ。いいからまず手を」
「お願いします。ちょっぴりでいいから」
「それはできない。というか、手をだな」
「どうしてもだめ?」
 コナンの頃の癖が出て、首を傾げて上目遣いになってしまったけど、今更だしいいかなと思考を放棄した。
「う……」
「お願い、もう風見さんしか頼れないんだ。風見さんだって、降谷さんの忙しさ知ってるでしょ?少しでも休ませてあげたいなって思わない?」
 完全に酔っていたと後になって思い返して七転八倒、ただこの時はもう必死だった。
 ずずいと距離を狭める。
「風見さん」
「ヒッ」
「どうしても、ダメ?」
「ま、待っ」
「降谷さんはこの渋谷で、何の事件を追っていたんですか。ねぇ……風見さん」
「近い近い近い」
 顔が近い!と風見が悲鳴を上げたのと、その風見の腕時計が零時ジャストの電子音を鳴らしたのと。
 個室の襖がスパァン!と開き、鬼の形相をした降谷が乗り込んできたのと。
 芯まで浸っていたはずのアルコールが一気に醒めて、自分が誰の手を熱く握り締めて押し迫っていたのかを新一が瞬時に把握したのと。
 それらが同時に発生して修羅場かはたまた混沌かとなりかけた場で、地を這う低い唸り声でもって降谷は二人を睥睨した。
「貴様ら……覚悟は、できているな」
 蘇るのは毛利小五郎冤罪逮捕の件で見せた、風見の腕を捻り上げた時のあの威圧感増し増しな降谷のおっかない姿。
「風見。それでよく、」
 声に出さずに降谷が告げる。『よく公安が務まるな』
 ぴえ、と情けない悲鳴が風見の喉から上がった。
「俺に一報入れたのは良い判断だ。有名人である探偵殿が深夜の渋谷を徘徊するのは不味いからな」
「はっ――!つまり、この街に今、探られたら困る何か……何者かが潜んでいる、ということですね!?」
 うっかり声が弾んでしまった。
 襖を音も立てず静かに閉めた降谷は足音も無く風見と新一の前に来ると、おもむろに未だ繋ぎあったままの二人の手をベリッと引き剥がした。
 次いで、新一の頭に降谷が被っていた帽子を乗せられた。イチョウの刺繍がしてある、彼が好んで身につけていたものだ。
「新一、帰るぞ。風見、あとを頼む」
「了解しました」
 個室を出る直前、降谷は胸ポケットに挿していた黒縁眼鏡も新一に差し出して言った。
「ほら、忘れ物。君の必須アイテムだろ」
「あ……うん」
「まったく。——君は風見といちいち張り合わなくていい」
「へっ?」
「ガンタコも身長も、成るべくして成ったものだ。眼鏡に至っては君の物の方が遥かに高性能だろ」
 確かにそうだけど——と頷きかけて。
「ってか、アンタまた!」
「盗聴じゃない。風見のスマホが『たまたま』ずっと通話状態だっただけだ」
「ハァア!?『たまたま』!?」
「そう、あいつもうっかり屋さんだからな。お陰で君の悩みも明らかになったことだし。上司の陰口は聞かなかったことにしてやるさ」
 あ、と開きかけた口を慌てて手で塞いだ。酔った勢いでなんかもういろいろとゲロった記憶が残念ながら残っていた。
「風見にはああ言ったが、君から情報を引き出せるなんて凄いことだよ。今回は十分に務まっていた」
「もっ、もう黙れよ……!」
 帽子のつばをぐいと下げて赤くなった顔を隠すけど、この人はきっと何もかもお見通しなのだろう。当たり前のように手を繋がれて、半歩先をゆく降谷の背中を睨めつけたってそよ風にも感じないどころか可愛いとさえ思っていそうだ。
 涼しかった店内と打って変わって蒸し暑い外の空気は一呼吸ごとに体を重たくしていく。繋いだ手のひらはどちらもしっとりと汗ばんで、なのに離そうという気になれないのは降谷も同じだといいなと、新一は僅かな期待を込めて指先に力を入れた。


8月7日(月) 月遅れ七夕

 先月下旬に発生した台風五号は九州の近くで迷走と停滞を続け、十七日目にしてようやく和歌山県に上陸した。この間、ずっと天気マークは曇りばかりで夏空とはほぼ無縁だったのだが、これさえ過ぎれば少しは夏らしくなるだろうかと降谷は空を仰いだ。やや強めの生温い風に乗って時折ぱらつく雨が頬を叩く。これから夜にかけて台風は日本海側に抜けていく予報だ。
 今日は所謂『月遅れの七夕』という日なのだが、先月の七日は無事再会できただろう織姫と彦星も今日ばかりは大人しく家に籠もっているに違いない。間違っても『川の様子を見に』なんてことを言い出さないでほしいと願うばかりだ。
 フラフラと何処かへ行ってしまうといえば降谷の恋人もまた同じく。探偵の依頼が入ったからと、台風なんてなんのその、朝早くからレンタカーを借りて都外へ遠出してしまった新一を想って溜息を吐いた。
 雨天で会えない天の二人には悪いが、こっちもこっちで逢瀬がままならない。丸一日、新一を独り占めできた日があっただろうかと遠い目をして追憶する。先週……は、喧嘩していたな。その前の週は降谷が土日とも仕事で大阪だった。さらにその前はどうだったか。そうだ、家事のあとに寛ごうとした所で、新一が探偵団の子たちに呼び出されていた。
『降谷さんが忙しすぎて、全然イチャイチャできない』——なんてよく言えたものだ。
 憮然としそうになる表情を辛うじて無に保つ。
 新一だって全国から引く手数多にあちこち飛び回っているくせに。本人は隠し通せているつもりのようだが、未だに世界各国の警察機関や諜報機関からお誘いがあることを降谷は知っている。
 じわりと首筋に浮かんだ汗をハンカチで拭う。その直後、短い振動で伝えられた『今日は帰るの無理っぽい』のメッセージが、降谷の気分をますます憂鬱にさせた。


8月8日(火) ヒゲの日

「うげ」
 夜の九時もまわった頃。
 遅い帰宅を玄関まで迎えに出てきた降谷に、新一が発した言葉がそれだった。おかえりと労うはずの口元がぴくりと引き攣った。
 この夏場にマスクという異様な出で立ちの新一を、玄関先で仁王立ちになって行く手を塞ぐ。
「……どいてください」
「どうしたの、そのマスク」
「軽い風邪です」
 エホンオホン、なんていかにもわざとらしい咳。とても名女優の息子とは思えない大根っぷり
「それは大変だ。夏風邪は軽く見ると後で重病化することもある。今すぐ宮野さんの所に行こう」
「いやいやいやいや。そんな酷えもんじゃねえから」
 脇をすり抜けようとする新一の前で壁に手をつく。まるでたちの悪いナンパ野郎だ。
「……降谷さん」
「マスク。取らないの?汗でかぶれるよ?」
「シャワー浴びる時取るっつの」
「代わりに捨ててきてあげる」
 はい、と出した手のひらをぺしりと叩かれた。
「絶・対!あんたの前じゃ外さねぇ!」
 さながら毛を逆立てた猫のよう。しゅるりと身をかわして洗面所へと逃げ込む後ろ姿が可愛いと思える余裕はある。——が、同時に刺激される捕食者の性。
 ぴしゃんとスライドして閉められたドアの取手に手をかけた。
「……新一くん」
 開けてくれないか、と猫撫で声で懇願するふりをしたけれど、もちろん新一には通用しない。
「ヤですよ、あんた面白がってんでしょ!?」
「面白がってなんかいないよ。ただ君の貴重な一面をこの目で見てみたいだけさ」
「それを面白がってるっつうんだよ!」
 右手で結構本気の力を出しているのに、震えるだけで開かないドアの向こうで新一ががなり立てる。
「馬鹿力出すなんて大人げねーぞ!」
「ちょっとマスクずらすだけでいいから」
「ぜってー嫌だ……!」
「新一くん、ドア壊れちゃうよ」
 どうしても、ダメ?——しおらしく、子犬がクゥンと啼くような声で囁く。ほんの少しだけ、抵抗する力が弱まった。
「だって俺……降谷さんみたいなワイルドなやつじゃねーし……」
 ぽそぽそと降る雨粒みたいな小さい声に耳をそばだてる。
「僕のは毎日シェイバーで剃られてるからどうしても太くなっちゃうんだよ。君は肌が負けちゃうから、仕方がない」
 そもそもそんなに生えないでしょ、なんて言葉は口が裂けても言ってはいけない。
 元々体毛がそんなに濃くなかった新一は、アポトキシン4869の劇薬の後遺症なのか体質的な問題なのか、髭や脇毛、脛毛といった男性ホルモンが顕著に現れるはずの部位が大人になっても薄いままだった。その事を本人はどうやらかなり気にしているらしく、セックスをする時なんかは頑なに脇の下を隠したがった。……まぁそれも最初のうちだけで、途中からは気にする余裕なんてなくなるのだけど。
「ヒゲを剃る暇もないくらい事件に追われていたなら疲れてもいるだろう。ご飯もすぐ食べられるし、早くシャワーを浴びたらどうだい?」
「降谷さんが今すぐドアから離れて部屋に戻ってくれたらそうしますが!?」
 うん、わかった。嫌がる君が可愛くてつい、ムキになっちゃった。そう素直に認めて、降谷はドアから手を離した。夕飯を温め直してくるよと改悛の情を込めたのに、板一枚隔てた向こう側から胡乱げな視線をはっきりと感じた。
「あんたがそんなアッサリ諦めるのは怪しい」
「心外だな。君とゆっくりする時間の方が大切なだけだよ。こんな顔も見えない状態でいがみ合って、無駄に時間を潰したくない」
 ドアの向こうで新一が、ん、と咳払いをした。
「俺だって……降谷さんと、その、」
 声が籠もってないことからマスクを下にずらしているだろうことは想定済み。ドアにかかっていた圧力が解けた瞬間を狙って、降谷は力任せにスパーン!と開いた。
「なっ——」
 狼狽える新一の顔を両サイドから挟んで上向かせ、逃げる隙も与えず唇を奪う。
「ンンンンン!」
 恐らくありったけの罵詈雑言を飛ばしているであろう新一の口内を悲鳴ごと飲み込んで、舌で蹂躙していく。さわさわと触れる産毛が心地良い。勢い余ってよろめいた新一の体が洗濯機にぶつかって鈍い音を立てた。
「んんんっ!ふっ、ふる——」
 文句なんて言わせない。
 弄る手のひらで、体の隅々まで確かめていく。怪我はしていないか、どこか痛めてはいないか。鼻で呼吸しながら消毒の匂いはしやしないかと探り、五体満足無事を確かめた降谷が新一を解放したのは数分後。
 ヘロヘロと崩れ落ちようとする身体を抱きとめ、抵抗されるより早く服を脱ぎ捨てた。もちろん、二人分の服を。
 新一もこの流れになると薄っすら勘付いていたのだろう、特に抵抗もせずなすがままに裸になった。
「髭も剃ってあげようか」
「……それだけは、カンベンして下さい」
 バスルームがシャワーの湯気とともに、互いが放つ体温で熱気を孕んでいく。
 どさくさに紛れて脇舐めプレイをしたら酷く根に持たれ、それから暫くは頑なに裸を見せてもらえなかった。


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