四季折々に想う。二 4月

四月二十三日(木) サンジョルディの日

 資料から浮かんだ不審点をメールに打ち込み、相棒に調査を依頼した次の日の、夕方。安くはない手土産片手に阿笠博士の家を訪ねると、そこには歩美の姿もあった。
「あ……。よ、よう」
 右手がギクシャクと上がり、挨拶らしい挨拶にならず焦りばかりが生まれてくる。――やばい。これでは光彦が歩美に告ったのを知っているとバレバレなのでは。
 宮野は白目を剝いて無言の批難をぶつけてきた。あなたバカでしょう。へぇご尤もで。これだからポンコツなんて未だに言われるのよ。左様でございます。
 新一が宮野と無言の応酬を続けていると、歩美がおもむろに吹き出した。
「新一兄さん、そういうとこホント変わらないね!」
 けらけらと笑う顔に、翳りは全く見られなくて。
 知らず知らずのうちに入っていた力を抜いて、新一も頭を掻きながら笑った。
「はは……。そうか?」
「そうだよ。新一兄さん、光彦くんに最近会った?」
「いや、あー、うん」
「下手な嘘はつかない方が身の為なんじゃない?新一『兄さん』」
「……会いました。丁度一週間前に」
「光彦くんの言ってた『参考にならなかった相談相手』ってやっぱり、新一兄さんだったんだね」
「円谷くんも頭はいいのに、そういうところ詰めが甘いのよ」
 とどめの大きな矢をぶっさりと胸に受けてよろめく。自分でもそう思ってんだから、ほっとけ。
 ソファに並んで座る女性陣の向かいに腰掛け、手土産をテーブルの上に置く。ショップバッグのロゴに歩美の方から黄色い声が上がった。近頃じゃ何を持っていってもそっけない態度だったから、この反応は素直に嬉しい。
「志保ちゃん、いつもこんな良いもの貰ってるの?」
 ずるーい!と口を尖らせる歩美を、宮野は呆れ顔で返す。
「あのねぇ、これに見合った重労働をしてるのよ、あたしは。当然の報酬でしょ」
 中から出した箱から、色とりどりのフィナンシェを数個取って、残りを箱ごと歩美に渡した宮野が、「これはあたしから歩美へ、ってことで」と持ち帰ってゆっくり食べて、と。まるで自分が買ってきたみたいな言い方に一瞬口を開きかけたが、いくらポンコツな新一でもこれには気を利かせるべき場面だと思い至り。
「んじゃーその報酬に見合った結果を早くもらえませんかね」
 女子の他愛もないおしゃべりに免疫はあるけれど、今はそれどころではないのだ。暗に猶予があまり無いことを伝えると、宮野は来ていた白衣のポケットから取り出したUSBを新一に向かって放り投げた。
「毎度のことだけど、」
「無茶はしない、無理もしない。安全第一で!」
 敬礼をして立ち上がる。何やら事件の気配に歩美の瞳がきらめいたが、隣の宮野が顎を乗せた手とは反対の手をひらひらとさせて言った。
「やめときなさい。この人、大人になって落ち着くかと思いきや、可動範囲が拡がったからって前よりもやんちゃに飛び回ってるんだから。……命が幾つあったって足らないわ」
「人を無鉄砲みたいな言い方すんのやめてくませんかね」
「あら事実じゃない。――ホラ、急いでるんでしょ」
 今度は新一に向けて、追い出すように振られる手を苦々しく睨んで、だがこれ以上ここにいる理由もない。何も言い返せない悔しさを飲み込んで、女子二人に「それじゃあまたな」とお暇を告げた。
 新一がいなくなったあと、歩美が「まるで相棒みたい!言わなくても解る、みたいなやりとり……憧れるなぁ」と嬉々として言ったことも、それを受けて苦虫を噛み潰した宮野の顔も。それを知ることはないのだけれど、もしその場にいたら少しは溜飲が下がったかもしれない。


「零さん、これ」
 都内のコーヒーチェーン店の外に面したカウンター席で待ち合わせて、預かったUSBを文庫本の下に隠してテーブルの上に乗せる。
「ああ、ありがとう」
 スライドさせて、器用に二つ纏めて掴み、USBはさり気なく内側の胸ポケットへ。文庫本は表紙から数ページぱらぱらと捲ったあと、テーブルに戻した降谷は額に手を当て「しまったな」と呟いた。
 何か不都合でもあっただろうか。きょとんとして目で問いかけると、その場を取り繕うような咳払いをして、頬を掻く降谷はさっきまでの作った笑顔を脱いで、素の表情で困ったように笑みを浮かべた。
「君に贈る薔薇の花がない」
 ――――はたと。今日がなんと呼ばれる日なのか思い当たり。新一は頬杖を付いて、外を眺める。二階フロアから見下ろす下界は近く、行き交う人々は皆、迫り来る危機など思いもしていないのだろう。
「俺は花より団子があれば、それでじゅーぶん」
 遠回しに伝えた現場入りの希望に、降谷もまた全て承知と頷いて。二人同時に席を立った。



四月二十四日(金) 植物学の日

 四月二十四日、二十三時四十四分。
 降谷が玄関の鍵を開ける。新一がまず最初に入り、靴も脱がずに廊下に倒れ伏した。
 それを咎めながらも、隣に腰を下ろした降谷もまた、ずるずると体を傾けて床に寝転がり天井を見上げる。
 自分の身長に合わせて天井高のある物件を選んだが、それでも手を伸ばせば届きそうな高さなのに今はこんなにも遠い。玄関天井の隅に蜘蛛の巣を見つけて、ああ掃除をしなくては、とぼんやり他人事のように考えた。
 だが。とにかく今は、休養が欲しい。隣で半ば眠りに落ちている新一の体を揺さぶってから、シャワーが先か欲求のままベッドに直行すべきかと悩む。服だけはボロボロだったので着替えたが、煤や煙の臭いを髪や肌に付けたままで満足に眠れるとは思えなくて、どれだけしんどくてもシャワーは浴びるべきだという結論に達した。
「しんいちくん、シャワー浴びよう」
「……」
 返事がない。ただのしかばねのようだ。そんな一節が浮かんできて、自分も相当キテるな、と投げ槍な気分にうっかり瞼を閉じてしまった。
 深い呼吸音が降谷を道連れに誘う。いや駄目だ。こんな所で寝るわけには。起きろと脳は指令を出してくるのだが、明日の朝節々が痛いと泣きを見ると分かっているのに体は言うことを聞いてくれない。
「しんいち、おきろ……」
 数年ぶりの大立ち回りだった。あんなに走り回ったのは、黒ずくめの組織を壊滅に追いやった時以来だ。
 外来種の持ち出し禁止の植物から抽出された新種の麻薬密売。さらには爆弾製造、偽札製造。中途半端にあちこちに手を出していた小規模反社会的勢力は、その隠滅方法だけは派手だった。植物を積んだ船を爆発で沈めようと画策していたのを先回りして、船内で爆発物を解体している間に隠れ蓑にしていたらしい造船所を爆破された。だが偽札製造の証拠が見当たらないことからそれもダミーだと見抜き、別の拠点を割り出して降谷の愛車で現地へ疾走。その一見すると廃工場となっていた建物も一味も抑えたと思いきや、地面に埋められていた爆薬に遠隔操作でスイッチが入れられた。
 地面や床の形状に疑問を持った新一が離れた所に避難誘導させなければ、自分たち含め多くの犠牲者が出るところだった。そんなことになれば先に逝ったあいつらにも合わせる顔がない。
 昨日から寝ずの、ほぼ飲まず食わずで駆けずり回った。酷使した愛車は無傷だが、タイヤはもうダメだろう。
 はぁ……と口から魂が抜けていくような長い息を吐き出した。もういいか。残りは明日の僕がやる。いや、今日になったか。兎に角全ては起きてから――――。
 意識を奈落に落とす、その間際。ヒップポケットに入れていたスマートフォンが振動した。無視してしまいたいが、仰向けになっているせいで体にダイレクトに伝わるそれは、自分に襲いかかっていた睡魔を端へとグイグイ押しやっていく。床にも響いているせいか、こちらを向いて爆睡しかけていた新一の顔が無意識にだろう、険しくなった。電話はしつこく震え続けている。
「…………はい」
 発信者も確かめずに応答した。相手は風見からで、半ばゾンビみたいによろめきながら帰っていった自分たちを心配して掛けてきたらしい。相槌だけで通話を終わらせ、ほんの少しだけ浮上した意識で自分の体を持ち上げた。
 鼾を本格的にかき始めた新一を、最後の力を振り絞って肩に担ぎ、目指すはバスルーム。ムニャムニャと寝言まで生み出した軟体生物はすっかり夢の中だ。
 いっその事、ここに放置していってやろうか。
 ふと過った考えを、首を振って打ち消した。新一がいなければ、捜査はさらに難航していただろうし、自分も身動きが取れずに被害も拡大していた。
「全く。――なんて子だ」
 新一を讃える言葉は数多く、枚挙に暇がない。それらを集約して辿り着くのはこの一言でしかなく。
 もう一人の影の立役者、某外国での植物盗難の小さなニュースと、押収した薬物の関連性を見出した彼女にも何か贈り物をしないとな、と一人口角を緩めながら、目的地までの遠い道のりを蹌踉めきながら進んでいった。



四月二十五日(土) 解放記念日

 そもそも、売られた喧嘩は買うのが当たり前だった。この容姿は閉鎖的な国民性からか敵を作りやすく、どれだけ自分の中に流れる血を叫んでも相手に届かないことの方が多かった。
 若かりし頃はそれでも、もとより親しくしてくれた友や、拳を交えて得た絆から理解してくれた友らがいてくれたのだが――それももういない。
 社会の荒波に揉まれる前に反社会的組織への潜入捜査の任に就き、裏社会の荒波に揉まれたお陰で身に付いたあしらい方は、ここで生きていくのに非常に役立った。長らく潜め殺していた息を細く吐き出し、研ぎ続けていた爪を先端だけ覗かせて。
 上司さえも転がして、今回の案件の後始末全てを目の上どころか下のたんこぶであるその男に譲渡した時にはあまりにも上手く行き過ぎて不安になったほどだ。
 『ガイジン』が日本の警察組織にいるのが許せないと息巻いていた旧石器時代の遺物は、上辺だけの権限委譲とも知らずそれ見たことかと得意顔で鼻の穴を広げてこちらを一瞥し、指示した上司に敬礼の後退室していった。
 当然ながら全てを把握していた上司は、あの男もそれくらいやってもらわんと困る、と深く息を吐き出しこめかみを揉んで、それから空気を切り替え言った。
「君には、謹慎の名目で休暇を与える。明日から十一日間だ。誰とどこに行こうと構わん。報告の必要もない」
 ただ――○✕県の宗教法人の動向だけは気にしておいてくれ、とついでのように付け足された言葉に降谷は絶望と共に天を仰いだ。
「仕事じゃないですか……」
「仕事しろとは言っていない。謹慎命令だ」
 事を大きく荒立てるな、という事だ。つまりは。
「東北で桜前線を追いかけつつの温泉巡りハネムーンを予定していたんですが」
「そりゃいい。楽しんできてくれ」
 この狒狸め。降谷のジト目にも動じず、上司は話はお終いだとばかりにパソコンに向き合った。


「――――というような事があってね」
 昨日の今日だというのに定時上がりで帰宅した降谷を目を丸くして出迎えた新一には、問い詰められる前に全てを包み隠さず話した。
 新一を巻き込む前提での謹慎処分内容を聞かされて、さて彼はまたしても利用される側に立つ事に腹を立てるだろうか。否、新一ならばきっと。
「○✕県の宗教法人といえば、最近内部分裂が起きて県の東西で教祖がそれぞれに存在している所だよな」
 早速とタブレットを叩いて熱心に調べだすその姿に、ああやっぱりな、と本日何度めか分からないため息を天に向かって吐き出した。きっともう、彼の頭の中に『東北桜前線湯けむり新婚旅行』の文字は一つも残っていない。
 自分としても、新一の誕生日前後三連休位はもぎ取れるかと思っていたのだが、そうは問屋が卸さなかった、と。
「新一くん。せめて前半でかたをつけようか。後半は君とハネムーンを楽しみたいんだけど……」
「あっ!零さん、五月二日に全国集会を開くらしいぜ?ここがチャンスじゃ――れーさん?」
 ソファの背もたれに泣きつく姿を見ても「疲れた?腹減った?」としか聞いてくれない恋人をどうしてやろうかと思いつつも、そんな新一だから可愛いのだと重症を認めて開き直るしかない。さらば、解放週間。僕の、恐らく最初で最後のゴールデンウィーク。社畜万歳。公僕万歳。
 本格的に調査に乗り出した生粋の名探偵の姿を横目に、せめて美味しい飲食店だけでもリサーチしておこうかと検索しだした所でそれさえも身が入らず。
 ――下手をするとこの連休(謹慎)中、一度も新一を抱けないのではと思い至った降谷が恋人の手からタブレットを取り上げたのはすぐ後のこと。



四月二十六日(日) 良い風呂の日

 喉を低く鳴らしながら魂の唸りをそのまま口から吐き出せば、横からおっさんかよという茶々が入った。
 おっさんだもん、とは口が裂けても言わない。まだ三十代、男性の平均寿命の半分も生きていない若造だ――生まれて四半世紀の若造に比べればおっさんだが。
 その若造二人が真っ昼間から新緑に囲まれながら、山中の秘湯温泉郷の中でも一番ハイクラスである宿の、源泉かけ流し露天風呂に浸かっている。
 こんな贅沢があるだろうか。いやない。死後の世界に興味はないが、こんな所でずっとまったりできる天国があるなら是非とも行ってみたいと思うくらいに、思考能力が低下している。何処からか樋を伝って流れてきた湯のちょろちょろとした細い水音、深い緑と葉ずれのざわめき、遠くで囀る鳥の鳴き声。世俗を離れた秘湯の宿の名に相応しい景観が心を優しく解きほぐしていく。
「温泉に浸かる猿の気分だ……」
 目を閉じ岩場に身を預けて今の気持ちを思うままに吐露すれば、ぶは、と吹き出す声が上がった。
「零さんは露天風呂初めてだったり?」
「どうだったかな……初めてかもしれない」
 警察官になる前の記憶を辿るも、せいぜいがスーパー銭湯止まりだ。こういった貸し切り露天風呂とはほぼ無縁の人生を歩んできた。まぁ、露天風呂と無縁の人生でもなんら問題はないのだが。
「そもそも子どもの頃は旅館や温泉に興味なんて無かったし、大人になってからは目的達成の為に我武者羅にやってきたし。まさかこんな日が来るとは夢にも思わなかったな」
 額に滲んだ汗を、両手に掬った湯で洗い流した。もう一度見上げた景色は澄んだ青空と山々の連なり。網膜を通って脳に届いた情報はシンプルな筈なのに、薄く走る雲の濃淡や木々の高低差と色差、それらが秒単位で変わってゆく事など。視覚だけでなく五感全てを心地良く刺激されて、まさに満喫状態。
「最高のハネムーンになりそう?」
「ああ、勿論さ」
「じゃあさ、」
 ぱしゃん、と跳ねる水しぶき。隣の存在が、怒りと共にこちらに体を向ける気配がした。
「……なんでさっきからこっち向いてくんねぇの」
 ――何故って。分かりきった事を聞くな。
 視界に映りかけた姿を、瞼を閉じてシャットアウトする。れーさん!と咎める声が上がったが、降谷だって必死なのだ。察してほしい。
「健全な新婚旅行をおくるためだって言ったら通じるかな」
「はぁ?もっとわかり易く言ってくれよ。意味わかんねぇ」
「だよね。君そういうところ無自覚だもんね」
 意地でも開けるもんかと目頭を力ませた。
 露天だからか少し高めの温度に火照った健康的な肌と、こめかみを伝う雫と。濡れた黒髪が額や項にかかり、水面が日の光に反射して彼の瞳をきらめかせる。先に入浴していた新一から咄嗟に目を背け、できるだけ視界に入れないようにと湯船に浸かったものの、ちらちらと盗み見る肢体は昨夜あれだけ発散したのに性懲りもなく己の性欲を掻き立てる。
 日中も入浴できる温泉宿だが、客室は夕方からでないと解放されない。時間予約制の露天風呂は、あと三十分程で退出しなければいけない。つまりここで盛り上がるわけにはいかないのだ。もちろん、青姦だって御免だ。
 ふと瞼の裏が翳った――それが新一の手だと知ったときには、両方の上下の瞼を押し広げられていた。
「ちゃんと!俺を!見ろ‼」
 太陽光の眩しさに目を眇めたくともできない痛さに涙が滲む。ぼやけながら至近距離で飛び込んできた怒れる新一の顔は、浮かび流れる汗の粒一つ一つまで鮮明で。睫毛を濡らす雫まではっきりと見て取れた所で、唇が重ねられた。
 お互いの濡れた唇が合わさり、瞼から離れた新一の手が今度は降谷の項へと這わされる。どさくさで降谷の上に跨った新一のものは柔らかくくったりとしているから、その気は全くないのだろう。大方、降谷の気を引きたいだけに後先考えず行動に走った、というところか。
「――――上の空かよ」
 離れていったかと思えば、降谷の心中などお構いなしに今度は下唇を柔く齧ってきた。
「新一くん、シたいの?」
「ばーろ、すぐそっちに走んじゃねえ」
「だよねぇ……」
 こういった行為に奥手なくせに、こっちが手を出せない状況下で誘うような仕草で仕掛けてくる。完全な安全圏を無意識に把握しているのだ。本当に質が悪い。
 至近距離で見つめ合うこと暫し。室内や店内だと恥ずかしがるくせに、今は平然としているのが恨めしいやら悔しいやら。覚えてろよ、という言葉は放つことなく腹の中に仕舞ったままに。そのセリフはここぞという効果的な場面で使ってこそ意味がある。
 重なった視線はそのままで無言の時だけが流れていく。乱反射する光のエフェクトを纏った彼が眩しいのは、何もそれだけが原因じゃない。
「前はこんな明るいところでくっつくのも恥ずかしがっていたくせに」
「へへん。それだけ場数を踏んで大人になったって事だ」
「二十五、六はまだまだ若造だよ。……でもそうか、出会って九年が経とうとしているのか」
「付き合い始めてからはまだ三年だけどな」
 会話の合間合間に軽く唇や鼻を触れ合わせ、こすりつけ。戯れに耳や目尻に指を這わせてその感触を愉しむ。
「実のところ、三年も続くなんて思わなかったな、当初は」
「そうだろうなとは思ってた。俺、案外しつこいししぶといぜ?」
「はは、そうだね」
「おい、ちょっとは否定するとかフォローしろよ!」
 亡くなった幼馴染にはまだ遠く及ばないが、それでも長い時を失う事なく共に歩めた奇跡に目を眇める。
「つうかよ、零さん。『まだ』三年だぜ?出会ってからだってたったの九年!俺の人生の半分もいってねぇっての」
 ――は、と息が止まった。
「零さん三十七だろ。その内の、四分の一しか埋めれてないのに、そんな満足げな顔されたって困るんだよ」
 降谷の人生の半分を新一で埋めようとするなら、あと二十一年もかかる。それどころか新一は、降谷の人生全てを埋めても埋めたりない、とまで言ってのけたのだ。
 こんな熱烈な愛の告白があるか。何も言い返せなくて、それどころか今すぐ新一の中に埋まりたい。足の先から頭の天辺まで、降谷の与えるもので埋め尽くしてやりたい。そして、境目がなくなるまでどろどろに、一つに溶け合ってしまいたい。そんな欲望が一気に噴出して、脳天まで貫きかけ。
「…………ラ、ラーメン!ラーメン食べようか!麓の美味しいラーメン屋チェックしてあるから!」
 勢いよく立ち上がった。ざばん!と大きな飛沫が上がり、降谷の腿の上から後ろ向きに倒れた新一が水面に顔を出す前に、岩場に置いていた手拭いで前を隠して湯から上がった。
 後ろから咳き込む音と、批難の声が上がったが、こんな状態で振り向ける筈もない。新婚旅行初日から爛れたままで過ごすなんて、何の為に旅行に来たのか。表向きはハネムーンでもこの後裏向きでの仕事が待ち受けている。せめて序盤くらい、新一との旅の思い出をたくさん作っておきたい。
 屋内のサウナ室の横にある水風呂に一目散に進み、肩まで一気に浸かった。追いかけてきた新一が怪訝な顔で奇行を咎めたが、自分が元凶だという自覚はもちろん、無いのだろう。先に上がってるぜ、と真横を素通りしていく新一のものはやはり平素のままで、経験値はこっちの方が上のはずなのになんだかいいように遊ばれているような感覚。
 無自覚天然タラシ・天使の姿をした悪魔。
 数日間もずっと一緒に過ごすことにより、降谷は新一の新たな一面をまざまざと見せつけられる事になるのだが。この時はまだ知る由もなかった。



四月二十七日(月) 悪妻の日

 昨夜は豪勢な料理に舌鼓を打ち、地酒も堪能した。その後のお楽しみは勿論美味しく戴いたが、連休はこれからだからと軽く一度だけで済ませた。個室付きのこぢんまりとした露天風呂で、月明かりの下声を殺して喘ぐ新一の姿は思い出すだけで腹の下辺りがざわりと蠢く。頭を軽く振って煩悩を追い出すと、忘れ物がないかもう一度室内を見渡した。
「次の宿は新一くんチョイスだったよね」
「おう。ナビはバッチリだぜ」
 チェックアウトをして旅館の人たちに見送られながら、次の目的地へ。今回の宿のは奇跡的に取れたものだったが、大型連休となると普通は直前でなんて空いているはずもない。だがそこは流石というべきか、この旅行がハネムーンだと聞きつけたあちこちから差し伸べられた援助によって、四月いっぱいの宿の心配は不要となったのだ。
 五月に入ってからは野宿の可能性も考慮して予約は取っていない。こんな新婚旅行でごめんと謝ろうとしたら遮られ、むしろこの方が俺たちらしいと言われたときは一生ついていこうとさえ思った。彼の懐の深さには畏れ入るばかりだ。
 カーナビに行き先を登録して、夕刻のチェックイン前に周辺の観光名所を見て回り、仕事に関しての情報収集も怠らずして回る予定の一日。中々にハードな旅程だが、同行者は文句を付けるどころか、それならここも下調べしておきたいと行き先を増やしてくる上に、うっかり目を離そうものなら何処に飛んでいくか分からないミステリーハンター。充実し過ぎる旅の予感に震えるのは武者震いか、背筋か。
「そういえば、こうして二人で連泊で旅行するの初めてだね」
「あー、そうだっけ?だって長野の……いや、そうかも」
 長野の廃教会の件を言い掛けた新一だったが、あれはコナンの時だったし、一泊と言えど死体とその容疑者候補たちとの一夜に眠れるはずもない。二人で旅行と聞いて、咄嗟に浮かんだのが何故それなのかと思考回路を疑いたくなった。
「新一くんは自称ロマンチストのくせにどうして時々ポンコツになるかな」
「う、うっせー!」
「次の信号曲がって三軒目が例の集会所だからチェックしておいてね」
「おう。ってか、そっちこそムードぶち壊しじゃんか」
「あはは。お互い様だね」
「……」
「……」
「撮っといたぜ。監視カメラはざっとみて五台あったと思う」
「番犬までいるのは厄介だな」
「忍び込む気かよ」
「うーん……」
 小さな宗教施設や、全国的な所であれば容易い潜入だが、こういった拡大傾向にある途上の団体は一番警戒心が強く、少々やりづらい。彼らに後ろめたいものがあるならば尚更に。
 さてどうするかと考えながら、協力者リストを脳内でめくっていると新一がキラキラとした目でこちらを向いた。
「れーさん♡」
「駄目。却下。変装も無しだ」
 ちぇ、と言いながら断られる前提で聞いたのかそれ程いじけていない様子にホッとする。車のハンドルを切り、目的地の蕎麦屋の駐車場に車を停めた。
 新一のリクエストで、地採れの山菜の天ぷらが美味だとネットで評判の蕎麦屋は開店前だというのに既に数名並んでいて、期待に胸が踊る。新一と額を寄せ合い、スマホでこの後の行動を組み立てながら待つことしばし。掲げられた暖簾と挨拶と共にぞろぞろと店内へと吸い込まれていく。
 県外からの中高年夫婦の客層の中、やや浮き気味ではあったけれども、旅の開放感からかこちらに目を向けるものはいなかった。
 二人同じものを頼んで、出てくるまでの間を歓談で過ごす。うん、悪くない。和やかな雰囲気の店内とさざめく会話の波に自然と顔が綻ぶ。
 その時、新一との会話が途切れた直後に背後の客の声が耳に飛び込んできた。
「――だからね、私も好き勝手やらせてもらって有難かったけど、申し訳なかったなとも思うのよ」
 五十代か、六十代か。この席に着くときに記憶に留めた中年夫婦は旅行で訪れたような、少しよそ行きの服装だった。妻と思わしき女性がぽつりぽつりと零すのは、彼女が最近まで都会のオフィスにて最前線で戦ってきた半生の振り返りだった。
「子どもたちにも寂しい思いさせてきたのは分かってたし、禄なご飯も作れなくていつもスーパーのお惣菜。あなたにも迷惑かけてきたなって……悪妻、というのかしらね。熟年離婚される覚悟もしてるのよこれでも」
 新一と無言の目配せ。少々どころか、かなり気まずい。――ん、んっ。新一が小さく咳払いをしたが、背後の夫婦は気付く様子もなく会話を続ける。
「そうかな。僕は迷惑に思ったことはないけどね。子どもたちだって、僕たちの関係が冷え切ったものじゃないと理解しているし、もう大人だ。自分たちで考えるさ」
「でも――」
「悪妻、というのはね。世相を反映してその時々で定義は変わってきたけれど、大まかには夫にとって良くない妻の事をさしているんだよ。君は、僕にとって最良の妻だ。熟年離婚?やっと子育てが終わって、君も最前線から退いて。第二の新婚ブームが来たのに?」
「新婚だなんてそんな」
「夫を立てるとか、三歩後ろとか。君は全く正反対で、夫よりも先にどんどん行っちゃうような人だったけど、その頼もしさに何度惚れ直した事か」
「ちょっ、あなたここお店……」
 おろおろと周りを見渡して、新一と目が合ってしまったらしい。頬を掻きながらペコリとお辞儀をする彼の姿にもう少しで笑いそうになった。背後からの沈黙にまた居心地の悪さを覚えたけれど、タイミング良く出来上がったざる蕎麦が二つテーブルに並べられ、微妙だった空気を割くように割り箸をぱきんと鳴らした。

「はー、美味かった!」
「天ぷらもだけど、小鉢も逸品だったね」
 蕎麦の風味、喉越しの良さに箸が止まらず、飲み物かというくらい早く、あっという間に平らげて店を出た。背後の夫婦に軽く会釈をした時に、二人共照れながらも応えてくれたのだが、あの様子ならきっとこれからも上手くやっていくだろう。全くの他人だというのに、それはとても素敵な事だと思えた。
 満車状態の駐車場の外、数台の車がハザードを付けて空くのを待っている。点検の後に乗り込み発進させて暫くは蕎麦の余韻に浸っていたが、新一がふと自戒するように呟いた。
「俺って、もしかして悪妻?なのかな……」
 ぶはっ!
 ステアリングに飛び散った唾をティッシュで吹きながら「悪妻かぁ」と口に出して、また笑いがこみ上げてきて。横から脇腹チョップをくらい、それでもハンドル操作をぶらさずにいたら舌打ちをくらった。
「真剣に考えてんのによ!」
「えっ!?」
「もういい!」
 つん、と項を見せてしまった新一を横目で覗うが、耳の端が赤くなっているのは怒ったからなのだろうか。表情がわからないと何とも判断付かず、諦めて前を向いた。
「……まぁ、確かに。嫉妬深いところとか、」
 うぐ、とダメージを負った呻きにまた腹が痙攣しそうになったが、筋肉で抑えた。
「自由奔放でこっちの注意なんか馬耳東風、追っている事件が重なるとあわよくば食い込もうとしてくる所とか、料理はあんまりしない殆どできない、家事一般も苦手、連絡もせずに外泊する事多々あり。そのくせ、自分の事は棚に上げてやれ目の下の隈が酷い無精髭が痛いと言いたい放題」
 助手席で深く項垂れて顔を覆った新一自身、羅列されたそれらに身に覚えがあるようで無言で固まっている。
 ――ばかだなぁ、と心の中で愛しく思う。
「そんな最高に可愛い僕の妻は、世界で一番の探偵なんだから、もっと胸を張っていいんだよ」
 新一が顔を上げた。そのぽかんとしているへの字眉を左の親指でぐいぐい押すと、きゅうと瞑った瞼の薄さにキスをしたくなる。運転中でなければ、迷わずしていたのだけど。
「僕は君と人生を歩むと決めたけど、貞淑な妻として支えてほしくて選んだんじゃない」
 ナビゲーターの仕事を放置してしまった彼の代わりに、スピーカーからこの先五百メートル先右折だと指示される。
「でこぼこでいいんだよ。君が足らない部分を僕が補って、僕の至らない所を君がカバーして。パートナーって、そういうものだろう?」
「けど、俺、零さんにしてやれることがなんもねぇ」
 どこか拗ねたような口ぶりに、もしかして結婚を決めてからずっと悩んでいたのかと目を瞠った。いや、その前からだろう。お弁当作りを名乗りあげたのも、それの一環か。
「うーん……。してもらってるけど、新一くんはそれじゃ駄目なんだろうね……」
 重責を労い、時にはかゆいところに手が届くフォローもしてくれて。こんな面倒くさい男を好きだと言って、愛してくれる。それだけでも充分なのだが、新一が求めているのは目に見えて分かるものだろうことも察しがつく。
「僕たちのこれからの課題、ということにしないか?」
「課題?」
「そう。何も世の中の夫婦は皆、最初から完成された形で結婚したわけじゃない。僕らだって、まだ付き合い始めて三年、それこそ人生の半分も一緒にいないんだ。ましてや共に暮らし始めてからなんてたったの二年。お互いがビギナーなんだから、手探り状態なのも当然だろう?」
 緩やかな勾配の坂を登り、小高い山の中腹にあるペンションの屋根が遠くに見えてきた。案内看板にはあと数キロの表示。小さくなっていく麓を見下ろしながらのワインディングロードを、ギアチェンジしながら進んでいく。その手元を見ながら、新一は自分なりに折り合いをつけたらしい。
「零さんも初めて車運転したときはエンストしたりした?」
「さぁ、どうだったかなぁ」
「そこは『もちろん』って答えるとこだろ」
「新一くんは小学生のうちから乗り回してそうだな」
「うえっ!?――い、やいやいやいや、そんな事するわけないじゃないかヤダなぁあははは!」
「……君、コナン君だった頃と違って嘘つくの下手だよね」
 大きく、小さく曲がりくねる道は何処までも。その先に開けるだろう眺望を目指して、白い愛車は滑らかに走り続けた。



四月二十八日(火) 缶ジュース発売記念日

 ふと過ったのは、あの夜の出来事の一幕。
 ――――コナン君が蹴ってあの男に当てたコーヒーの空き缶はどこへ行ったのだろう。と。


 本来の目的である宗教法人の調査も進めつつ、降谷は実に有意義な連休を満喫している事に改めて感動を覚えた。
 というのも、今自分の隣で真剣な眼差しをして手元に集中している新一の、『零さんが使うものだから』と不器用な手付きで粘土を捏ねている姿がとても微笑ましいからで。
 こういった造型も実は苦手で、と苦笑いを浮かべた新一は、それでも降谷が好きそうだからというただそれだけの為に、陶芸教室を予約してくれていた。かくいう降谷も轆轤(ろくろ)は初めてだったのだが、己の要領の良さは自覚していたからある程度のコツを教わっただけで、難なく湯呑を一つ作り上げた。
 新一は今度こそと鼻息荒く轆轤の前に陣取る。たくし上げた袖に付いた粘土の汚れを見咎める降谷の視線にも気付かないほど、彼はリベンジに燃えていた。
「れーさん、今度は動画禁止な」
 少し離れてデジカメを構えた降谷に、ファインダー越しの新一がじろりと睨めつける。初っ端、真ん中あたりに変な力を入れすぎて上半分を床に落としてしまったという一連の失敗を、声を殺して笑いながらもしっかり動画に撮っていた降谷を「そういうあんたはどうなんだ!」と指差し、奇形物が出来るのを期待した目が絶望に染まったのはそのすぐ後のことだったので。
 これだからイケメンは、と八つ当たりを受け止めながらも笑みが溢れるのを止められない。講師が所々で出すアドバイスを真剣に聞きながら、手のひらと指を使ってどうにかこうにか形にしていくのを、一人分空けた所から気配を殺して見入る。睫毛にかかった前髪が邪魔なのか、時々顔を上げて頭を振っては再び視線を落とす。脱いで脇に置いていたジャケットのポケットからヘアピンを出し、タイミングを見計らって声を掛けた。
「新一くん、前髪留めてあげるよ。こっちを向いて」
 大人しく頭を垂れる新一の、さらさらとした髪に触れる。捻ってボリュームを出して後ろに留めようかなと束の間迷って、けれど普通に横に流してピンを挿した。
「はい、これで作業しやすいだろう」
「随分便利なポケットをお持ちで」
 この程度のことでも新一は憎まれ口を叩いてきたが、それが照れ隠しだと気付けるくらいには一緒にいたから。気恥ずかしさからの台詞だと思うだけで、口角が上がるのを抑えられないし、愛しいと思ってしまうのだからこれは末期だ。
「ちょっと外の空気吸ってくる」
「お、おう」
 高鳴る胸を落ち着かせようと腰を上げれば、目元まで赤くなってしまった新一が顔をそらして答えた。耳が熱いのはきっと、二人共同じで。この場を離れられない新一の代わりに、クールダウンしようと工房の引き戸を開けて外に出た。

 いつの間にか高くなっていた太陽が、四月の終わりと思えない強さで肌に照りつける。駐車場の端にある自販機で、美味しくないと知りつつも缶コーヒーのブラックを選んで押した。
 喉を潤すだけが目的だったので、一気にあおって飲み干し横のダストボックスへ。職業柄、中身の見えないダストボックスに強い警戒心を抱いてしまうのだが、ここのものは透明な造りになっていて空き缶ゴミは半分近くまで埋まっていた。その上に落ちた降谷が捨てた缶コーヒーの空き缶は、がららんと音を立てて転がる。
 ブラックの字が強調されたデザインに、記憶の中の何かが引っ掛かった。いや、ブラックの文字ではなくコーヒーの方だ、と顎に手を当てる。
 空き缶が、音を立てて蹴られた――――
「そうか、あの時の」
 日下部誠が引き起こした事件。逃走する彼を足止めしようと、江戸川コナンが蹴り放った空き缶は、見事彼の肩に命中した。脳裏に焼き付いていたその瞬間がフラッシュバックする。コマ止めされたシーン、空き缶にはコーヒーのフォントが。
 あの時はたかがゴミ一つの行方など全く気にも留めなかったが、こうして今ダストボックスに収まった空き缶を見ているとなんとなく気になってくる。
 自分自身だけでなく、江戸川コナンの存在自体をもあの件から秘匿するために、日下部誠の発言の多くを揉み消した。当然、捕獲に使われた空き缶ゴミはその存在すら知られていない。きっと次の日か数日の内に誰かの手によってきちんと捨てられたのだろう、とは思う。
 江戸川コナンが残した数多くの功績は、今は閲覧不可の書庫の中に仕舞われている。あの人は今、と振り返る趣旨の番組にも一切触れられなくなった少年の存在を証明できるのは、関わり合った人たちの思い出のみ。
 進級を待たず転校していった少年は、当時の一年生の集合写真にすらその痕跡を残さなかった。当時七歳の幼い子どもたちは、その記憶の片隅にだけ残った面影をいつまでも持ち続けることはできない。ただ、深く深く関わり合った子らの間でのみ生き続けている。
 降谷が捨てた空き缶は、ダストボックスの片隅で息を潜めて外界をじっと眺めている。
 少年が蹴った空き缶は、何を見続けたのだろう。プレスにかけられ、他のものと入り混じり、やがて新たな形をとり。 ただ一つ言えるのは、例えどんな姿形をしていても変わらぬものが確かにあるということ。器を満たすのがブラックのコーヒーだろうと、炭酸の効いたジュースだろうと。お構いなしに受け止め、満たし。降谷の喉の乾きを潤した後に、また新しく生まれ変わる。
 降谷は息を殺し、膜の内側から外界を見続ける。新一はその横を弾丸のように飛び出して、膜を破って外界へとその身を投じる。
 羨ましいと思わなくも、ない。
 けれど、これが己の性分だ。己のさだめだ。
 ここで出来ることを、最大限に。
 残滓を振り切るように踵を返した。からり、と缶が転がった気がした。

 それにしても、と山々を眺め歩き出しながら思考を切り替えた。新一のあの足癖の悪さは今も健在で、自分が見ていないだろうと油断して冷蔵庫を足で閉めたり、脱ぎ散らかした服を足で掬い上げたりするのを何度も盗み見た。たまに目が合って「やべっ」と肩を竦めてバツの悪そうな顔をするのだが、劇的な改善は今のところ見られない。
「……手の器用さが全部足にいっちゃったのかな」
 自分で言って、なんとなく可笑しくて。口の端に力を入れてもにやけるのを止められない。――今度足技の現場を押さえたときにはそう言ってやろう。その時の新一の顔はさぞかし見物だろう、と。
 ペンションから程近い所にある山腹のレジャー総合施設には、この陶芸教室のほかに川釣りやアスレチックなど様々な体験スポットが用意されていた。陶芸教室の後は川釣りでもしてみようか、とここへと向かう道すがら新一と交わした会話をなぞる。
 本の虫だからインドア派かと思いきや、そういえば江戸川コナンの名と姿だった頃、隣人の阿笠博士を保護者に友達としょっちゅうキャンプや遠出をしていた。探偵に必要な体力を付けるためだとサッカーだってやっていたし、体を動かすのも好きなのだろう。やったことのないものにも積極的なあたり、本当に好奇心の塊なのだなと一人納得した。
 初めて体を重ねた時も、男を受け入れることに抵抗があるのではとのこちらの危惧もお構いなしに、器用にその肢体を開いてみせた。気持ち悪くないか、との問い掛けに、新一は首を振って「いや……、こんな感じなんだなぁって」と舌っ足らずで、上気した顔で答えていたのを思い出し。無意味に咳払いをして誰ともなしに誤魔化して。
 つられるように脳裏に浮かんだのは、先程の新一のうっすら汗ばんだ額。普段は前髪に隠されたその部分を、見たり触れたりするのは特定の時だけだったなと。それに気付いてしまい、なんとなく居た堪れない気持ちになったのもあって、あの場を離れたのだった。
 上昇した体温からの熱を逃がそうと、シャツをばたばたと仰いだ。首元から逃げていくむわりとした空気。どこからともなく漂ってくる炭火焼きと、魚の焼ける匂いとが混じって鼻腔を擽った。
 ――そろそろお昼になる頃か。ちらりと視線を落とした腕時計で時間を確認して、再び作業場内へと向かう。果たしてどんな芸術作品が出来ているだろうか。きっと何処かいびつな形になっているであろうそれが、降谷の毎日に加わるのだと思うと楽しみで胸だけでなく足も弾むのだった。

 

四月二十九日(水) 畳の日

 こっち向いて、と余裕のない声。
 うつ伏せていた顔を上げ、ばかになった下半身を置き去りにして腕だけで上体を捻った。抜けかけたものが出て行きたくないと、隙間を埋める動きに喉がくぅと鳴る。
 瞬きで溢れた涙のあとにクリアになった視界の中、大粒の汗を浮かべた男の表情が更に険しさを増し、それから一転して――――
「ぶはっ」
 ――――堪えきれずといった風に吹き出した。


「ねぇ、ごめん」
「……」
「謝るよ。本当に、悪かった。笑うつもりなんてなかったんだ」
「……」
「新一くん」
「……」
 知らない。つもりはなくても笑ったのは紛れもない事実なんだから。
 広縁の一人がけ藤椅子の上で、窓を向いて丸くなりいじける新一の背中に、降谷の声が当たっては滑り落ちていく。まだ少しじんじんするお腹は不満を訴えていたけれど、既に性的欲求を削ぎ落としてしまった心は、その求めに応じる気になれなかった。
「ごめん。その、言い訳をするつもりはないんだけど…和室でするのは初めてだったから、あんな跡が付くなんて思いもしなくて」
 外は暗闇。川のせせらぎが遠くに聞こえるのみで木々に囲まれた旅館の、離れにあるこの別館はこの部屋だけの特別室で、沈黙が降りるととても静かになる。ガラスに反射するのは煌々と照らされた室内と新一の姿。不貞腐れ、膨らんだ頬にその跡はもう残っていない。

 豪勢な料理の後、部屋付き露天風呂で盛り上がりかけたところで、声を我慢してするのは流石に嫌だともつれ込むように室内へ。布団の敷かれた寝室まで我慢できなくて、主室で事に及んだ。肌に擦れる畳の少しざらりとした感覚にも粟立ち、酒精の力も借りていつもより大胆に羽目を外した自覚はなんとなくあった。
 恥ずかしくて普段なら絶対に言えないような言葉とか、卑猥な言葉とか。思い返せば返すほど、羞恥心で穴があったら入りたくなってくる。そして、まさに行為に没頭してる最中に、降谷は笑ったのだ。
 新一の頬にくっきりと付いた、畳の跡を見て。

 強制的に日常に引き戻され、浮かれてやらかした自分の痴態に居た堪れなくなり、留める降谷を振り切ってシャワールームに飛び込み一切の情欲を洗い流し――――今に至る。
 ごめん、悪かったと背後で膝をついて肘掛けに手を置いたままの降谷が再度謝罪を口にした。触れてこないのは、拒絶されるのが怖いからだ。この男はこんな時、新一から触れられるまで決して手を伸ばさない。これまでも何度か繰り返された遣り取り。
 だが、今回こそは絆されてやるもんかと膝を抱える腕に力を込めた。毎回毎回、犬が切なく泣くような降谷の声色につい許してしまっていたけれど。夫婦たるもの、妻がイニシアチブを取ってこそ上手くいくものなのだ。
 ――とりあえず、今回は降谷から触れてきたらそこで許してやろうかな、と。半乾きの前髪の隙間から、新一の後ろでしょんぼりしているであろう降谷の姿をガラス越しに盗み見て。
 どういう事だよ、と眉を顰めた。
「な……んで、ニヤニヤしてんだよ」
 呆れた溜息と共にうっかり溢れた声。いやいや、違うだろうと。自分はもっと怒っていいし、降谷はもっと反省の意を態度で示すべきなんじゃないのか。
 振り向き、批難の眼差しをこれでもかと浴びせてやるが、どうやら彼の反省タイムは終了したらしい。それどころか、背もたれと窓側の肘置きにそれぞれ手を付き新一に覆いかぶさってきた。逆光でも分かるくらい近くにある降谷の目は、明らかな熱を持って笑みを湛えている。
 ぞく、と背筋に寒気が走った。
「新一くん、僕はね。本来とても負けず嫌いなんだ」
「は、はぁ……?」
 話の筋が見えなくて、曖昧に頷いた。
「でもいつも僕に転がされてちゃ君だって腹が立つだろう?同じ男だからね、主導権は自分が持っていたい気持ちも尊重してあげたくて」
「う……ん?」
「こんな時、僕は君の思うように振る舞ってきてきたけど。僕たち結婚するわけだし、そんな遠慮はもう必要ないよね――――と言う事で」
 しゅるりと音を立てて、帯紐が解かれた。手早い動きで袷をはだけ、触れてくる手のひらは火傷しそうなくらいに熱くて。
「ああほら、こんなとこにずっといたから冷えちゃって」
 でも、と続ける降谷のうっそりとした微笑み。……わかるぞ、これ大変はよろしくない事を企んでる顔だ。
 ボクちょっとトイレ、と逃げ出そうとするのを座面に乗り上げた片膝が制する。
「ここなら顔に跡が付く心配もない。――さぁ、」

 さっきの続きをしようか。

 二人分の重みを受けて、籐椅子がきしりと鳴った。


 掌で転がしていたつもりなんて無かったけど、どうやらあちらのほうが一枚も二枚も上手だった、なんて。やはり人生の先輩は侮れない。こと推理面に於いては自分が一歩抜きん出てる自覚も自信もあるだけに、どうにも釈然としない気持ちにさせられる。
 だがまぁ、それは別にいい。何故なら相手が降谷だから。この自分が心底惚れた男だ。その位の手練手管を持ってたっておかしくないし、むしろ新一を踊らすぐらいの気概がないと人生の伴侶は務まらないと思う。
 ――差し当たり、問題にすべき点はただ一つ。
 連休後半、果たして自分は生き残れるのだろうか、と。
 翌朝、狭い椅子であれこれいろんな体位で交わったせいでギシギシと悲鳴を上げる体に新一は、遠い目をしてそう思った。


四月三十日(木) そばの日

 ぱきん、と小気味よい音を立てて割れた割り箸は見事に中央で別れていた。うん、幸先が良い。
 一人内心で満足していると、向かいの席の仏頂面が「なぁにガキみてーな面しやがって……」とジト目を寄越してきた。顔に出してるつもりは無かったのだけど、流石にこの名探偵は欺けない。
 朝からずっとぶすくれたままの恋人の手元に、小鉢を一つ差し出すが、こんなに食えねぇしと戻された。午前中はずっとこんな感じで、降谷のご機嫌取りは尽く突っ返されている。
「そろそろ機嫌直してくれないかな」
「べっつに、誰も怒ってなんかいませんよ」
 言葉通り、荒々しさの欠片もなく蕎麦猪口に薬味の大根おろしを追加でちょいちょいと摘み入れ、竹ざるから一口分を箸で掴む。その一連の流れは淀みが無く、洗練されていてまるでコース料理を食しているかのよう。
 つゆにさっと漬け、ずずずー、ずる、ずる。勢い良く吸い上げて、あまり噛まずに飲み込む。セットで頼んだ天麩羅から茄子をひとくち、ふたくちで攻略するまで数分とかからず。
 こうして見ると男だなぁと実感するのだが、自分が愛した人が同性だという事に改めて触れてみても、そこにあるのはやはり愛しさだけ。きっともう、一生この青年だけを一途に想い続けて生きていくのだろう。
 新一の箸が山菜かき揚げに伸び、ざくりと大きなひとくちで齧り付く。
「……新一くん」
「ふあ?」
 もぐもぐと咀嚼する口と、膨らんだ頬がリスみたいで可愛いけど、そう言ったら絶対に怒るのだろう。昨夜のガラス越し、彼の膨れ面を見たときもそういえば同じ事を考えていた。
「僕の作ったかき揚げと、ここの、僕一番のお勧めの蕎麦屋のかき揚げ。どっちが美味しい?」
 突拍子もない質問にむせた新一が湯呑に手を伸ばした。咳き込みながらお茶でならしてどうにかこうにか一息着くと、柳眉を逆立てて新一はきっぱり言った。
「零さんのが美味えに決まってんだろ、……と言ってほしいんだろうけど」
 ぐび、ともう一口お茶を飲んで小さく咳払い。腰に響く、なんて呟きを拾ってしまったけれど、これは反応しないであげた方が吉である。
「残念ながら、こっちのが上。れーさんが作った定番かき揚げを大きく飛び越えて、朝採れ山菜かき揚げが今、俺の中の一番に輝きました」
 鼻の穴を広げた渾身のドヤ顔から、自分の皿にあるかき揚げに目を移す。蕎麦も他の天麩羅も小鉢も食べ終わり、残っているのはこれだけだ。
 もしこの店に来ることがあったら、絶対にこれだけは食べていけと強く推された一品。地元で一番の蕎麦屋の名前を挙げ、この任務が明けたら一緒に行こうぜ、と笑っていたあいつ。
 瞼を伏せれば今でも蘇る光景、その声。自分の中に生きるあいつを、変わらず鮮明に思い出せていることに安堵する。そして、後悔と懺悔の日々を遠くに置き去りにして、ただひたすらに明るい未来を描こうとしている己の今の姿を俯瞰した。
 この空のどこかで見てくれているだろうか。見守っていてくれたら、嬉しいと素直にそう思える。
 光照らされる道を歩む自分をどうか祝福して欲しい。
 ――いただきます、と呟いて箸を伸ばす。
 約束していたお前とは来れなかったけど。
 悲願は果たしたぞ、と大きく口を開けて歯を立てた。
 

5/5ページ
スキ