四季折々に想う。二 4月

四月十七日(金) なすび記念日

 降谷の私用携帯にメッセージが届いたのは、始業三十分前、警察庁にある自分のデスクに着いた頃。
 新一からの着信専用とほぼ化しているその端末を一瞥して、片眉がぴくりと上がった。
【title:ヘルプミー!】
 どうせまた、事務所の鍵を無くしたとか、公安案件にうっかり巻き込まれでもしたとか。新一が通話ではなくメッセージで助けを求めてくるのは大体が緊急性のないものばかりだ。
 それでも無碍に出来ないのは、例えばこれが口を塞がれている状態からの救援要請だったらという仮定が、過去に仮定なんかではなく実際に起こっているからで。
 だから降谷は勤務中であろうと会議中であろうと、この私用携帯への着信にはその場で必ず目を通す。彼の危機は、日本の危機。新一が降谷に直接助けを求めるのは、降谷でなければ解決出来ない難解な事件に襲われた時なのだ。

【title:ヘルプミー!
 出勤途中でまきさんに会って、沢山貰っちまった】

 添付された画像には、新一の探偵事務所の応接テーブルを埋め尽くす勢いのビニール袋やダンボールに入った野菜、野菜、野菜の山。それと団子屋のロゴマーク付き紙パックや、有名店のお惣菜パン、何故かクロスワード雑誌まで。
 到底一人では持ち帰れない程の量の野菜を前にして、困惑顔で佇む新一の姿が目に浮かんできて頬が緩みかけた。
 彼女とは秋の頃に朝市で彼女が営む出店で一度会ったきりなのだが、お互いちゃんと顔を覚えていたようだ。ここのパイプが繋がると自分も仕事がしやすくなるな、とふと浮かんだ考えに軽く自己嫌悪して。
 手短に返信を打って、着席したばかりの椅子から立つ。
 部下数名が顔を上げたが、特に咎められはしない。ここの部署の上司はじっと椅子に収まっていることの方が珍しいからだ。連絡さえ付けられれば、それでいい。そう考えられるように躾けてきた。一々上司の判子がなければ動けないような木偶の棒はこの職場には不要である。最前線であらゆる危機を未然に防ぐのに、判子なんてものは弾丸の代わりにもなりはしない。
 一言だけ、出てくるとだけ告げて部署を後にした。
 
 いつもの新一だったら、知り合いに食べ物やらなんやらを貰った程度でヘルプコールなんてしない。相手が彼女だったこと、野菜に紛れていたその他の品々から何かを読み取り、降谷に画像を付けて寄越したのだ。
 以前、朝の市場で彼女が営む店から野菜を購入した折に、元公安警察官だったのだと教えた。今は協力者として街中に潜む不審人物の情報を流してもらっている。あの世代の女性が持つネットワークというのは凄いもので、悪事千里を走るよりも早く伝播し、そして彼女の情報は常に正確である。
 車を走らせて予告通り二十分で事務所の呼び出しベルを鳴らせば、新一が待ってましたと言わんばかりに出迎えて中へと誘われた。
 雑誌を捲り、散りばめられた暗号から情報を読み取る。目を光らせていた団体の動向から、今日にでも動いた方がよさそうだ、と判断できた。
 野菜やパンは手を付けても大丈夫だと伝えると、新一はパンをデスクの上に避難させ、残りの山盛りの野菜から幾つかチョイスして別の袋に入れ替えた。
「博士んとこにはこんくらいでいいか。零さん、残りのこれ、今持ってける?」
「今?」
「実は俺これから突発的に宮城まで行く予定。荷造りしたいから、野菜と一緒に家まで乗せてってくんねえかなって」
「やれやれ……君は本当に引く手数多だね。まだ暑くないからここに置いてても大丈夫だけど、まぁ僕も夜家に帰れるか分からないし……持って行っちゃうか」
 リヤシートにギリギリ詰め込めるかな、と不安になったが、どうにもならなかったら助手席の新一の膝に置けばいいだろう。
 箱から転がり落ちていたテーブルの上の長ナスを拾って、新一に手渡した。
「僕が帰ってこないからって、この子と浮気なんかしないでね」
「……?茄子と?    ばっ」
 バーロー!と真っ赤になって拳を振りかぶる新一に笑って大袈裟に飛び退いて。
「野菜炒めでもいいから、毎日ちゃんと食べるんだぞ。日持ちしないのは処理して冷凍しておくから、野菜室にあるものから使っていってね」
 それだけで、新一の釣り上がった目と眉が伏せられる。
「……分かった。頑張ってちゃんと作って、ちゃんと食う」
「うん……。良い子だ」
「早く帰ってこいって、言っていい?」
「もう言ってるじゃないか」
 上目遣いにこちらを窺う姿が堪らなく愛おしくて、離れ難くて。家でだと絶対に自制が効かなくなるから、今ここで。新一の体を抱き寄せた。
 強い抱擁に苦しいと漏らしながらも、降谷の背中に回された腕は解かれない。今生の別れとは言わないけれど、何が起こるか分からないのが、この仕事だから。一日でも側に居られない日があるのなら、その日の分も合わせて抱き締める。そして帰ってきたら、不足した分を埋めるように抱き合う。
「今回のはそれほど危険じゃないから、大丈夫」
「そっか」
 それから暫しの間、無言のままお互いの体温と鼓動を分かち合い。
 やがて新一がおずおずと顔を上げて――そう、この後に発せられるであろうセリフを降谷は確信していた――可愛く首を傾げて、言った。
「んで、それってこないだの不審船繋がりのやつだろ?宮野と俺の方でも探っててさ、ちょっと良い情報ゲットしたんだけど、どう?俺を巻き込んでみない?」
「……。巻き込…………みません!」
「はぁあ!? ケチ!」
「ケチでも何でも言えばいい。兎に角、駄目なものはダメ」
「じゃあいいよ、コイツと浮気してやるから」
「茄子は駄目」
「ナス……『は』?」
「色々とまたオモチャ買ってあるから。それ使ってよ」
 どういう事だと騒ぎ立てる新一を笑顔でいなして、山積みの野菜を均して箱の蓋を閉じた。
 恋人(この国)と婚約者を愛する男は、タフでなければいけない。野菜のぎっしり詰まった箱を二つ重ねて軽々と持ち上げると、降谷は目を白黒させている新一に顎で先導を促した。

「あんま無理すんなよ……?そろそろ腰に来るお年頃だろ」
「ほぉー……。まだまだ現役だって事、あとで嫌っていうほど分からせてやるから覚悟しておけ」



四月十八日(土) 発明の日

「さぁここでクイズじゃ!トマトとニンニクが――」
「答えは報告・連絡・相談でほうれん草!ホラ答えてやったんだからさっさとくれよ」
「まだ問題文も言っとらんのに……当たりなのが悔しいのぅ」
「ナゾナゾの腕、落ちてきたんじゃねーかぁ?」
「なっ!あの子らにはまだ十分通用しとるわい!」

 お裾分けの野菜のお礼だと呼ばれて、夕食を阿笠博士の家でご馳走になった。尤も、お礼は単なる建前で、簡単に野菜炒めかサラダだけで数日生き延びようとする新一の行動パターンを読んだ降谷が、宮野に頼んでいたのだろう。ボリュームと栄養満点の食事に腹を満たし、糖分も大事だと焼き菓子を持たされた。
 持参した手土産と、追加の野菜とを引き換えにしてもお釣りが来るくらいのおもてなしに新一の気も緩む。ソファでごろごろとしながら博士と発明品評会を開いていると、宮野が思い出したように口を開いた。
「そうそう、光彦くんなんだけど歩美に告ったそうよ」
「へぇ〜、そうか。なぁ博士、ステルス機能付いた服とか作ってくれよ。あとさ、ローラー内蔵のシューズ一時期流行ったじゃん。あんな感じの靴欲しいんだけど。ターボ付きの」
「ステルスマントならあるぞい」
「あれだとヒラヒラして動きにくいんだよ。スイッチ一つで普段着からパッと替わるみたいなの、作れねえ?」
「ウーム、まぁ……作れなくはないがのぅ」
「頼むよ博士〜。あと靴!革靴とスニーカーの両方で!」
 両手で拝むポーズを取って、博士が承諾するとよっしゃ!とガッツポーズを取り。
 そうしてやっと、耳殻に留まっていた彼女の一言が脳に到達して。
「って、――――マジかよ宮野!?」
 勢い良く振り向いた先、カウンタースツールに腰掛けてファッション雑誌に目を落とす宮野は、もうその話はお終いとばかりに手をひらひらさせるだけ。
「どうなったんだ?つ、付き合っ」
「さあ?当事者から聞けば?ポンコツ探偵さん」
 飽くまでも視線を合わせないまま、宮野は手元のスマートフォンを一瞥して。
「歩美からラインだわ。それじゃ私、部屋に戻るから」
「アッおい、ちょっ」
 ひらひらと舞う蝶のように、するりとしなやかに避ける猫のように。新一が引き止める間もなく、宮野は自分の部屋へと去ってしまった。
 気になるワードだけを投げつけられて、新一は消化不良の気分だ。ならば光彦に聞けばいいだけなのだが、これがもし振られでもしていたら、と考えてしまい二の足を踏む。
 純粋に光彦の恋を応援したい気持ちと、ついこの間まで自分を好きだったという歩美がそんな簡単に想いをコロッと切り替えてしまうのか、というつまらないプライドと。そんな自分に嫌悪しながらも、この片恋の行く末が気になって仕方ない。
 ソファに立ったり座ったりを繰り返し、頭を掻き毟り。遂には博士にまでジト目で帰宅を促される始末。それでもアイテムの開発を念押しするのだけは忘れず、新一は帰り支度を始めた。
 車で送ろうかという博士に首を振って辞退して、最後に夜食つまみ食いするなよと釘を刺してから、阿笠邸を出た。夜風がまだまだ身に沁みる四月の半ば、やっぱり送ってもらえば良かったかな、と肩を窄めながら駅までの道を一人とぼとぼと歩く。アウターのポケットに突っ込んだ素手をグーパーさせても隙間風がしんみり痛い。繋ぐ相手の不在を変なところで意識して、まだまだ二日目の夜なのにへこたれるには早いぞと己を叱咤した。
 
 二人で暮らすマンションの最寄り駅で降りて、駅前の繁華街を通り過ぎ、その後に続く公園の短い桜並木は既に散って緑の葉が生い茂る。今年は花見らしい花見はせず、この道を夜桜を見上げながら歩いたくらい。いつの間にか様変わりしていた風景に、日々の慌ただしさを痛感して細く息を吐き出した。
 大きな事件に遭うでもなく、小さな出来事と平穏の積み重ね。一日が短いと思うのはこんな時だ。曜日感覚さえも狂いそうな中で、それでも降谷と過ごした休日や夜だけは覚えている。一年のうち二人の時間が重なったのはひょっとすると半分にも満たないかもしれないけれど、駆け足で通り過ぎていく季節の中でいつだって真っ先に思い浮かぶのはあの人の事。
 誰かを好きになるというのは、こういう事なんだと新一は自分の中の定義に頷いて。我が家までの残り短い距離を、思い出の微睡みに身を委ねて鼻歌交じりに歩いていった。

 ――――公園の先、曲がり角を曲がった先で、大きな依頼人と小さな依頼に遭遇するとは思いもせずに。

 

四月十九日(日) 飼育の日

1〈事後承諾でゴメン〉:画像【リビングの床に置かれた小動物用ケージ】
0〈元いた場所に返してきなさい。まったく、まさかこの歳でこんなセリフ言うことになるとはね。君、動物飼ったことないだろう?うちのマンションは確かにペットは小型に限り可ではあるけどね、日中どころか夜も二人揃って不在になることもしょっちゅうなのにそんなの飼えないだろう?ペットショップは一度購入した生体は返品できないから、誰か代わりに飼える人を探す事。それとも友達に貰った?それならその人に返してきて〉
1〈たったの一分でそのレスこえーよ!〉
0〈で?それは事件か何かの証拠品?身寄りのない被害者唯一の同居家族?こちら側で処分することもできるから、そのまま動物に触らないで置いといて。下手に匂いをつけると後が大変だからね。当然だけど、家の中に放したらどうなるか言わなくても分かるよね〉
1〈つうか、なんで怒ってんだよ〉
0〈怒ってない〉
1〈あとこのケージの中にいるのは知り合いの親友のシマリスで、仕事でどうしても連れていけなくて、昨夜急に二日ほど預かってほしいって頼まれてさ〉
0〈京都府の人が何故君に頼むんだ〉
1〈飼い主分かった?〉
0〈君の知り合いでシマリス飼っているのなんて一人しかいないだろ〉
1〈あ、そっか。ペットホテルに預けるつもりだったんだけど、ちょっと急で間に合わないらしくて〉
0〈成程、彼の事情はあらかた分かった〉
1〈えーなになに?そっちにいてても調べられるもんなの?どーゆーネットワーク持ってんの?〉
0〈そこはどうでもいい。シマリスの生態についてちゃんと調べてある?大切なご家族の命をお預かりしてるんだから、そこのところきちんと責任持って面倒を見る事。〉
0〈あと、彼の追っている案件についてだ。転送したら直ぐに消去する事。〉:添付ファイル
1〈うわー何その親切。かえって怖いんすけど!〉
0〈うるさい〉
1〈もしかしてこの家に自分以外の野郎がいるのが許せないから、さっさと案件解決してお引き取り願おうって算段〜?ヤダ、ジェラシー?ペット相手に?〉

1〈あれ?もしもし?〉
1〈おーい〉
1〈なんだよ既読スルーしやがって〉
1〈取り敢えず送っといたぜ?データも消したし。…あっ   ヤキモチ図星だったとか?まさかなw〉
0〈君の! ホントそういうとこ!!いっつもいっつもニブいくせに!!このポンコツ!!〉
1〈はぁ?喧嘩売ってます?つーか、小動物相手に縄張り主張とか小さいんじゃないですか??ナニが、とは言いませんがね!〉
0〈今、〉
1〈あ?〉
0〈ドアの前に居ます〉

「…………ウソッ」

0〈ウソじゃありませんマジです〉
「しかも玄関じゃないとか……?」
0〈そうですね、リビングのドアの前ですね。謝るなら今のうちですねまぁ許しませんけどね〉
「ぅわ、ゴメン!つーか、気配消して帰ってくるとか卑怯だろおい!」
0〈逃げても無駄ですよ明日依頼無かったよね朝まで抱き潰すコース確定だね二日分しっかり補充させてもらうぞ〉
「無言でメッセージ送ってくんじゃねぇ!怖ぇんだよ!あとおかえり!」

「……ただいま」

 やがてリビングに漂う甘い空気も、交わされる吐息も濡れる音も。小動物はケージの中の巣箱の中でじっと息を潜め聞き耳を立てていたが、やがて室内は暗くなり、物音は遠ざかる。それでも隔てられた奥から漏れ出てくる声は、視界に白じむ光が差すまで途切れることはなかった。



四月二十日(月) ジャムの日

 スマートフォンの目覚ましアラームがずっと鳴っている。
 上下張り付いた重たい瞼はこじ開ける事すら難儀で、探り当てた鳴動する物体の平たい面を指でなぞるが音は鳴り止まず振動も止まらず。
「んん……」
 く、と眉間に皺が寄る。つい、つい、と何度もスワイプしているのに単調なメロディは新一の頭と耳に刺さり続けてくるので、不調を訴える下肢の事も相まって機嫌は一気に急降下。
「くそッ、ムカつくなぁ!」
 嗄れた唸り声を上げながら重怠い体を叱咤して横向きからうつ伏せになり、肘を付いて上体だけをどうにか持ち上げた。これだけのことなのに、肩や背中に伸し掛かる疲労感が半端なく新一を苛む。
「あんにゃろう……ヤりすぎだっつの!」
 しょぼしょぼする目を擦って僅かに開いた視界でどうにかこうにかアラームを止めた。そのまま顔面から枕にぼふっと埋まり、下半身の疼痛を逃がすように呻き声を上げた。
 正直、動ける気がしない。
 確かに今日、依頼の予約は入っていないが。いつ何時、警視庁から捜査協力依頼が舞い込んでくるか分からないのに。だがそれさえもきっと、降谷は目暮辺りを上手く言い包めてこちらに連絡が来ないように取り計らっているのだろう。それはそれで、非常に腹立たしい。自分の稼ぎが減ってしまう。
「変なモン使いやがって。絶対に今日中に見つけて処分してやる」
 たまに、スパイスとしてローターを使われることはあったけれど。知恵の輪みたいに三つくっついた輪っかや、大きめの玉がいくつも連なったモノ、新一もドラッグストアで見かけたことのある筒状の定番自慰アイテムまで。ここはラブグッズの展示会ですか、というくらい様々な道具で苛められながらのセックスは明け方まで続いた。
 ほとんど気絶していても揺さぶられる感覚だけはあったので、多分三回……いや四回くらいしたかもしれない。降谷は。
 最終的に自分が一体何回イッたのかは覚えていない。ただ証拠として残る筋肉痛は並大抵のものではなく、変な所の筋肉までもピリピリと痺れているから、全身がくまなく酷使されたのだろうことは間違いない。
 そこに至るまでの行いを振り返ってみても、自分の落ち度が全く見当たらない。シマリス相手のヤキモチを指摘したくらいでそこまで機嫌が悪くなるとも思えなくて。そうなると残るは降谷の仕事絡みの線が濃厚となるのだが。
「俺を家から出さない為?それとも、仕事の鬱憤が相当溜まっていたか?」
 けほん。からからに乾いた喉が水分を欲して空咳を発する。何はともあれ、水分補給、そしてさっきからずっと鳴りまくるお腹に何かを詰めないと、と新一は這いつくばってベッドから下りた。

 シマリスは、ケージごと居なくなっていた。さらに、朝食セットがダイニングテーブルではなく、リビングのローテーブルにあるのを見た途端。新一の怒りはメーターを軽く振り切った。
「こうなる事もお見通しってか!?……けほっ」
 四つん這いのままソファからクッションを取り、尻に敷く。ふと、ついこの間もこんなことしてたような気がするな、と思い出して呆れた。あの時は自分が煽った自覚があるからいい。だが今回のは違う。帰ったら絶対に逃さないと決意も新たに、まずは腹ごしらえだと両手を合わせた。
「飯に罪はねえ。――いただきます!」
 マグカップにお湯を注ぐだけの蜂蜜生姜、厚切りトーストと苺ジャム。ラップを剥いで、スクランブルエッグとベーコンにケチャップをかける。
 食後のコーヒーもその場で淹れられるようにお膳立てがされていて、しかもテーブル板の下の収納スペースにはタブレットと、新一が最近読み返している最中のミステリーのシリーズものが数冊。
 新一が一人で頑張らなければいけないのはトイレくらいか。マグカップを持ち上げると、紙のコースターに「無理させすぎた。ごめん。」と降谷の綺麗な、けれど慌ただしく準備しながらだったのだろう走り書きが残されていた。
 カチンときて、それをスマートフォンのカメラで撮って【許しません】のメッセージと共に送信した。
 続けて、
 【シマリスと遊ぶの楽しみにしてたのに】
 【俺が預かったのに、勝手に連れ出して返すんじゃねぇ】
 【仕事、
「――嫌がらせ、まだ続いてんのかよ」
 なんて。子どものいじめを心配する母親みたいな言葉。昨夜の降谷は、この間見たのと同じ顔をしていた。何ができるだろう。何もしてやれない。場所は新一の手の届かない奥の奥。乗り込んでいったところで、降谷よりも腹黒い大人たちによって良い様に手玉に取られて弄ばれるだけだ。……昔と違って、そういう分別は付けられるようになった。けど。
「やっぱさぁ、許せねぇじゃん?かといって、腹芸なんて得意じゃねえから、何が出来るかっつうとなんも出来ねえ訳で」
 フローリングの床に大の字になって、天井を見上げても妙案は湧いてこない。そのうち腰が痛みだしたので、また呻りながら、ソファへとよじ登った。定位置にある二匹の守り神様を胸と腹に抱いて、横向きになる。
 同じ高さの目線には、ローテーブルの上の空の食器と、赤い苺ジャムの瓶。今更ながらにこのジャムが手作りだと気付いた。
 気の抜けた笑いがくふりと鼻から抜けていく。
 ――赤いの、NGなんじゃなかったのかよ。
 苺ジャムは、前日あるいは半日前からの仕込みが重要らしい。コナンだった頃に、蘭が作っていたのを見たことがある。とても手間暇のかかるそれに、「ジャムなんて買えばいいのに」と思いもした。
 丸みを帯びた型をした苺が、赤い液体にたくさん浮かんでいる。甘い甘いシロップにとっぷりと浸かっているそれらは、まるで今の自分のようだと思った。
 降谷からの惜しみない底無しの愛情に頭まで浸かって。優しくされて、甘やかされて。――気付いたら丸ごとぺろりと食べられているのだ。添えられるのはバニラのアイス、パンケーキ。綺麗なものや美しいだけを見せていたい降谷の下心が透けて見えるようだ。
 そんな他愛もないことをつらつらと考えているうちに、新一の意識は睡魔に飲み込まれていった。


 目が覚めると、すっかり陽は傾いていて、リビングの壁のクロスを染めるのはオレンジ色。
「うっわ……。丸一日ソンした気分」
 スマートフォンの着信履歴をチェックしたが案の定、来ていたのはシマリスを預かった事に対する綾小路警部からの早期事件解決を含めたお礼のメールのみ。降谷に送ったメッセージには既読も付いていやしない。それほど忙しい状況なのか、それともお叱りメッセージから逃げているだけなのか。
 爆睡によって少しだけ回復した体力で筋肉痛を誤魔化しつつ、放置しっぱなしの皿を数枚とマグカップを全部重ねて右手に持ち、左手にジャム瓶とスマートフォンを纏めて持っ――たのが、いけなかった。
 数歩歩いたところでいきなり腰がかくんと抜け、バランスを欠いた食器の頂点からマグカップが滑る。
「っ、おち……ッ!!」
 その方向に腕をスライドさせて落下を防ごうとして、疎かになった左手から元々不安定だったスマートフォンが指から滑り、ジャム瓶がそれに続き。あろうことか新一の足の甲に端末が角からクリティカルヒット。
 白目を向いたその直後、鋭利な音を立ててマグカップと小皿が中皿の上を流れた。
 あ、と声なき声が飛び出したがそんなもので止められる筈もなく。
 ガシャン!パリン!と派手な音が幾つも重なって響いた。散らばる白の欠片と、ガラス片、そして赤色と甘い匂い。
 やっちまった!と慌ててしゃがんだ弾みで、またしても下肢に走った疼痛に顔を顰めた。ぐらりとよろめいて咄嗟に突き出した右の手のひらにピリッと走ったものに目尻が歪む。
 舌打ちをしてよろよろと立ち上がり、破片を避けつつキッチンへ。刺さった小さな破片を取り除き手当をしたあと、ひたすら無言で片付ける。
 降谷が帰宅したら、この傷口を見せて文句を言ってやる。これに懲りて、夜通しで負荷のかかるようなセックスなんかしないようにと説教してやらないと。
 脳内では正座させた降谷にさらに漬物石を抱えさせて、云々と積もり積もった不平不満を垂れている自分の姿。もう二度とやらないな!?ハイ、申し訳ありません。玩具も処分します。――と、ここまで妄想したところで掃除は終了。休み休みやったせいで気付けば夜になっていた。窓の外からはしとしとという春の雨音。疲れも相まって夕食を摂る気にもなれず、シャワーをさっと浴びて寝床につく。
 なんという一日の無駄遣い。ぐるぐると渦巻く心地の中眠りについたせいか夢見は最悪で、降谷も結局帰ってくることはなかった。



四月二十一日(火) 漬物の日

 気持ちのいい春晴れの朝。ばかんと開けた冷蔵庫の中。だいぶ寂しくなってきた棚を眺めて、ううむと唸る。
 降谷が大量の野菜を使って作り置きを拵えていってくれたものがほとんど無くなって、残っているのは漬物や濃いめの煮物だけ。要するに、新一があまり好んで食べないようなおかずばかりで。
 降谷と一緒に生活をするようになって食生活はかなり改善されたが、何しろ中学の頃から一人暮らしをしていたくせに料理の腕はからきしで、蘭がいなければほぼ毎日がインスタント食という有様。コナンだった頃も蘭が作ってくれていたしそれだって高校生活の傍らだったから煮物よりも炒め物が主で。階下には喫茶店だってあったからそこで食べることもしょっちゅうだった。
 何が言いたいのかというとつまりは、新一は純和風のお祖母ちゃんの料理と呼ばれるようなおかずをあまり好まない、ということで。
 浅漬けと降谷が呼んでいたものは食べれる。それほど塩っ辛くはないから。降谷の前では顔に出さないようにしていたが(何しろ作ってくれた人の前で好き嫌いを言うのは憚られたし、そういう躾をされてきたから)、薄々気付かれてはいるだろう。作り置きのレパートリーの中で登場頻度の低いその濃い味の漬物と、煮物。流石にそろそろ食べきってしまわないとな……と諦めにも似た気持ちで手を伸ばした。
 昨日から胸の中にもやもやとした蟠りが残ったままだけども、食べ物に罪はない。いつもより多めによそったご飯と共に食べきってしまうことにした。


 高木刑事を巻き込むようにして事件を解決に導いたいつもの昼下がり。相変わらずの事件吸引体質を心配されつつ、警視庁の前で手を振って別れた。
 ついでにと警察庁の前を通ってみたけど、会えるかななんて期待するだけ無駄なので、ちらりと聳える建物を見上げるだけに留めて。どうせここまで来たんだし、と高木刑事に奢ってもらったコンビニのサンドイッチとコーヒーを目の前の公園で食べていくことにした。
 昨夜の雨の名残が地面にまだ湿り気を残してはいたものの、薄曇りでも高い気温が快適な風を運んでくる。すっかり緑に染まった木々が目に優しい。降谷もこの景色を見ているといいのだけれど。
「……や、まだ許してねぇぞ?」
 キッと睨みあげる建物の、どこにいるのかそもそもこの中にいるのかも定かでない人を想う。
「作り置き、なくなっちまったぞ零さん。あとはもう切って盛るだけのサラダか、冷凍庫にあるどうすりゃいいのか分からないやつばかり」
 今朝、渋々手を付けたというのに、もう煮物でいいからと降谷の味が恋しくて堪らなくなっている。濃い味付けのものは苦手な筈だったのに、サンドイッチじゃ腹を満たせない。
 切なくて溜息を零す。降谷がそれを聞いたらきっと、「君は僕がいなくて寂しいんじゃなく、僕の料理さえあればいいんじゃないのか?」とショックを受けたと言わんばかりのわざとらしさで新一を詰るのだろう。
 いたら居たで、その濃ゆい愛情表現に辟易してしまうくせに、居ないとそれはそれで物足りない。
「れーさんは漬物ポジ、ってとこかな」
 うん。言い得て妙。一人納得して、ベンチから離れた。橋を渡り、通りへと出る。小さな事件は多々あれど、この国を揺るがす大きな事件がないということは、降谷たちの仕事が滞り無く捗っている現れか。闇から闇へと葬り去られるものもあるだろうけど、新一の元に何も飛び込んでこないのは彼が何にも巻き込まれず仕事に励めている証だ。
 人々や車の往来を眺めて、大きく息を吸う。
 適材適所なのだ。降谷は降谷の場所で、新一は新一の場所で。やれることを、やるまで。
「でも、たまーになら、その境界線越えたって構いやしない……よな?」
 ふむ、と顎に手を当てて何やら思案するその顔を降谷が見たら何と言うか。それでも着いてこれる者だけが到達を許されるその極みを、降谷と共に見たいと新一は思うから。他人が作った垣根を飛び越える準備はできている。――あとは、助走をつけるだけ。



四月二十二日(水) 良い夫婦の日

 この国における一般家庭の、典型的な夫婦の形とは。

 ほんの出来心で突いてみた、宮野と二人で見つけた不審船の件を、新一は事務所への依頼が無いのを口実に再度洗い出しをしていた。
 どうにも腑に落ちないところがあって、ダメもとで警視庁に赴き、白鳥警部に連絡を取ってみたところ「少しだけなら」と閲覧可能な部分の資料を見せてくれることになったのは良かった。
 ――良かった筈、なのだが。
 資料室で該当書類を片手に滔々と御高説を垂れる口髭ハゲを、貼り付けた営業スマイルで聞き流すこと、かれこれ二十分。
「――だからね、私は何も全部に反対している訳じゃない。世の中にはいろんな夫婦の形があるだろう事も、今の時代柔軟な考えでもって受け入れていくことも必要だと考えている」
 はぁ、と相槌にもならない声で答える。それ、三回目です。二十分の間で。さっき言ったことも覚えていないなんて、老化現象の始まりですよ。そう言ってやりたい気持ちをぐっと堪える。大人になれ、工藤新一。お前はこの程度の『ちょっかい』も上手く躱せないようなガキじゃないだろう。
「君がゲ……同性愛者だったとしても、君の才能や価値に疵は付かないだろう。君は存在そのものが我々警察官の、いや我が国の宝なのだ」
 言ってることがさっきと矛盾してんぞこのヒゲハゲ。
 辟易として盗み見た資料室の壁掛け時計は、ここに入って三十分以上の経過を告げている。閲覧許可は四十分しか貰えなかった。そろそろ手を付けないと、時間がない。
 いっその事眠らせてやろうか――と腕時計に右手を添えた、その時。
「僕の妻を褒め称えてくれるのはありがたいのですが、まだまだ新婚でして……こんな密室で長時間二人っきりになられると、正直いい気はしませんね」
 いつの間にか侵入していた男が、ドアの横、壁にもたれて腕組みをして立っていた。
 大きく目に見えて動揺したハゲを見て、新一はやっとで肩の力を抜いた。この男は降谷よりも階級が下なのだと。それだけ判れば十分だ。
「それに、彼はこう見えても一応重要人。何か用があるのなら、夫である僕か、ここでの後見を務めている者に取次いでもらわないと」
 青灰色の瞳が、鋭く男を穿いた。お前に、その『力』があるのか、と。縦割り社会では年齢よりも肩書が大きく物を言う。それを突き付けられて、男はへこへこと頭を下げ、しどろもどろに言い訳をしながら逃げるように出て行った。
 その後ろ姿を、新一は鼻に皺を寄せて見送る。
「こら、せっかくの綺麗な顔が台無しだぞ」
「――いった!」
 その鼻をぎゅむ、と摘まれて、新一は眼前の男を見上げる。メタルフレームの伊達眼鏡と、サイドを後ろに撫で付けたヘアスタイル。どちらも、いつも家を出る時の降谷にはないもので。凄く新鮮で――――セクシーだ。
「……それ、初めて見た」
「だろうね、初めて見せた」
 どこか拗ねたように見えるのは、気のせいだろうか。いや、気のせいではない。
「なんで?ダンナさん職場でだけそんな色っぽいオシャレして、浮気相手でも引っ掛ける気かよ」
「はぁ……。あのね。ここでの僕の階級、知ってるだろ?それなりに見せなきゃいけないんだから、仕方ないだろ」
「俺に隠してたじゃん」
 そりゃあ、恥ずかしいからだよ。こんな格好。耳を赤くしてそっぽを向くうちの旦那様が、あまりにも可愛いすぎる。
「――俺、妻なんて言われたの初めてかも」
「もう結婚したも同然だから、パートナーと呼ぶのも変かなと思って。それに、嫁じゃないしね」
「あのオッサン、なんで俺がここにいるって分かったんだ?呼んだの白鳥警部なのによ」
「ああそれは、白鳥さんが僕に連絡しているのを、取り巻きの一人が耳にしたようでね。同じ警視庁内にいるあっちが一歩早かった」
 会話を交わしながら、降谷は資料室の棚から一つ二つとファイルを取り出すとそれを新一に差し出した。
「ああいうのが今、虎視眈々と僕と君のお尻に火をつけようと狙ってるから来てほしくなかったんだ。面倒くさかっただろ?」
「あ、うん……サンキュ。ってか、いいのか?これ。見ても」
「そいつを調べたかったんだろ?」
 先日、協力を申し出て断られた件なのに。これは何か裏があるのでは、と疑る気持ちも露わに上目遣いに睨むと、降谷は苦笑いで頷いた。
「降参だ。日本警察の救世主くん。洞察力、推理力では負けないつもりだけど……閃きの速さで君の横に出るものはいない。僕もそれなりを自負しているけどね……。だが今は時間が惜しい。手を貸してくれないか」
 本当は、もっと早くに助力を仰ぐつもりだったのに、ヒゲハゲ共がウザくて、と苦り切った顔の降谷に、新一は堪らず吹き出した。
「なぁ零さん。俺たち、似たもの夫婦だな!」
「はぁ……?」
 新一の笑うポイントが掴めず首をひねる降谷を見て、新一はその笑みを更に深くした。



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