四季折々に想う。二 4月

四月十一日(土) ガッツポーズの日

 昨夜はあの後、朝とは逆に降谷がこってり絞られた。温酸っぱい高級押し寿司弁当を二人黙々と食べたあと、有無を言わさずダイニングの床に正座させられ(だが向かいの新一は胡座という狡さ)。フローリングの床が脛骨(けいこつ)にじわじわとダメージを与えてきて、重ねた爪先を入れ替えるために腰を浮かしただけで「まだ話は終わってねぇ!」と叱責が飛んできた。
 そうやってすぐネガティブな方に先走るのが零さんの悪い癖だと詰られて、金銭的・体力的だけじゃなく精神的にもダメージを負っていき、最終的には何故かベッドで睦み合って仲直りをした。
 背後から抱き締め、腰を揺らし。仰け反る背中に口づけを落とした。家の中でだけ嵌めている互いの指輪を重ねて、擦り合わせる度にかつりと骨に響く感覚を魂に刻み付けて。細く長い彼の指の間に同じ手を上から割り込ませて、強く握りしめた。汗ばんだ手のひらにひたりと張り付く新一の手の甲は少し骨張っていて、男の手なんだなと改めて実感した。
 形だけの結婚。籍を入れても、配偶者にはなれない。新一が躊躇ったのはそんなことではないと分かっているが、降谷としても新一に託せるものを法的に保証してくれる術はこれしかないから。
 降谷が渡せるもの、あげられるもの。それらの全てを、早く受け取ってほしいと本当は心の底から願っている。
 二つ並んだ銀色の細い環は、ずっと綺麗なまま。外の世界を見ることも無く、やがていつかは小さな箱に納められるのだろう。新一と降谷以外誰の目にも触れられないそれは、まさに二人だけの天国に通ずる鍵だった。
 半分振り向いた新一が、上の空を咎める視線を送って寄越す。キスで宥めて、降谷は新一を連れて一気に階を駆け昇った。


 諍いがあろうと、愛し合おうと。世界は動き続け、この国もまた目まぐるしく状況を変えていく。
 デスクの上で分刻みに上がってくる報告に耳を傾け目を通し、先を読んで手を打つ。降谷の判断一つに国命が、数多の人命がかかっている。
 重たくないわけではない。だがそういう仕事を、使命を背負う道を選んだのは降谷自身だ。たとえ最愛の人から憎まれようとも、この道を突き進み続ける。
 一山越えての小休止。デスクを離れてプライベートの端末をチェックすると、珍しく新一から画像付きメールが届いていた。
「……また事件にでも巻き込まれたか」
 極々稀であるが、新一からのメールには怪しげな取引現場の隠し撮りや、本人が監禁されていると思わしき場所と状況の画像が送られてきたりする。
 今度はなんだと素早くタップして開いた画像に、降谷の心臓と呼吸と時間が止まった。
 ――新一の名前が大きく写ったそれ。枠線の配置だけで何を被写体にしたのか、瞬時に理解できた。毎日のように取り出しては四角い空白を空虚な気持ちで眺めていた。四ヶ月間も繰り返したせいで、ややへたり気味になってしまったその紙を、降谷は書き直そうとはせずに大切に保管してきたのだ。
 ずっと空欄だったそこに、新一の名前が彼の直筆で記されている。
 これは夢だろうか。いや、夢なんかじゃない。胸の奥から湧き上がるこの衝動は、そんな夢現で片付けられるものじゃない。
 涼しい顔で、監視カメラの死角に入り。周りに人の気配がないのを確認して。

 降谷は――――拳を高らかに振り上げた。



四月十二日(日) 世界宇宙旅行の日

 世間一般様は休みでも、降谷の仕事に曜日など関係ない。それでも午前の書類整理だけで済んだのだから、今のところ大きな動きも予兆もないと言える。――嵐の前の静けさではないことを、切に願うのみだ。
 途中スーパーで食料をしこたま買い込んで、家路を急ぐ。把握している新一のスケジュールは、本日休業のはずだ。
 二日連続でしたからか、昨夜は有無を言わさず抱き潰したからか。降谷が家を出るときも彼は目を覚まさず爆睡していた。さすがにもう起きているだろうと玄関から真っ直ぐにリビングへ向かうと、レザーソファに深く凭れて読書をしている彼を見つけた。
 春の日差しを浴びた自分の妻が美しい。優雅にコーヒーを飲む仕草も、ぬいぐるみを抱え直してページを捲る指先まで。伏せられた瞼の薄い皮膚や、睫毛が作る影。高くはないけどすっと通った鼻梁。薄紅の桜色をした唇。浮き上がった首筋を下へと辿り、カッターシャツの襟に隠された所有印を思い出して、内なるマグマがざわめき出す。落ち着け、自分。と煩悩を振り払った。
「ただいま」
「 ん、……」
 黙々と。真剣なその様子から、今読んでいる話が佳境へと差し掛かっているらしい。こんな時は何を言っても無駄なので、エプロンを着けてキッチンへ向かった。さて、出来上がる頃には読了しているといいのだが。

 ごちそうさまの後は休日を満喫する。再びソファの定位置に収まった新一の隣で、降谷はさも今思い出したかのように口を開いた。
「そうだ。そういえば、新一くん。アレはどうした?」
「アレ?」
「届け出用紙。昨日は感極まって後回しにしちゃったけど、提出するなら二人で行かないと」
「……あ、あ〜、アレ」
 あれね……と、視線も合わせず読み終わったばかりの本をパラパラと無意味に捲る様子に、嫌な予感が湧き起こる。まさかこの子は、この後に及んで出し渋ろうとでもいうのか。
 何故か顔を赤らめ、うろうろと彷徨わせていた視線が降谷を向いた時、新一は両手を突き出して慌てた。
「えーとさ、一つの案として……いや、出す!ちゃんと出すぜ!?それはもう覚悟も決めたし決心もついてるって!」
 ――降谷のかっ開いた眼が一挙手一投足、一語一句逃してなるものかと血走っていたからだと、後に彼は語る。
 それはさておき。手にしたままの本で顔を隠して、新一がしどろもどろに伝えた想いを、降谷は一生忘れないと深く心に刻み付けた。
「き、記念日とか……俺、あんま気にしねぇタチなんだけどよ。でも、なんつーか、一生ものじゃん?別に毎年お祝いしたいとかじゃなく、ほらどっちも多忙な身だしさ。けど、零さん、どんだけ忙しくても俺の誕生日だけは必ず帰ってくるから、だから、」
 だから、と途切れたその先の言葉を、降谷は辛抱強く待った。
 察しろよ、と首まで真っ赤になった新一は本の端から覗かせた目で訴えてくる。だが降谷はそれに応えられない。ほんの少しでも頬の力を緩めるといろんなものが決壊しそうだった。
「あ〜、だから!今日よりだったら、俺の誕生日に合わせた方が、零さんも楽だし俺も嬉しさ二倍だし!覚えやすいし忘れにくいだろ!?年くってボケても、記念日が俺とあんたの誕生日の年二回だけなら思い出しやすいだろうしな……って、そこで泣くかフツー!?」
 新一の話の途中で堪えきれなくなり、咄嗟に背を向けて目頭を押さえた。戦慄く肩を撫でる手がどこまでも優しくて、たまらず嗚咽が漏れ出た。
「なぁ、れーさん」
「っ、……なに、」
「ハネムーン、どこ行きたいか考えとけよ。俺が連れてってやっから」
「ふっ、ふふ。男前過ぎやしないか?」
「昨日のはちょぉっとさすがにやりすぎたかなって」
「ワインもね」
「根に持ってんな……悪かったって」
 ぺしぺしと肩を叩く新一が、気を取り直して明るく問い掛けた。
「グアム?サモア?シンガポール……はあれだから、オーソドックスに温泉巡りか?」
「アメリカ領以外で頼む」
 ――君と行けるなら、どこにでも。宇宙旅行だって夢じゃないさ。

 降谷の真剣な返しに、新一が声を上げて笑った。

 


四月十三日(月) 決闘の日

 その昔、船島と呼ばれる地で二人の男が決闘に挑んだ。
 一人は剣豪と名高い宮本武蔵。対するは藩主お抱えの剣術指南役、佐々木小次郎。
 その戦いには諸説あり、宮本武蔵の作戦勝ちともはたまた藩の陰謀説であるとも挙げられている。
 ただ一つ言えるのは、互いに譲れぬものを守り、信念を貫き通したという事。
 勝敗の行方と共に掲げられたのは己らの生き様、矜持であった。

「――――だから、俺だって絶対に負けられねえんだよ」
「フッ……。それはこっちのセリフだよ。新一くん」
 現代の日本に於いて、決闘は法律で固く禁じられている。だからこれは、決闘ではない。
 ありふれた、どこの家庭でも見られる、些細な小競り合い。
「今日は寒かったから鍋!鍋一択!!できれば味噌鍋、にんにく増し増しの!」
「いいや、体を温めるなら生姜が一番。生姜の炊き込みご飯、豚汁、焼き魚!」
「一汁一菜でいいんだって!鍋とご飯で!零さんのリクエストは明日にしようぜ?今日は俺、鍋な腹なんだよ」
「君は単に楽をしたいだけだろ?僕が作るんだし、最終的な決定権は僕にある」
「カーッ、出た!ワンマン統治!独裁国家!」
「そこまでいうなら民主主義に則って、公平に決めようじゃないか」
 降谷の手が、『最初はグー』の構えを取る。だがそれを、新一は腕をクロスして大きく『✕』を書いた。
「零さんのジャンケンは最初に心理戦かましてくるからな。その舌戦だけで作る時間なくなっちまうだろ」
「……それもそうだな。なら、くじ引きにするか」
「そのクジに細工して、前に自分の希望押し通したのどこの誰でしたっけ!?」
「いやあ、あの時は笑えたね。千切った部分と折り目の向きでどれがどれだか判明できる。あのトリックを忘れていた君の落ち度だよ」
「ム・カ・ツ・ク〜!!」
 なまじ頭の良い者同士なだけに、『公正』からかけ離れていってしまう決闘方法に終わりは見えない。争点は最早『晩ごはんのメニュー』から『決着の付け方』に流れてしまっていた。
「つぅかよ、十二も年上なんだから、年長者として若い者に譲ってくれたっていいだろ」
「へぇー。君は、老い先短い中年男の数少ない楽しみを奪うというのか」
「あんたは銃弾の雨でも生き延びるタイプの人間だろ!?」

 かつて、宮本武蔵と佐々木小次郎は巌流島と後に呼ばれる小島で戦った。己の矜持にかけて。
 だが遅れてきたら駄目、手下に追い討ちさせたら駄目なんて細かいルールまでは話し合わなかった。決戦に於いては己の携える得物のみが全てであった。

「シーサーを同時に投げて早くキャッチした方」
「腕相撲で」
「れーさん有利だろそれじゃ!?ケータイ早打ち!」
「ここから1階まで階段ダッシュ!!」
 時間はどんどんと過ぎてゆく。カチ、コチ、と秒針は回る。長針がフルスイングまであと少し、というところで冷静になった二人が顔と時計を交互に見て「うどんにするか」と相打ちになるまで、この鍔迫り合いは続いたのだった。



四月十四日(火) 椅子の日

「ただいま」
「おかえりー。今日やけに早……」
 新一の視線が帰宅した降谷の全身をさっとひとなめするのは、人物観察が身に染み付いてしまっているいつもの癖だ。もちろん異変がある方が少なく、極々稀にスーツがよれてたり、何をどうしたのか髪の毛先が一部焦げていたりした時もあったけど。
 だからこそワイシャツの袖から覗く右手首の包帯に目敏く気付いた新一は、無言のまま目だけで問い掛けた。
『どうしたんだよ、これ』
 降谷は該当箇所に視線を落とし、それから肩を軽く竦めてみせた。
『たいしたことないさ』
 降谷の目と眉がそう語っている。
 だが、真一文字に結ばれた唇と頬の動きでわかる。これは、業腹なことがあったな、と。
 さて、仕事内容に絡むことであれば新一に出る幕はないのだが。怪我をしていない方の手を引いてリビングへ向かいながら、新一は思案する。口の堅いこの男から、どうやって情報を引き出そうか。直球でいくか、搦め手からいくか。降谷の機嫌次第、もしくは新一の話の振り次第で流れは変わってくる。他愛ない日常話をしながらも、相手の一挙手一投足を見逃すまいと脳はフル回転し始めた。

「なんか飲む?」
「焙じ茶がいいな」
「りょーかい」
 某自称大学院生ではないけれど、新一が晩ご飯を担当する時の献立は煮込み料理が専らで。なにせ切って煮ればいいだけなのだ。味付けと煮え具合さえ失敗しなければいいし、具はほとんど変わらなくてもカレーやシチュー、肉じゃがとバリエーションにも富んでいる。ちなみに今日は肉じゃがだ。
 あとは味が染み込むのを待つだけで、作らなければいけないものは味噌汁くらい。それも豆腐となめこなのですぐに仕上がる。
 そんな訳で、二人分の湯呑を持ってリビングへと突進するのに躊躇いも障害もない。降谷の分の湯呑を差し出し、それから自分も隣に座る。
「で?何があったよ?」
 ふうふうと手の中の湯呑に息を吹きかけ、揺れる水面を見つめたまま問い掛けた。
「……ちょっとヘマしただけさ」
 ほんのり苦味を混ぜた、自嘲の色濃い降谷の返事にも動じない。
 最初から素直に吐くとは思っていない。こちとら面倒くさい男の恋人を何年もやってきたんだ、という自負がある。
「捻挫?キズ?打ち身?」
「尋問スタイル?」
「質問に質問で返すなよな……。カツ丼はねえけど、肉じゃがならあるぜ」
 田舎で泣いているおふくろさんがいるかどうかはさておき、食後のデザートにと買ってきた苺ならある。
「肉じゃがか……。今、すごく揺らいだ」
「あとひと押し?」
「そうだね。君がここに乗って――」
 腿の上を軽く叩き、降谷はにやりと笑った。
「可愛くおねだりできたら、答えちゃうかもね」
 普段の新一なら絶対にしないことを、降谷が口にしたのは、成功率がもしかすると上がっているのではと読んだからだろう。
 だから新一も、その目論見に乗ってやることにした。
「いいぜ、可愛くおねだりしてやるよ」
 降谷の手から湯呑を奪いテーブルに置くと、よっこらせと背中を向けて前向きに跨った。
「え、」
 降谷の股間に尻を密着させると、背後でもぞりと居心地悪そうに身じろぐ気配。鼻で笑って、新一は背中を倒した。後ろ手に降谷の後頭部を掻き寄せる。
「れぇさん……」
「ン、ンンッ」
 取り繕った咳払いに声を出して笑いそうになったが、グッとこらえて演技続行。促されるまま降りてきた降谷の頭の、形のいい耳殻にリップ音を立てて囁いた。
「んで?『俺の』降谷零の、大事な右手に――怪我させたのは誰」
 最後の方、つい隠しきれずに漏れた怒気を、この人は『青い』と笑うだろうか。否、彼はきっと深い溜息を吐いて新一を強く抱き締めてこう言うだろう。
「――――勃った」
 内心天高く拳を振り上げての勝利宣言。だがそれはまだまだ隠しておきたい。隙きを見せれば逃げられる。
 ぐりぐりと、やや硬めになってきた棒状のものに尻の間を擦り付けて。降谷の右手を恭しく持ち上げて、手首にキスをして。
「なぁ、俺がそっちに忍び込んであちこちにいろんな仕掛けして情報収集してやってもいいんだぜ?」
「それは困るなぁ」
 はは、と乾いた笑いが零れて、降谷の肩から力が抜けた。
「全く、なんて子だ君は。脅しの仕方が可愛くない」
「るっせぇ。さっさと毒抜きしない零さんが悪い!」
「毒抜き、か。でもこれは半分は自分の手落ちというか……まぁ要するに、会議室のパイプ椅子に細工されていた悪戯に気付かず後ろに倒れた拍子に手首挟んでちょっと捻っただけだから、君が口出しする問題ではないよ」
 あの程度のものを上手く躱せなかったなんて、トシかなぁ、とボヤいた降谷を、新一は信じられないものを見る目で唖然として見ていた。
「はっ……?え、ちょい待ちどういうこった?」
「毎年この時期はほら、異動後でだいぶ周りと打ち解けたり、誰に付いたら得かとか見極め始めたり、こいつ蹴落として俺がその座に就いてやるとか色々あるだろう?」
「いやいやいや!国家公務員仕事しろよ!国防!」
「うーん、自称エリートの仕事は椅子取りゲームらしいからなぁ……」
 背もたれにしていたはずが、いつの間にか降谷が新一の背中におぶさっている。肩に乗った降谷の頭は地味に重いのだが、肩の骨に響く音が吐き出す『弱音』を大人しく黙って受け止めた。
「僕を目の敵にしてるオジサンたちは必死な訳。こんなイケメンで高身長の見た目ガイジンなハーフが、顔だけでなく地位まで美味しいトコ取りで、しかも工藤新一という優秀で最高に素晴らしいパートナーまで手にしているのがね。妬ましくてどうにかして遠くに飛ばすか放逐してやりたいのに、この男は立ち回りも上手ければ上からの覚えもめでたい。だから、」
「だから、手下を使って怪我を負わすような笑えない悪戯を仕掛けたってのか!?」
 勢いで振り向こうとする体を、後ろから抱きしめる形で降谷が阻止する。
「今回は会議の面子に息のかかった者がいないと油断していた僕の落ち度さ」
「は……ハァ!?なんっ、 なッ 」
 怒りのあまり、視界も脳もグラグラと茹だって言葉を上手く紡げない。それと対照的に降谷はさっぱりした風を装って、新一の頭をぽんぽんと叩いた。
「ありがとう、聞いてくれて」
「今度は俺がスッキリしねぇ……!」
「まあまあ。ほら肉じゃがも程よく味が染みた頃じゃないか?お味噌汁はまだなんだろう?具はわかめと豆腐?」
「なめこと豆腐!」
「僕が作っていいのかな」
「ダメ!俺が作っから、れーさんはフロ!」
 はいはい、とすっかり険の取れた調子で背中を宥めるように撫でられて。新一は自分の役割はここまでだと渋々了承して、降谷の上から降りた。
「そうだ、新一くん」
「あぁ?」
 残っていたぬるい焙じ茶を一気に飲み干して。キッチンに行こうとする後ろを呼び止められ振り向いた。
 ――ちゅ。
 唇で軽やかに跳ねる音がして。
「『おねだり』上手に出来たご褒美をあげるから。楽しみにしていてね」
 戻ったはずの血流が、また一気に上昇していく。
 濡れた唇はお茶のせいか、降谷のせいか。
 手の甲で乱暴に拭っても、収まらない動悸は怒りからくるものだと自分に言い聞かせても誤魔化されてはくれなくて。
 この先に待ち受ける甘いひとときを思うあまり味噌汁を沸騰させすぎて、このあと鍋にも降谷にも白い目で見られることになる。


[newpage]

四月十五日(水) 遺言の日

「お願いします、もう工藤さんしか頼れる方がいないのです」
 紋付きの喪服を身にまとった白髪の未亡人が、ハンカチを目に当てて項垂れる。傍らで弁護士が小さくなりながら「申し訳ありません……私が至らないばかりに」と頭を下げた。
 春をも越せぬと言われていた依頼人の夫は、桜の散華とともに亡くなったのだそうだ。穏やかな寝顔に手を合わせた後、応接間に通された新一はその依頼人――故人の妻である老女から一通の封筒を受け取った。
 ふむ、と顎に手を当てて、もう片手に持った紙に再度目を落とす。『遺言状』と仰々しく筆でしたためられたその紙は、ただの遺言状ではなかった。
「見事な暗号ですね……。故人はこういったものがご趣味でいらした?」
「いいえ、いいえ。推理小説すら読まないひとでしたの。生真面目といいますか、リアリストといいますか……。兎に角、読む本といったらノンフィクションでしたし、子どもと遊ぶのも苦手としておりましたから」
「そうですか……」
 自己流で作るタイプではないのだろう。とすると、軍などで使われている暗号の法則で調べた方がいいのかもしれない。
「そちら、コピーですのでお持ちいただいても構いません。今日はまだ弔問の方々がいらっしゃいますので……」
 一昨日亡くなったばかりの夫は大地主だった。死後、弁護士立会のもと公開された遺言状に親族はこぞって解読を試みたが、結局皆が匙を投げてしまい誰かが有名な探偵である工藤新一に頼もう、と提案したらしい。
「わかりました。ではこちら、頂戴していきますね」
 古今東西の暗号と照らし合わせれば、どれかとマッチするだろう。できれば故人の書斎などから傾向を読み取りたかったが、それはどうしても解けなかった時の参考としてもう一度訪ねればいい。
「解り次第、連絡いたします」
 久々の謎解きだ。新一の中に棲む『好奇心』がざわざわと波音を立てだした。


『――で、未だに解けないのが悔しくて事務所に寝泊まり確定、と』
「悔しかねえ!くっそー、どの暗号表にも掠らないなんて、そんなのアリか?」
 スマホをスピーカーモードにしてデスクの上に放ったまま、パソコンで検索するのに集中していた新一は、降谷の『くっそー、って……やっぱり悔しいんじゃないか』という呆れ声を聞き流した。
『ちゃんと腹に何か入れるんだぞ』
「この法則がおかしいんだよな……素人の作ったものにしてはちゃんと整合性もあるところが……いや、フェイクだとしたら、」
『やれやれ、聞いちゃいない。心配だなぁ、差入れ持っていこうか?』
「いや、いらねー。零さんも疲れてんだろ。風呂入って寝てろよ」
 聞こえてるじゃないか……というぼやきは無視した。ここできちんと拒否しておかないと、降谷は本当に差入れを持ってくるからだ。ついでにとそのまま解明に乗っかってきて、二人で夜更けまでああでもないこうでもないと議論を交わしたことすらある。
「いざとなりゃ実家の書斎で調べるし、零さんは家に居てろよ」
『うーん……。一人寝は寂しいんだけどなぁ』
「言ってろよ、ばーろー」
 いつもなら心揺らいだ降谷の誘い言葉も、生憎と謎の前では効果ゼロ。適当にいなして通話を終わらせると、両肩をごりごりと回した。
「おしッ。声聞いて元気出たし、頑張っかぁ!」
 絶対に今日中に帰ってやる、と鼻息荒く見上げた先の壁掛け時計は二十一時を指していた。


 そろりそろりと潜り込んだベッドは暖かく、新一がいつも寝るスペースなのに彼が直前までそこにいたのだと教えてくれる。
「……狸寝入りかよ?」
「寝たふりなんかしてないよ」
 背中を向けていた降谷が寝返りをうつ。その体の下に手を差し入れれば、当然ながら少しひんやりとしていた。
「れーさん」
「怒らないでよ」
 腕枕と、もう片方の腕が腰に回って抱き寄せられる。
「新一くんの体、冷えてる。……だから車で迎えに行ったのに」
「すぐ温まるから平気だって」
 密着するのに自分の腕が邪魔だな、とこんな時いつも思う。仕方なく下になった片腕は折り曲げて胸に寄せ、もう片方の上になった腕を降谷の背中に添わせた。下腹部から腰、それから脚を絡めて体温を感じる。ほう、と無意識に零れた息が擽ったかったのか、降谷の胸が少しだけ逃げるように捩れた。
 ふと。思いつきで腿をさらに降谷に密着させてみた。
「冷たっ!」
 男性の体の、恐らく一番体温の高い処。そこに未だ冷えたままの腿を下から当てると、降谷がピヤッと飛び上がった。
「だっは!っは、は――って、待て待っ!ちょ、バカ落ちるって!!」
 可笑しさに脱力した新一の体は、飛び起きた降谷の手によって転がされあっという間にベッドの縁へ。
「寒っ!寒いれーさん、ゴメン悪かったもうしないから!」
「絶対だぞ!?見ろよこんなに縮こまって可哀想じゃないか僕の分身が!」
 わざわざボクサーパンツのゴムを広げて見せてきた降谷に呆れた視線を投げつけた。
「……いや、それで縮んでるとかあんた喧嘩売ってるとしか」
「当社比で縮んだ!」
「あーもー、良い子いい子すりゃいい?」
「逆に元気になるかもしれないけどね」
 くつくつと笑い、じゃれ合いながら。二人元の場所に収まって、またぴたりとくっついて。鼓動を重ねて血の流れる音を聴く。生きている音は想像したよりも忙しなく、騒々しい。降谷の体の中にあるたくさんの器官が彼の生命を讃えていた。
 口を閉ざし耳を傾けて、そうすると室内は夜の静寂に包まれる。降谷も無言になり、何を思うのかただ新一の背中に触れ、額や頭部に音も無く口づけるのみ。
 その心地良さに誘われるように、新一はずっと抱えていた気持ちを吐き出した。
「零さんはさ……」
 うん。と相槌が返ってきて、また頭に降谷の鼻が触れる気配がした。
「遺書とかって、もしかして用意してたりする?」
 突飛な、不躾な質問だったと思う。
 新一が今日請け負った依頼の遺書には、故人の最後の願いが書かれていた。

 ――馬鹿みたいに真面目一辺倒で、家族への愛情は怠ったつもりはないが、面白味のない人間だと思われていただろう。大地主としてしっかりやろうと気負うあまりに、遊び心というものに憧れがありながらも終ぞそれを実行する勇気を持てなかった。
 自分が作った真面目というイメージの殻は、思ったよりも厚く堅かった。だから、こういった形で遺していこうと思う。
 自分が死んだら、遺産は法律に則って分配してくれ。それ以外の細々としたものは妻が決めてほしい。
 ここまで解読するのは骨が折れただろう。本当は、推理小説が大好きで、息子が子供の頃に読んでいた明智小五郎や、アガサ・クリスティなんかもこっそり読ませてもらっていた。一度、それをあの子に見つかってしまったのだが、覚えていないだろう。
 自分が死ぬまでどうして黙っていたのだと詰られるかもしれない。だが、どうしても不器用な自分というのは変えられなかった。
 生まれ変わるとしたら、自分はまた妻と出会い、結婚したいと思う。その時こそ、最初から本当の自分で逢いに行こう――――

 その他にもまぁ、熱烈な愛のメッセージが綴られていた訳だが。そこは人生の伴侶である彼女だけが知ればいいことだ。明日、新一は解読表を夫人に渡すつもりでいる。他人の自分が口頭で伝えるよりも、これは彼女自身に読み取って欲しいから。
 死者に唾を吐く気はさらさら無いが、それでも新一は思わずにはいられなかった。
「暗号化された遺言状なんて、長年連れ添った人を亡くして悲しみに昏れている時に、解けって言われて楽しく喜んでなんて解けるかよ……」
 俺は御免だぜ、そういうの。
 ため息混じりに吐き出すと、降谷の顔が見る見るうちに強張った。
「…………」
 どくどくと刻む心臓の音がワンテンポ早くなる。
 ――――おい。まさかな。
 新一が半目で睨みあげる。
「れーさん……」
「あー、その。まぁ、……寝ようか。明日も早いから」
「おい!ちょ、背中向けんなって」
「……ぐぅ」
「狸寝入りよりひでぇ演技すんな!」
 ごろんと反対側を向いて、毛布を頭から被ってしまった男の背中を叩き、揺すり。恐らく一番知られたくなかったであろう最大の秘密を成り行きで暴いてしまった新一だが、こればかりは譲れないと声を張り上げた。
「遺書でも遺言状でもなんでもいいけど、ちゃんとマトモなの書いてくれよ!?……謎さえ置いときゃ元気になると思ったら大間違いだからな!」
 長い長い沈黙の後、降谷は布団の中から応えを返した。
「不本意ではあるけど、明日直すよ」――――と。
 それが実行されたかどうかは、いつの日かまで降谷の胸の中に秘められたまま。



四月十六日(木) 少年よ、大志を抱け

 めらめらと燃える闘志を映した瞳が、真っ直ぐと新一を貫く。
「お願いします!新一さん、どうか……どうか僕に教えてください!!」
 その熱意に押されて、新一は反射で頷いた。頷いて、自問自答。

 ――つっても恋愛事なんて、俺、コイツの参考になんてなりようがねえんだけどよ……。

 思い詰めた表情で訪れた光彦を見て、これは何か悩んでるな、と。コーヒーと麦茶しかない事務所よりはと、ファミレスに連れて来たことを新一は後悔した。
 探偵のスキルでもなく、進路相談でもなく。
 かつてのクラスメートであり同じ釜の飯を食った仲間であった少年から持ち掛けられた依頼は、『恋』の悩み事相談。
 恋愛ポンコツ迷探偵として悪名高い新一の元に訪れた円谷光彦は、今年の春高校に進学してまさに青春真っ盛りの年頃で。それでも他の誰にも相談できないからと消去法で選んだことを悪びれもせず暴露した。
「だって元太になんか言ったら、その日のうちにあろう事か本人に言っちゃうじゃないですか。クラスメートぉ?ダメダメ!これ以上ライバルを増やしたくないんです。わかりますよね?この気持ち!」

 ――ねぇあれ、前に有名だった高校生探偵じゃない?
 ――うっそ、何年前だっけ。今もう大学卒業してるんじゃない。イケメンに育ったね〜。
 ――一緒の子、依頼人とかかな。なんか必死にお願いしてたよ。
 ――ねぇこれ見て。今さ、一般の人からの依頼は紹介状が無いと駄目なんだって。警察絡みの事件専門らしいよ?
 ――じゃああの子、無理ゲーじゃん。恋のお悩み相談ぽかったし。
 ――えぇ〜!じゃああたしも相談したい!今恋人募集してますかぁ?って!

 周りの目線が痛い。
 ……非常に、目立ってしまっている。
 新一だって、まさか恋愛相談をされるとは思ってもいなかった。進路とか、部活とか。友人関係での話ならどこでもとことん付き合ってやれるのだが。場所選びを間違えたな、と伝票を掴んで立ち上がる。
「新一さん?」
「場所、変えようぜ……。俺んとこ、コーヒーしかねえけど、いいか?なんか食いもんテイクアウトしてくか?」
 ――あーん、残念!くどしんの恋愛相談室聞きたかった〜!
 ――シッ、バカ、聴こえちゃうって。
 全部丸聞こえですよお嬢さん、と心の中でそっと返して差し上げた。

 結局振り出しに戻って、改めてコーヒーと頂き物の茶受け菓子を応接テーブルに出して。光彦は誰と比べているのか「こんなこともちゃんと出来るんですね……」と感心していたが。ああ?と半目で睨んでもどこ吹く風なのは、相変わらずのようで思わず苦笑が漏れる。
「で?おめーは相変わらずの片想いで、でも進学したら歩美のモテ度がハンパなくて焦っている、……と」
「呼び捨てにしないでください!」
「へぇへぇ……。歩美『ちゃん』、ね」
「そうなんです、歩美ちゃんは――」
 光彦はそれぞれの拳を膝の上でぎゅうと固めた。幼さの残った小さな手の面影はない。いつの間にか、いっぱしの『男』の拳になっていたことに、新一は目を見開く。
「中学の時だってそれなりに、モテました。でも小学校上がりがほとんどだったから、みんな知ってたんです。歩美ちゃんには特別に想う誰かがいるって」
「えっ」
 そうなのか!?と驚くと何故か物凄く睨まれた。
「だから新一さんはポンコツって言われるんですよ!……でも今年の三月終わりぐらいに会ったときに、歩美ちゃん言ってたんです。『歩美の片想いはもう終わり!高校に入ったら、新しい恋探さなくちゃ』って……」
 それはつまり。
「歩美、ちゃん――――失恋、した、……のか?」
 どこの誰だ。大事な仲間を泣かせたのは。
 呆然とする新一は、どこまでもポンコツでしかなくて。光彦が深い深い溜め息を吐き出して項垂れたその理由も、全く分からず焦りを覚える。
「もう、いいんですよそんな事は。それで、新一さんに聞きたいのはですね、あなたが今お付き合いされてる方との馴れ初めです」
「へぁ?」
 藪から棒な質問に対して気の抜けた新一の返事に、つり目をさらにキッとさせて、光彦はつばを飛ばした。
「あーんな強くて綺麗な蘭さんにフラレて、『もう二度と恋なんてしねぇ』なんて凹んでいた新一さんがですよ!結婚するくらいに惚れた人とどうやって出会って恋に落ちたのか!その人はどうやって新一さんを振り向かせたのか!惚気とかそういうのいらないんで、要点だけを聞かせてください!!」
「ま、待て……俺は別にそこまで凹んでねぇ……あと結婚って誰情報だ?」
「めっちゃ凹んでたじゃないですか!『蘭以上にいい女はこの世にいないから、きっと一生独身だな』なんて顔に陰差してウジウジしてたらしいじゃないですか!」
「だからどこの誰情報だよそれは!?」
 一部誇張されているそれを訂正するよりも先に、「そこはどうでもいいんです、それより振られた人を振り向かせる方法を!」と鬼気迫る光彦は、それだけ切羽詰まっているのだろう。いつの間にやら手にはお馴染みのメモ帳とペンを握りしめている。
「えぇ……。いや、つうかよ……」
 出会いはそもそも、新一がコナンだった頃にまで遡る。そしてそのお相手は、光彦も知る人物なのだ。当時はまだどちらにも恋愛感情は生まれていなかったとはいえ、コナンと安室を知る光彦にとっては少々複雑な気分になるのではないだろうか。下衆の勘繰りなんてことはないだろうけど、それでもやっぱり、正直に言うのは気が引けた。
「簡単に掻い摘んでしか言えねえぞ?――出会いは、探偵として追っていた事件を通じて……」
「告白はどっちから、っていうか、新一さんからは言わなそうですね。奥手だしカッコつけだし」
「うるせぇバーロー。そうだよ、あっちからだよ!」
「それですぐにOKの返事をしたんですか?その時既に新一さんもお相手の方の事、好きだったんですか?」
「これ完全に恋バナじゃねえかよ勘弁してくれ……。うーん、そん時はなんつーか、多分惚れてたんだとは思う。同じ男として、だけどな」
「――――えっ」
 ガリガリとペンを走らせていた光彦が、がばりと顔を上げた。言葉を失い目を丸くして、ぽかんとしたままの顔に昔の幼い面影を見出して、懐かしく笑った。
「言ってなかったっけ?俺の恋人――っつうか、婚約者?来月に籍入れんだけど、相手は男だって」
 きいてませんよ、と呟く光彦の瞳に嫌悪や侮蔑の色が無いことに安堵して。本当は少し、怖かったのかもしれない。仲間だった少年たちに軽蔑され、避けられてしまうのが。
「まぁ、そんな訳であんまり参考になんないと思うぜ?恋だの愛だのなんて、人それぞれに形や色が違うもんだしな。蘭の事は今でも世界で一番大切だと思ってるよ。でもそれは、もう恋心じゃないんだ。……違いが分かるようになったのは、俺があの人に確かな愛情を感じるようになってからだけどな」
 だから偉っそうな口きける立場でもねえんだよ、悪いけど。と笑って誤魔化そうとして、新一はぎょっとした。
「えぇ……、な、なんで涙ぐんでんだよオメー」
「ぼっ、僕は!歩美ちゃんを泣かせた事は許せませんけど、でもコっ……新一さんも色々と経験して大人になったんだなって。なんか感動しました!」
「ハハ……そりゃドーモ」
「僕、頑張ります!人に頼らず、自分の力で、歩美ちゃんを振り向かせてみせます!!」
 力強く拳を震わせて、宣誓した後光彦は直角のお辞儀をして帰っていった――まさに嵐のように。過ぎ去っていったあとに残されていたのは、噛み砕けないもやもや感だけ。
「えーと?歩美ちゃん泣かせたの、俺……かよ?」
 どういうことだよ、と脱力して枯れた声だけが静けさの戻った事務所にぽつんと零れた。


「ふぅん……。それで、君の恋愛武勇伝は語られる事なく、参考にもされずじまいで」
「っそ!しかも最後の最後に爆弾まで投下していきやがって」
 いつもの食後のソファタイム、本日は新一のややご機嫌斜めの理由が話題となった。降谷に似たシーサーを抱き込んで、そこに顎を乗せてぶすくれる。そんなところもまた可愛いと思われているのにも気付かず、新一はぼやき続けた。
「歩美の好きな奴が俺だったって?光彦のやつ、デタラメ言ってんじゃねぇぞ……」
「――え?」
 降谷が信じられないものを見る目で、新一を凝視してきた。
「零さんも、俄には信じがたいよな。歩美の失恋相手、俺なワケないって――」
「嘘だろう。君、きみ……」

 ポンコツにも程がある。

 降谷が放った一言は、奇跡的に新一の直感を刺激して、真実へと正しく導いた。
 え、と半笑いで固まった新一の顔色が、赤くなり、そして青くなる。うそだろ、と声に出ないまま形取られた唇。思い返すこと八年前、そこからの数々の言動を可能な限りほじくり返して、彼女の言動の端々に秘められた想いの矛先を、新一はようやく自覚した。
「てっきり君は、あの子の気持ちを憧れのお兄さんに向けるいっときの熱病みたいなものだと思って受け止めているものだとばかり」
「いや……つうか……。気付くかよ普通……十も離れてんのによ……」
 そういや先月、付き合ってる人にサプライズ仕掛けたいとか言って歩美にお弁当の本を貸してもらった。そこには宮野もいて、愛妻弁当だなんだとからかわれもした。思い出せば思い出すほど、歩美に対してのあまりにも残酷な仕打ちに穴を掘って埋まりたくなる。
「年の差は関係ないだろう?」
 降谷の一言が最後の追い打ちとなって、新一を自己嫌悪の海の底に沈めた。
「えぇ……。いつからだ?コナンの時からか?」
「そうだね。傍目で見ても分かるくらいに、あの子は君に惚れていたよ」
「そ、そっかぁ……」
「聡明な彼女の事だから、君が『私立探偵やってる元ポアロの店員のお兄さん』と未だに繋がりがあることも、その『只者じゃないお兄さん』のことも、『君が恋人に選んだ人』のことも。気付いているんじゃないかな?」
 それだけの月日を、君はあの子達と過ごしてきたのだから。
 そう言われてしまうと、そんな気もしてくる。仮にも少年探偵団を名乗っていた子どもたちだ。今や十五歳。今年で十六歳か。
 ガキだ子どもだと思っていたけれど、いつの間にかあの子達と出会った当時の自分の年齢に近付いていた。それでもやっぱり、まだ可愛く幼い少年少女たちだ。寄せられる思慕には、どうしたって応えてやれそうにない。
 そう考えると、新一の横で恋人の百面相を楽しげに見つめるこの男が自分に恋をしたのが、どうにも不可解で不可思議であり、難解な謎に思えてきてしようがない。だが恋とは得てしてそういうものだから、降谷が新一に惚れた理由も、新一が降谷に絆されたわけも。歩美がコナンへの幼い初恋を新一への恋慕に育て、自ら断ち切った思いも。言葉や理屈では言い表せない感情の揺らぎは、十人十色でそこかしこに存在するものだから。
 解き明かせない謎は、きっとこの先も永遠に付き纏うのだろう。自分たちで出した答えに納得し、受け入れるまで。生きている限り悩み抜く命題。
「悩める青少年の顔だね」
 明らかにこの状況を楽しんでいる態度を無言で睨んで責めると、降谷はあからさまに他人事だと言わんばかりに肩を竦めてこう続けられた。
「吉田さんには悪いけど、円谷少年にはもっと頑張ってもらわないとな」
「……なんで?」
「だって、君。考えてもみなよ。蘭さんという唯一神である女神がいたのに諦めきれずにいた、僕と歩美ちゃんと。君に恋する期間はほぼ一緒。ここで僕がうっかり一瞬でも手綱を緩めようものなら、あの子は狙い定めて君を奪いに来るだろうさ」
「んな、人をジャッカルみたいに……」
「恋は弱肉強食だと云うだろう」
 ――だから君は、僕が一瞬でも余所見しないように繋いでいて。
 なんともちぐはぐな台詞を吐いて、降谷は新一に口付けた。
「言ってることが支離滅裂なんですけど」
「いいや?君が僕を繋ぎ留めている間は、君は僕の事しか見ていないし考えていない。他の誰かのアピールなんか、眼中になくなるというワケさ」
 井の中の蛙は、大海を知らず。青天だけを見上げていろと、悪い大人の顔でうっそり嗤って爪を研ぐ。
 面倒くさい男だなぁ、と呆れ笑いをしながらも、新一は大人しくされるがままに唇を差し出して。
「いいぜ?俺にメロメロな零さんならいつでも大歓迎」
 毎日誘惑してやるという言葉は紡がれないまま、丸呑みされてしまった。



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