四季折々に想う。二 4月

四月七日(火) 労務管理の日

 朝、ロードワークから帰ってきたら恋人は既に家を出た後だった。
 昨夜は非常にご立腹のまま床に就いたので、もしかしたらまだ怒っているのかもしれない――ほんの少し顔を覗かせた後悔は、ダイニングのテーブルにラップをかけて並んだ朝食と、その脇にちょこんと置いてあるランチバッグを見た途端にすっこんだ。
 ここ最近、新一は早朝に家を出ていく。抱えている案件が何か、降谷はまだ知らない。けれどもおそらく順調に進んではいるのだろう。彼の表情を見れば分かる事で、だから特に心配はしていない。
 毎日顔を合わせているから、切羽詰まった時にはそれがすぐ分かる。何故なら新一は家ではとても、とても感情表現が豊かだからだ。嬉しいことがあれば飛んできて話してくれる。怒っていると足音に表れる。悲しい時は寝室に一人閉じこもるし、笑い声は聞いてるこっちまでつられて元気になれるほど。
 同棲を始めたばかりの頃は、お互いなんとなくカッコつけたような姿勢でいたのに、気付けば毎日がカラフルに彩られていた。それも全部、新一がいてくれたからだ。彼がいるだけで、雨の日だって家の中は陽だまりになるし、寒い夜も心に灯る火が胸を暖めてくれる。
 ごちそうさまと、食器を片付けてランチバッグと鞄を小脇に抱え、シーサー達をひと撫でしてから家を出る。玄関ドアを開ける前に振り返って、小声でそっと呟いた。いってきます。新一が歯を見せて笑う。がんばれよ、れーさん。ああ、と心の中で返事をして、ドアを開けた。
 さぁ、今日も一日、この国を守るために戦うのだ。

 朝から気合充分に仕事を熟し、十四時を回る頃、愛妻弁当でチャージしたエネルギーで会議や調整、時には外に出てほうぼうから情報を収集する。夕方は十八時からラストスパートをかけて明日の予定や部下の動向に指示出しをする。彼らが帰った後にも調べ物や気になる点をピックアップしていると既に時刻は二十一時を過ぎていた。
 くぅ、と切なく鳴くお腹をさする。
「……帰るか」
 もう一度、一通り確認してパソコンを落とした。私物の携帯には何も連絡が来ていない。こういう場合、新一は仕事にかかりきりな事が殆どだから。
「今日も寂しく一人飯か」
 愛車に乗り込みセルを回し。唸る音に被せた独り言は、自分の耳にも届くことなく掻き消された。

 玄関を開けて、朝と同じようにただいま、と口の中で呟く。しんとした廊下に、施錠の音が大きく響いた。ちらりと見遣った腕時計は二十二時三十七分。
 珍しい、と思いながらもここ数日の新一のスケジュールを思い起こす。朝五時から六時の間に出勤、帰宅はまちまちだが二十時以降になる日が多い。というか、平日はほぼそれだ。
 先月はどうだったろうか、と振り返ろうとしても自分が年度末で缶詰な毎日だったから、新一の生活リズムにまで気が回っていなかった。
 ――そういえば。
 あの子の躰を貪るのに夢中で違和感を放置していたが。なんとなく肉付きが薄くなっていたような気が、しなくもない。
「これは……重大な問題では?」
 降谷はシャワーを浴びようと緩めていたネクタイから指を外し、そのままどっかりとソファに座り、携帯を弄りながら新一の帰宅を待つことにした。
 
 新一が帰宅したのは、それから間もなくの事。時計は二十三時半を指していた。
「た……ただいま」
 リビングに姿を見せた新一の顔には、くっきりはっきりと疲労の色が滲んでいた。降谷の眉がくっと寄り、目が厳しくなる。
「新一くん、君ね」
 自分の事は棚上げにして、早朝から深夜まで仕事に駆けずり回る相手を説教しようと口を開いた――が。
「ち、ちょ、タンマ……俺いま、めま……」
 へなへな、ぺしゃん。
 床に溶け落ちた新一を見て、血の気が一気に下がった。
「新一!」
 慌てて抱き起こし、ソファに横たえる。――やはり、軽くなった気がする。こうなるまで彼の不摂生に気付けなかった自分に腹が立ち、舌打ちをした。
「情けねーな、おれ……」
「馬鹿、喋らなくていい!今、宮野さんに連絡を」
「え?は、いやいやいや!そんな重症じゃねぇしっ」
 飛び起きようとする体をソファに縫い止める。足元の獅子が弾みで転がり落ちた。だが今はそんなのに構っていられない。彼女はまだ余裕で起きている時間帯だ。夜間の割増報酬に怯えなくもないが、新一の体が一番大事なのだ。
 片腕と足だけで押さえつけて、片手で携帯を操作する。11桁の番号を素早く直打ちしている間も新一は全身で藻掻いていた。
「新一くん、暴れないでくれ打ちにくい」
「だぁから!人の、話をッ」

――――ぐぅ、ぎゅるるるるるるるる

 盛大な音が鳴り響いた。
 なんとも形容し難いその切なくも自己主張の激しい音は、誰しもが「ああ、物凄くお腹が減ってるんだな」という感想しか抱けないほど切羽詰まった感を孕んでいて、つまりは。
「俺に今必要なのは宮野の説教と点滴なんかじゃねぇ……」
 零さん、腹減った。
 弱々しく落とされた言葉に、降谷はその上から飛び退いてキッチンへと猛ダッシュした。背後で新一の「飢え死にすんじゃねぇかって顔しやがって」というぼやきも耳には届かなかった。

 消化の良い物を、と手早く作った卵とじうどんを啜らせている間に、冷蔵庫から脂肪の少ない物をピックアップして怒涛の速さで調理していく。ピークタイムのポアロさながら、無駄な動き一つなく先々を読んでの手裁き、動き。これならあの店にいつでも復帰できそうだ、なんて思ってみたりして。
 追加で持っていく頃に、ちょうど最後の一本をちゅるんと食べた新一が顔を上げて目を輝かせた。
「マジで零さん後光差してる……」
 拝むな、と額を小突いて向かいに座る。
「ここにデスクライトがあれば完璧なんだけどね」
「げ。事情聴取かよ」
「いや、それは明日にしよう」
 もりもりと箸を休めることなく次々と料理が口に運ばれていく。一体どれだけの時間、飲まず食わずでいたのか。その手を止めさせてまで、こうなった経緯を聞こうとは思わない。いや、今だけは思わないでおいてやる。
「僕からの有り難い訓示だ。食べながら聞き給え」
 うへぇ、という表情に、にこやかに笑って返す。
「まず、探偵というのは知力体力が備わっていなければならない。安楽椅子探偵ならば体力は二の次三の次かもしれないけど――――」
 体力を付けるためには、適切な食事と、運動。そして睡眠。健康であることがまず大前提。それから、探偵業が忙しいのは仕方がない。君は腕の確かな探偵として有名だから。でも、だからこそ多忙なときは家事を疎かにしてしまっても構わないと。そう前々から言っていたのに、君はこのところマメにお弁当も朝食も作っていた。それでは休まらないのは当然だ。その分を睡眠に充てるべきだった。
「おまけに週末は二日連続で真夜中までセックスなんかもして。君は馬鹿なのか?体力消耗ばかりして、自分の体調管理、労務管理も出来ないようじゃ――」
「セックス『なんか』じゃねー」
 ぼそり、と落とされた言葉に、滔々と語る声が途切れる。
「……反論があるなら聞こうか」
 腕を組み、後ろにもたれ掛かる。ひたりと見据えた先、新一は空いた皿を重ねながら、ムスッとして視線も合わせない。
「朝早く起きて、依頼の件の調査して、夜遅く帰ってきて。今日は帰ってきてるかな、って毎日地下駐通って。三月は後半ずっとそんな毎日で、たまに帰ってきても爆睡してるの起こすなんてできねーし」
 ごちそうさまでした、と手を合わせる新一に、おそまつさま、と条件反射で返した。
「四月は通常通りだって聞いたら、嬉しくなるだろ?でも俺も仕事で晩メシ一緒に食べれなさそうだし、だったら朝メシか弁当くらいは、って思うだろ。零さんが俺の作った弁当で元気が出るなら、こんくらい無茶でも無理でもなんでもねえって、そう思ってたんだよ」
「そうか、なら明日からは朝食も弁当も作らなくていい」
「――人の話は最後まで聞けよ!」
 真剣な声色に息が止まる。
「だから、久しぶりのあんたの休みに、俺がしたかったんだよ!めちゃくちゃヤりたかったから、零さんといっぱいキ、キスしたかったから! それを、『なんか』で蹴飛ばされて、……あんたはちっとも寂しくなんかなかったのかよ!?」
 がたん!と音を立てて勢いよく立ち上がり、食器をガチャガチャとキッチンへと足音荒く持っていく姿を、唖然として見送った。
「抱えてた案件は今日でケース·クローズド!明日は臨時休業!けど俺はもう寝る!零さんもさっさと風呂入って寝ろよ明日も仕事だろ――」
 全身で怒りを表す新一を、背後から抱きしめた。シンクで危うい音がしたが、振り向きかけた顎を捉えて、叱られる前に唇で塞ぐ。腕の中で突っぱねても、足で脛を蹴られても。決して離してやるもんかと強める抱擁。
「んんーーーーッ!んっ!れえさ、むっ」
 性懲りもなく舌を潜り込ませて絡め、上顎も舌の裏側も、歯茎と歯の境目も。食べたものの味だとか、歯の間に挟まってたささみとか。そんな諸々全て掻っ攫って飲み込んで、更に新一の薄く柔い舌を吸い上げて。
「  っは、ぁう……」
 至近距離で見た新一の目尻に滲むものに、ついに理性が霧散した。完敗宣言。本当は自分だってとても寂しかった。今日たったの一日でこうなんだから、ひと月の半分を独りで過ごした新一はきっともっと寂しかった。それでも何も言わずに待っていて、疲れよりも降谷を求めてくれたのが嬉しくて。
 疲労困憊になるまで働き続けた新一に説教しておきながら、この体たらく。もちろん最後までするつもりはない。……ない、けれど。
 お互いの集まった熱が触れ合って、擦れて、気持ちが良くて。
 押し退けようと頑張っていた筈の手が背中に回されたところで、降谷は了承の意と取り、掻き集めた理性で愛しい身体を寝室へと引き摺り込んだ。



四月八日(水) ヴィーナスの日 

「零さんのバカ、アホ、色情狂、ドスケベ、変態、垂れ目、童顔。――ああくそ、やっぱ零さんの作るメシの方がうめぇや」
 朝……というよりも、もう昼に近い時間帯。ふらふらの重たい体を引き摺って、ソファで少しだけ休めて体力回復を待った後、這う這うの体で冷蔵庫に辿り着き。メールで来ていた通りに中から朝食兼昼食のおかずと、炊飯ジャーから山盛りのご飯をよそって。
 ダイニングの椅子に座るのもしんどくて、リビングのローテーブルにトレーを置くとクッションをかき集めてそこに座った。
 恋は盲目、とは良く謂うが。あんな自分勝手な男でも嫌いになれないのが怖い。
 人の話は聞かない、掌で転がしてる感のある喋り方、たまに噛み合わないジェネレーションギャップ、自分に都合の悪い事があるとキスやセックスで誤魔化そうとする。あと思考回路がとてつもなく面倒くさい。
 なんであんな奴好きになったんだろ……と遠い目をしてみても、こういうのは理屈じゃないのだ。見た目?性格?ハート?外見だけなら、降谷はさぞかしモテるだろう。黙って突っ立ってるだけで耳目を集めるのだから、外出時新一はいつもドーベルマンな気持ちになる。中身はアレだし時々喧嘩上等になるしで、素行に難ありですよ。こんなん制御できるの俺くらいですよと。
 そこまで思い至って、昨日の出来事の結末にやっと納得がいった。
「秀吉さんと俺、こういうとこ似てるのかもな……」

 そもそもの始まりは、三月中旬にまで遡る。
 羽田秀吉から連絡があり、彼の愛妻にどうやらストーカーが付いているらしいと。探偵として正式に依頼をされた新一は、二人の愛の巣へと赴いたのだが。
 呼ばれて行けば、夫婦喧嘩の真っ最中。どうやら被害者本人である由美は新一に依頼したのをさっき聞かされたばかりらしく、「そんなん必要ないって言ってるでしょ!」と夫に対して十字固めをキメていた。
 及び腰になる新一に、さっさと主導権を握った由美が提案したのは、「チュウ吉だからナメられるのよ、イケメンの工藤くん連れて歩けば相手も引き下がるでしょ!有名人だし!」というなんとも安直な策で。どちらかというと、秀吉の方が遥かに著名人なのだが、彼女の中では新一に軍配が上がった。
 だがしかし実際に腕を組んでデートの振りをしてみたら、後日隠し撮りの写真と共に「弟さんも可愛いねぇ。一緒に三人で暮らそうか」というメッセージが添えられていた。なんでだ。
 そのうち飽きるわよ、と護衛もストーカー割り出しも投げやりな由美に、秀吉は涙目で縋るのみ。
 作戦変更。顔がばれている新一は変装をしてこっそり由美の出勤退勤時に張り付くことにした。彼女が外回りの時も、これまた密かに制服に付けたGPS発信機で後を追う。これで彼女の周りにいるであろう不審人物を見つければ、解決は容易いと思っていたのだ。
 だが、前回の作戦で警戒されてしまったのか、相手が沈黙してしまった。それでもストーカー行為は続いているかもしれないと、秀吉が対局や勉強会、仕事等ある日を除いて、新一はひたすら待ち続けた。そしてやっと、昨日その男を捕まえたのだ。
 安堵したのも束の間、男は暴れてシラを切るどころか、やれ彼女のに相応しいのは僕だ、だの彼女こそ地上に舞い降りた天使、ヴィーナスだ、だの。それこそコナンの時から由美の素行を知っていた新一にとって正気を疑うような美辞麗句のオンパレードに、精神がゴリゴリと削られた。
 見た目は確かに美人だろう。だが中身はおっさんだぞ。警視庁内の合コンを統括していたような人だぞ。今は違うけど!ヴィーナスというより姐御と言ったほうが近いんじゃねえのかと一人悶々していたら、駆け付けた秀吉が声高に叫んだ。
「ゆみタンを女神と崇めていいのは僕だけだ!」
 ――怒るポイントそこかよ!?
 もう何もかもがアホらしくなって、警察に引き渡してさっさと帰ろうとした新一は何故か由美に引き留められた。
「ずーーっと張り込みしてたんだって?人のプライバシー勝手に覗き見しやがって、分かってんでしょーね、工藤くん」
 昼食を摂りそこねたまま捕物が始まり、事情聴取を終えたのが夕暮れ時。そこから雀荘に引き摺り込まれて由美の憂さ晴らしに付き合い、夜も遅い頃、閉店までと粘る由美を説き伏せて。やっとで開放されて帰宅した。

 ホントになんであんなのがいいのだろう、と真面目に思うのだけど、確かに彼女にも良いところはある。それに、心底惚れている秀吉にしか解らない魅力もあるのだろう――――多分。きっと。あるに違いない。
 ヴィーナス。愛と美の女神。世の中の男たちは大半がそこに理想を求めるのだろう。
 新一の理想は、かつては蘭だった。愛と美と、さらに強さを兼ね備えた女神。全身全霊で守ると誓ったひと。それは今も変わらない。新一にとっての明けの明星。
「でも、今は……」
 今は、降谷が新一にとっての唯一無二だ。
 神様みたいに崇める対象にはならない。ならないけども、目に見えなくても確かにそこにある、新一の心を揺さぶるものを持つ人。
 そう、降谷だけなのだ。新一を貪欲にさせるのは。世界は美しいものばかりではないという現実を肯定し、それでも世界は美しいのだと囁いて、新一の心を白く塗り替えるのも。深く繋がった心をさらけ出す毎に現れる、愛憐だけでなく毛羽立つ苛立ちという生々しい感情を持て余し胸を苦しくさせるのも。
 新一を人間たらしめるのは、数多の中でも彼だけだから。うっかりすると人の世の理を無視して野放図になりそうになる己を、降谷は法という鎖で縛り付けてくれる。
 自分がそんなことを考えているなんて、降谷は思いもよらないだろう。集中するあまりエッジのぎりぎりを駆け出す新一の半歩後ろで、時には並走し、また時には半歩先を行く彼の視界に映るのは、ただただ危なっかしい年下の恋人の姿だろうから。
 だがそれでいい、と自己完結をして、両手を合わせた。

「ごちそーさまでしたっ」



四月九日(木) 美術展の日、くじらの日

「へぇー……。これが、例の絵画ですか」
 首を大きく上向けて見上げたのは、縦八メートル、横十五メートルにも及ぶ巨大な絵。
 そこには、海面から射す日の光を浴びて悠々と泳ぐ鯨の姿が描かれていた。
 正直なところ絵心を持ち合わせていない新一にはこの絵の素晴らしさなんてこれっぽっちも分からないのだが、無難に「素晴らしいですね」と返すだけの社交性はある。
 後ろでそれを見守っていた支配人が、「ええ、今回の展覧会の目玉でして」と頷く。他にもご覧になりますか?という誘いを、新一は手と会釈でやんわり断った。……立ったまま眠れそうだったので。
 この美術館の支配人からの依頼があったのは昨日の午後のこと。怪盗キッドからの予告状があり、なんとしても阻止して欲しいという話に、新一は首を傾げた。あの男が狙うのはビッグジュエル。それが嵌め込まれている訳でもない、只の絵を盗むのか?と。
 警察に相談しては?という新一の勧めにも、既に相談済でこれまでの動向からその予告状は偽物であると決めつけられたのだと憤慨するその男性に、さもありなんと内心深く同意する。そして見せてもらった予告状は確かに、偽物だった。
「愉快犯か、模倣犯か。予告の暗号が示しているのは今日の深夜零時。……この暗号も、キッドが作ったにしてはお粗末過ぎますね」
 カードを返すと、支配人は目に見えてがっかりした。
「すぐに偽物と分かるものなのですか?」
「ええ。といっても、キッドを追い続けていた警視庁の捜査二課か僕くらいでしょう、気付けるのは。確かに手が込んでいますが、作り方の傾向が違います」
 それはさておいて、偽物だと即指摘した時の支配人の一瞬の動揺が少しばかり気になった。もう少し探りを入れるべきか、と思案する。
「念の為、僕が今夜こちらに張り込みます。一人では心もとないので、応援を呼んでも構いませんね?」
「え……いや、しかし」
「ああ、大袈裟にしたくないのでしたね。ご安心下さい。少数精鋭、連れてくるのは一人だけですから」
「まあそれなら……」
 渋々といった感じで了承したのを受けて、新一はもう一度、にっこりと微笑んだ。笑顔でゴリ押し。この手のタイプの人間は、小さな条件だからと提示して笑顔で押し通せ。新一は安室透からそれを学んだ。


「――で、なぁんであんたが来るんだよ!?」
 時刻は二十三時。偽物怪盗キッドが現れるまで、あと一時間。
 三十分前、待ち合わせの場所に「遅れてごめんね」と登場したのは新一が呼んでもいなければ相談すらしていない人だった。
「彼は急にデートの予定が入ってしまってね。まぁいいじゃないか。依頼主には誰が来るとも教えてないんだろう?」
「ハァ?デートぉ?――ったく、こんな時に何考えてやがんだ、アイツ」
 ブチブチと文句を垂れる、黒一色の服に身を包んだ新一の隣に立つのは、これまた黒い服に黒い帽子をかぶった男。肌まで浅黒いから、気配を消せば容易く闇に溶け込めそうだ。
「つーか、兼業禁止だろ。公務員。報酬は出ねーぜ」
 パーカーのフードを上げて帽子の上にかぶせ、隠せていない後ろ髪を隠してやると男はにっこりと微笑んだ。
「うん。ありがとう、新一くん。僕は直接手出ししないし、ちょっとフォローするくらいだから」
「わぁったよ、わかりましたよ!……ちぇ、その顔は反則だろ」
 さすが、元祖というべきか。降谷のゴリ押しスマイルに抗えない新一は諦めて肩を落とした。さっさと解決して、家に帰ろう。今夜はどうにも嫌な予感がする。こういう時の新一の直感はよく当たるのだ。
 ――そして予想通り。
 地味にかたを付けるつもりでいたのに、本物の怪盗キッドが現れて呆れ返った新一とは反対に混乱した支配人がボロを出し。実はその男は密かに公安からマークされていた……と。
 報酬は出ませんよ、と言っておきながらその実自分もタダ働きだった時の虚無感。
 『敵を欺くにはまず味方から。』まさか自分が欺かれていたなんてな、と面白くない気分のまま一人家路についた。今回裏で糸を引いていた公安の男はそのまま処理のため本庁へ、立役者だった奇術師もいつの間にか姿を消していた。
 ――非常に。ひっじょおおに、面白くない。
 あの場で、主人公は本来ならば自分だった。それを全て掻っ攫われて実入りはゼロ。終電もない時間帯、タクシーで帰り着けば日付が変わったどころか夜明けまであと数時間という。
 むしゃくしゃした気分のまま、冷蔵庫を開けた。降谷が新一と食べようと楽しみにしていたバスク風チーズケーキ、残り僅かのセロリの浅漬を掻っ攫う。続けて缶ビールに伸びかけていた手を止めて、引っ込めた。
「マジあったまきたからな、俺は!」
 食器棚の下段の奥、年代物のスコッチウィスキーを避けて更にその後ろ。お高そうなデザインの縦長の箱に手を伸ばす。
 中から出したワインのラベルには、新一の生まれ年が刻印されていた。
「……俺をコケにした零さんがわるい」
 封を切るのに躊躇いはなかった。



四月十日(金) 駅弁の日

 午後になって、二日酔いと諸々の諸事情でげっそりとしながらも、昨日自分を嵌めやがった男たちの片割れをファミレスに呼び出して文句を付けた。黒羽は悪びれもせず、「悪ぃ悪い、」と軽く謝って注文伝票を引き寄せただけ。
 オメーのせいで俺は起き抜けに酷い頭痛を抱えたままあの人から懇懇と説教を受ける羽目になったんだ。これは紛う事なきDVだ。籍を入れたら開けようと彼が密かに用意していた、二十五年ものワインをたかだか飲み干したくらいで。
 そうブチブチと零すと、向かいでパフェを攻略しようとしていた黒羽が目をひん剥いた。
「えっ!?めーたんてー、結婚してねぇの!?」
「いつ俺が結婚したって言ったよ」
「あぁ……?確かに。聞いてないな。けど、去年プロポーズされたんだろ?指輪貰ったって言ってたじゃねぇか!」
「……」
「え、まさか」
「プロポーズは、受けた。指輪も受け取った」
「戸籍を入れてない状態ってことか」
「ああ。そーいうこと」
 ドリンクバーにパシらせて持ってこさせた烏龍茶をストローでちびちびと飲む。脳内に溜まったどろどろしたものが洗い流される感覚に、はぁ、と僅かに酒精の残ったため息を吐き出した。
「……いざ、養子縁組の届け出を書こうとした時に――」
 テーブルの上の、グラスに添えていた手を広げて見下ろす。目に見えている細かな傷跡、目には映らない傷跡。大小様々な傷が刻み付けられている自分の手のひらは、あの人に比べたら綺麗な方かもしれない。けど。
「なんか、あの人の人生も背負う覚悟が出来てるのかって自問自答しだしたら……よ」
 土壇場で止まってしまった新一の手を、降谷は優しく包んでペンを取り上げて言ったのだ。
『今すぐに、じゃなくていい。でもできたら、君の誕生日までには決めてほしいかな』
 まだ二十五年しか生きていない、君なりに抱える思いもあるだろう。愛や想いだけで答えを出せる問題でもない――と。
 彼の手によって攫われた届け出は、彼の自室、デスクの引き出しに大切に仕舞われている。
 ほぁあ、と気の抜けた声を出して頬杖を付く黒羽がメニュー表に手を伸ばす。
「まぁその気持ち、解らなくもねーけど」
「おいおい、まだ食べんのかよ?見てるだけで胸焼けしてくんだけど……」
「俺が払うんだからいいだろ別に。つぅか、だから昨日あんだけピリピリしてたのか。以前あった『オトナの余裕』ってやつが全然無かったしなぁ」
 いつ誰に獲られるかと安心できねぇんだから、しゃーないな、うんうん。と一人納得しているが、全く話が見えてこない。
「まぁとにかく、昨夜のアレについての全責任はそちらの愛しのダンナ様にあるんで。俺は一応言ったんだぜ?『その作戦、奥さんにも伝えたほうが良くないっすか?』ってね」
「油注いだのテメーじゃねぇか!」
 店員が運んできたアッフォガートに顔を輝かせた黒羽の目の前でそれを掻っ攫い、エスプレッソをかけて二口で食べきってやった。
「あぁあ!」
「っかーー……頭、痛ぇ」
 つきんと突き刺さる痛みに顔をしかめる。追い打ちをかけるようにぎゃいぎゃいと喚き立てる黒羽に、片手を振っていなして立ち上がった。
 さり気なく掴んだ伝票をピラピラさせて、
「昨日はそもそも俺が助っ人依頼したのは確かだし?無報酬も悪いんでここは奢ってやるよ」
良い所を見せたつもりだったのに、直後に黒羽が放った一言に新一の機嫌は一気に地の底へと急降下した。
「それならもう貰ってるぜ?金一封。『ぜひ受け取ってくれ。君は友情で来てくれたつもりだろうけど、僕が関わったからにはそうはいかない』ってな。これで愛しの奥様に美味いメシ食わせてご機嫌取りよろしく。ってとこだろうぜ、どうせ」
 声真似で再生されたことで浮かんだのはその時に浮かべていたであろう彼の生真面目な表情。言葉を失い、わなわなと立ち尽くしている間に、伝票は再び黒羽のもとへ。
「めーたんてー、今日は一日オフ?だったら盛大に遊び尽くしてやろうぜ」
 足らないところは領収書を切ってもらえばいいと笑う男の顔は、悪どさに満ち満ちていた。


 自宅の玄関が解錠の音を立てたのは夜、二十一時を過ぎた頃の事。
 朝方、とっておきのワインを空けられた事に対して降谷は、疲れも加勢して勢いに任せて怒ってきた。だがそれだけ新一もまた腹を立てていたのだと知り、探偵としての挟持を傷付けてしまったと反省したらしい。頭を冷やした彼から昼過ぎに来たメールには、謝罪の言葉が記されていた。
 恐る恐るといった様子でリビングに顔を出した恋人を、新一は横目で確認しただけで再び手元の本に目線を落とす。ぺらり、とページを捲る音が耳に刺さるが、これは自分なりのレジスタンスだ。探偵は真実を明らかにするのが使命だが、様々な事情なり理由なりが存在する数多の真実に於いて、すべてを詳らかにすることは必ずしも自分の信念とは一致しない。
 今回の件も、降谷は一言『手を引いてくれないか』と告げるだけでよかったのだ。契約破棄で付いてしまうであろう探偵の瑕疵なんて、降谷が守ろうとしているものに比べればちっぽけなものだ。
 もしくは作戦なり降谷の思惑なりを言ってくれれば。今回、自分はただ降谷が操る糸に踊らされただけで。数年前、大切な人たちを巻き込んでの大立ち回りを思い出して眉間に力がこもる。
「あ……新一くん。その、ご」
 ごめん、の言葉を聞きたくなくて、新一は立ち上がり降谷に背を向けた。どすどすと足音荒く歩きながら、つい最近もこんなことあったような気がするな、と思い出す。あの時は体調不良を叱られて、セックスがどうのこうので喧嘩した。というか、一方的に腹を立てた。
 だが今回のは違うぞ、と新一は鼻息をふんすと吹き出し、冷蔵庫のドアを勢いに任せて全開にした。中から取り出したものを、レンジに突っ込みオートで温める。
 緊迫した空間に響く間延びした長閑なメロディ音。ホカホカに温まった二つの箱を持って、片方の結紐の下に紙束を挟むと、ダイニングテーブルへと移動した。
「……いつまで突っ立ってんだよ」
「え」
「食うの?食わねーの?」
「あ……ああ。 え?」
「いらねーなら俺が全部食う」
「っ!た、食べます。食べる!」
 わたわたと背広を脱いで背もたれに掛けて、ぎこちない動作で席に着く降谷を新一は口を尖らせ精一杯の目力で睨みつける。だがそれも、降谷が縮こまりながら上目遣いでどうやって謝ろうかと口をもごもごさせる所で力尽きた。
「――ぶふっ」
 咄嗟に拳で口を隠したが、揺れる肩と波打つ腹がもう限界だと悲鳴を上げる。
「くっくっくっ……」
「な、なに。新一くん。なんでそんな笑って……」
 降谷の戸惑う声が追い打ちをかける。
 もう我慢できないとテーブルに突っ伏して酸欠になりながらも、かろうじて伸ばした手で降谷の前においた箱――箱根の駅で買い求めた駅弁を指差した。
「組織随一、のっ 洞察りょ」
 ブハァッ!
 大決壊した笑い袋みたいにゲラゲラと声を上げながら、涙目でもなんとか見えた降谷の顔と言ったらなかった。
 弁当の綴じ紐に挟まれた数枚の紙を見て、絶句。
 新一は、降谷が黒羽に渡した謝礼がポケットマネーなのを知っていた。国家公務員でいいお給料を貰ってはいても、支払いやなんやらで飛んでいくお金も多いことも。普段自炊を心掛けているのだって、なにも趣味ばかりでない。
 だからこそ、その出費は懐に大打撃を与えたはずだ。
「は……ハッ!? えっ 待って、何この金額」
「払えねー額はつかってねぇぜ」
「えっ このお弁当そんなにするのか?というか押し寿司じゃないかこれ!さっきチンしてなかったっけ!?」
「あ、ワリ。つい」
「勿体無い!っていうか、箱根行くのになんでこんな掛かってるんだ!?うわ、食事代がエグい!!」
 そりゃあ、二人分だからな。シレッとして言うと、降谷はついに両手で顔を覆って項垂れてしまった。
「…………僕だって君と旅行したいのに」
「落ち込むとこソコかよ」
「箱根、行きたかった」
「ああそうかい」
 楽しかったぜぇ、とわざとらしく明るく言ってやった。黒羽と二人、午後の短い時間でどれだけ贅沢できるか。優秀な頭脳の無駄遣いともいうべき計算力で、遊べる限り遊び尽くした。美味しいごはん、眺めのいい温泉。土産選びも真剣に。出来るだけ良い物を。
「俺を怒らせた事、後悔して反省したならまぁ許してやらなくもねぇぜ」
「いや、後悔はしないよ。覚悟の上でした事だからね……ここまで痛手を受けるとは思わなかったけど」
 ――ワインとか。
 聞こえるか聞こえないかの小さな呟きは、きっと無意識に零してしまったのだろう。降谷は項垂れた姿勢のまま、長く息を吐き出した。それからずっとその状態で沈黙を保って。
 駅弁から湯気が消えた頃になってからのろのろと顔を上げ、何度も言いかけては飲み込んで。今にも泣きそうな震える声で、彼は言った。
「結婚、やめようか……?」――――と。



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