四季折々に想う。二 4月


四月一日(水) エイプリルフール、トレーニングの日

 ディスプレイが4:45に変わる直前。目を覚ました降谷は音が鳴りだすよりも早くアラームを止めた。
 長く身に染み付いた習慣だ。マットを揺らさぬようベッドから滑り出ると、テキパキと身支度を整える。このジャージも愛用して二年。ほつれはないが、肘や膝にやや撚れが見え始めてきている。――そろそろ買い替え時かな、などと思いながらランニングシューズの紐を締めた。
 年度末年度始めの山積み作業を薙ぎ倒し、今年度の配置等々確認すべき事も終わらせてある。まさに良いスタートを切れた四月一日。空は薄い白雲が紗をたなびかせた様な春の色。風に乗って、どこからか薄桃の花びらが舞い落ちてくる。柔らかな草の匂い、命芽吹く始まりの季節。
 降谷は、四季の中でも春がとりわけ好きだった。
 それは桜が日本の象徴として相応しいものであるからだし、何よりも愛しい人が一番美しく見えるのもこの季節だから。五月になれば、また一つ齢を重ねて自分に近づく。十二の歳の差がほんの少しの間だけ、縮まるのだ。それだけのことが、時々無性に愛おしい。
 いつものようにトレーニングメニューを消化して、けれども朝とはいえ春の暖かさはインナーシャツをしっとりと濡らす。加齢臭を気にしている訳ではないけれど、ポケットから出したタオルハンカチで首元を拭った。ちょっとだけ、さり気なく。くん、と嗅いでポケットにしまう。うん、大丈夫。
 十二の歳の差は降谷に三十七の齢を実感させるものでもあるけれど。体と心はまだ現役のままでありたいものだと、恋人を想いながら空を見上げた。

「ただいま」
 玄関でシューズを脱ぎながらの挨拶に、廊下の奥からの応(いら)え。匂いや音から察するに、朝食を作っているのだろう。
 今年の初め頃、何を思ったか新一は自分が朝食とお弁当を受け持つと決意表明をした。お互いの仕事に影響が出ない範囲で、それぞれが家事を分担する。それまで得手不得手でなんとなく線引きしていたけれど、人生のパートナーとしての自覚が芽生えたのか、新一は苦手なことにも率先して取り組む姿勢を見せた。
 ただいまのキスをしたい気持ちをぐっと呑んで真っ直ぐバスルームに向かった。出てくる頃にはテーブルに並んでいるだろう朝ごはんを想像して、頬が緩む。週の半分以上は大体こんな感じで一日が始まるので、以前より上がった仕事へのモチベーションを考えるとなるほど、上司や周りが結婚を勧めてくるのも頷ける。
 シャワーを手早く済ませて、身綺麗にしてようやくダイニングに顔を出すと、予想とは裏腹にシンプルな食卓と、どこかバツの悪いような顔の新一が出迎えた。
「おはよう、新一くん」
「あ、うん、はよ……。メシ、出来たぜ」
 どうにも歯切れが悪い。つと視線を落とすと、卓上に並ぶ朝食は、ご飯にお味噌汁、目玉焼き、納豆、ベーコン。いつもお弁当を作るときは余った部分を朝食に回しているから、この献立に首を傾げた。
「今日はお弁当無し……じゃないね」
 キッチンの調理台には二人分、ランチバッグが並んでいる。
「あー……零さん。実は、そのさ、今日俺寝坊しちまって」
 中身殆どおにぎりなんだ。ゴメン。
 両手を顔の前で合わせて、拝まれた。

 昨夜は何もしてないし、夜更かしして読書に没頭していたとかもない。新一の額に手を当てて、熱を測るもそれもない。
「それは構わないけど……大丈夫か?具合悪いの隠してたり……」
「しない!してない!ホントただの寝坊!二度寝でうっかりしただけだって」
「あはは、二度寝しちゃったんだ」
 それなら仕方ないね、と笑って食卓に付いた。向かい合って、いただきますをする。
「なんか平日なのに日曜な気分だね」
「やめろよ、休みたくなんだろ」
「へぇ……好きな事を仕事に選んだのに、新一くんでもそう思う事あるんだ?」
「仕事はいいんだよ。ただ、通勤がなぁ〜」
「だから送るって言ってるのに」
 新一は視線を斜め上に飛ばして。暫しの黙考のあと、
「ま、そのうちな」
と話を濁した。
 これは何かあるな、と勘が告げていたが、新一が語らぬのならそれはまだ言えないものなのだろう。探偵の仕事絡みかもしれないと、降谷もそこからは別の話題を振った。


 ほぼご飯らしいランチバッグは確かに、微妙にずしりとして重い。
 仕事が一区切り付いた午後の十四時。自分のデスクの上に置いて、おや、と眉が上がった。
 お弁当箱も変わっている。こんなのは家に無かったはずだが。やや大きめの二段重ね弁当。新書本サイズの、所謂ドカ弁というやつだ。でかい。
 ……これにおにぎりがぎっしり入っているのか?
 最近は上達した腕を見せていたから、完全に油断していた。彼がやる気を失った時の本気のやる気の無さを、失念していたのだ。
 それと同時に、我が家に(新一レベルで)おにぎりの具材になるような物が、梅干ししかなかったことも思い出す。
 いやでもまさか、開けたら梅干しおにぎり一色なんてことは――
 躊躇っている暇はない。降谷は覚悟を決めて、蓋を開けた。
「え、」
 そこには、OPP袋に入った本が一冊。洋書だけど、作家が誰なのか一目瞭然だ。なぜならサインペンで流暢に大きく書かれているから。
「え」
 タイトルには好きで追っていたシリーズの表記と、見たことのない題名。発行はまだ何ヶ月かは先じゃなかっただろうか。
「え」
 ――持っていた蓋をそっと戻した。全く、なんて心臓に悪いサプライズだろうか!新一のしてやったりなドヤ顔が浮かんできて、意味もなく悔しく歯噛みする。再度蓋を開けてもやはりそこに鎮座するのは工藤優作氏のミステリ最新刊だ。今回は日米同時ではなく、利権が絡んでいるのかアメリカ先行発売の新刊。それだって来月が発売日の筈。
 気を落ち着かせようと蓋を開いた下段の中身に、降谷は再度固まった。そして――――腹筋を崩壊させた。
 辛うじて大爆笑は免れたものの、床に蹲り酸欠に陥る降谷に何名かの部下が気遣わしげに視線を送る。先程から挙動不審だった上司に一体何が起こったのか。
 勇気ある部下の一人が上司のデスクにそっと近寄ってパソコンのディスプレイの隙間から見たのは黄色い雷ネズミのキャラ弁だった――というエピソードは、日付が日付なだけにジョークで流されてしまうのだが。


「新一くん!ただい……  あっ、エイプリルフールか!?」
「気付くの遅ッ!」



四月二日(木) こどもの本の日

 マンションの玄関扉を、音も無く開けて身を滑り込ませた二十三時。辛うじて今日帰宅しました、という時間。廊下のダウンライトがパッと灯り、リビングへの道を照らす。生活音がしないのは、寝ているか読書に没頭しているかのどちらかだろう、と寝食を共にする家人の行動パターンを把握している降谷は嘆息した。
 夜ふかしは宜しくないのできちんと睡眠を取ってほしい。でも、起きて待っていてくれたら嬉しい。
 ……けれど、その起きている間を読書に費やして自分の事など頭からすっぽり抜け落ちている状況というのも、それはそれで寂しいなと思ってしまう。
 ――じゃあどっちなんだ。寝てもダメ、本を読んで待っててもダメ。ずっとお星様眺めて『零さん早く帰って来ないかなぁ〜キラキラ』ってしてろってか?
 以前に酔った勢いで零した愚痴……とも言えない軽い願いを、新一は毒舌とともに切り捨てた。ショックで固まる降谷を横目にちびちびと日本酒を舐めながら、「俺だってよォ、健気にアレソレ準備して待ってたりもしてんだぜ?けどそんなときに限って、れーさん、帰ってこねんだもん」とブチブチ文句を垂れて。
 その溢れる可愛さに打ち負かされて、その夜はとても……いやかなり、盛り上がった。
 あれは本当に、可愛かったなぁ。
 へらり、と崩れる表情筋をなんとか立て直し、リビングのドアをそっと開けた。
 最小に絞られた灯りの下、リビングテーブルには書き置きされたメモ紙と、成人男性二人が暮らす空間にはそぐわない表紙の本が一冊。
『明日は五時前に出るので寝る。起こせたら起こして』
 相変わらず忙しい時は忙しい探偵業(暇なときは本当に暇だけど)、新一が日付も跨がずに就寝するのはだいたいこんな時だ。ケースによっては昼夜逆転するので、寝顔が拝めるだけでも良しとする。
 まぁそれはいつもの事として、降谷は先程から気になっていた本に手を伸ばした。
『結成!米花町少年探偵団!』
 中学年から高学年層向けの、児童文学書であるそれの表紙には見知った地名と、聞き馴染んだ名前。タイトルの下には男の子が三人、女の子が二人、戦隊のように決めポーズを取ったイラストが描かれていた。
 ぱらり、と一ページ目を捲ったところで、背後の寝室のドアがかちゃりと音を立てる。
「んん……。おかえりれーさん」
「ただいま。トイレ?」
 降谷の問いに、ん、とだけ頷いててくてくと歩いて行くのを見送って、再び視線を落とす。パラララ…と速読で読み流し終わった頃に、水洗の音と共に新一が戻ってきた。
「あー、それか。もらった。……読んだ?」
「うん。面白いね」
「今日さ、歩美ちゃんに会って、借りてたキャラ弁の本返した時に『コナンくんに渡してください』って」
 ラグの上に胡座をかいた降谷の前にしゃがみ、膝を抱えた新一が半分寝たまま喋り続ける。
「おう、って言ったけどよ。あっちも半分気付いてるっぽいけど……なんか、なんつーか……」
 APTX4869は、その存在も被験者の有無もまた極秘扱いだ。その情報は一般市民――それが例え信頼の置ける相手だとしても。決して洩らしてはいけない機密事項だから。
「しんどいか?」
「――んー、んん……」
 新一と宮野志保が一生抱えていくと決めた秘密を、幼馴染や親友にすら話せぬ辛さを。自分になら押し付けてもいいのだと両手を広げても、この二人は決まって首を横に振る。
「ありがとな。でも、大丈夫」
 立ち上がりついでに降谷の手から本を取り上げた新一が、代わりにとお礼のキスを唇の端に一つ。夜の静寂に、転がり落ちるリップ音。
「零さんも早く寝ろよ。スゲー疲れ目してる」
「ああ。お休み、新一くん」
「おやすみ零さん」
 閉じたドアの向こうで、彼が何を思い、何を胸に抱えるのか。幼い姿で得た絆を完全に切り離さずに、今も痛みを伴いながらも繋いで、紡いでいく。その覚悟は彼らにしか背負えないものだから。
 表紙に描かれた子どもたちは無邪気に目を輝かせて笑っていた。あの本の様に大団円な結末は望めないとしても、五人が笑っていられる未来が訪れるのを――降谷は願わずにはいられなかった。


四月三日(金) シーサーの日

 沖縄までは約三時間のフライト。それから名護市にいる依頼人と落ち合い、先祖代々伝わるという古文書に記された謎を解き。
 依頼人に別れを告げ、那覇空港に戻り着いたのは夕暮れで空が茜色に染まる頃だった。
 搭乗受付までまだ余裕があるからと、土産物屋を覗いて見て回る。どこの店も似たりよったりなアイテムが並ぶ中、特に派手な色合いのシーサーが幅を利かせていた。
 ファンシーな雑貨がメインの店でふと立ち止まり、ぬいぐるみで喜ぶような歳でもねぇよな、となんとなく手にした守り神を眺めて思った。新一の恋人(自称婚約者)は、自分の歳を時折密かに気にする節がある。付き合い始めた当時も少しだけ気にかかっていたらしいが、それもすっかり無くなったと思っていたのに。
 ――目尻とか首筋とか。あんなツヤツヤの肌と健康的食生活で老化を気にする方がおかしいだろ。
 未だに二人連れ立って服を買いに行くと、「大学のご友人同士ですか」なんて店員に声をかけられる。声を殺して笑う降谷と、憮然とする新一と。むしろ憤慨すべきなのは降谷の方なのに、もう慣れっこなのか年上の余裕なのか。おっちゃんみたくオールバックでもすっかな、とぼやいた新一を笑っては足を踏まれたり。そのくせ、洗面台で白髪の有無をこっそりと気にしてるのだから、男心というものは複雑でなんとも面倒くさい。
 とりあえず、手にしたままのぬいぐるみはお買い上げに決めた。あの歳でも童顔が馴染む降谷にピッタリの一品だ。よく見れば少しだけタレ目なところが愛嬌があって良い。懐にすっぽり収まる大きさで、子猫か子犬を抱いているような気分になる。
 番で置かれることの多いシーサーは、このぬいぐるみにも対となるデザインのものが作られており、新一はそれもついでとレジに持っていく。少々荷物は嵩張るが、元々日帰りの予定で組んでいたからそれほど手間でもない。
 キャリーケースは早々に預けてしまっていたため、お土産の紙袋を手荷物として持ち込んだ。なんだか一緒に旅をしているみたいだ、とついつい綻ぶ口元をさり気なく覆った。
 夕暮れと夜の間の不思議な空の色を眺めながら、新一が考えるのは愛する人のこと。
 シーサーのぬいぐるみを渡したら、どんな顔をするのだろう。まぁ、十中八九、呆れられるだろうけど。
 『君ね、僕が喜ぶとでも思ったのか?』――いい歳して何やってるんだ、と言いたげな表情。それでも律儀にお礼を言って、ソファに飾るのだろうか。リビングの濃茶のレザーソファに座る色男と、極彩色のファンシーな獅子のぬいぐるみ。駄目だ、想像しただけでそのちぐはぐさに笑えてくる。けれどもどこか似ていると言ったら、彼はきっと機嫌を損ねてしまう。誰よりも男らしいその人は、誰よりも男らしく在ろうとしているので。
 普段の降谷はとても恰好いい。大人の男の色気は年を追うごとに増していって存在そのものがセクシーだ。なのに、時折見せる気の抜けたような、甘えたな顔は凄く可愛い。そのギャップに萌えるのが新一の密かな趣味だと知ったら、もう可愛い面を見せてくれなくなりそうだから。――――これは新一だけの最高機密だ。

 羽田空港に降り立ち、カートを引いてバス停へと向かう途中で、見知った顔を見つけて足が止まった。
「零さん」
「おかえり、新一くん。お疲れ様」
 帰りは二十時を過ぎると伝えていたから、この場にいても驚きはしなかったが。
「零さんこそ、おつかれ」
 自然な仕草で新一の手からカートを攫っていく男の姿に、こういう所がズルいのだと思う。けれどここで新一がそれを咎めれば、もう一つの手荷物を寄越すように言われるだろう。この機密事項だけは、なんとしても家まで死守したい。
 レザーソファと、色男と、シーサーのぬいぐるみと。そこに泡盛も足したら最高じゃないか。新一は殆ど保てていないポーカーフェイスを貼り付けて、降谷と会話を交わしながら家路についた。



四月四日(土) 獅子の日

 いただきます、の声が重なる朝七時。
 ダイニングテーブルに並ぶのは、いつもの朝ごはん。……ではなく、鰆の西京焼き、目玉焼きとベーコン、常備菜、お味噌汁。昨夜はお楽しみでしたね、な日の朝は降谷が腕を振るう為、いつもよりちょっとだけ食卓がグレードアップする。
「それじゃ、いってくる」
「ん、いってらっしゃい」
 先に食事を済ませた降谷が、食器を桶に浸けて足早にダイニングを横断していく。勿論、行ってきますのキスをして。チェアに掛けてあった背広を羽織りながら歩く後ろ姿をいまだぼんやりと覚醒しきれていない頭で見送っていた新一は、その動線がワンフロアで続いているリビングコーナーのソファへと寄っていくのをなんとはなしに眺めていたのだが。
 ぽん、ぽん、と。
 中央に並んで鎮座していた守り神の頭に、まるで「いってきます」の挨拶をするように。大きな手のひらが置かれ、揺れたはずみで隣の相方がころんと横に倒れた。慌てて起こし、二頭をくっつけてソファに押し付けるその仕草に、もう少しで口に含んでいた味噌汁を放出するところだった。
 背後の動揺を悟ったのか、降谷は振り返らずにそそくさとリビングを出ていく。新一の素晴らしく発達した耳が、シーサーを起こしたときにぽそりと落とされた彼の呟きを拾っていたとも知らずに。
 ――頼んだぞ。と。そう、降谷はぬいぐるみに向かって言っていた。
 うず、と後ろの首の辺りがざわめく。何か仕掛けてあるのかもしれないぞと探偵の血が騒ぐ。残りのご飯を大急ぎで掻っ込むと、両手を合わせてごちそうさまをして食器を下げるよりも先にソファへと突進した。

「なぁーーんもねぇ……」
 だらしなく寝そべった腹の上には、二匹の神獣。赤い鬣、オレンジの顔、垂れ目に釣り目、大きく開いた口と閉じた口。前足を揃えてお座りの姿勢は誰がどう見てもシーサーだ。そのシーサーたちを押したり振ったり、盗聴器の有無を確かめたりしても、埃一つ……いや、綿一つとして出てこなかった。新一が買った時のままの状態である。
 とすると、降谷は何故あんな事を言ったのか。
 ぬいぐるみに防犯機能を取り付けたのかと勘ぐった自分の当てが外れてしまい、少々ぶすくれながら手にしたスマートフォンの検索窓に【シーサー】と打ち込んだ。ウィキペディアを開いてシーサーについて流し読みしていく。
「へぇー……。元はライオンなのか。確かにそれっぽいな。サンスクリット語でシンハー。それでシーサーか」
 二匹の獅子は愛嬌たっぷりに新一を見下ろしている。阿吽の口と姿勢から、狛犬がルーツなのかと思っていたら、獅子のモデルが先にあり、そこに仏教が影響を与えて対になり阿吽となったとか、なんとか。
 現地では今も尚守り神として祀られている神獣は、その愛嬌ある顔がうけるからか、こうして観光土産としてもポピュラーなものになった。
「守り神……まさか、な」
 あの降谷が、二匹のぬいぐるみをこの家の守り神として定めた、なんて。
 ……真面目を地で行くあの降谷が?
 新一も大概無神論者だし、リアリストである。ぬいぐるみを自分たちの家族として可愛がろうなんて欠片も考えていなかった。子どもがいない代わりとしてペットを飼う発想もないし、きっと降谷もそうだろう。
 昨夜だって、紙袋から取り出した物を見た瞬間は目を丸くしていたが、直後には呆れた顔で『君ね……』と新一の予想通りの反応を見せた。
 ただ、『なんでその色なんだ』と続いた所は違ったけど。未だに赤は鬼門らしい。
 そういえば、彼が以前使っていた偽名は安室透だった。安室姓は神奈川が最も多く、関東圏に集中している。遡ればその起源にも辿り着けるのだが、何故か沖縄も安室人口の上位に入っていたっけ。安室といえば沖縄、というくらいに元シンガーの影響もあってかそんなイメージもあるが、彼は安室姓を一体どこから持ってきたのだろう。
 ふとよぎった仮定を、新一は慌てて打ち消した。降谷は未だに自分のルーツを話さない。片親がそこの出身だから、というのはあまりにも安直すぎるし、本人が黙している事を暴き立てたいわけじゃない。
 ひとまずその話は置いといて、降谷の朝の奇行について推理するとしよう。
「実は子どもが欲しいとか?ペット飼いたいとか。昨日はあんな態度だったけど、実はぬいぐるみ大好きでめちゃくちゃ嬉しかった……とか」
 脳内の降谷がきゅるるんとした笑みで『やぁん、カーワーイーイー♡』とぬいぐるみを抱きしめる。
「……ねぇな」
 二匹の獅子は何も語らない。降谷から託されたものを秘めたまま。新一のお腹の上で、呼吸に合わせて小さく揺れる。
 春の麗らかな日差しがリビングを柔らかく包み込む。つらつらと取り留めもない考え事をしている内に、新一はいつしか微睡みの中に溶けていった。


「――――新一くん?」
 降谷の気遣う声でガバリと跳ね起きた。今日は午後から予定があったのに、つい寝落ちてしまったらしい。
「やっべぇ!今何時!?」
 ソファから転がり落ちるようにして立ち上がる。窓の外はまだ明るい。影の角度から察するに、まだ昼前だろう。良かった。今から支度をしても充分間に合う。
 その場でスウェットを脱ぎながら、ふと浮かんだ疑問。
「あれ?ていうか、零さんなんでここにいんの」
 ジャケットを小脇に抱えて立つ降谷は、まだ仕事中のはずでは。
 苦笑いをして降谷がネクタイを解いた。
「今日はもう上がり。明日も通常通りの休みさ」
「えっ。 出世ってすげえ……」
 まるでホワイトカラーじゃん。と驚く新一に、ホワイトカラーだからね、と返す降谷。
 だがそうは言っても、大型連休の前からは忙しくなるのだろう。言ってみれば休日調整のようなものだ。
 新一は午後からの予定をキャンセルしたくなった。だって、一日半も降谷を独り占めできる良い機会なのに。
「こら。顔に出てるぞ」
 こつん、と新一の額に拳の裏を当てて、降谷が溜息を一つ落とした。
「そんな顔されると、閉じ込めたくなる」
 ぎゅ、と寄った眉間の皺。苦しくて堪らない、と雄弁に語る瞳。その雰囲気に充てられて、新一の体温も急上昇していく。
「あ、う……」
 ダメだって。そんな、熱のこもった眼差しで見つめられたら。
 消えたと思っていた情交の余燼(よじん)に、小さく火が点った。じわじわと延焼していくその火種は、あっという間に焔となって新一の躰を焼き尽くそうとしてくる。身を任せたい欲望と、一社会人としての分別と。鍔迫り合いの末に、片隅に追いやられようとしていたなけなしの理性を総動員して、新一は窮鼠猫を噛むが如く腕を突き動かした。
「こっっ これでも抱いて良い子で待ってろ!」
 咄嗟に鷲掴みしたシーサーの片割れを降谷に押し付け。
 火照った顔を俯いて隠し、新一はリビングから逃げ出した。
 ぬいぐるみと一緒に良い子で待ってろなんて、母親かよ!と自分の言動に呆れ返りはしたものの、だってそうでもしなければ耐えられなかった。夜の寝室、降谷が自分を見下ろしながら快楽を追い求めている時の伏しがちの目や、ゆるく開いた唇から覗いた前歯。喉の奥で堪えきれずにこぼれ出た吐息。恋人のあんなそんな姿を思い出してしまって、慌てて手で顔を扇いだ。額にじっとりと浮かんだ汗を、陽気な季節のせいにして乱雑に拭い去った。
 クローゼットから仕事用のスーツを引っ張り出しながら頭を冷静にしていく。少しだけ擡げかけていた熱を冷ましながら、トラウザーを履いてベルトを締めた。
「――おしッ」
 両頬をぱしん、と手で挟み、気合を入れて。
 『私立探偵 工藤新一』の顔になる。
 リビングに戻ると、相変わらずのまま降谷はそこにぽつねんと立っていた。腕に抱えられたままのシーサーと目が合う。
「ぶはっ!零さんカワイイ」
 サラリーマンとシーサーのぬいぐるみ。ちぐはぐな筈の組み合わせなのに妙にしっくりくるのは、降谷のやや童顔よりの外見のせいだ。やはり自分の見立ては間違っていなかった。
 ――まぁ、中身は雄々しい獅子なんだけどな。
 それでも自分の足腰の方が大事だからと。
 君子危うきに近寄らず、だ。と口を噤む新一であった。



四月五日(日) 横町の日

 二人が住む所の周辺は引っ越しをする前にあらかた探索し終えた――と、思っていた。
 その場ではノリノリだったくせに、二日連続で可愛がったせいか今朝になってあちこちの鈍痛から完全につむじを曲げてしまった新一の為に、彼一番のお気に入りであるベーコンエピを買い求めて近所のベーカリーショップへと降谷は街中を一人歩いていた。
 その帰り道、いつもは素通りする曲がり道に何気なく目を向けると、置き型の喫茶店看板がぽつんと一つ。かつて身元を偽ってアルバイトしていたのを懐かしく思い出させるようなレトロなそれは、両隣を雑居ビルに挟まれて肩身狭く鎮座していた。
 ふらふらと誘われるように、吸い込まれるように曲がり角を曲がって入っていく。車がぎりぎりすれ違える位の狭い路地は、だが不思議なことに日当たりは良く、都会にありがちな暗くじめじめした印象はない。
 卸商のバンやトラックが行き交うこの道は、喫茶店だけでなく雑居ビルの中にもオフィスに混じって小料理屋、居酒屋と食事処がちらほらと入っている。それら全ての店の情報は網羅していた……筈なのだが。
「こんな店があったのか……」
 喫茶店はモーニングの時間帯らしく、黒板にはチョークで書かれたいくつかのメニューと、季節のイラスト。可愛らしい小窓の向こうに動く人影が見える。どうやらそれなりに人が入っているようだ。もしかしたら、新しく出来たばかりなのかもしれない。店名を心に書き留めて、降谷はその場をあとにした。
 下調べをしてから、大丈夫そうなら新一と行ってみたい。きっとここは、新一のお気に入りになるだろう――降谷の長年の勘がそう告げていた。

 帰宅して、真っ直ぐにキッチンへ。買ってきたパンを紙ナプキンを敷いた編みカゴに入れ、スクランブルエッグを手早く作りハムを添える。サラダを皿に盛り付けたら、冷蔵庫からドレッシングボトルを出して一緒にテーブルへ。
 未だにベッドの中でごろごろしているであろう恋人を釣り上げる用意はできた。よし、と捲っていた袖を戻して、寝室へ。たくさん愛しあった次の日は恥ずかしがって、繭の中から出て来ない理由を体調のせいにする新一を甘やかしてあげたいけれど。
「新一くん、起きれる?」
 寝室では案の定、新一が蚕になっていた。
 その上に覆いかぶさって、耳があるあたりに顔を近付けてわざと低い声で囁く。
「……おはよう、新一。お目覚めのキスをご所望かな?それとも、」
 人差し指を立て、背筋をつつつと上から下へと辿っていき、尾てい骨でピタリと止める。もちろん、その間ひくんひくんと震える彼の腰には気付かないふりをして。
「ここに……ホットミルクを注いであげようか」
 ブハッ!と毛布の中で吹き出す声。一気に霧散した夜の雰囲気の代わりに、朝の朗らかな空気に包まれる。
 くっくっと笑い起き上がった新一の鼻の頭に、ちょん、と小鳥が啄むようなキスをした。
「やっと繭から出てきた。抱っこしていく?」
「……結構です!」
 ベッドの足元に丸まっていたスウェットパンツを差し出すと、それを奪い取りながら新一はつんとそっぽを向いてしまった。どうにも、猫のご機嫌取りが上手く行かない。大事にしたいけれど、その線引きを見誤るとこうして爪で引っかかれてしまう。――だがまぁ、その不機嫌も、食卓に鎮座するパンを見るまでだったけれど。

 昨夜の激しい運動で消費したエネルギーを充填するかのように、新一は黙々せっせと朝食を口に運んでいく。どうやら相当腹を空かせていたらしい。
 ――仕事とあたし、どっちが大事なの!?
 ベーコンエピに真っ先に手を出し、うまいうまいと頬張る新一を見ていたら、ふとそんな言葉が浮かんできた。
 ――僕のハムサンドと、あの店のベーコンエピ、どっちが一番なんだ!?
「……いやいや、張り合い過ぎたろう」
「? どしたれーさん」
 密かにジェラシーを燃やす恋人の気も知らないで、呑気に2つ目のパンに手を伸ばす。降谷が作ったスクランブルエッグは、まだ半分以上残っていた。
「何でもないよ……。ああ、そういえば」
 転がり落ちていく気分を立て直そうと、話を振る。
「帰り道、横町に小さな喫茶店があるのを見つけたんだ」
 もぐもぐ、ごくん。コーヒーを一口啜って。
「……『Tiny』?あそこのブレンドコーヒーはなかなかにうめぇぜ。豆も販売しててさ、そのうち買ってみようかなって思ってた」
 あと紅茶も……と評する新一を、降谷は唖然として見つめていた。
「えっ え?……初めて知ったんだが!?」
 あんな近所にコーヒー豆を売る店があったことも、それが美味しいらしいことも、――――新一が既に開拓済みなことも!
 スライスされたホテルブレッドにハムとスクランブルエッグを乗せて、齧り付く。もぐもぐ、もぐもぐ。江戸っ子調の粗野な口振りとは裏腹に、小さく上品に頬張る口は、咀嚼したものをきちんと飲み込んでから言葉を発した。
「んだってよ、こーあん的にはいろいろあんだろ?飲食店は。っていうか、もう知ってるもんだと思ってたし」
 それでも何も言わないから、てっきり零さんの口に合わないのかなと思ってた。と。
 吸い込まれるように消えていく皿の上のスクランブルエッグ。そしてごちそーさま!の挨拶。
「あー、口ん中が幸せ。零さんのスクランブルエッグってさ、真似したくても全然真似できねえんだよなぁ……。同じ分量で作ってる筈なのにな。やっぱテクニックの問題か?」
「ん?」
 ショックでぐるぐると考え事をしていて、新一の言葉を上の空で聞き逃してしまった。
「ごめん、なんだって?」
「だぁーかーら!零さんの作るものが一番大好きだし美味えって事!……んな親の敵みたいに睨まなくても、よその店のパンに浮気なんかしねーっつの」
 頬から耳まで朱に染めて、そっぽを向く新一は今日も可愛い。つまりは、自分の悋気なんて全てお見通しだったわけだ。あまりの大人気なさと恥ずかしさに、こめかみの辺りに汗が滲む。なんてつまらない男だろう、と思われていやしないだろうか。たかだかパン如きに。
「……うひひっ。れーさん、ヤキモチ焼いてんのかわいー♡」
 テーブルの下で、新一の素足がつんつんと脛を突いた。
 変な声が出そうになって慌てて口を押さえると、コーヒーを片手に頬付を付いた新一がにやりとした。こんな時、新一もまた男なんだなぁと強く実感する。ベッドでは可愛らしく啼くネコでも時々堪らなく雄らしい一面を見せるので、不覚にもそのギャップにときめいてしまうのだ。
「あのね……午後からデートしたいから、あまり煽らないでくれるかな」
「へぇー。どこ連れてってくれんの?」
「さっき言ってた喫茶店。一緒に行きたい」
「すぐそこじゃん」
「うん。だけど、僕は新一くんと……」
「だーかーらー!遠出とか、買い物とかじゃないんだろ?」
 つんつん、つつつ……と膝まで登った爪先は、足の間へするりんと。その緩い刺激だけで僅かに兆しだした降谷のものへと辿り着き。
「かわいい零さん見てたらお腹が空いてきちまった。スクランブルエッグもハムサンドも好きだけど、やっぱ一番美味しいのは――――」
 
 極上の美食を強請る新一の口に前菜を与えて。それからフルコースで余す所なく自分のすべてを食べさせて。
 二人で喫茶店のドアベルを鳴らしたのは、ランチタイム終了間際の頃だった。



四月六日(月) 城の日、白の日
 
 今日はどんな日だった、と聞かれても、降谷には答えられることは殆どない。
 何しろ極秘情報ばかりを取り扱うので、身内どころか同じ職に就く人にも話せないものばかりを抱えているこの身。せいぜいが今日のお弁当の中身と感想くらいか。
 警視庁に行くことがあれば、「風見や捜一の面々は元気にしていたよ」程度の話の種も出来るけれど、基本庁舎に缶詰状態の降谷にはそれもない。
 だから、晩御飯とお風呂の後のひととき、すっかり肌に馴染んだレザーソファにてその日一日の出来事を喋るのは専ら新一の役目だった。
「――んで、これを貰ったってわけ」
 たまたま行き合ってしまった殺人事件の目撃者の中にいた羽田秀吉が、新一に挨拶がてら寄越したのは一冊の本。天才棋士に学ぶ物事の着眼点やら考え方等々、小難しい言葉を並べ立てたそれはよくあるビジネス戦略的思考本だった。
 上から言われて渋々書いたのだと、読まなくてもいいからと渡された本にはご丁寧に本人直筆のサインまで入っていた。
『羽田秀吉の妙手と、兵法、城攻めから学ぶ――――!』
 なんともご立派な煽り文句の帯である。
 ためつすがめつ眺めていると、新一が思い出したように声を上げた。
「そういや今日さ、俺の方が帰宅遅かったじゃん」
「ん?そうだね」
「俺いっつも、こんくらいの時間で帰るとき駐車場通ってくんだけどさ」
「わざわざ?地下を?」
 そう、と新一は一つ頷いて。
「零さん帰ってるかなーって。そんでさ、零さん今日、洗車した?すげぇ綺麗になってた気がしたんだけど……」
 前半の健気なセリフにきゅんときたのも束の間、直後に聞かれた内容に、午後の出来事を思い出して顔に苦みが走った。
 ――今の今まで、綺麗さっぱり忘れていたというのに!
「え……なんだよ、何か俺ワリーこと言った?」
 突然立ち込めた暗雲に背中を仰け反らせる新一を、じろりと睨めつけた。
「君、何かもう一つ。僕に言う事あるんじゃないのか?」
「な、何かって、何だよ」
「例えば……その天才棋士の側にもう一人、誰かがいたとか」
「ゲッ」
 物凄く正直な反応に頭が痛くなった。やはりな、と。深く項垂れてこめかみを強く揉む。一日の最後にあの男の事を思い出すなんて、夢にまで出てきそうだ。史上最悪の悪夢だ。
「……洗車は、した」
「わあ、そうなんだぁ。どうりでツヤツヤピッカピカ!零さんの愛車は今日も麗しいな〜って思って!――さて、もう寝よっかな。明日も早ぇし……」
 そろりとソファから離れていこうとする新一の二の腕をがしりと捕まえる。
「まぁ聞いてくれてもいいだろ?新一くん」
 滅多にない、日常の与太話だ。とてもレアなそれを、君は聞き逃そうというのか。
 にっこりと、わざとらしい作り笑顔でそう告げると、新一は渋々と再びソファに収まった。人一人分開けようとするのを力技で引き寄せる。
「痛えって!馬鹿力!」
「今日の昼過ぎ、君の美味しいお弁当を食べて幸せ一杯だった僕に降り掛かった不幸を聞いてくれたら離してやる」
「……ロクでもなさそうな予感しかないけど聞いてやるよ」
「何か言ったかな」
「いだだだだ!」
 がっしりと掴んだ手に力をちょっと入れただけなのに、大袈裟である。
「内線で呼び出されて降りていくと、そこにはあの男がはるばる海を超えて何故か僕の日本に来ていた。しかも警察庁に」
「唐突に始まったな。何しに行ったんだよ赤井さん……」
「今回は単純に家族に会いに来ただけだと言っていたが、まさか新一くんを家族認定していたとはね、いやはや。アメリカはもちろん、日本も重婚は認められていないはずなんだけどねえ?それでまぁ、『新一に会う前に許可を取っておこうかと』と態々僕の所まで来たというから」
「うっわ。赤井さんもホントからかいたがりだな……つうか、許可したの?零さんも丸くなった――」
「するわけ無いだろ!相変わらず嫌味な外車に乗ってきやがって。ムカついたから『一々向こうから持ってきてるんですか?無駄にお金を遣うならもっと有意義な事に遣ったらどうです?イギリスやアメリカでは富裕層は寄付をするのが一般的なようですし、貴方もそうした方が世の為人の為になりますよ』と嫌味を言ってやったら、」
「あーーボクちょっとトイレ……」
「こら逃げるな。そうしたらあいつ、『こいつは工藤夫妻のご厚意であの家に車庫証明を取って置かせてもらっていてる。君にも迷惑をかけているな』なんてほざきやがった。……これはどういうことかな新一くん」
「いやぁ、……ハハハ」
「あの家に行った時は全く見かけなかったよね。毎度毎度、予め隠しているのかな?……まぁいい、その追求は後でするとして。クソムカついたから、鳥の糞でも浴びまくって錆びてしまえばいいなんて思っていたら」
「零さんでもそんな小学生みたいな事考えるんだ」
「まさに丁度、その後ろで僕の車のボンネットに直撃した訳だ。――鳥の糞が」
「ぶぁっハハハハハハ!!!!……いダダダだ痛えっつのバーロー!折る気か!?」
 人を指さして笑うようなお行儀の悪い子にはお仕置きが必要だと、指を逆向きにぐい、と押してやった。例え恋人が相手であっても容赦はしない。
 ……自分でも大人気ないとは分かっている。人を呪わば穴二つ。美しい輝きを放つ白のボディに、最悪な事に黒身が多めの排泄物がべったりと。ワナワナと震える自分の後ろで、あの男が「大丈夫か、降谷くん」と声を掛けてきた所で記憶の再生は強制終了。
 ふうふうと人差し指に息を吹きかける新一が、涙目でじろりと降谷を睨んだ。
「んで?洗車して汚れ落として心もスッキリ。良かったじゃんよ。こないだ洗車してぇってボヤいてただろ?」
「ああそうだな。……でも心は全くもって晴れ晴れとしないんだよ、新一くん」
「あんたの不幸話聞いてやったろ!?ほら俺明日早いから、もうそろそろ寝――」
 掴んだままの腕を引き寄せて、がぶりとその小煩い口に噛み付いてやった。暴れる両手を左手で纏めて、右手で顎を押さえて口をこじ開ける。
「んがっ」
 色気の無い声ごと飲み込んで、今日一日の鬱憤を新一の口内を掻き回すことで晴らした。
 この後被害者はトイレに立て籠もり、怒り目の彼から動機を追求された被疑者はこう答えたという。
 ――――むしゃくしゃしてやった。正直、反省なんかしてやらない。……と。



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