四季折々に想う。一 11月

十一月二十一日(木) カキフライの日

 ――牡蠣フライにしようかな。
 スーパーの生魚コーナーで立ち止まり、今夜の献立を考える。旬が来た牡蠣が、今日の目玉商品らしい。殻付きのもの、既に剝かれてパックに入っているもの、生食用に加熱用、いろいろある中で降谷が手にしたものは加熱用。
 多分、嫌いではないはずだ。レーズンの名前を聞くだけで顔を顰める彼は、その他に関しても感情が顕著に現れる。降谷のデータベースの中、新一の嗜好について牡蠣は『嫌い』のカテゴリーに入っていない。だが『好き』にも入っていないので、読めない展開にカゴに入れようとする手が止まる。
 ――こういう事は、本人に聞くのが一番だな。
 ポケットから取り出したスマートフォンをタップして、人の流れの邪魔にならない場所へと身を寄せた。数コールで出た恋人はまだ仕事中らしく、カタカタとキーボードを打つ音からハンズフリーで応答してるのだと推察した。
『おつかれーさん。帰れなくなったコール?』
「お疲れ。今日はもう上がったよ。というかなんだいそのおつかれーさんって」
『ん?ああ、お疲れさんと零さんをくっつけただけ』
「はは、なる程」
『そっち今スーパー?あぁもうこんな時間かぁ……腹減った』
「今夜のおかず、牡蠣フライと牡蠣グラタン、牡蠣鍋どれがいい?それともポン酢で食べたい?」
『うーーーーーーんんん』
 カチカチ鳴るクリック音、カタカタ、カチ、カチ、カタカタカタ。
 その間も、新一はずっと唸っていた。降谷は失敗したな、と思った。仕事の邪魔になるだろうからと、通話を切るタイミングを見計らっていると。
『んんんんん、……ん、んん?そうか――フライ、揚げ物か!』
 閃いた勢いで立ち上がり、デスクの上を片付ける音に混じって新一が何やらブツブツ呟いている。なるほどな、そういうことか。それならあのトリックも解明できる。――とかなんとか。
 降谷は手にした物を戻し、生魚コーナーから離れた。牡蠣メニューはまた今度にしよう。生は時間が経つと危ないし、加熱は出来たてが過ぎると固くなって美味しくなくなってしまうから。
『さんきゅー零さん!これで謎が解けた!!』
「それは良かった。お役に立てて何よりだよ」
『帰り遅くなっかもだけど、ご飯残しといてよ』
「了解。腹ペコで帰っておいで」
『おう。――そういや、何て聞いたんだっけ?牡蠣?』
「いや、何でもない。今夜は野菜山盛りの鍋だから、楽しみにしていて。あと、気を付けて」
『あぁ、まだ野菜残ってるもんな。そうだ、あれ食べたい。セロリの浅漬!』
「オーケー」
『んじゃ、ちょっくら行って犯人とっ捕まえてくる』
「――新一くん」
『ん、何?』
「ふふ、いや。……頑張って」
『……へーい』
 何故そこで照れるのだろう。ちょっとつっけんどんになった彼の心の機微を読むのも楽しいが。彼が帰宅して笑顔で食卓に着けるよう、そして明日からもしっかり励めるように。
 ――今夜は腕によりをかけて最高に美味しいものを作ろう。
 通話の切れたディスプレイに残る新一の名前を愛おしく一撫でしてから、表示を消してポケットにしまった。



十一月二十二日(金) いい夫婦の日

「――んで?ダンナに夜逃げされてこっちに泣きついてきたっちゅうわけか」
 いらっしゃいませぇ、とカウンターから間延びした店員の声と、関西のイントネーションが飛び交うざわついた店内。服部が「せっかくこっち来たんやからいっちゃんウマい店連れてったる」と入った喫茶店だったが、なる程オススメなだけあってコーヒーが美味い。
「泣いてねえっつの」
 ぶすくれた顔で言うセリフではない。ただ単に、向かいに座った服部のニヤニヤした面が気に食わないだけだ。
「でもなぁ、工藤くんかわいそうやわ。なぁんも言わんと居なくなるなんて、ヒドイと思わんの。平次は」
 あたしだったらまず怒るわ。頬杖をついて和葉が憤る。
「や、職務上仕方ねーし、今までもちょいちょいあったからな。それにこっちに来たのも俺の仕事であって、オメーに呼ばれたからじゃねえ」
 和葉と服部にそれぞれ、笑顔と半目で表情を変えて伝える。
「ていうかよ、オメーらいっつもニコイチだな」
「そらあんさん、今日はいい夫婦の日やで?一緒におらんでどうすんねん」
「オイ……結婚してからキャラ変わってねーか?」
 美味しかったはずのコーヒーが渋い。服部は「まぁまぁ」と意味不明になだめて満面の笑みを浮かべた。
「身内には報告しとったけどな、無事安定期に入ったんで報告や。実は来年春に生まれんねん。こないだ会えへんかったやろ?そん時言うつもりやったんやけどな」
 ニコニコ。ニコニコ。
 新一の目の前で、夫婦揃って笑っている。
 ふーん、そっか、生まれるんだ。……何が?卵でも生むのか?服部のやつ、ついに烏骨鶏に進化したか。
「――――って、えええ!?あ、オメデトウゴザイマス!?」
 立ち上がり、和葉に向けて直角にお辞儀をした。
「いややわそんな大袈裟ならんでも〜。でもありがとな!」
「お祝いはここの伝票でええで」
「ばーろー、ちゃんとしたもの贈るっての」
「ハァ〜これだから東京人は。ノリツッコミが足らん」
「うっせえ」
 和葉は、新一と服部の応酬を笑顔で見守って聞いている。服部が和葉を気遣って、アウターを膝掛けにするかと尋ねる。その遣り取りに、新一もなんだか嬉しくなって、笑った。

 押し問答の末、ここの支払いは誘った俺が払うんがスジや、と押し切った平次が持った。
「なんかワリィな」
「ええねんええねん。今度会うとき倍にしてはろて貰うでな」
 喋りながら喫茶店の出入り口へと向かう。丁度、内開きのガラス戸の向こうにスーツ姿のサラリーマン達が見え、三人は隅に寄った。新一がドアを引いて押さえ、服部がさり気なく和葉の前に立つ。
 サラリーマン達は先頭の二人が会話を交わしながら新一たちの前を通っていき、その後ろから来た一人が会釈をする。新一もそれに会釈し返して、服部と和葉に続いて外へ出た。
 西日本もさすがに十一月下旬ともなれば風は冷たく、羽織っただけのダウンを首元まで締める。ほぅ、と吐いた息は寒さというより安堵といったところか。
「……工藤、ほんっとにタマタマ来たんかこっちに」
「偶然だって。俺もびっくりしたけどな」
「ホンマかぁ?なんやもう、ヘタな夫婦漫才よりオモロイなあんたら」
「うっせー。見せもんじゃねぇぞバーロー」
 よくぞあそこで顔に出さなかった、と自分を褒める。服部も上手く和葉の視界を遮ってくれたし。
 ――今度は大阪で何を探ってるのやら。
 会釈をしてきた男の姿を思い返す。黒縁の野暮ったい眼鏡と、地味なダークグレーのスーツ。髪が少しだけ短くなっていた。変じゃないけど、サイドの跳ね髪が悪目立ちしていて正直似合っていない。
 思い出すだけで笑えてきた。
「なんや思い出し笑いか工藤。キモいやっちゃな」
「ははっ。とりあえず風見さんに連絡しとかないとな」
 新一が首を突っ込んでくるのでは、そうじゃなくてもうっかり巻き込まれるのでは。そんな無用の心配を彼にさせない為に。
「工藤くん、仕事は?これからなん?」
「ああ、この後依頼人に会って、少し話を聞くだけかな」
「ほな、ウチで晩ご飯食べてったらええやん」
「あー、和葉。やめとけ」
「なんでなん?」
「こいつがここにおると、お前まで事件に巻き込まれる」
 ムスッとして服部を睨みつけた。誠に心外である。どいつもこいつも、事件が起きる前提で話すんじゃねぇ。
「ワリぃ、日帰りの予定だったから、飛行機のチケットも取っちまってんだ。和葉ちゃん、体を大事にな。……コイツがなんかやらかしたら遠慮なく言えよ。殴りに来てやっからよ」
「ヨケーなお世話やアホ!オレが和葉を泣かすかいな!」
「へへ、おおきに。工藤くんも元気でな!」
「まっすぐ家帰るんやぞ。あと事件にホイホイ巻き込まれんなや〜!」
 おう、と応え、背を向けて手を振った。
 今夜からは一人寝の毎日か、なんて。すでに始まっているホームシックに苦笑いが零れた。

 

十一月二十三日(土) 手袋の日、勤労感謝の日

「――――あっ」
 ぶつり。
 糸を引っ掛ける嫌な感覚と、右手の甲の鋭い痛み。
 怯まずにそのナイフを持つ腕を捕まえ、右脚を軸に左足の踵で振り払うようにして、目の前の男の脇腹を思い切り蹴った。
 倒れたところをすかさずうつ伏せにして両腕を掴み、後ろ手にして持っていた博士考案携帯型ワイヤーロープで縛り上げる。
「さて、教えてもらいますよ。貴方が一週間前、偽札作りの為に、大阪から攫っていった美大生の居場所を!」
 警察も呼んであるし、アジトと思われる場所も特定した。あとは囚われのお姫様――ではなく、王子様を救い出せば大団円だ。


 大阪の美大に通う女子大生から、昨日受けた依頼。それは、同棲していた同じ大学に通う彼氏が三日前から行方不明だというものだった。
 地元に帰ったのだろう、と警察は取り合ってくれなかったのだと彼女は泣き腫らした目で訴えてきた。唯一の手掛かりは、マップポインターが付いた地図のスクリーンショット画像。これだけが送られて来た日を最後に、連絡がふつりと途絶えたのだという。
 大阪で名を馳せている服部平次ではなく、なぜ自分が指名されたのか、その地図を見て理解した。
 東京二十三区全体が収まってしまっている縮尺サイズでは、細かい位置までは把握できない。土地勘の利く人選としては、新一のほうがなる程、妥当だったろう。
 そうして画像から大まかに絞り出し、聞き込みや現地の捜索を経て偽札作りを企む者達の存在を炙り出し、発見に至った。もちろん、王子様も無事に発見された。
 それにしても、なぜわざわざ大阪から誘拐していったのか。その謎も、取り調べをしていくうちに解明した。
「風見さん」
 警視庁の取調室へと向かう途中で、風見と出会した。その前からあった嫌な予感は、確信へと変わる。
「こーあんあんけん、てやつですかぁ……」
 がっくし。肩を落とす高木刑事を佐藤刑事が慰めるように背中を叩いた。
 その光景を見守っていると、ポケットのスマートフォンが着信を告げる。光彦からだ。
「あー、高木刑事。すみません、探偵団の奴らからヘルプコール来たんで、俺、帰りますね」
「ああ、お疲れ様。すまないね、折角の工藤くんのお手柄を……」
「いいえ、気にしていませんよ。では」
 最後に風見にも会釈をした。小さく頷き返してみせたところから、これはやはりあの人も絡んでたのだと窺い知れた。

 光彦からのメッセージによると、怪しい男たちを追いかけているうちにいなくなってしまった元太と歩美。どうやら攫われたらしいのだが。合流して状況を聞いて、頭を抱えてしまった。
「零さんマジごめん……」
 どう考えても、さっきの男たちと地続きの一味である。風見にすかさず連絡を入れた。
「ひとまず、口封じされる前に元太と歩美を救出しねえとな」
 逃走に使われたからもしれない車の特徴を覚えていた光彦と、行き先を推理して無事に二人を救い出し。渋面と呆れと畏れの入り混じった顔をした風見に男たちを引き渡した。
 探偵団の三人を叱るのは、自分の役目だ。懇懇と言って聞かせた後、ファミレスで夕飯を奢り、タクシーを呼んで送り届けた。
 走り去る車を見送って、長い長いため息を吐き出す。今日はよく働いたなぁと思う。気付けば二十時近くになっていた。歩美は特に怒られるだろうなと少し心配してから、いやいや、たまには親からもキツく叱ってもらわないと、と首を振る。
 駅までの道のりを歩き出してすぐに、スマートフォンがまた震えた。今度は何だ。朝早くから走り回っていたから、燃料は既にエンプティだ。『本日の営業は終了しました。』心のドアプレートに掲げられた文字。だがそうも言っていられないのが、この稼業の辛いところでもある。
「……風見さん?」
 メッセージが、一件。
『あの人が感謝を、と。こちらとしても、とても助かった。ありがとう。』
 ――へへ、と笑いが漏れた。擽ったい気持ちに足取りも軽くなる。……続けて届いたメッセージを見るまでは、だったが。
『だが、心配もしていた。手の甲を怪我していただろう。それも伝え済みだ。心しておくように。』
「ンナッ!?ぜってえバレてないと思ったのに!」
 最初の誘拐犯を捕まえるために格闘した際に負った軽い切り傷。ポケットに手を入れて誤魔化していたのに。どうしてバレたのか。
 そういえば、とそのポケットから手袋を取り出した。付き合い始めて最初の年のクリスマスに、降谷から貰った手袋。
 無残にも甲の部分がすっぱりと切れてしまっている。しかも血までべっとり付いていて、どう見ても修復不可能だった。
「すげー気に入ってたのに……」
 なんて謝ろう。とりあえず、この汚れだけは落としておかないと。木の枝に引っ掛けたとかなんとか言って、誤魔化すか。ナイフで切られたなんて知ったら、何を言い出すか分からない。
 そんな事をつらつらと考えていた新一だったが、全くもって甘かった。切断面とその位置からどうして切れてしまったのかを瞬時に推察するのなんて、あの男には朝飯前なのだ。
 それを知るのは、もう少し先の十一月も終わりに近い頃のことである。



十一月二十四日(日) 和食の日

 モーニングはトーストとコーヒー、スクランブルエッグ。ランチはパスタ。それにサラダとスープ。ディナー?もちろん、ラザニアとローストビーフだ。ポトフは欠かせない。ワインはその時々の気分とメニューで変わる。
 寝る前のウィスキーは習慣の一つだ。バーボンは好まないな。ウォッカ?いや、僕が好むのはスコッチだけだ。他のは口に合わなくてね。
 妻は日本人なんだ。うん、食文化が合わなくて喧嘩する事もたまにはあるかな。写真は持っていない。とても美人な大和撫子だから、誰にも見せたくないのさ。

 ――――なんて。
「んなわけ、あるかっっ」
 ダン!包丁に左手を添え、上から押し切ったのは南瓜だ。北海道産の日本かぼちゃ。手のひらサイズの可愛いやつ。
 日曜日、職場は休みでも、本業に休みなどない。情報収集に勤しみ、東京の方で新一が捕まえた一味に吐かせた情報も加味して相手方の動向を探る。夕方前には一段落ついたので報告を上げ、スーパーで買い物をして今夜は久しぶりの手料理だ。腕が鳴る。
 潜入先の外資系企業は、外国人もそれなりに多い。というのに、土地柄なのかなんなのか、大阪の独特なノリを持った人が多く。安室透タイプの性格で行くはずが何故かあれよあれよという間に冒頭のイメージを勝手に付けられ、決定事項だといわんばかりに職場の上司も先輩もそのように接してくる。
「ジャパニーズワイフは今日もビーフストロガノフを作って君の帰りを待っているのか」だの、「毎朝毎晩キスとハグで見送りお出迎えとは羨ましい」だの。……セクハラで訴えてやろうか!
 第一、新一はそんな横文字料理は作れないし、なんなら食べる専門である。
 たったの二日でストレスを溜め込んだ降谷は、鬼のように山ほどの食材を調理していった。そのどれもみな、和食であるというこだわり。日本の旨味文化万歳、だ。
「朝は納豆ご飯に味噌汁、卵と魚、浅漬!お昼はうどんとおにぎり、それから肉!晩ごはんは今晩は南瓜のそぼろ煮、生姜焼き!寝る前に飲むのは梅昆布茶!和食を舐めるな!」
 誰に云うともなしに抗議の声を上げながら、食卓につく。
 両手を合わせ、「いただきます」と声に出し、手を合わせた。
 まずはお味噌汁をひと掻きして、ズズッと啜る。ふぅ、と一息ついて思い出すのは遠くにいる恋人のこと。
 一昨日偶然すれ違ったときは心底驚いた。今日だって、彼が受けた探偵の仕事がこちらのものとリンクしていて思わず聞き返したほどだし、少年探偵団らが巻き込まれたものにも関わりがありそれすらも新一が解決したと聞く。
「本当に、凄い子だよ……君は」
 感嘆の言葉すら、最近では出し尽くしてシンプルに「凄い」としか言えなくなってきている。――ああでも、右手に怪我を負ったんだったか。それほど深くはないらしいが、この目で見るまでは安心できない。
「さて、さっさと始末つけて、今月中には帰らないとな」
 そもそもこの件では潜入の必要無しと判断されていた。だというのに昇進して現場入りすることも少なくなった降谷がわざわざ派遣されたのは、腹立たしい事に一部上層部との軋轢が原因だった。
 新一との交際を隠さなくなってから、陰湿な嫌がらせは毎日のように続いている。工藤優作のバックボーンが喉から手が出るほど欲しい、妙齢のお嬢様を持ったお偉方からの遠回しな嫌がらせ。まったく、そんな事をする暇があるなら現場で警備でも警護でもやればいい。今の時期は様々な宮中祭祀もあって忙しいというのに。
 シャワーをさっと浴びて、寝る前のお茶を煎れる。明日からまたあのこてこてな大阪人のノリと戦うのかと思うと憂鬱にもなるが、これも仕事だと気持ちを切り替えた。ポアロにいた頃は良かった、と過去を美化するのは歳を取った証拠か。
「あぁ……新一くんに会いたい」
 一人で潜り込む新品のベッドは、愛する人の残滓どころか影すら掴めない。
 何度も寝返りをうって、それでも無理矢理目を閉じた。

 ――夢でもし逢えたら。一昔前に流行った曲のフレーズを思い出しながら。


 
十一月二十五日(月) ランジェリー文化の日

「――そうか、引き続き調査を進めてくれ」
 深夜の、人気のない場所に立つ公衆電話ボックス。湿気でふやけた電話帳、独特の籠もった空気。携帯端末が普及しても、この箱の中身は変わらない。
 指示された潜入先の証拠集めは、それほど複雑でもない団体だったおかげで、検挙まであと一手のところまできていた。
 だがここまでくると自分が潜る意味が果たして本当に必要だったのかと、不意に虚しさがこみ上げる。
『あと、すみません一点だけ』
「どうした?」
 手短に話すよう促すと、風見は咳払いを一つ。
『彼の事について、報告があります』


 仮住いに戻り、寝支度をしながら風見の言葉を反芻する。
『――本日、彼の事務所を訪問した際に不審な宅配物が。その場で即開封しだしたので理由を聞くと、送られた品に盗聴器の類が仕掛けられていた事が今年になって多くなった為だと。それで、その……』
『滅多にないが無いこともない、と彼は言ってましたが、その宅配物が下着だったのです』
『いえ、女性物の……こう、スケスケの、ヒラヒラした、ブ、ブラジャーの上から着るタイプの物で』
『は、いえ。彼がその場で処分してしまわれたので。それしか入っていなかったことから、イタズラ目的だと彼は呆れているようでしたが』
『……申し訳ありません。荷札はすぐにシュレッダーにかけられてしまって。あと、盗聴器の方は見当が付いているそうです』

 まったく、とため息混じりにこぼしたのは呆れか、嫉心か。方方からアプローチを掛けられるくらいにモテるのは知っていたが、ここまでとは。
「この国といい、新一くんといい。僕の恋人は危ない奴らに目を付けられてばかりだな」
 前髪をくしゃりとかき上げた。やや短めに揃えられたヘアスタイルは正直言って全く似合わない。帰る頃にはまだマシになってるだろうと思っていたのに、カットしたその日に見られるなんて。数日前の邂逅を思い出しては苦いものがこみ上げる。
 家に帰ったら、きっと弄られるだろう。その日が億劫でもあり、けれども楽しみでもある。
 差し当たって今すべき事は、盗聴器の方だろう。自分たちのプライベートを暴いて弱味を握りたい『誰か』に対して釘を刺す必要が出てきた。
 どこまでも真実を貫くその瞳を曇らせないように。自由に羽ばたける翼を折ってしまうことのないように。彼の魂は何時だって純潔で誇り高く、遍くすべての人間に対して平等である。
 新一の存在が降谷の心の拠となったように、降谷は新一の居場所を守り続ける砦でありたい。これは降谷の勝手な願望だ。誰にも打ち明けるつもりのない、己の為だけの厳かな誓い。
 愛し方というものはは人それぞれで、降谷は新一の生き様を守る愛し方を選んだ。きっと、新一も新一なりの愛し方でもって降谷を想っているだろう。これから先の長く短い年月で少しずつ互いに知っていくだろう、その幸せを。
「――誰にも奪わせはしない。絶対に」

 薄灰の瞳の奥底に揺らめく蒼い焔は、誰に知られることもなく。



十一月二十六日(火) ペンの日、いい風呂の日

「いっ……」
 ぴり、とした痛覚に顔を顰め、わしわしと頭を洗っていた手を止めた。
 シャンプーをざっと洗い流し、左手で顔を拭って反対側の手を見る。太い血管を上手く避けて縦に走る一本筋の瘡蓋の端っこから血が滲み出ていた。
「はぁ……またかよ」
 利き手だからよく使うしよく動く部分だからか、三日も前に負った傷のくせに、指の付け根側は皮膚が引っ張られるせいで治りが遅い。
 三日。降谷がいないこの家で、気付けば週の半分近くを新一は一人で暮らしている。月の中頃にはほんの数時間しか会えないだけで寂しいだの何だのと漏らしていたのに、不思議と穏やかな気持ちで過ごせている自分に驚く。
 きっと、自分たちの持つ『家』を自覚したからだ。アイデンティティーの確立にも似ている。自己は元から真っ直ぐに有ったけれど、降谷と二人三脚で立ったときの紐の結び目を、二人できちんと結び直したような感じ。大地に真っ直ぐと立つ自分たちは、スタートラインは違っていたかもしれないけれど、ゴールテープはきっと同じ色をしている。
 そんなイメージが浮かんできて、一人照れくさくなって暑くなった顔を無意味に手団扇で扇いだ。
 湯船に浸かり、足を伸ばす。降谷と一緒に入ると狭いとか悪戯してくるから嫌だとか難癖をつけるくせに、こうして一人でいるとその広さに落ち着かない気持ちになるのは、寂しさからくるものだと今は素直に思える。
 ――たまには優雅に一人バスタイム〜だなんて、誰だ考えたのは。自分か。
 そもそも、シャワーで十分なくせになんだって風呂に入ろうなんて思ったのか。お湯が勿体無いだけじゃないか。
「……アホくさ」
 栓を抜いて立ち上がる。降谷が見たら、「ちゃんと肩まで浸かって!」とたしなめるのだろうけど。実質五分にも満たない入浴時間だった。
 
 風呂上がりに救急箱を開けて、もう一度顔を顰めた。生傷の絶えない新一を慮って、降谷が切らさないようにとこまめに補充していたハイドロコロイドタイプの絆創膏が無くなっていた。そういえば、昨日変えたのがラス一だったっけ。
 むむう、と唸る。時刻は夜の十時。ドラッグストアは駅前まで行けば二十四時間でやってるところもあるけれど、風呂上がりの生乾きの頭で行くのも憚られる。あと夜の寒さが単純に嫌だ。
「まぁ、いっか。明日仕事行くついでに買えば」
 代わりにバンドエイドでも貼っておけばいいや、と救急箱を漁った新一は、隅の方に鎮座する円筒タイプの入れ物に目が行った。
――――傷口は乾燥させたら駄目だよ。範囲が広い時はこっち。これを塗って、こっちのガーゼを重ねて、……はい、終了。
 降谷が「名誉の負傷だね」と褒めそやしながらも、心配で堪らないと切ない眼差しで左腕の傷口を見つめながら言っていた。確か、去年の春先の事だったか。それ以来大きな怪我もなかったので忘れていた。
「そうだ、ワセリンと……」
 密封されたメッシュ状のガーゼを一パック。大きいサイズしかなくて、貼ったら大袈裟な感じになってしまった。
「んーー。まぁ、いいか」
 明日は今のところ予約も無いし。事務所で伝票整理しながら依頼待ちの予定だし。
 救急箱を元の場所に戻す。それから、文具の入った引き出しからペンと付箋を一枚。『キズバン』とだけ書いて、玄関扉に貼りに行った。
 スマートフォンのメモ機能は、登録しても忘れてしまうから。事件や謎に飛びつくと他のこと全てがすっぽり抜け落ちて、思い出すのは数日後――なんてこともざらで。だから、降谷がものは試しにと付箋に書いてカレンダーに貼り付けたのが始まりだった。出掛けるときは、この付箋をスマートフォンの裏に貼っておくように、と。
 ――確か、同棲開始後の外食デートドタキャン三回目だった日だ。
 店側にも迷惑がかかるからと説教されて、その予定がある日は事件に首を突っ込まない、謎に食いついたりしないと約束させられた。
 最もそんな約束は即反故にしてしまったけど。降谷は呆れ、そして諦めた。それ以来、予約が必要な店には行っていない。小洒落たレストランより大衆食堂の方が舌に合うし、何より降谷の椅子が変わるのとともにそっちの方が忙しくなってしまったから。
 出世って、大変なんだなぁと他人事のように漏らした記憶がある。降谷はこめかみを揉みながら大変だよとだけ返したのだったか。

 守られている自覚はある。新一がこうして自由に探偵業を営めているのも、降谷が――恐らくは優作も何らかの形で手を回しているからだ。なにせ、あの黒ずくめの組織壊滅に関わり、FBIやCIAとも関わりを持っている人物が、どこの組織にも属さずにいるのだ。公安にマークされても仕方の無い状況で、新一はその影響を全くといっていいほど受けずにこれまでやってこれた。
 ――つっても、最近の『贈り物』は度が過ぎてんだよなぁ。どうすっかな。
 放置して舐められてもな、と打つ手を考えながら、文具を仕舞う。もう少し様子を見てからでも大丈夫かなと結論付けて、新一はリビングを後にした。
 


十一月二十七日(水) ツナの日

 今日の昼飯はコンビニのおにぎりだ。
 ……もとい、『今日も』コンビニのおにぎりである。
 降谷の不在イコールコンビニおにぎりの図式が定着してしまっているため、今回も日毎に店を変えてはいたが正直飽きてきていた。
 じゃあ弁当にすればいいじゃないかと言われるが、弁当はゴミが嵩張る。それと、降谷の料理が尚更恋しくなる。
 すっかり餌付けされよって……服部がそう言って、可哀想なものを見る目をしてきたとしても。新一のルーティーンは変わらないのである。
 昨日はL店だったし一昨日は7店だった。今日はどこにしようかと考えるまでもなく入った、事務所近くのF店で。新一は随分と悩んでいた。
 変わり種のおにぎりは二日も食べ続ければ飽きてくるもので。ツナマヨという超ド定番に手を伸ばしたが、やっぱりこっちかなと一個二百円近くもする『ちょっといい』おにぎりに方向変換をする。
「あれ、ツナやめちゃうの?」
 後方頭上から降ってきた耳に馴染んだその声に、瞬速で振り向いた。それから無駄におにぎりコーナーに視線を戻して、また振り仰ぐ。
「んんっ。……新一くんでも二度見することあるんだ?」
 そう言って声を堪えて笑う男は、数日前と変わらぬ見た目で新一を見下ろしていた。
「れーさん」
 眉がぎりぎり隠れるくらいの前髪も、真横に飛び出たサイドの癖っ毛も。野暮ったい眼鏡、野暮ったいスーツ。だというのに、新一には世界で一番格好良く目に映る。
「ちょっと……ここでそんな目で見つめないで。自制効かなくなる」
 内心の焦りを隠そうとブリッジを上げる仕草に、堪らなくなったのは新一の方だった。両手に持ったおにぎりとお惣菜を抱えて早足で会計に向かい、降谷が後ろから付いてくるのを確認して店を出た。
「事務所の方が近ぇから、こっち」
 知らず眉間に寄る皺を、どうして解せようか。繋いだ手は大きく暖かく、北風なんかに動じない。その手のひらに翻弄されるばかりの夜を思い出しかけてつい力を入れた。
「準備、してあるの?」
「してねぇ。……でも、今すぐ零さんが欲しい」
 新一が怒っている風な理由も、足早に降谷を引っ張っていく理由も。全部筒抜けだけど、それでいい。
 同じ男なら分かるだろ?と指先を、繋いだ先の甲に食い込ませた。



十一月二十八日(木) 洗車の日

 明け方、肩を覆う冷気に震えて目が覚めた。傍で寝息を立てている新一が寝返りをうったタイミングではだけたようだ。持っていかれた毛布の端から入り込むひんやりとした朝の気配。
「しんいちくん……寒いよ」
 背中からぴたりとくっついて、腕を頭の下に差し込む。熟睡しているのに無意識に納まりのいいように動く彼を、心の底から愛おしいと思った。
 ――さぁさぁと、遠くに聴こえるは秋時雨。
 吐きだす息は白く、いつの間にか冬支度を終えていたクローゼットと、クリスマスカラーの街並み。
 そういえば、今年のプレゼントを何にするかまだ決めていなかった。それから思い出すのは、昨晩のこと。

 昨夜、新一が申し訳なさそうに差し出してきた手袋。右手の甲の部分がざっくりといってしまっていて、「木の枝に引っ掛けた」という下手な嘘に思わず「相変わらずやんちゃだね……って子供の言い訳か!こんなにすっぱり切れる木の枝があるか!」と突っ込んでしまった。大阪の風土に馴染めなかったくせに、無意識に感染されていたようだ。恐ろしい。
 元は白かったニットの手袋が、それでも一生懸命洗ったのだろうけども薄茶色に染まっていて。直前に見せてもらった傷跡を思い出して泣きそうになった。
「ごめん、零さん」
「……もう痛くないんだろう?君の大切な右手を守ってくれたんだから、僕は手袋を駄目にした事を怒りはしないよ」
 ほ、と安堵の息を漏らす彼の頬に手を添え――――ぎゅうと抓った。
「ぁいだだだだ!」
「でも、見え透いた嘘で誤魔化そうとするなんて酷いなぁ?心配で心配で夜も眠れず、しかも変質者からランジェリーを送り付けられたって?これまでにも?何回あったのかな?僕に教えてくれるよね?」
「そんな大した問題じゃねえし――」
「……教えてくれるよね?」
 ひたりと見据える。この圧力に落ちなかった者はいない。例に漏れず新一もまた秒で完落ちした。
「よんかい……くらい」
「へえーーーー」
「間違えました。今回で七回目だったと記憶しています」
 全く、油断も隙もあったもんじゃない。
 今後はすぐに知らせるようにと強制的に約束させた。いやらしい下着類に比べれば、自分が新一にあげようとしたタイツなんて可愛いものだ。そう言ったら、「変態度に変わりはねーだろ」と睨まれた。

 穏やかに上下する、細くもなくかといって厚くもないしなやかな肩を、ただ見つめる。
 ひとたび事件が起これば、彼の肩には大きな責任が伸し掛かる。だが、そんなものは新一が真に欲する謎の解明、真実の追求に比べれば些細なものだ。
 彼がどこまでも清廉潔白である限り、降谷もまた己に正しく誠実に有れるのだと。そんな風に見られていることなど、この青年はきっと考えもしないし、気付いたとしても重荷とも思わず、軽々と背負い込むのだろう。
 社会の裏面ばかりをつぶさに見続けていると、知らず知らずのうちに心の底に澱が溜まって息が上手く出来なくなる。そこをまるで見計らったかのように新一に触れられて、誘われるように触れて。交わる熱から溶けて、流れ落ちていく汚泥。
 あっという間に輝きを取り戻した魂は、再び戦場へと向かうのだ。どれだけ汚れようが、傷付き、色褪せたとしても。新一の手によって磨かれ続ける限り、自分は生まれ変わり、どこまでも遠くへと走ってゆけるだろう。

「んん、……なんじ、今?」
 掠れた声は、寝起きだからか、それとも無理をさせすぎたせいか。
「まだ五時だよ」
 瞼にかかる髪を除けてやると、ふるりと震えてその双眸が姿を現した。静かの海。夜空に浮かぶ月にあるそこは、アポロ十一号が着陸した場所。ふわふわとした恋心は六分の一の重力と似ている。自分もまた宇宙飛行士のように漂って、彼の海に着陸できたらいい。そこは静かの基地。ただ一人、降谷にのみ持つことを許された、自分の為だけのベースキャンプ。例え地の果て、海の底、どこに向かおうとも、始点と終点がここにある。
 ――ここが、僕の『ふるさと』だ。
 寧静を得た箱庭を冷雨から守らんと。未だ眠たげなその瞼に、祈るように口づけを捧げた。



十一月二十九日(金) いい肉の日

『れーさん今日は遅くなりそう?』
 送信したメッセージは直ぐに既読マークがついた。ほんの少しのタイムラグの後に、『分からないけど、何かあった?』の返信。
 新一はにやりと笑って、先程撮った写真を紙飛行機に乗せた。
『和牛貰った』
『父さんから』
『もちろん、手渡しだから安心安全なやつだぜ』
 お昼時も過ぎて、これからロスに戻るからと事務所の方に顔を出した優作が、「降谷くんと食べなさい」とくれたのは、片手で抱えられるくらいの大きさの箱だった。一応中身を検めると、堂々たる風格で鎮座していたのは牛塊肉。父をこれほどまでに尊敬し感謝したのは生まれて初めてかもしれない。
 こんな美味そうなお肉を、不審の一言で片付けられてはたまらないとアピールしたが、降谷は違うところに食いついた。
『え?優作さん来てたの?日本に?』
 あれ、と目を丸くする。とっくに知ってるものだとばかり思っていたのに。
『こないだ会ったぜ?もうとっくにロス行ったと思ってたらまだこっちいた。』
『は???まだいる?そこにいる?代わって』
『ここにゃいねーよ。これから空港っては言ってたけどよ』
 そのメッセージに既読が付いたのが最後、降谷からの返信は途絶えた。
「電話して捕まえてそうだな……。零さんも気ぃ遣わなくていいのにさ」
 新一のぼやきを降谷がもし聞いたら「君はそうでも僕はそうはいかないんだよ」と頭を抱えたことだろう。
 ――一つ年上の相棒も、新一のそんな言動を窘めていたっけ。「生命は 自分自身だけでは完結できないようにつくられているらしい。」そう諳んじた彼女に新一は首を捻った。なんだ、詩人にでも転職したのか。その様を、「まだまだガキね」と鼻で嗤われて。思い出すだけでもムカついて、けれどもその腹立たしさが彼女の言葉を肯定している気もして。ぶつけどころの無いムシャクシャを、新一は分厚いステーキを想像することでどうにかこうにか消化した。

 降谷からの返信は結局なく、けれども珍しくいつもより早めのご帰宅に上がったテンションを隠さず破顔して出迎えた。
「ご飯は炊けてるぜ」
 ステーキに添える人参のグラッセくらいならば新一でも作れるが、肉をどう調理するかも聞いていないのでご飯のみ準備はしたのだが。
 にこにことこちらも機嫌良く「ありがとう」と返した降谷は、片手に紙バッグを下げている。それにちらりと視線をやった新一に、その笑みが一段と深まった。
「気になる?」
「はぁ……まぁ」
 正直気味が悪いとも思うくらいの笑顔に、これは気になりますと答えたほうが良いのだろうな、ということくらい判断できる。やや引き気味の新一に構わず、降谷は紙バッグから書店のロゴが入った袋を取り出した。
「じゃーん。優作先生のサイン本!」
「……それって、半年前に出たやつ」
「うん。自宅に取りに行く暇もなかったから、買っちゃった」
「買っちゃった、じゃねーよ。可愛い顔してるんるんご機嫌だな」
「そりゃあ、だって。機会をずっと窺ってたからね」
「サインなら俺のでいいじゃん。わざわざ父さんに会いに行ってまでサイン欲しかったのかよ」
 ちょっと、明け透けだったかもしれない。彼をこんなに喜ばせるものが、自分じゃなく父親からだというのが面白くないとか。張り合うのも莫迦らしい、つまらない嫉妬だなと思うけども。
 鳩が豆鉄砲を食らったみたいにぽかん、とした降谷は、その直後に笑うわけでもなく意外にも淡々として言った。
「じゃあここに、書いてみてよ。サイン。書ける?」
 出された付箋紙とペン。バカにすんなとばかりに新一は言われるままに書いた。『工藤新一』――綺麗だけど角ばった、男らしい書体。これでどうだ、と見上げるとやれやれと首を振られる。今、確実にバカにされた。
「君ね……それは『サイン』じゃなくて『署名』だよ。偽造されたらどうするの」
 もっと有名人としての自覚をだね、なんて言われて。顔が熱いのを承知で、「もういいから!肉!肉食べようぜ!早く焼いてよ零さん!」とキッチンへとグイグイ背中を押した。手のひらに伝わる振動と押し殺した笑いが苛立たしい。とどめとばかりにベシンと叩いたら、爆笑された。本当にこの男は!

「尊い……」
 冷蔵庫から出してさしあげた塊肉を、降谷は両手を合わせて拝んだ。
「降谷さんなら見飽きたレベルじゃねぇの?」
「あのね、僕はこれでもしがない公務員なんだけど」
「国家、がつくくせに。ていうか、ベルモットと一緒にいいもん食ってたんだろ?」
 何回か彼がバーボンとして、彼女とデート(同行)したのは知っている。何故ならベルモット本人から聞いたから。降谷はとても、それはそれはとてもいやぁな顔をして呻いた。
「脳天気に味わって食べれるか……」
 ――それもそうか、と頷いた。美男美女だけど、その正体は毒殺さえも厭わない狂気の組織の一味。想像してみたら、とてもロマンチックなディナーとは程遠かった。
 新一も手伝いながら調理をして、食卓に付いていただきますをする。一ポンドに挑戦するかいと聞かれたが、いくら健康な男子であっても流石に無理だと笑った。二人それぞれハーフポンドの厚さにしたが、それだってサイドメニューとご飯を含めると結構なボリュームである。
「この焼き加減、味、全てが最高……!」
 父よありがとう!――心でまた感謝した。
 ふと見ると、降谷の視線とかち合う。きっと生暖かい眼差しで見られていたのだろう。
「な、なんだよ」
「いや、美味しそうに食べるなぁって」
「…………」
 悪いか。こちとら胃も体も燃費の激しい若者なのだ。これだけ食べても、寝る前にはまた小腹が空いたと訴えるお年頃なのだ。
「馬鹿にしたんじゃなくて、ただ単に幸せを噛み締めていただけだよ」
「へん、どーだか」
「本当だって」
 プレートの上の極上ステーキ肉は容赦なく減っていく。ご飯が美味い。明日は朝から仕事だから元々するつもりはないけれど、そうでなくても夜のお誘いは断らざるを得ない。お腹はぱんぱん、口内も胃もガーリックテロのおかげで、半径一メートルは接近禁止だ。今、中を突かれたら絶対に逆噴射してしまう。
 そうしてごちそうさまを二人揃って手を合わせ、さぁ片付けようかという時になって、降谷が「それでね、新一くん。ちょっと話……というか、相談があって」と切り出した。浮きかけた腰を、再び椅子に落とす。
「うん、何だよ?零さん」
「あー、クリスマスプレゼントの事なんだけど。てぶ――」
「手袋以外だとしたら、靴下がいいな」
「――――」
 何故、分かった。降谷の顔に書いてある文字を読み取り、新一は得意気に左手で頬杖を付き、右手の人差し指を立てて揺らした。
「何、簡単な事ですよ。貴方は僕からの連絡を受けて、父優作の元へと走った。けれど手ぶらでは伺えない。貴方はいつも、父に会うときは手土産を持参していく。それも消え物ではなく、ある特定のブランド物。それは国産の革で作られた一点ものを扱う職人の物。そして、それが買えるのはたった一箇所。そのデパートで、貴方は見つけたんですよね。隣にあるテナントで。僕に相応しいと思う手袋……いや、グローブを」
「……何故、グローブだと?」
「ええ、それもお答えしましょう。その隣のテナントというのは、二年前、僕に贈った毛糸の手袋を取り扱っていた店でしたね。普通なら験担ぎで切れた手袋と同じ店なんて、と思うでしょうが貴方は違った」
「……へぇ」
 組んだ手に顎を乗せて、余裕たっぷりに見せるスタイル。その姿に、自信を得た。
「僕の体を守った勇敢な手袋は、それがなければもっと酷い傷を負う所だった。最悪、筋を切断したりしていたかもしれない。それならば、逆に捉えてここの店のものだからこそ、の発想で貴方は選んだのです。さらに、毛糸よりも強度のある皮製品を。一番目立つ場所にディスプレイされていた貴方は、迷わずオフホワイトを手に取った」
「色まで!?まさか、新一くん……」
 じとり。睨まれて、新一は直ぐに種明かしをした。人からネタばらしをされるのは興醒め以外の何ものでもない。
「っそ。俺もあの店行ったんだよね〜。それも、零さんが来る直前に!」
 にひゃ。両手を後頭部で組んであっけらかんと答えを晒す。その時の降谷の顔は見ものだった。呆然、唖然、口元を戦慄かせ、立ち上がって。
「そ――そんなの推理じゃないだろう!?」
 にひひと笑って受け流した。久しぶりに一杯食わせたことに大満足して、新一は早々にその理由を明かした。
「零さんってさ、俺の事スゲー好きじゃん」
「え?あ、ああ。うん……」
「俺の身に着けるもの全部自分で選びたがる人がさ、この寒い季節に手袋買うのをクリスマスまで取っとくわけないだろなって思って。俺が自分で買うって言ってきたとしても絶対に譲らなさそうだし」
「……お察しで」
 白旗宣言。思わずガッツポーズを決めた。
「でもあのグローブを選ぶかどうかは分かんなかったから、零さんが買ってった後にもう一回見に行って確信を得たってワケ」
 帰宅した降谷の持っていた紙バッグには、もう一つ中身の分からない袋があった。あれがきっとそうなのだろう。
「んで、いつ俺にくれるの?」
 ニヤニヤして言うと、テーブルの上に投げ出した両手の拳を震わせて、悔しそうに降谷は叫んだ。
「――今でしょ!」

 それから、降谷が書斎から例の物を持ってくるタイミングに合わせて新一も自分の通勤鞄からそれを取り出した。
「あとこれ、俺からも。……その、毎日お仕事頑張ってる零さんに」
 同じショップの袋。同じ大きさの化粧箱。そして、同じ素材の。
「――色違い?」
 新一から贈られたマスタード色のグローブを手に取り、眺め、ぽつりと零れた言葉に新一の眉尻が下がる。
「やっぱダメか」
 ショップタグを切らなければ返品できると店員が言ってくれたので、降谷が持つそれに手を伸ばした。
「ワリぃ、見なかったことに――」
「えっダメだよもう貰ったもん」
 ひょい、と頭上高くに上げられた。
「ハァッ?いや、つーかお揃いとかってあからさまなの駄目だって、前言ってただろ?」
「いつの話してるのさ。もう内外に僕らの関係は宣告してるから無効だよそんなの」
「それこそいつの話だよ!俺なんも聞いてねーぞ!」
「今言ったもん」
「も、もんって!さっきから!可愛く言ったって――――ああそうか、父さんとグルんなってなんかしたんだろそうだろ!?さっきはぐらかされた気がしたんだよ、クッソー!」
「あはは」
 あははじゃねぇ!地団駄を踏んで歯噛みした。
「いやでも、これには本当に驚いたよ。ありがとう、一生大事にする」
 降谷がプレゼントしたグローブに口付けて、熱の籠もった眼差しで新一を見つめてくる。それから恭しく左の手を取り、いまだ箱に横たわったままの新一への贈り物に手を伸ばした。
「嵌めてみていい?」
 うっかりすると変な悲鳴が飛び出そうで、新一は黙って頷いた。
「新一くんの言うとおり、僕は君の身につけるもの全て、僕が選びたい。……だから、」
 何故かグローブの中に指を入れた降谷の行動に首を傾げ。そのままの姿勢で、新一はぴきりと硬直した。
 プラチナに輝くリング。降谷によってするりと薬指に嵌められたそれに、目が釘付けになった。
「君の一生を守り、飾る全てのものを選ぶ権利を、僕にくれませんか」
 ――――密やかに、祈るように。
 捧げられた願いの言葉に、新一は涙の滲む目で見上げて降谷の唇に口付けで応えた。



十一月三十日(土) いいお尻の日


 インナーTシャツを頭からかぶり、片方ずつ腕を通す後ろ姿をじっくりと眺める。紺色のボクサーパンツが半分、白に隠れた。動くたびに見え隠れする可愛い双丘に、降谷の視線は釘付けだ。
 引き締まり、禁欲的にさえ見える小振りさ。だというのに、ひとたびスイッチが入ると淫らに揺れ動き降谷を煽り立てる。その丘の狭間にある秘められた門を開ける鍵は、自分だけが持っている。世界の中でただ一人、この僕だけが。
「……零さん。さっきから不躾すぎやしませんかね」
 ワイシャツを続けて羽織った新一は、背中を向けたままそう言った。ちらりと見えた耳が赤い。
「そうは言っても、新婚初日の朝なんだから。堪能したいのが人の性じゃないか」
 遮光カーテンの端から漏れる光は薄暗い――それはそうだ、何故ならまだ朝の五時前だから。4時半には起き出した新一を、降谷はベッドの上で肩肘付いて眺めていた。
「零さん休みだろ?寝てていいぜ」
「いや、このあと僕もロードワークに出る」
「っそ」
 短い返事とともに、無慈悲にもトラウザーを腰まで一気に上げる。ああ、ついに隠されてしまった。ベルトを通し、カチャリと留める金具の音。
 ようやく振り向いた新一が、一歩後退った。
「人の着替えをなんつー顔で見てんだよ!」
「へぇ……どんな顔?」
「めちゃめちゃ不機嫌且つ欲丸出しの、今にも襲い掛かりそうな凶悪強姦魔」
 強ち間違いではないな、と降谷は頷いた。
「新婚初夜をお預けされた夫の気持ちは皆こうだろうさ」
「だぁから、それも謝ったし。つーか、昨日既読スルーしたの零さんじゃん。連絡しようとは思ったんだぜ俺は」
「ふぅん。今日の予定を伝えるよりも僕の鼻を明かしてやろうと、そっちに夢中になったんじゃなくて?」
 うぐっ。呻く声に続く沈黙は、肯定の意。ベッドを降りて、新一の元へと歩み寄り引き攣り怯える彼の唇に軽くキスを落とした。
 腕に下げていたジャケットを取り上げて広げる。当然の流れでそれに腕を通す新一の後頭部にもキスをすると、「? ゴミ付いてた?」と振り向いた頬にも一つ。
「長野へは新幹線で?」
「おう。ま、どんな謎だろーとちゃちゃっと解決して夕方までには帰ってくっからよ。いつまでもいじけてないで三つ指ついて待ってろよ」
「あはは。僕が新妻なの?」
「お帰りなさいませ、ご主人様〜ってな」
 ちょっとだけそそられた。沸いた衝動を誤魔化すためにもう一度、唇を重ねる。舌を忍び込ませてさらりと軽く撫でる。
「……うん。君、コンビニでブレス系タブレット買ったほうがいいよ」
「っ!それはあんたもだろ!」
 二人で笑って、玄関へと向かう。上がり框の、降谷はこちら側。新一はあちら側。
 立場は違えど、二人が追い求めるものは同じ未来。主張する正義の形だって、新一とは別のものだ。けれど、それでいいと思えるのは、新一がずっと変わらず傍らに立ってくれているからだ。
「それじゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい。高明さんたちによろしく」
「おう」
 扉が開かれ、差し込む朝の光と清廉な風。
 白く差す眩しさに目を眇めた。逆光の中、君はどんな顔で笑っているのだろう。
「ちゃんといい子で待ってろよ?零さん」
 頷いて送り出す。
 新一が帰る場所。降谷が帰る場所。
 残り僅かの今年も、その次の年も。そのまた次へと続く日々を連ね、ひと月を綴り、重ねゆく。
 なんでもない毎日を、君と彩り豊かに生きていけるのなら。
 二人の帰る場所を守り続ける強さを与え、与えられてゆけるのならば、これ以上の幸せはないのだ。




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