四季折々に想う。一 11月



十一月十五日(金) いい苺の日

 ピロン。ピロン、ピロン。
 サイドテーブルに置かれたスマートフォンが軽快なポップアップ音を奏でる。ぼんやりとした頭で引き寄せ、文字の羅列を目で追って。
「……どっちでもいい」
 投げやりな呟きと同じ言葉をそっくりそのまま相手に返した。
 メッセージアプリ画面の左側に、また音と共に吹き出しが現れる。
「ンだよ寝かせろよ……こちとら病人だっつーの」
 相手は西日本一の名探偵(自称)。多少おざなりな態度でも許される。見舞いと称して彼女と東京観光したいだけだろう事はお見通しなのだ。
 第一、熱で臥せっているのにたこ焼きとお好み焼きどっちがいいとか聞くな。コンディションの悪いときに食べたって有り難みも何もありゃしない。
 ピロン。ピロピロン。
 可愛い女子向けな猫のスタンプには『お大事に』の丸文字。これは間違いなく、和葉のチョイスだろう。この為にわざわざ買ったのか。スタンプを。気遣い系なんかあいつが持ってるわけがない。彼女に言われて渋々ダウンロードする光景が目に浮かぶ。
 それから続けて送られたメッセージに目を丸くした。
 『ほな、メガネのおっさんに苺持たしたるで早う食いや。』
 メガネのおっさん呼ばわりか。そして日本の警察官――しかも公安部の人間を宅配ボックス代わりにしたぞ、こいつ。自分のしてきた事を棚に上げて、新一は嘆息した。
「まぁ、――――いいか」
 新一も大概である。
 朝早くから元気な奴、と思ったが、時計を見やれば時刻は昼近くを指していた。上体を起こしてみるとスッキリとした頭が、熱は下がったと教えてくれる。喉のいがらっぽさは残っているけれど、この程度なら何でもない。全身の筋肉痛に近い倦怠感も、降谷に抱き潰された翌日に比べれば、だ。このまま起きようか、二度寝の幸福に浸るか。再び寝転がり、スマートフォンでニュースをチェックしながら、だらだらと過ごすこと暫し。
 やがてそれにも飽きてきて、よっこらせとベッドから降りて軽く体を捻った。うん、調子は戻ってきている。
 それほど空腹ではないが、薬を飲むためにご飯を軽く一杯流し込み。それからたくさん汗をかいたシーツと、布団カバーを一纏めにして洗濯機に入れる。液体洗剤をキャップに注ぐと丁度一回分でエンプティになった。
「まっじっかぁ……ストックも切らしてら」
 生活用品の買い出しは時間に融通の利く新一の担当だった。一緒に住み始めた時に決めたルールだが、始めのうちは切れそうになると降谷がさり気なく補充してくれていた。だが、新一がそれじゃ駄目だ俺を甘やかすなと怒ってからは、どんな状況でも手を出さないでいてくれるようになったのだが。
 さて、ひとっ走りしてくるか?と思案する。できればシャワーを浴びている間に洗濯機を回したかったが。しかし汗でべとついた髪で、すぐそことはいえ昼下がりのスーパーに行くのはさすがに躊躇われる。仕方なく服を脱ぎ捨てるとバスルームに足を踏み入れた。

 シャワーの水音に紛れてインターフォンのチャイムが微かに聞こえ、首と一緒にコックを捻った。はて、来客の予定はなかった筈。そもそも新一と降谷が一緒に暮らしいている事も、二人の住まいすらも一部の人にしか教えていない。
「いや……予定っつーか、来そうな奴がいたな」
 風見に見舞いの品を渡せなかったとか言って、押しかけてきそうだ。それなら待たせてしまってもいいかなとのんびり体を拭いてボクサーパンツを履いて、それからモニターを覗いた。その間もチャイムは等間隔で鳴り続け、服部のやつそうとうイライラしてんだろうなぁという悪戯心からだったのだが。
「……ぁれえ?風見さん?何で!?」
 慌ててスピーカーをオンにして、「風見さん!?」と呼びかける。風見は険しい顔をほっと緩ませ、モニターの前に箱を翳した。
『大阪の君のご友人からだ。降谷さんの代わりで申し訳ないのだが……』
 ということは、降谷は今日は帰ってこれないのだろう。週末休みだと言っていたから、きっと根を詰めて仕事に励んでいるのだろう。新一にしてみれば、それよりだったら、一日数時間でも一緒に居られたらそれだけでいいのにと思ってしまう。
「あ〜、ごめん、風見さん!今そっちに降ります!」
『いや、それには――』
「うち洗剤切らしてたんで、どのみち出る予定だったんですよ」
『……熱もあるのにそれは感心しないな』
「熱は下がりましたって。ダイジョーブ、すぐそこだし」
 そういや、この人もちょっと過保護メンバーの一人だった。コナンイコール新一だと知ってから、とにかく無茶をするので目を離したらいけないと考えている節があって、何かと気にかけてくる。
『いや、この箱だけ取りに来てくれ。洗剤は私が買いに行ってこよう』
「えええ……」
 そして、この人も降谷と同じくらい頑固だったなと思い出した。


 そしてお遣いを買って出た風見は、近所のスーパーで指定された洗剤と、他にもう一つビニール袋をぶら下げて帰ってきた。
「工藤くん、甘いものは好きか?」
「へっ?うーん、まぁまぁ、かな」
 そうか、と頷いてビニール袋から箱を取り出した風見に、嫌な予感を覚える。
「じつは、ついでに自分の家の分もと買ったら福引券を貰ってしまって」
 箱には近所のお菓子司の名前が。くい、と眼鏡を押し上げ風見は言い難そうに眉を顰めた。
「……いちご大福の詰め合わせ、だそうだ」
「いや、流石に16個はあり過ぎですよ……」
「そうだよな……」
「風見さん、半分こしましょう」
「8個も結構キツイぞ」
 ですよね、と肩を落とした。なにしろ、賞味期限は今日なのだ。店ももう少しこの辺り配慮してもらえなかったのだろうか。――後々にその事を言ったら、『こういうのはお裾分けで宣伝してね、という意味も含まれているんだよ。風見が当ててしまったのは災難だったな』と苦笑いで諭された。なるほど、と頷いておいた。
「降谷さんは食べられない?こういうのも公安的にはNG?」
 うむむ、と顎に手を当て悩んだ後、こういうのは本人に聞くのが一番だと、風見は降谷に電話をかけた。――いいのか公安。こんな事で私用電話なんかして。傍らで新一は呆れ笑いをするしかなかった。

 件のいちご大福は、明日中くらいなら十分美味しく食べれるからと、結局三等分して風見の分だけ持って帰ってもらった。これから職場で食べるのだろうか。降谷に睨まれながら。というか、四十路近いおっさんが一人デスクでいちご大福を五個も食べる姿はシュールというか憐れ味を感じて笑える。
 そんな訳で、今キッチンは苺の香り漂う空間と化してしまった。服部が風見に持たせた苺は二パック。お使いのお礼に一パックどうぞ、と言ったら固辞されてしまった。流石に生の苺を職場に持ち込むわけにはいかない、と。
 赤色はNGだと事あるごとに吠える降谷だけど、これだけ美味しそうな色艶の苺だ。きっと美味しいケーキか何かを作ってくれるに違いない。……と、思いたい。
 行儀悪く立ったまま、個包装されたいちご大福に手を伸ばした。和紙の包みをぺりりと剥がして半分頬張る。――うん、美味い。
「確か、降谷さんの緑茶がここらへんに……」
 戸棚にあった二種類の茶筒のうち、薫りがいい方を選んだ。急須に目分量で入れ、ポットから直にお湯を注ぐ。馥郁とした芳香が苺の香りに負けじと立ち上る。マグカップに注いで、一口啜る。円やかな舌触りが、いちご大福の酸味と餡の甘みとマッチして自然と頬が緩んだ。
 昼下がり、なんだかイケナイ事をしている気になって少しウキウキしてしまった。浮かれてお茶をお代りし、また更に新たに茶葉を淹れ直して。気がつけばいちご大福は5個全てぺろりと平らげていた。
 ついでと苺も数粒つまみ食いして、降谷が見たらきっと目を三角にしてこう言うだろう。「おやつばかり食べてないで、ご飯もしっかり食べるように!」――と。
 余談ではあるが、茶葉が元から少ないなとは思っていた新一は、後からグラム一万円の高級玉露と知って滅茶苦茶謝った。自分へのご褒美だったと肩を落とす背中に漂う哀愁に、うっかりでも茶葉を多く使ってしまった罪悪感に苛まれ。
 それをネタに、ベッドであんなことやそんなことをさせられると知っていたら、絶対手を出さなかったのに。全ては後の祭りである。

「あーー、降谷さん早く帰ってこねぇかな!」
 ぐい、と温くなった緑茶を一気に飲み干した。



十一月十六日(土) 録音文化の日

 ブラインドの隙間から朝日が差し込み、空中に漂う細かい埃がちらちらと反射している。疎らに埋まったデスクには仮眠の為に屍と化した者たちが鼾をかいており、その中でただ一人起きて一晩中書類と格闘を続けていた降谷は、暁光と共にゴールが見えてきたぞとラストスパートに向けて肩を回した。同時に上がったごりごりした悲鳴に音に眉を顰める。なんとしても、今日中に片をつけて帰りたい。
 また暫くディスプレイとにらめっこしていると、不意にデスクの上のプライベートのスマートフォンがサイレントモードで点灯した。
 キーボードを打つ手を止め、そちらに目をやる。集中力が切れた途端、眼底に溜まった疲れがどっと押し寄せてきた。眉間を強く揉んで、未だに着信を伝え続けるそれに手を伸ばす。発信元は、自分の帰りを待っているだろう人からのものだった。
 静かに席を立ち、廊下に出て通話をタップする。何か、不測の事態でも起きたのか。はたまた症状が悪化してしまったか――――
「どうした?」
 明け方の廊下は声がよく響く。トーンとボリュームを潜めて話すが、向こうからの応答はない。
「何か、あったのか……?」
 じゅうじゅうと何かの焼ける音に重なって、ザーザー水が流れている。かちゃかちゃ、キュッキュッ。状況を把握するにつれて、眉間に刻まれた溝が浅くなっていく。
 これは、キッチン……だろう。音がやや不明瞭なのは何故なのか。耳を押し当て、当の本人の声が全くしないことからおおよその見当はついたが。――と。
『〜〜♪〜〜♪』
「…………ッッ!」
 スピーカーからの遠く聴こえる鼻歌に、もう少しで吹き出してしまうところだった。
 咄嗟に口を手で塞いで、腹筋に力を入れる。
 調子っ外れの鼻歌は大層ご機嫌らしくノリノリで、少しずつ音量が上がっていき、ついにはメロディに歌詞が付いた。
『ふるやさんはしごとのおにぃ〜♪つのはにほんでアレもデカイ♪ヨッ日本一♪かなぼうもってる〜おお〜こわい』
「――――んグフッ」
 通話録音アプリを入れておいて良かった。新一自作自演の名曲は、そこらへんのJ-POPなんぞ目じゃない。
『イケメンイケメンれ〜さんは〜♪ヘイ!かっこいいけどかわいんだぜ〜♪ソーキュート!』
 その場に蹲った。――いやいや、そんな君が可愛いんだけどな!?もはやツッコミが追いつかない。
『はやくかえってこいこいふるやさん〜♪――出来上がりっ』
 ばこん、と蓋が開く音と、「いい感じに炊けたなぁ。この艶、この輝き。俺ってメシ炊きの天才じゃねえ?」という浮かれた独り言。続く朝食のおかずを盛り付ける音を、目を閉じそのシーンを想像しながら聞き続けた。
 やがて椅子を引く音がして、ゴソゴソと衣擦れのあとに『…………?ぇっ』と息を飲む気配。くぐもった音声が一気にクリアになった。
『あ、あの――――もし、もし?』
 その躊躇いがちな様子が、可笑しくて、可笑しくて。壁一枚隔てた向こうでいまだ夢を見ているだろう者たちの事など忘れて、声を出して笑った。
「あはははは!はは、あはは!」
『ん、なっ、まさか聞いてたのかよ!?盗聴アプリもうしないって言ってたくせに!』
「入れてない入れてない、君、ヒップポケットに入れていただろう?たまたまこっちに通話が繋がったんだよきっと」
『ホントかよ……うわ、マジだ。待っ……、これまさか、ずーっと聞こえて!?』
「あっははは!……アレがデカくてごめんね?」
『〜〜〜〜ッ!!』
 再度の笑い声の後に小さな声で付け足すと、プツ、と通話が切れた。笑いすぎて滲んだ涙を拭う。――――気合は充分だ。
 室内に戻り、何事かと体を起こしていた仲間たちを見回して朗らかに宣言した。

「――おはよう。さぁ、午前中で終わらせて帰るぞ」



十一月十七日(日) 蓮根の日

 日曜の午前だというのに、市場は大賑わいだ。ぶつからないようにと人混みをすいすい避けながら、先頭を行く男の後ろ姿を追いかける。遠く霞んだ淡い色をした秋の空と、この人の稲穂のような髪色はとても相性がいい、と新しい発見に心が浮足立った。
 やがて目当ての店を見つけたのか、進行方向が斜め左へと逸れていく。間もなくして辿り着いたのは、そこらへんに並んでいるのと対して変わらないような野菜売りの屋台だった。
「おはようございます」
 にこやかに、柔らかい笑顔で挨拶をする降谷を見上げた。これは、『他所行き』じゃないやつの方だ。相手は降谷の馴染みの人なのだろうか。新一は降谷の視線の先を辿った。
 並べられた野菜山盛りのカゴの向こうにいたのは、これまたどこにでもいそうな中高年くらいのおばちゃんが、二人。
 あら久しぶり、なんて笑って、この外国人風な外見の男相手に物怖じも照れもしない。コナンだった頃にポアロで見た、女性客からのハート付き視線しか知らない新一は、世の中にはいろんな女性がいるんだなと深く感心した。ちなみにその女性たちの中に自分の母やベルモットは含まれていない。あれは例外だ。別の生き物だ。
「しばらく見ないから、寂しかったのよ〜」
「はは、その分今日はたくさん買い込むつもりです」
「あらぁ〜」
 あっははは!と何がおかしいのか、この世代のおばちゃんはとにかくよく笑う。降谷もにこにこ顔だ。
「実は連れがね、先日風邪をひきまして」
「マァー、この子?そうね、細いわね。もっとお肉食べなさい、お肉!」
「まきさんここ八百屋だからお野菜でしょ、勧めるのは!」
「やダァそうよねぇ!」
 あっはっは!二重の声量が塊となってぶつかってきたので、思わず仰け反る。隣でも「ふっ」と小さくではあるが吹き出されて、思わずぎろりと睨み上げた。サッと逃げる顔が小憎たらしい。
「ゴホン。えーと、蓮根とそれから大根。……そういえば、葱も切らしていたよね?」
 気を取り直した降谷の言葉につい自然と頷いて、それから焦ってジャケットの裾を引いた。
「あ、あのさ……」
「ん?――ああ、この人たちは大丈夫」
「そ、そうなのか?ならいいんだけどよ」
 新一の知らない人脈、踏み込めない領域にいる、公安としての降谷本人と何か関わりのある人たちなのだろうか。それとも『安室透』を通して知り合った人たちなのか。持ち前の好奇心がもぞりと疼いたけれど、気配に敏い降谷が流し目で釘を刺してきたので肩を竦めて大人しくすることにした。
「あ〜、俺これ食ってみたいな!」
 誤魔化すように指さした先にはカラフルな野菜。よく見れば茎の部分は黄色や赤と色とりどりだが、葉の部分は普通に緑色だ。自分で振っておきながら、未知の野菜に首を捻った。
「……なんだこれ?」
 隣で降谷がああ、と頷く。
「スイスチャードだね」
「フダンソウはオススメよ!なんたって美容にいいの!お兄ちゃんにピッタリ!」
「……フダンソウ?」
 逆側に首を倒すと、さらに笑顔を深めて降谷が身を乗り出し、スイスチャードなるものを手に取る。
「不断の努力の不断に、草だね。地中海沿岸が原産だけど、和食にもよく合うんだ。栄養価も高いし、その昔薬としても用いられていたから、今の病み上がりな君にピッタリじゃないかな、それに――――」
「出たわよ、『れいちゃん』のウンチク!」
「れいちゃんってばね、あたしらより詳しいのよ〜!適当に頷いて聞き流しとけばいいから!」
 上がる笑い声とおばちゃん二人の寛容な笑顔、降谷の困ったような照れ笑い。和やかな雰囲気の中、新一は。
「――――じゃあ、これと、さっき『零さん』が言ってたやつ。下さい。あと他にいるものあんの?……零さん」
 大人気ない自覚はある。穴が開くほど降り注がれる視線にもそっぽを向いて、服の裾をまた引っ張った。……これじゃ、子どもみたいじゃないか。
 面白くない気持ちと、この場の空気を悪くしてしまった申し訳なさと。しんと静まり返った中で、市場の賑わいがとても遠い。
 降谷が何かを言おうと口を開いた所を遮ったのは、まきさんと呼ばれていた女性の浮足立った声。
「可愛いこと言うんだから〜!ちょっとアナタ!ちゃんと大事にしなさいよぉ!?」
 おばちゃんたちもからかっちゃってごめんね、ほら大サービス!これ食べて精をつけて!風邪なんか一気に治っちゃうんだから!まきさんそこの里芋も入れてあげて!
 あれよあれよと袋に詰め込まれる野菜たち。降谷が「いや」「あの、こんなに」「そんな悪いです」「えぇ……」と遮る努力をした果てで、遂に絶句してしまった後も。
 一週間分どころかひと月は保ちそうなくらいにぎっしり詰まった袋を二人で両手にぶら下げて、もと来た道を辿る。到着時よりもずっと密度の増した人波に攫われないように、ほんの少し、気持ち程度に身を寄せた。袋同士がぶつかって、がさがさと音を立てる。両サイドの出店からは肉の焼けるいい匂いや、朝カレーのスパイシーな香りが漂ってくる。
 健全な若い男が二人、その匂いに惹かれないはずもなく。だが、これではもう何も買えないなと苦笑した降谷は、それでもどこか嬉しそうだ。
 物珍しいものを見たような新一の目線に気付いて、ぽすんと肩で小突かれる。両手に持った荷物が揺れて、体がぐらついた。
「さっきの、すっごく可愛かった」
「は、ハァッ!?可愛くなんかねえだろ、つーか、痛え!」
 本当は自分に力がないだけだったけれど、悔しいので降谷の馬鹿力のせいにした。
「そういえば、君風邪ひきだった。そっちの袋も貸して」
「別に重たくなんかねえから、平気だっつの」
「いやいや。まきさんたちからも大事にしなさいって怒られたばかりだし」
 手元の攻防に気を取られた隙に、こめかみにキスをされて立ち止まる。
「〜〜〜〜ッ、れーさん!」
 そして、隙ありと袋も奪われた。しかも二つとも。
「たくさん寂しい思いをさせたからね、今日はとことん君を甘やかすよ、僕は」
 余計なお世話だと撥ね付けようとしたけれど、思いとどまった。降谷が言ったのは紛れもない事実だったから。
「……ハムサンドとアイスコーヒーは?」
「あはは、もちろん!」
「やった!んじゃ、車に一番に着いた方が夜の主導権を握るってことで!ヨーイ……ドン!」
 身軽になった体で、人気もまばらになった道を駆け出した。
「えっ!?ちょ、狡くないかそれは!……お、重っ」

 ――――さあ、楽しい楽しい日曜日の始まりだ。



十一月十八日(月) いい家の日、雪見だいふくの日

 原因は、本当に些細な事だった。と思う。
 晩ごはんの後の、お風呂が沸くまでの少しの空いた時間。
 会話の最中に何かの弾みでこっちからちょっと突っかかって、それを宥めるような大人の物言いが癇に障り。それが気に食わないと更にヒートアップしてしまった。
 でもこんなのはいつもの事だった。だいたい月に一回あるかないか。――一緒に住み始めた頃はしょっちゅうだったけど。その度に、年上である降谷が先に折れて、喧嘩の原因とそれに対しての二人の妥協案を探って。そうやっていつも上手くやってこれた。
 ――違う。降谷の優しさに甘えきっていた。それを分かっていながら、新一は自分の態度を改めようとしてこなかったのだ。


「――――だったら!今すぐ出ていけ!!」
 突然の怒号に、体も心も鉛になったみたいに固まって、動けなくなる。
 こんな、怒りを顕にした降谷の姿は初めてだったから。
 事件現場で声を張り上げたり、家でふざけていて声が大きくなったり。いつだって理性を纏う彼はそういう時しか大声を出さない。
 声を荒げて、負の感情を剥き出しにして新一を責めるなんて、今の今まで一度も無かったのに。よほど、自分の放った言葉に腹を立てたらしい。新一は『たかがそのくらいの言葉』の感覚だったのだが、降谷の冷たい青灰色の瞳が、怒りの度合いを表している。
 だから、新一も思わず謝った。「ごめん」と。
「それは何に対する謝罪?」
「え、と……」
「言えないだろ?……何にも分かっちゃいないんだよね、君は」
 それなら謝らないでくれ、なんて。そう言われてしまうと、もう新一には言葉にできるものがなんにもなくて。
 何も言わず書斎へと姿を消してしまった降谷の、さっきまで立っていた場所をぼんやりと眺めた。――じゃあ、どう謝ればいいんだよ。
 わかんねぇよ、と呟いたって、正解は与えられない。
 ソファにぽすんと腰を落とし、足を引き寄せ蹲った。ついさっきまで、怒りに任せて外に出ていく気満々だったのに、萎んだ気持ちではどこへ行く気にもなれない。仕方なく、先程までのやり取りを反芻する。

 口論が段々と激しくなっていく一方、自分でも引っ込みがつかなくなってきた自覚はあったから、一人になって冷静になろうとした。降谷の苛立つ気配から遠ざかろうと、とにかくここから出ていこうと。
 「出てく」と言い捨てた新一に、降谷は「出ていくって、どこに」と聞いてきて。それで、答えた。「どこって、家に帰んだよ。あんたの顔、今見たくねえし」そうしたら、降谷がいきなり激昂したのだ。
 ――――いや、一瞬。彼は表情を無くした。暗く凪いだ瞳に浮かんだものは、一体何だったのだろう。
「……顔見たくないって言ったくれぇで、あそこまで怒るこたねーじゃん」
 ぶちぶちと文句を垂れる。あんたはいいよな、一人になりたかったら書斎に籠ればいいんだし。そりゃ、ここの生活費ほとんど払ってもらってるし、家賃だってそうだ。降谷がここの家主なんだから、喧嘩したら不利なのはこちらの方だ。
 だからといって、「出ていけ」はないだろ。確かに出ていくと言ったのは自分だけど。転がり込む場所はいくらでもあるから、降谷に追い出されたってそれほど困りはしない。――でも。
「……あんな怒り方されたの、初めてだ」
 激しいうねりに飛沫立たせる波のような、火の粉を撒き散らし逆巻く炎のような。鋼の理性と感情を常に纏う彼を、制御できないほどに突き動かしたものは一体、何だったのだろう。
 何度思い返してみても、彼の怒りポイントが見当たらない。
 自分の言動を省みるなんてことは、よっぽどのことがない限り考えもしない新一の悪癖は、周りからもよくたしなめられる。「そういうとこやぞ、工藤」――うっせーな、ほっとけ。特に一番口を酸っぱくして言ってくる自称親友の呆れ顔を蹴飛ばして、毒づいた。それでも、次に浮かんできた顔には何も言い返せなくて眉尻が下がる。
「君は、気を許した相手には少々傍若無人な所があるから。――でも気を付けてね。君には君の生き方、人生があったように、相手にも相手の生き方や人生がある。君の言葉一つが、誰かの人生を傷付けることがあるかもしれない。相手を直接詰るものだけが、言葉の暴力ではないからね」
 ――もしかして、傷付けてしまったのだろうか。自分が何気なく言い放った言葉で。けれどそれが何なのか、考えてみてもやっぱり分からない。
 しん、と静まり返ったリビングに一人。いつもなら、夕食後は交互に風呂に入った後ソファに並んで座り、それぞれの時間を思い思いにまったりと過ごすのに。
 重苦しい沈黙から逃げるように、新一は立ち上がった。ダウンジャケットと、財布、スマートフォン、キーケース。必要最低限の物だけ持って、玄関へと向かう途中にある書斎のドアの前で立ち止まり、ノックを一回。
「……やっぱ、わかんねーから。アタマ冷やしてくる」
 数秒待っても、返事は無く。新一はつきんと痛む胸をアウターを羽織る事で覆い隠した。

 マンションのエントランスを出ると、ダウンを着ていても頬を刺す霜月の夜気にぶるりと身震いをした。駅がある方へと歩き出してはみたけれど、一歩一歩と進むごとにどんどんと気は重たくなるばかり。
 後ろ髪を引かれるような、なんだか間違った道を歩んでいるような。百メートル、二百メートルと彼のいる場所から遠ざかるにつれて、心が悲鳴を大きくしていく。
 ――いやだ、帰りたい。
 ――帰るって、どこにだよ。
 ――家に、帰りたい。
 だから、向かってんじゃん。家に。そう自分に言い聞かせるつもりだったのに。
 ぴたりと止まった足は、一ミリでも前に進むことを拒否していた。
「……そっちじゃないってか」
 白く吐き出された呼気が夜に溶けて消えた。
 自分が生まれ育った家は、確かに、『家』だけれど。
 自分が帰りたいと思うのは何時だって、あの人のいる処なんだ。新一と共にいられる空間、時間こそが僕の全てだと、口にしなくとも全身で表す降谷の横顔を思い出す。自分の傍で心身の寛ぎを得ている降谷こそが、新一の『家』なんだと。
 共依存とは全く違う、この感覚に付ける名を新一は知らない。だが、とても大切で、尊いものだという感覚。
 その境地に到ってからようやく、自分の失言と、降谷のあの冷めきった瞳の奥に浮かんだ感情の正体を知った。
 降谷はとっくに、自分の『家』を持っていたのだ。その居場所を否定されて、彼はどう思っただろう。怒りよりも先に浮かんだのは。
 蘇る彼の一瞬の表情の欠落。――――哀しい、寂しい。
 まるで、今の自分のようだ。居るべき場所を見失ってしまった、孤独な迷い子。
「……傷付けちまった。バカだな、俺」
 自虐の言の葉は風に揺れ。滲んだアスファルトを、強く瞬きすることでいつもの風景に塗り替えた。
 帰ろ、と呟いて踵を返す。
 帰って、降谷に謝ろう。こんなガキみたいな自分を、それでもまだ好いてくれるなら。
 降谷もきっと、凄く落ち込んでいる筈だから。あんな暴言を新一に吐いてしまって、自分を責めていない訳がない。だから、強く抱き締めて伝えてあげたい。怒鳴られたくらいで怯むようなタマじゃない、と。そんくらいで壊れるような柔な家じゃないと。


 途中寄り道をして、マンションのある通りへと曲がる。そこで新一は佇む人影に目を丸くした。
「……零さん」
 エントランス脇の、外灯から少し離れた陰に潜むように、ひっそりと。降谷は新一の声に反応して、俯いていた顔を向けた。
「……おかえり」
 逆光で表情は見えないけれど、声色はいつもと変わりない彼のものだ。
「ただいま。中で待ってりゃいいのに。寒くねえ?」
 歩き続けてきた新一は、ダウンを着てるのもあって寒さはそれほど感じない。だが、降谷は薄手の部屋着にウールコートを羽織ったのみだ。マフラーも巻いていない首元で襟足が、突き刺す風に揺れた。
「そんなには――――いや、やっぱり寒かったかな」
 なんでもない事のように話す降谷の、それは精一杯の弱音だ。
 新一は空いてる方の手で降谷の手を取り、引っ張った。
「じゃあ早く帰ろうぜ。俺たちの『家』に」
「っ、……新一くん、ご」
「待ーった!それは俺のセリフ!」
 ポン、とエレベーター到着の音がして、会話が途切れた。
 空の箱に乗り込み、扉が閉まる。新一はもう片方の手にぶら下げていたコンビニの袋を掲げて見せた。
「お詫びといっちゃなんだけど、着いたら二人で半分こしようぜ」
 手ぶらで帰れないと入ったコンビニ。そこのアイスコーナーにあった、毎年何故か寒くなると食べたくなるアイス。一つのパックに二つ入っている、薄くて柔らかい膜を纏ったまぁるい形が、今の自分たちのようだと思ったから。
 新一は、遠回しすぎるかな……と降谷の顔を窺った。
「ごめんな、零さん。もう、あんな事言わない。出てく時は出ていくけど、ちゃんと家に帰るから」
 ふ、と吐息で笑う降谷の瞳を覗き込む。――もう、寂しい迷い子はいない。

 手を繋ぎ帰る、二人の家路。



十一月十九日(火) 世界トイレデー

 万策尽きてピンチ。……これは、マジでヤベェ。
 新一は、呆然としてその場に立ち尽くした。
 長い事打ち捨てられていた場所はカビやアンモニアの臭いもキツく、どうにかしようとも窓の無い地下フロアは電気も通ってないから当然、換気扇が仕事をする筈もない。
 ひび割れたタイルと、目地の黒ずみ。すっかり干からびて汚れのこびりついた便器。
 ドアや壁には赤色スプレーの落書き。誰だ、『貞子注意』って書いた奴は。いや怖くないけれど。ちょっとセンスが古いなと思ったくらいで。
 建物通路へと唯一通じているドアは、塞がれている。否、新一は、閉じ込められていた。
 ――廃商業ビル地下フロアの、従業員トイレに。たった一人。

「高木刑事、気付いてくれっかな……」
 一緒に調査に来た高木は、上階を調査していたはずだ。一時間後に連絡を取り合って合流する手筈だから、遅くともその頃には気付いてもらえるだろう。だが。
 床の隅を、多足の虫がさわさわと横切っていく。
 切実に、今すぐ。ここから出たい。
 出たいのだが、通路へと続くドアはノブの部分が完全にばかになっていて回しても空回りばかり。チューブラ錠と呼ばれるこの手のものは、ピッキングでの解錠が容易く、防犯性が低い。そして安全面においても、危険度の高いものだった。まさか出ようとノブを回したら鍵がかかってしまい、さらにそのノブが壊れているなんて。
 ガチャガチャと激しく回しても、体当りしても駄目だった。もともと建付けが悪くなっていたせいで開けるときも軋みが凄かったのだ。これは完全に歪んで嵌っているな、と冷静に判断した。
 さて、ならばと取り出したスマートフォン。少々情けなくはあるが、これで助けを呼ぶしかない。――――のだが。
「けっ……圏外ぃ!?」
 廃ビルにWi-Fiが無いのは分かるが、4Gすら届かないなんて。いや、地下だから仕方ないのか?無駄あがきに上にかざしてみたりしたけれど、電波が入った様子はない。
「こんな時はダメモトでかけてみる!」
 高木の携帯番号を呼び出したが、当然の事ながら通じなかった。万事休す、だ。
 視界の隅ではさっきのやつがうねうねしている。生理的嫌悪感から粟立つ肌。……一時間も待ってなんかいられない!
「ダァッ!」
 渾身の力でタックルするも、若干たわむのみ。こんな時、自分のウェイトのなさを痛感する。二度、三度と打ち付けても駄目で、自慢の蹴りさえ効かない。
「くそ、あのシューズさえありゃな……」
 キック力増強シューズは、新一の脚力では危険だからと、今のサイズで作ってほしいという願いは博士に無情にも却下されてしまっていた。
 こうなりゃもう、残された手段は一つだけ。
 新一は大きく息を吸った。
「た、たかぎけいじぃぃぃ!」
 
 ――――工藤くん!?

 遠くで、呼びかけに応える声がした。高木だ。
「ラッキー!近くに来てた!高木刑事、ここです!」
 ドアをドンドンと叩いて知らせると、走って近づいてきた足音にホッと肩の力が抜ける。
「く、工藤くん!?――あれ、開かないぞ」
「鍵が駄目になっちまってるんです!建付けも悪くてビクともしなくて……」
「うーん、……ちょっと離れてて!」
 言われた通りにドアの前から離れた。といっても狭い男子トイレ内、三歩も歩けば壁に当たるし、男子用便器と個室トイレのドアの間は両腕を広げたくらいの幅しかない。かと言って、個室は一歩も足を踏み入れたくない有様だ。
 半泣き状態で奥の壁ギリギリに身を寄せた。壁に染み付いたアンモニア臭が鼻腔を刺す。なんだってこんな目に。何度目になるか分からない自問自答を繰り返している内に、通路では高木が何やらガタンゴトンと大きな物を引っ張ってきていた。恐らくは棚か何かで通路幅を狭め、それを支えに強く蹴り出す算段なのだろう。
「ドアを蹴るよ、気を付けて!」
 その合図で、ガン!と一発。ドアが大きくたわんだ。
「高木刑事、いい感じです!」
「よし!せぇ、……の!!」
 大きな音を立て、ドアが吹っ飛んだ。――もちろん、内側に。咄嗟にしゃがみ頭を庇う新一の前で、床と便器にぶつかったドアは跳ね上がり、頭上の壁に激突して落ちた。
「く、工藤くん!だいじょ――――ヒェェェッ」
 高木が世にもおぞましい物を見る目で、こちらを見ている。否、新一の頭上斜め上辺り。どうしたんだと見上げた新一も、叫んだ。
「ぎ……ぎゃぁぁぁぁ!」
 長年使われていなかった換気扇は、湿気を好む虫たちの棲家となっていた。それがドアがぶつかった衝撃でわらわらと湧いてきたのだ。
「た、たか、たか、たかぎけぇじぃぃ」
 腰が、抜けた。やばい。きっと自分はここで死ぬのかもしれない――――虫にまみれて。B級映画でよく観たやつだこれ。
「工藤くん!」
 だから、己の危険を省みずに飛び込んで助けてくれた高木に思わずきゅんとときめいてしまったとしても、罪は無い……はず。
「とにかくここから離れよう!走れるかい!?」
「な、なんとか……でも証拠がまだ」
 へろへろのへっぴり腰で、よたよたと走る新一に肩を貸していた高木は「それなら大丈夫!」と力強く頷く。
「工藤くんがこのビルを見つけてくれたおかげで、上のフロアで見つけたよ。ありがとう、本当に助かったよ」
「そうですか、……それは良かったです」
 これで容疑者を逮捕できる、と喜色満面の高木には悪いが、閉じ込められ損の新一にとっては手放しで喜べなかった。
 正直もう、帰りたい。


「――――あっはははは!」
 一部始終を話して聞かせた後、ずっと我慢していた降谷は肘置きに置いたクッションに顔を突っ伏して、堪えきれずに笑った。二人がけのソファが、彼が笑うたびに小刻みに揺れる。
「笑いすぎじゃないですかね」
「あは、は、ひぃ、苦しい……!」
 新一が夜遅くに帰宅した時は、そのやつれ具合に物凄く心配してくれたのに。晩ごはんを断り、バスルームに直行してからの長風呂の後、「暫くは換気扇なんか見たくもねぇ……」とぼやいた。それを聞きつけた降谷から理由を尋ねられて、渋々と今日一日の出来事を話してやったら、これだ。
 完全にトラウマとなったあの衝撃的体験を、少しは慰めようとは思わないのか。慈悲はないのか。
 日本のトイレ文化の素晴らしさは、それを保つ努力の元に成り立っているのだな、としみじみしながら帰ってきたのに。少しばかり上向いた気分も台無しである。
 睨めつける新一のいがいがした視線も気にした様子はない。それどころか、長いため息の後「ああ、笑った」と落ち着いた直後に、また思い出したのか吹き出す始末である。
「れーーさん!!」
 もういい、寝る!と吐き捨てて立ち上がる。
 今回のことは完全に自分の落ち度だった。退避経路を確保せず、また十分な装備も持たず進入し、密室を作ってしまった。万が一を一切想定していなかった為に、あんな目に遭ってしまったのだ。
 己の至らなさに少しばかり自己嫌悪に陥って、降谷ならばこうはならないだろうな、と考えて比べてしまってはまた落ち込み。この話をしたとしても彼はきっと「自分ならこう対処する」なんて諭すのだろうなと悶々していたのに。実際は大爆笑されておしまいだったという。
 ――なんなんだよ、少しくらい心配してくれたっていいじゃねーか。
 幸いなことにトントン拍子に進んだ捜査のおかげで、明日は丸一日オフとなった。降谷は普通に仕事だろうけども、新一が翌日休みだと九割方ベッドに誘われる。だから、自宅の風呂場とはいえトラウマな換気扇の下でも我慢して、準備をしたというのに!
「ごめん、新一くん。笑いすぎた」
 どすどすと足音を立て、鼻息荒く歩く新一の後を追ってきた降谷が、寝室のドアの前で背後から抱き締めてきた。
「君は忘れているのかもしれないけど……。スマホに入れさせてもらったアプリ覚えていない?」
「……なんの」
「やっぱり覚えてないね。君の携帯が五分以上圏外の状態が続くと、僕の所に通知が来るようにしたじゃないか」
「はぁ?んなもん…………入れたな。そういや」
 インストールした。そうだった。思い出して、新一は何故高木があれだけ早く様子を見に来てくれたのかがやっと分かった。捜査現場さえ分かれば、新一の置かれた状況など簡単に推測できただろう。
 ……流石に、あの虫地獄までは想像出来なかっただろうけど。
 また思い出してしまい、ぞわりと震える。降谷の抱擁が心なしか強まった気がした。
「僕は例の任務であちこち行かされたから、その手の環境も慣れたけど……まあ、普通はキツイよね。僕の配慮が足りなかった。笑ってしまってごめん」
 ぐ、と言葉に詰まる。別に謝らせたいわけじゃなかった。笑いすぎなのは確かにむかついたけど。
「怒ってねーです」
「本当に?」
「ちょっとだけむかついたけど。それに、結局零さんに助けられちまってるし。俺もまだまだだなぁ、っていう自己嫌悪」
「そんなことないだろ?君は十分に凄い」
 首だけで振り向き見上げると、降谷と目が合った。新一を慈しむ柔和な眼差しと、目尻にある微かな笑い皺。四十路も近いというのに、この人は相変わらずだなぁなんて思っていたけれど、至近距離で見るとほんの少しだけども年齢を感じるとこもあって。
 そんな彼から見た自分は、まだまだ高校生のガキなのかななんて焦ってみたり、この人と十分張り合えているんだから成長したなぁなんて感慨に耽ってみたり。
 まぁ要するに、ベタ惚れなのだ。自分は、この男に。
「もっと褒めてくれたら、許してやるよ」
「はは、それなら任せて」
 熱が伝わる前に離れていく、優しく触れるだけのキス。
「僕からのご奉仕大サービスの大盤振る舞いしてあげる。お仕事頑張った上に、しっかり『準備』してくれた新一くんへのご褒美」
 ぱちんとウインクが飛んできた。
「っ……!」
 そんなところまでお見通しなのが、本当に。この男というやつは。
「足腰立たなくなるまで搾り取ってやるからな、覚悟しとけよ」
 ――悔し紛れにぶつけたセリフも、降谷の余裕の笑みの前では全く意味がないのだけれど。



十一月二十日(水) 多肉植物の日、ピザの日

 二人が住まうマンションのリビングには、南に面したベランダに続く大きな掃出し窓と、それから小さな採光窓が一つある。
 その小さな窓の、五センチほどの奥行のある木枠には、とても小さなサボテンの鉢が一つ。

 相棒からの、ズボラな新一でも育てられるから、という皮肉と一緒に受け取った引っ越し祝い。年に一度、たったの数時間しか花を咲かせないサボテンは、今年の六月に三度目となる綺麗な姿を月下の元に見せた。
 蕾が膨らむ頃になるたびに思い出すのは、二人分の荷解きで疲れているくせに、同棲スタートで妙にテンションが上がって、初めて体を繋げた夜のこと。あられもない場所を、降谷に暴かれ。自分のじゃないみたいな高い声を、降谷に聞かせて。そんな恥ずかしさやいろんな思いをまぜこぜにしても、やはり嬉しさが一番大きかったと今でも憶えている。
 あの夜、深夜に喉の乾きで目を覚まし、リビングからキッチンへと横切る途中に細長い窓から差し込む月明かりに視線が吸い寄せられた。足を止めて見入るのは、静謐な光を浴びて白く輝く一輪の花。
 満開へと咲き誇ろうとする姿に、降谷を重ねた。
 まるで新一のようだねと、いつの間にか背後に立っていた降谷が囁いた。
 ――俺は、降谷さんみたいだと思いました。
 二人とも微かな声で。そうしないと花が消えてしまいそうで。
 長くも短い儚い時間を、肩を寄せ合って静かに見守った。


 午後の日差しを浴びて、サボテンは静かに佇む。降谷と新一の日々を見つめてきた、小さな同居人。寒くなるにつれ休眠に向かうこの植物は、いまの時期は水やりも二週間に一回でいい。相棒の言うとおりなのが癪だが、確かに自分に合っている。霧吹きで水を吹きかけて、世話はお終い。
 また来年も、綺麗な花が咲くといい。その時も、降谷と一緒に見られるといいなと思う。
 ほんわり暖かい日差しと心と。鼻歌交じりで新一はソファに寝転んだ。足元に畳んで置いていたブランケットを引き寄せて、三度寝の姿勢に入る。
 その前にとスマートフォンのメッセージアプリを開いて、降谷から届いていた体調を気遣う問いに返す。
『晩ごはんはピザが食べたい。マルゲリータ。
 あと、腰がマジでヤバイんですけど!』
 意趣返しに真っ赤なピザでも美味しそうに食べてやろうとほくそ笑みながら、目を閉じた。



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