四季折々に想う。一 11月

十一月九日(土) いい靴の日

 個人で構えた探偵事務所からの帰り道のこと。
 夕刻の忙しない人の流れに乗って早足に歩いていると、不意にぷつりという感覚と、左足の浮遊感。歩道の端に寄り、爪先を見ればレースアップシューズの紐が切れていた。
「あっちゃぁ……」
 さてどうするか。降谷の顔がちらついたが、土曜日なんて関係なく帰宅時間が遅いときは遅い人だから、彼に車で迎えに来てもらうのは難しいから却下だ。
 少し考えて、ショルダーバッグを漁り結束バンドを無理やり穴に通して応急処置を施した。見た目はアレだが、家に着くまでのガマンだ。但し、降谷には思い切り笑われるだろう。いや、むしろ呆れてこう言うに違いない。『だから靴だけは日頃からマメにメンテナンスした方がいいって言ったのに』と。
 電車では足を無意味にクロスさせて左の足元を隠した。何しろ、今日着ているのは降谷から贈られた良い仕立てのスリーピースなのだ。靴から靴下、タイピンに至るまで全てが降谷セレクトの。一時期『東の高校生探偵』として名を馳せた過去を持つ身としては、変な所は見せられない。
 昔の俺だったら、こんなの絶対気にしねーでいたろうな、とふと思った。
 ファッションセンスも持ち合わせてなかったから、学生時代は蘭や親に適当に見繕ってもらっていた。降谷と付き合い始めてからもその辺りのズボラさは変わらずで、だがそれではいけないと彼は新一に似合う服を押し付けるだけでなく、TPOに応じた自分の見せ方というものを同時に教えてくれるようになった。
 大人の男だなあ、と。こうして振り返る度に、しみじみ思うのだ。電車の窓に映るのは、二十五の若き青年の横顔。追いつき追い越したくても、この経験の差ばかりは縮められそうにもない。


 ――結論から言うと、降谷はこの日帰って来なかった。いや、来れなかった。

 きつく縛った為に靴が脱げず玄関で四苦八苦している間も、片足ケンケンでハサミを取りに行き、靴を傷つけずに結束バンドを切ろうと体を捩らせ脚が攣っていた間も。
 外食のお誘いも厳しい時間帯になってやっとで部屋着に着替え、適当に夕飯を済ませた。その後キッチンの床を軽くモップ掛けする段になってから、今夜は帰ってこないだろうなと見当をつけた。
「あーー……。しまった」
 モップの柄頭に両手を置き、顎を乗せて昨夜の自分が言った言葉を反芻する。
「……明日、なんて言うんじゃなかった」
 確かに今日は午前中に大事な用事があった。だけど軽くならやったって差し障りはなかったのに、脳の端っこをうろついていた眠気を優先させてしまった。
 降谷は今日帰れない事を知っていて、昨夜あんなことを言ったんじゃないだろうか。それならそうと教えてくれれば、まぁ一回くらいなら、と新一だって応じたかもしれないのに。
 非常に面白くない面持ちになって、モップ掛けをとうとう放棄した。どうせ明日も一人休日だ。今日やれることも明日に廻してしまおう。
 白けた気持ちでリビングに戻りテレビを点けると、緊急速報のテロップと共に画面一杯に映し出されたのは、燃え上がる港倉庫の空撮映像。
『――こちら一時間ほど前の映像になります。偶然東都上空を飛んでいたTV局のヘリが――――』
『事件か事故かは今現在情報は入ってきておりません。なお……、』
 緊迫したアナウンサーの声がいやに耳に突き刺さる。
 まさか。降谷が帰ってこないのは。
 咄嗟にスマートフォンを手に取り、降谷に電話しようと画面を開いた。だが、コールボタンを押す直前にそれを思い留まる。
「いや、ダメだ……。関係ないかもしんねーし。関係あったら尚更俺からの電話に出てる暇なんかねぇし」
 もどかしい思いを抱えて、ただ離れた場所から降谷の無事を祈ることだけしかできないなんて。
 画面では赤い赤色灯が多数押し寄せている様子がみえる。放水で消火を試みる中でまた一つ大きな爆発が起こり、テレビのスタジオ内のどよめきが新一の内心の焦りを煽った。
「くそ、黙って見てなんていられっかよ……!」
 踵を返す新一を見ていたかのように、スマートフォンのコールが鳴り出したのはその時だった。
 どくん、と胸を打ったのは嫌な予感。帰り道に切れた左の靴紐。優秀な頭脳が要らぬ知識を披露してくる。
『アクセサリーは付ける位置によって様々な意味合いを持つ。アンクレットであれば、左足首につけるのは恋人、パートナーがいるという意味になる。またお守りの意味も込められており――』
「……は。ンなの関係あるかよ」
 からからに乾いた喉を潤そうと、ごくんと唾を飲み込んだ。しつこく鳴り続けるスマートフォンを手に取ると、表示された名前はまさに案じていた人物からのものだった。
 コール音が十回を越えた所で、意を決して通話ボタンをタップする。
「降谷さん?」
 スピーカーの向こう側はどうやら現場らしい。というのも、ひっきりなしにサイレンや大勢の人の怒声が聞こえてくる。
 だが肝心の本人が何も喋らないままなので、新一は不安に胃の辺りがざわざわしだしてきた。
「ふるやさん……です、よね?」
 何か言えよ、と心の中で悪態をつく。なぁ、無事なんだよな?あの爆発に巻き込まれたりなんか――――
『……今、家の中?』
 ふぅ、と息を吐き出された後に続いた声は、降谷本人のものだった。
 同じように、知らず詰めていた息を吐き出して新一はくしゃりと前髪を掻き上げた。全く、心臓に悪い!
「分かんだろ、こんだけ静かなんだからよ!それより降谷さんは大丈夫なのかよ、怪我とか」
『後ろからサイレンが聞こえたから、テレビの音だと確認できるまで安心出来なくてね。事件ホイホイの君が巻き込まれていなくて良かった。兎に角、この通りなので明日の昼までは帰らない』
「明日も帰らんなくね?」
『いや、一旦戻る。着替えを何着か用意しておいてくれると助かるな。あと、』
「あと?」
『……お昼は君の作ったものが食べたいな』
 どうやら公安のエースはお疲れらしい。小さく甘える声に、口の端が緩む。
「りょーかい!とびっきりのご馳走用意して待っててやるから、もうひと頑張りしてこい」
 はは、と溢れた笑い声は疲れてはいたが、さっきよりは元気が出たようだ。
 なんだかんだ理由を付けて、きっとこの人は自分の声が聞きたかっただけなのかもしれない。降谷は新一の事件吸引体質を嫌というほど見聞きしてきたから、心配だったのだろう。例え新一にその気は無かったとしても、あれよあれよと巻き込まれてしまう運命にあるから。
『ひとまずは安心したよ。それじゃあね、暖かくしてお休み』
「ん。おやすみ、零さんも気をつけて」
『ああ、……あ?ちょっ、新一く』
 プツン、と通話終了を押す指は僅かに震え、耳も頬も暑くて背中には変な汗が湧き出ている。
「は…………初めて言っちまった」
 恋人同士になってからの三年間、彼を名前呼びした事は実は一度もなくて。たまにせがまれていたけども、その度に恥ずかしくて照れ臭くて、はぐらかし逃げ回っていた。
 ――特別な日は、何でもない日常にこそ紛れてそこに有るものなのかもしれないよ
 降谷の言葉を思い出す。
 毎日同じ朝を迎えて、夜を共に過ごすことの僥倖を。新一はもっともっと大切にしなくちゃいけないのかもしれないと思い知らされた。
 だからという訳ではないし、新一だって降谷を名前で呼びたいとそのタイミングを掴みあぐねていたからこそ、今がその時だと思ったから。
「あー、クソ。恥ずかしいぞこれ!」
 つーか、明日の昼メシ何作りゃいいんだ、と悩みだした新一は靴の事などすっかり忘れていて。
 翌日の昼過ぎに帰宅した降谷から、新一は名前の件よりもまず靴の手入れに関してお小言を頂く羽目になったのであった。



十一月十日(日) ハンドクリームの日、いい頭皮の日

 
 玄関を開けて真っ先に、可愛い恋人の名前を呼ばわるつもりだった。昨夜、電話越しの彼が最後に放った声が今も頭の中でわんわんと響き渡っている。
『ん。おやすみ、零さんも気をつけて』
 まったくもって、卑怯にも程がある。あんな、あんな可愛い……可愛いとしか言いようがない呼び方をされれば、誰だって張り切らずにはいられなくなるだろう。
 溢れんばかりのエネルギーをチャージした降谷は、それこそ寸暇も惜しんで働きまくった。おかげで事後処理は大方目処が付き、予定通り昼間に現場を離れることが出来たのだ。
「ただいま、しんい……ち、くん」
 出迎えに来てくれるだろう可愛い恋人を思いっきり抱きしめて、キスをして。もう一度名前呼びを強請るつもりだった。玄関先のきちんと揃えられたビジネスシューズの、片方を見るまでは。
 ――紐の代わりに、切れた結束バンドが穴に刺さっている。
「お帰りなさい、降谷さ――ゲ、やべっ」
 慌てて掴んで後ろ手に隠す仕草も可愛い。今更だというのに、目の前で隠してどうなるというのか。
 やれやれと頭を振って、長く息を吐き出した。
「新一くん。僕いつも言ってたよね?靴の手入れはちゃんとこまめにしておいた方がいいって」
「ううう、はい。仰る通りデス」
 しょぼんと項垂れる新一の右頬に手を添えて顔を上げさせ、不意打ちのキスを仕掛けた。残念ながら今日はここまでだ。
「時間が惜しい。シャワーを浴びてくるから、お昼の用意しておいて」
 ネクタイを緩めて言う降谷に、新一は「あっ」と声を上げた。
「あのさ……、どんくらい、いられんの?」
 くん、と袖を引っ張られる感覚。控えめに摘む仕草と上目遣いに心臓を撃ち抜かれて、降谷は呻いた。
「ニ時半……いや、三時までなら」
 だから、なんなんだこの可愛い生き物は。
 脱衣所にまで付いてきた新一は、なんと降谷と一緒に服まで脱ぎだした。
「あ、俺はさっき浴びたから降谷さんだけな」
 ボクサー一枚という刺激的な光景に、頭と下腹部に血が集まりそうになる。
「頭洗うの、サービスしてやるよ」
「本当?ありがとう」
 ――――仕事頑張ってきて良かった!
 内心でガッツポーズと雄叫びを上げて、降谷は風呂場へと足を踏み入れた。

 体や髪に付いてた煤を洗い流し、更には頭皮マッサージまでされて。ソファに体を預けながらのドライヤー付きという幸せ絶頂に、自分は果たして夢を見ているのでは、と頬をつねると、新一が「降谷さん、可愛い」と笑った。
「やっぱり夢かな。新一くんが僕のこと名前で呼んでくれないし」
「えぇ……、今それ言うのかよ?」
 ドライヤーの次はと待ち構えていたら、新一が愛用しているハンドクリームで手指のケアをされた。丹念に塗り込める彼の指先の動きで、当然の事ながら勃ったので期待を込めて新一の顔を覗き込むと、顔をペチンと叩かれる理不尽。
「オシマイ!今日の昼はパスタでいいだろ?ソースは出来てんだ。今茹でてくっからさ、座って待ってろ!」
 さっさと立って行ってしまおうとする新一の腕を掴んで、ソファに縫い止めた。気分は草食の小型動物を捕らえた肉食獣。過剰分泌していた昨夜からのアドレナリンが、まだ脳内に残留しているのかもしれない。
「ふ、降谷さん!」
「こっちが先」
「うぇっ、えっ!?ま、待って!ここで!?」
「ベッドまで待てない」
「いや、たったの何歩」
 ポイポイと新一から剥ぎ取ったものを放り投げ、勢いで下着も引き下げた。
「ギャッ!待ってよ降谷さんカーテン!カーテン!」
「ミラータイプだから外から見えない」
「バーロー!俺が!恥ずかしいの!」
 しっかりと反応を見せている新一のそこを見て、舌なめずりをすれば「ヒッ」と情けない悲鳴と共に手で隠された。微かな苛立ちに舌打ちをしそうになる。
「新一、本気で時間がない」
「……っ!ひ、卑怯だぞその呼び方!」
「名前、呼んでよ。ねぇ――――」

 眼下にある蒼天の瞳に映る己は、それはそれは凶暴な笑みを浮かべていた。


十一月十一日(月) チーズ、サッカー、サムライ、宝石、ピーナッツ、勇者、折り紙、生ハム、ポッキー、うまい棒、スティックパン、麺、鮭、もやし、たくあん、電池、おそろい、豚まん、配線器具、靴下、の日

 スマートフォンのディスプレイに浮かぶ、『11:11 11月11日』の文字。
「っし!」
 思わずガッツポーズを決めて、スクショに収めた。
 上向いた心でデスクの上をささっと片付けてショルダーバッグを掴む。画像と一緒に一言メッセージを送信して、新一は自分以外誰もいない探偵事務所を後にした。

 目暮警部から呼ばれて、事件のあった場所へと向かう途中、近道に緑地公園を突っ切っていると、どこからともなくサッカーボールが飛んできた。難なくヘディングで受け、数回リフティングしてから走ってきた小さな――といっても小学生くらいだろうか――子どもたちにパスをする。
「ありがとーございます!」
「おう!おめーら学校休みかぁ?」
「土曜日のふりかえきゅうじつ〜!」
 バイバイと手を振って駆けていく後ろ姿を懐かしく見送って、また歩き出した。
 コナンだった頃に共に事件に巻き込まれ……いや、何かとつるむことの多かった小さな友人たちも、今や十四歳。部活や勉学の傍ら、時々集まって探偵団の依頼も受けているのだと教えてもらった。とはいえ失せ物探しやペット探しばかりだけれども。
 だが、先日探し物の依頼からたまたま宝石強盗犯を見つけて捕まえ、新聞に載ったのには驚いた。特に歩美は年頃の女の子なのだ。元太や光彦よりも身の危険度は高い。『おめーら、危ねえことすんなよな……』後日博士の家で会った時に大人として釘を刺すと、歩美から、ちゃんと高木刑事に付いててもらったもん!と言い返された。ちゃんと博士からもらった身を守るアイテムを着けていました!とは光彦の言だ。
 元太は小学校の中学年になったあたりから空手を習い始め、蘭からも筋がいいと褒められるくらいに強くなった。
 小さな勇者たちは、それぞれの強味を活かして逞しくなっていく。「一番弟子の座は三人分、空けておいて下さいよ」と相変わらずのちゃっかりさで光彦から約束させられたので、彼らが大人になるまで新一は弟子も共同経営者も作らない。彼らがどこまで本気かは分からないけれど、自分には待つ責任があると思ったから。

 呼ばれた先で、事件の現場から証拠を見つけ、犯人を推測し、裏を取って後は全て捜査一課に任せた。罪人を捕らえ、断罪するのは自分の役目ではない。世間一般からの称賛よりも、新一はたった一人、唯一にして至上であるその人から認めて貰えるならばそれでいい。
『君は士(さむらい)のようだね』といつか降谷が言った。そうかもしれないし、そうとは思えない気もするし。むしろ降谷の方が武士らしいと新一はいつも思うのだが。その黙して語ることのない背中を見る度に、言いたい言葉は音を失って胸の奥に降り積もる。声に出して称える賛辞よりも、抱きしめる事で伝えられる想いもあると、新一は降谷から教わったから。

 家路を辿る途中で立ち寄ったコンビニで、夕飯の弁当と酒のつまみを買った。あの爆破事件の規模からするに、まだあと二、三日は帰ってこれないだろう。鬼の居ぬ間のジャンキー生活だ。ついでにお菓子もカゴに放り込んだ。バタピー、うまい棒、それからレジ横に並べられたポッキー。外の寒さを思い出して、特製豚まんも一つ追加した。ちょっと買いすぎたかもしれないと、指に食い込むビニールの取っ手に自分で呆れた。
 コンビニの袋をガサガサ鳴らしながら黙々と歩く。家々の屋根の向こうに二人が住むマンションの上階が見えてきて、心なしか歩調が早まる。既に日はとっぷりと暮れ、首筋や項を刺す空気が一段と痛い。そろそろマフラーが恋しいなと肩を竦めて歩いていると、前から来るカップルが視界に入った。お揃いのマフラーをして手を繋いでいる。少し視線を下げて、すれ違った。
「んー……ああいうあからさまなのは、降谷さんはNGかなぁ」
 潜入捜査はもうないかもしれないが、所属がアレなだけに赤の他人から見て明らかに恋人同士だと思われる行為や物はしないし身に着けない。だから当然、指輪も無しだ。
 何か、贈りたいのだけれども。来月下旬に待ち構えているイベントで、新一は何がいいかと思いを巡らせた。そして何気なく上げた目線の先、誰かの部屋のベランダで風に揺れる靴下を見た。
「色違いでお揃いの靴下、ならアリか?」
 サプライズにはならないけれど、今度聞いてみようかな。宿題を一つ片付けた気分になって、軽やかになる足取り。それは玄関扉を開けて、ただいまを言うまで風船のように膨らんでポンポンと跳ねていった。

「たっだぁいまぁ〜」
 返事がないから、ただいまの挨拶なんて適当だ。ガサガサとコンビニの袋を鳴らしながら鍵を掛け、振り向くと足元にある一組の靴に目を丸くした。
「降谷さーん?帰ってんの?」
 それからふわんと漂う出汁の効いた醤油の良い匂い。
「……あ、あーッ!降谷さんそれ俺の夜食!取っといたやつ!今日食べようと思ってたのに!」
 おざなりに靴を脱ぎ捨て、ダイニングへと走る。奥から「やばっ」と焦る声とズズッと啜る音がした。
「降谷さん!」
 バン!と飛び込んだ先では降谷が丼に口を付けてスープを飲んでいた。否、飲み干した。
「それ、俺のやつだろ!残り一袋のちょっといいラーメン!」
「それを示す証拠は?」
 ちょっといいどころじゃない、一袋千円近くもしたやつだ。テレビで見た旅番組で、レポーターが美味しいを連呼していて気になって取り寄せた三食分入り2980円。降谷と二人で一袋ずつ食べて、残った一袋を降谷が新一に譲ってくれたのだ。僕が帰って来れない夜は、このラーメンを食べて少しでも気が紛れてくれれば、と言ってたくせに。口の周りをラーメンのスープでテカらせてもイケメンな所に腹が立つ。
「ゴミ箱見りゃ分かんだろ、杜撰な証拠隠滅図りやがってクソぉ……」
 目の前で降谷は空になった丼をテーブルに置いてすまし顔をして、しれっと言い退けた。
「だって君、ヘトヘトで帰ってきて冷蔵庫を開けたらモヤシと卵だけとか」
「帰ってこねーと思ってたんだよ。あーあ、明日の為に取っといたスティックパンまで食べやがって」
 もやしも卵も、明日の朝食で使おうと思ってたのに。恨めしげにブチブチと文句を垂れながら、新一は袋から次々と夕飯をテーブルに広げていった。
「新一くん……、君。まさかこれから一人晩酌するつもりか?」
「何か。文句でも?」
「生ハムとチーズまで。あぁあ〜いいなぁ、僕はこれから仕事だっていうのになぁ〜」
 頬杖を付いて聞こえよがしな独り言を吐いていた降谷は、新一が缶ビールを取り出した辺りでついに突っ伏した。
「羨ましい。もう電池が切れそうだ……」
 かしゅ、と弾ける音と共に泡が吹き出てきて慌てて吸った。
「っぶねー。……降谷さん、またしばらくは缶詰?ていうか今日帰ってきていいのかよ」
「んー…………もう行く」
「そうかよ。つーか、何しに帰ってきたんだ?」
「…………」
 黙秘。ということは、お仕事絡みで外に出たついでに自分の顔を見に寄ったのだろう。もしくはお腹が空いてたから補給しに寄った、とそんなところか。
 束の間考えてから、新一は席を立って未だにテーブルに伏せたままの降谷の上に背中から被さった。疲れ切った横髪をかき分けて、現れた耳に口を寄せる。
「零さん」
 ビキ、と音がしそうなくらいに降谷の体全体が固まった。
「お仕事、お疲れさん。もう一踏ん張りだろ、頑張れ」
「……もっと名前呼んでくれたら頑張れる」
「なんだそれ。零さん、ファイト♪」
「もっと」
「しゃーねえなあ。……武士みたいな零さんも好きだけど、そうやって甘えてくる零さんも俺は好きだぜ」
「…………!」
 捕まる前に逃げるつもりだったが、当然ながら彼の瞬発力に勝てる筈もなく。
 あっという間にテーブルに上体を仰向けに縫い留められ、深く唇を吸われた。
「んっ……んぅ」
 性急に差し込んできた厚い舌を受け入れ、好きなように暴れさせる。押し付けられる腰の動きとリンクした擬似的なセックス。
「ぁ、ンッ」
 一層強く体全体で押さえられて、逆のくの字になっていた腰が悲鳴を上げた。それでも、この重みを受け止めたいと甘んじる。
 唇だけの交歓でも、欲は大きく膨らんでいく。ようやく降谷が開放してベトベトになった口の周りを拭っても、奥に芽生えてしまった劣情の蕾は咲きたいと唸りを上げていた。
 そんな新一を見下ろして、降谷が弱りきった笑みを浮かべた。
「――ごめんね、時間だから。行ってきます。あと御馳走様でした」
 最後に軽くリップ音を立ててキスをして、頭を一撫で。物凄く腹が立って、蹴りを繰り出したが当然ながら笑って避けられた。
「だぁもう!いってらっしゃい!」
「あはは、いってきます」
 見送りはテーブルの上から叫んだ。動きたくないからだと見せかけて、その実腰が抜けて動けなかったから。それさえも分かっているみたいな笑い声に怒りが収まらないやら気恥ずかしいやらで、意味もなく「ちくしょー!」とがなり声を上げた。

 その後寝る前に、朝食をどうしようかと憂鬱な気持ちで覗いた冷蔵庫の中に鎮座していたのは朝定食のセット。納豆パックに、ラップのかけられた皿に焼き魚、卵焼き、沢庵の小鉢まである。忘れずに飲めと言わんばかりに置かれたお湯を注ぐだけの豆腐入り味噌汁。そして予約の入った炊飯ジャー。
 新一が食事を外食か弁当に頼るだろうと見越しての、降谷なりの気遣いの表れに新一はまたしてやられた、と呻き声を漏らした。
「だぁから……!んなことする暇あったら自分の充電しろっての!」
 その時、スマートフォンがブブ、と震えてメッセージの着信を報せた。見れば降谷からだ。添付された画像に新一は、さっきまでの不機嫌も忘れて吹き出した。
 スクリーンショット画像に写るのは『23:11 11月11日』の文字。それから続けて、『一人エッチの手伝いが欲しかったら電話して』とのメッセージ。
 速攻で返事を入力して送信した。

『零さんのワイシャツと浮気するから、結構です』

 しっかり携帯の電源を落として、新一はスキップしながらキッチンを後にした。
 


十一月十二日(火) 洋服記念日

「降谷さん」
 呼び止める声は、風見のものだ。仕事に一区切り付いて、一人遅めの昼食を摂ろうと庁舎近くの飲食店へと向かう道すがらの事だった。
「風見か。どうした」
 彼も昼休憩は済ませた筈だ。ここまで自分を追いかけて来たということは、何か不測の事態でも起こったのだろうか。知らず険しくなる顔を見て、風見は「いえ、仕事の話ではなくて」と小さく手を振った。
「その、袖口のボタンが取れかかっているのに気付いてらっしゃないようでしたので……」
「袖?」
 右腕を上げると、「左の方です」という指摘に逆の腕を目の前に翳す。
 確かに四つ並んだ飾りボタンの一つが、糸が緩んで取れかかっていた。
「風見はソーイングセットなんてものは……」
「持っていません」
 だろうな、と相槌を打つ。コンビニにあっただろうかと思案していると、眼鏡のブリッジを上げて風見は言った。
「あの、降谷さん報告書待ちでしたよね。土曜日からほとんど休み無しで対応してくださったお蔭で、取り調べもほぼ済みましたし。一度ご帰宅されてはどうですか」
「帰宅なら毎日しているが」
「ほんの数時間じゃないですか……。せめて半日、仮眠室でなくご自宅のベッドで体を休めてくださいと言っているんです」
 宥める声にも覇気はなく、見れば風見のスーツも三日目でヨレヨレとなっている。
「……そうだな、替えを取りに行くついでに一眠りしてくるか」
 おそらく目の下も凄いことになっているのだろう。今帰っても新一はいないだろうが、たまには一人でベッドを占拠して熟睡するのもいいかもしれない。
「風見、すまないが班内でも交代で一日ずつ休みを取るように指示を。僕は六時間後に戻るから、風見は引き継ぎのあとに休みを取ってくれるか」
「六時間て、せめて半日取りましょうよ降谷さん」
「まだその状況ではないからな。とにかく、頼んだぞ」
 強制的に会話を打ち切り、飲食店から自宅へと足の向きを変えた。一度帰ると決めたら途端に体が休息を欲して悲鳴を上げだす。くたくたのスーツに発破をかけて、降谷は家路を急いだ。

 ほぼ目を閉じた状態でも、自分の住む場所くらいは勘で動き回れる。洗面所で歯を磨き、トイレ、それからキッチンで水を一杯。そのままダイニングの椅子に背広をおざなりに掛けて、寝室へと向かいながらベルトを外してトラウザーパンツを脱ぐ。掛け布団の上にそれとワイシャツ、インナーTシャツをぽいぽいと投げ置くと、もぞんと布団に潜り込んだ。
「ん……タイマー…」
 あと靴下もだ。爪先で掻くように片足ずつ脱ぎながら、手はスマートフォンを求めてシーツを彷徨う。
「けぃたぃ……」
 三時間後に起きて、支度をして。そういえば袖のボタン、ソーイングセットにあの色の糸はあっただろうか。
 脱ぎかけの靴下は土踏まずの辺りで力尽きた。うっかり枕の下に差し入れた手が、その快い圧と温もりに負けて動きが止まり。
 すとんと落ちるように、降谷の意識はそこで途切れた。


 スーツに袖を通すとき、降谷はいつも心を新たに気を引き締める。それは新一が初めて降谷の着替えを見た時から続いている儀式だ。
 ――降谷さんが着ると、ただのスーツも仕事着っていうよりも戦闘服!て感じがする。
 ベッドの縁に腰掛けて一連の動きを見守っていた新一が、照れながらもそう褒めそやした。
 ツーピースのラフさもいいけど、スリーピースはやっぱダントツ格好良い。靴下にも手を抜かずに上質なものを履けって、降谷さん見てたらなんとなく分かってきた気がする。俺もいつかそんな風にスーツをうまく着こなせるようになりたい。……とかなんとか。
 その日から、スーツは降谷の特別で最強の鎧となった。
 上層部の狸がチクチク嫌味を言ってきても、同世代や部下が降谷を転げ落とそうと足を引っ張ってきても。新一が褒めてくれたこの戦闘服で、降谷は戦うことが出来ている。
 日本を脅かす、いかなる者達相手でも怯まない。勇気と無謀は紙一重であり推奨されるものではないが、降谷には確固たる自信と強さがあった。それはすなわち、新一からの惜しみない称賛と広く深い思慕。
 それさえあれば、降谷は空だって飛べそうな気がするのだ。
 ――――否、事実二人は空を跳んだ。白い天馬で風のように駆け、不可能を可能にした。あんなギリギリな命の遣り取りは、黒ずくめの組織にいた時だってそんなに無かったというのに。
 その後の始末書や報告書、揉み消しと後始末に追われた日々も今は懐かしく思える。まぁ、こればかりは二度と御免だが。
 ふふ、と笑いがこみ上げて寝返りを打った。あの頃の新一……もといコナンは、無茶無謀をそうと思わないところがあって目が離せなくて。今もそうだけれど、でも信頼できる大人がいるという事を彼は受け止めてくれたから。一人で突っ走ることもなくなり、怪我の頻度も減った。それを褒めると、「無謀なんかじゃねぇっつの」と拗ねられて、誇らしい気持ちと共にやはり不安は拭えないのだが。

「いきなり笑ったかと思えば今度は唸ってる」
 不意に聞こえてきた呟きで、降谷の脳は一気に覚醒した。
「タイマー!やばい今何時だ!?」
 がばりと布団を跳ね除けて、床に足を付ける。ひんやりとした感覚と外気の肌寒さに、これは夕方どころか夜も遅い時間帯だと血の気が引いた。明かりの付いた寝室のカーテンは閉められていて、外は見えないが確実に夜である。
 シャワーなんか浴びてる暇もない。
 頭の中で算段をつけながらクローゼットに足早に向かうのを、それまで目を丸くして固まっていた新一が引き止めた。
「降谷さん、風見さんから伝言。『零時になっても起きなければ起こしてやってくれ。こちらは問題無い』だってさ。因みに今は二十時三十五分」
「はぁっ!?」
 何を勝手な。軽い憤りに、一揃えを鷲掴む手に力がこもった。
「なぜ君が風見と連絡を取り合っているんだ。……ネクタイはこれでいいか」
 もう適当だ、とチョイスしたものを横からひょいと取り上げられて、降谷は傍らに立つ青年を睨めつける。
「新一くん」
「いや止める気はねえぜ?ただ、時間ないからってここで気を抜くとどっかでポカするかもしんねーだろ」
 ネクタイはこっち!と押し付けられる。一歩離れて、新一は「うん」と満足そうに頷いた。
「夕方過ぎに電話来たんだよ。風見さんから。『あの人の事だから十八時前には来ると思っていたのに来ない。家で倒れていないだろうか』ってな」
 全力で駆けて帰宅しただろう新一の姿が目に浮かぶ。手渡されたスマートフォンには二件の着信と、メールがニ件。風見からと、新一からそれぞれ来ていた。
「ジャケットに入れっぱだったぜ?」
 呆れたあとに、会心のドヤ顔をする。これは、あのセリフが来るぞと苦々しい気持ちで目を瞑った。
「これでよく公安が勤まりますねぇ〜?」
 きしし、とからかう笑いに顔を覆った。
「……勘弁してくれ…………」
「あはは、まぁシャワー浴びるくらいはできんだろ。おにぎり握ったからせめて一個は食べてってよ」
 それから、と新一は笑顔で降谷の足元を指差す。
「それ、可愛い脱ぎ方してるの写真撮っていい?」
 つられて見下ろした己の足に、半分脱ぎかけのヨレヨレ靴下。なんてこった。
「――ダメ!絶対、ダメ!」

 後日。風見から「自分もあれ、よくやりますよ」と言われて、寝ている間に撮られた上にその画像を部下に流されていたのだと知った。



十一月十三日(水) いい父さんの日

「なんだ、父さん帰ってたのかよ」
「ああ、これを取りにね」
 そう言って、父――工藤優作は書斎に備え付けられた梯子の上から本から目を離さないまま答えた。
 その傍若無人な態度に少々カチンときながらも、降谷の目に映る自分もきっとこうなんだろうな……と新一はちょっぴり反省した。人の振り見て我が振り直せ。これからは読書中に話しかけられたら応えるようにしよう。

 依頼の無い日は、実家に戻って空気の入れ替えや掃除をする。コナンになってしまった頃は幼馴染の好意に甘えていたが、今思えばとてもありがたい事だ。とにかくこのバカみたいにでかい家は、自分一人でやるには数時間じゃ足りなくていつも一日掛かりになってしまうのだ。
 その度に降谷が自分の休みの日に二人でやればいいなんて言うけれど、折角の二人の休日を掃除なんかで費やしてしまうのもアホらしい。だからこうして、結構まめに戻ってきていたのだが。
「来るなら来るって言ってくれよ。心臓にわりぃな」
 ここの掃除は後回しにして、水周りからやっつけていこうかと書斎を出ていこうとすると、優作が「降谷くんは元気にしているかい?」と聞いてきた。勿論、本を捲くる手は止まらない。
 新一は足を止めて頷いた。
「元気だぜ?今はちょっとかかりっきりの案件があって缶詰だけど」
「そうか」
 パラリ、パラ、パラ。紙が捲れる音だけしかなくなって、新一はもぞりと居心地の悪さを感じる。
「――なぁ、父さん」
「うん?」
「父さんは、孫の顔見たいなーとか、思ったこと、ある?」
 ぺらり。こちらに半分以上背中を向けた形の優作の、表情は伺い知れない。
「……いや、わりぃな変な事聞いちまった」
 忘れてくれ、と続けようとした言葉は、優作の問いに発する機会を失った。
「新一は子どもが欲しいのか?」
 問われて初めて、自分がずっともやもやと抱えていた何かが何だったのか、そしてそのもやもやの発生原因も答えも同時に見つかり、大きく肩を落とした。
「あーー……俺ってホントまだまだだなぁ」
「はは、その様子だと自分で解決したかな」
「ああ。そもそも父さんに一般論なんて概念は無かったもんな」
「はっはっは」
 朗らかに笑うあたり、自覚はあるのだろう。そして、自分はそんな二人に育てられたのだ。
 降谷ももう三十七だ。四十路を前にすると、周りは大体世帯持ちになってくる。そんな中で自分という同性のパートナーといる事は、彼に劣等感や社会的不利を抱かせやしないかと、多分心の奥底では思っていたのかもしれない。先日、お見合いの席に向かう降谷の姿をこの目で直に見たのは初めてだった。何でもない事のように捉えていたけれど、実は自分でも気付かないくらい根深くしこりを残していたのだ。
「俺は自分が情けねぇ……」
「降谷くんもいい歳だろう。新一がそう考えてしまうのも無理はない」
「けどよぉ」
 自分とここまで関わらなかったらもしかしたら、見られたのかもしれない降谷の「夫」「父」という姿。思えば優作は同じ歳だった頃に高校生の自分という子供がいた。
 彼によく似た赤子をその腕に抱く姿を想像する。日本以外にも守るべきものを増やした男の姿を。それは、とても尊いもののように思えた。――が。
 優作の背中を見上げて気付いてしまった己の仄暗い願望を、新一はここに置いていくことにした。
 今更手放せるような恋じゃないし、自分が他の女性と結婚して子供を育てる姿なんてものはそれこそ想像できない。
「そもそも、俺に子育てなんか向いてねぇしな」
「大丈夫だ安心しなさい。僕たちでも育てられたんだ、お前にも立派な父の素質はある筈だよ」
「んー、……養子縁組?」
「家族の形は一般論なんかでは括れない」
「意味わかんねぇ」
「はっはっは」
 降谷よりも謎めいた話し方をする優作にだんだん面倒くさくなってきて、新一は今度こそ掃除の続きをしようと書斎から出た。

 閉じられた扉を振り返り、優作は誰に言うでもなくぽつりと真っ白な頁に言葉を乗せる。
「――この家という子どもを相手に頑張れているのだから、新一ももう立派な親なんだけどねぇ」
 埃を被ることなく並んだ本たちのみが、新一を静かに見守り続けている。彼らがその考えに至ることはないだろうなと、優作は手にしていた本を戻すと別の本棚へと手を伸ばした。



十一月十四日(木) 医者に感謝する日

 今日は散々な一日だった。
 くらくらする頭と気怠い体を引き摺りながら洗面所へと辿り着く。新一は重たく感じる部屋着を脱ぎ捨てパジャマへと着替えた。口の中のベタつきが気持ち悪い。歯ブラシを取ろうとしたが、それは手から滑り落ちて床の上へ。うう、と呻いてそれを凝視する。しゃがんだら最後、その場で立ち上がれなくなるだろう自覚はあった。
 鏡に映る自分の疲れ切った顔と、耳の後ろの冷却シート。まだじんじんと痺れたような後頭部には、大きなたんこぶができていた。利き手の右手首は捻挫のせいでテーピングが巻かれていて、何をするにも不便極まりない。そんなダメージを思い返していたらさらに熱が上がって来たようで、節々が軋み悲鳴を上げた。
 ――――散々な一日だった。けれど。
「新一くん、大丈夫……じゃないみたいだね。今日はうがいだけにして、歯磨きは明日にしたらいいよ」
 洗濯物は気にしなくていいからもう寝るんだ、と抱き込まれ。額にリップ音。
「一昨日熟睡できたお陰で仕事も捗ったし。週末は休めそうだから、それまでに元気になってね」
 肌に触れる感触から、スーツのままの降谷はまた庁舎に戻るのだろう。人恋しい気持ちはあるけれど自分で決めた事だからと、新一は黙って頷いた。


 昨日は、掃除を終わらせて夕方過ぎに実家を出た。来るときは暖かい日差しに薄手のアウターで十分だったのに、帰る頃には木枯らしと、やがて降り出した晩秋の雨。掃除で汗をかいた体が急速に冷やされ、二人の住むマンションが見えてきた段階で体に変調を来していた自覚はあった。
 恐らく、バスタブにお湯を張るのも面倒だとシャワーでささっと済ませ、卵かけご飯をかっこんで早々に就寝したのがいけなかったのだと思う。
 真夜中に自分の体の震えで目が覚めて、これは発熱の予兆だなとどこか冷静に判断した新一は、だるい体に鞭打ってベッドサイドに必要な物を集めて置いた。水のペットボトル、風邪薬、冷却シートとスマートフォン。これだけありゃなんとかなるだろ、と一人暮らし歴もそこそこあった新一の手際は素晴らしく、さぁあとは熱が上がるまで寒気と戦うだけだ、と布団に潜り込んだ。
 朝方には完全な発熱症状で、指一本動かすのも億劫な状態になっていた。確か今日は警視庁に行く予定をしていたはずだ。高木刑事に連絡をしなければ、と思うのに体は言うことを聞かない。そしてそのまままた、深い眠りにと落ちていく。
 ――――れい、さん。
 今一番逢いたい人の顔が、浮かんで消えていった。

 ――新一くん、起きれる?着替えさせるよ。
 ――高いな……。インフルエンザかもしれない。
 ――ほら、おぶさって。医者に行くよ。
 ――全く。人のこと言えないじゃないか。肝心な時に何も言わないなんて。

 ゆらゆらと揺られていく。広い背中は、いつだって頼りにしているあの人のものだと分かって、無意識にしがみつく腕に力を込めた。
 仕方がないなぁ、と苦く笑う声に安心して、また意識が溶けていった。

 目が覚めると、そこは見知らぬ場所だった――なんてことは無く。少し観察してここは新出先生の病院であると思い至る。
「あら起きました?ごめんなさいね、まだ先生、外廻りから帰ってきてないの」
 見覚えのある年配の女性はここの看護師の斉藤だ。今日は医院の定休日だが、新出先生はその日を使ってかかりつけの契約をしているお年寄り宅を訪問している。
 定休日なのに受け入れてくれたのは、新一もまた新出先生を担当医としているからで、季節の変わり目は特に風邪をひきやすい体質になってしまった自分の本当の事情を知る数少ない内の一人だからだ。
 それはそれとして、誰がここに連れてきてくれたのか。……なんて、考えるまでもなかったけれど。
「お連れさんはお仕事あるからって行っちゃったけど。相変わらずのイケメンさんねえ。先生ももう少しで戻ってくるから、寝てていいからね。これ、呼び出しボタンね」
 テキパキと熱を測り、「八度五分。まだ高いわね」と呟いて斉藤は出ていった。
 頭の下に敷かれた保冷枕が、移った熱のせいでぬるくて気持ち悪い。静かな病室内には加湿空気清浄機の運転音のみ。
 どうして、なんて。きっと高木刑事から風見刑事に、そして降谷にと連絡が行っただろうことくらい、容易に想像が付く。
 自分が起きるのを待ってから仕事に行けばいいのにと、甘えた思考は熱のせいだ。寂しいなんて思っちゃいねーし、と自分に向かって強がってみせた。
 夜に逢えたらラッキーぐらいの心持ちで、新一はまた目を閉じた。


「――それが、なんでこうなってるんだ」

 ベッドの上でうつ伏せになり、氷嚢をタンコブのできた後頭部に当てている新一を見下ろして、降谷は顔をしかめた。
 れっきとした不可抗力なのだが、もはや説明する気力もなく、目線だけで降谷の後ろで申し訳なさそうに立つ新出に訴える。
「すみません、僕が居ない間はいつも看護師の斉藤さんが留守を預かっているのですが、そこを狙って押し入り強盗が……」
「それは聞きました。僕が聞きたいのは、高熱で臥せっているはずの新一くんが何故、点滴台を振り回して強盗を無事撃退した筈なのにこんな余計な怪我を負っているのかと」
「それは……、転んだとしか聞いてませんけども」
「新一くん」
 うう、ともああ、ともつかない呻き声を漏らして新一は枕に顔を押し付けた。だって、まさか強盗犯がパチンコ玉が入ったを投げつけてくるとは思いもしなかった。ふらふらの体で必死に点滴台を振り回し応戦していたところに、投げつけられた袋の口からばらばらと溢れる小さな玉。窃盗罪!と叫びながらなんとか相手を撃沈させ、目眩でふらついた所に散らばっていた玉で滑って受け身を取る余裕もなく後ろにすっ転んだ、なんて。かっこ悪くて言えるはずもない。
 突き刺さる降谷の視線が爪楊枝レベルから徐々に険しくなっていき、今や剣山、否、降り注ぐレイピアだ。情けない話を暴露したくないと意固地に固まる新一と、細大漏らさず聞き出そうと躍起になる降谷と。事態は膠着状態に陥ったかに見えた――――二人の成り行きを心配そうに黙って見ていた新出が、ふと身を乗り出して言うまでは。
「工藤くん、もしかして右手首も捻挫していない?」
「えっ!?新一くん、見せて!」
 目の前に力なく投げ出していた右手に違和感は無かったので、捻挫なんかしてねぇ、と心の中で抗議したのだが、ただ単に熱による関節痛で分からなくなっていただけらしい。
 そっと持ち上げられた右の手首の僅かな揺れで走った痛みに、思わず新一も呻いてしまった。
「いっ」
「っ!ご、ごめん!」
 なんで降谷が泣きそうな顔をするんだ。呆れながらも見上げて、よくよく見れば滅茶苦茶疲れた感じの目元と隈と、うっすらどころじゃなく生えている無精髭。一体何時間まともに寝てないのだろう。
 新出が手首の処置をしながら、降谷に今夜はどうするのかと尋ねる。ここに泊まらせたい大人二人の気持ちが見え、新一は降谷の返事を待たずに「帰る」とだけ言った。聞こえたため息はどちらのものだろうか。
「――帰る。先生、ありがとうございました。薬も貰ったし、食いもんは帰り道にレトルトでも何でも買っていきゃいいし。……俺は、家で降谷さんの帰りを待ってたい」
 病院なら確かに、またぶっ倒れたって大丈夫だろう。でも、ここは二人の家じゃない。降谷が自分をさらけ出せる場所なんて、彼が安心して羽を休められる処なんて、世界中探したって一つしかない。
「それにさ、お医者さんのベッドは重病人の為にあけとかねぇと。先生だって、明日もいっぱい診るんだろ?俺は寝てりゃ治るから……」
 な?帰ろうぜ?と枕に半分埋もれた状態で、片目だけで語りかけた。
 傍目には無表情というか気難しそうな雰囲気を醸し出しているのに、降谷の変化を新一はちゃんと感じ取れた。本当に、この人は甘えられると弱いんだよな、なんて内心ほくそ笑む。
「――――少しでも具合が悪くなったら、僕か新出さんに連絡すること。いいね?」
 おう、と頷いて破顔して。引き攣る痛みもそっちのけでベッドの上でぴょんと跳ねて起き上がり正座したら、二人同時に「病人なんだから大人しくしてて!」と注意された。これでも大人しくしてる方なのに、解せぬ。

 帰宅後、パジャマに着替えた新一を降谷はかいがいしく世話した後、再び出ていった。
 ガチャン!といやに大きく聞こえた施錠の音が頭に木霊する。伸し掛かる秋の夜長を遮断するように、毛布を頭から被った。けほ、と軽く出た咳がたんこぶに響いて顔をしかめる。
 新一が病気になると、降谷は無条件に優しくなる。それに、自分が少しだけ素直になって甘えられるのも、こういう時くらいしかないし。
 でもやっぱり。寂しさが募ってしまうから。
「はやく、かえってこい」
 ――――れいさん。
 言いたくても言えなかった言葉を抱きしめるように、降谷の匂いが染み付いたもう一つの枕にしがみついた。

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