四季折々に想う。一 11月


十一月一日(金) 姿勢の日

「新一くんは姿勢が綺麗だね」
「……はぁ?」
 突拍子もない褒め言葉に、ソファに座り優雅に脚を伸ばして読書に耽っていた恋人の、ページを捲る手が止まった。
 ジトリと横目で「この人いきなり何言い出してんだ……?まさかなんか裏があるんじゃねーだろうな」と声には出さず勘繰る新一を見て、思わず笑いが溢れる。

 夕食も入浴も済ませ、就寝までのひととき。明日は二人共仕事で朝早く出るので、夜のお誘いは無しの暗黙のルール。
 けれどもスキンシップはしたい。したいけど、読書に没頭する新一の邪魔をするのも悪い気がして、隣で背もたれに片肘をつきながら、ぼんやりとスマホを弄りつつチラチラと盗み見ていた。あまりジロジロすると五月蝿がられるから、不躾でない程度に。
 そうして眺めていると、しゃんと背筋を伸ばしているでもなく、普通に背もたれに寄りかかっているのに、なんとなく――そう、本当に無意識に。するんと出てきた言葉が「姿勢が綺麗」だったのだ。
「……そりゃドーモ」
 本で口元を隠し、そっぽを向いた新一の耳朶が、赤くなっている。
「あはは、照れてる?」
「! っせーな、なんだよ構ってほしいのか?寂しいならそう言えよな」
 にやりと笑い、やり返したつもりだろう新一の言葉に一瞬、言葉が詰まり。
「……そうだったのかも」
 彼の時間を大切にしたい気持ちの裏側に潜む、無意識の真実をこれまた無意識に言い当てた、名探偵の腿に頭を預けて降谷は破顔した。



十一月二日(土) タイツの日

 ――見つけるつもりは無かった。と。言い訳させてもらえるならば、そう言いたい。

 クローゼットにある、降谷の下着入れの引き出しの奥。まるで隠すかのように片隅に、黒の靴下の後ろにそれはひっそりと仕舞われていた。
 靴下とは明らかに違う感触につい気になって指で摘みだせば、ロール状に畳まれていたそれはくるくると下に垂れ下がり、正体を表す。
「ストッキング……じゃない、タイツ?」
 数年前、蘭が冬のとても寒い日に履いていた記憶を思い起こす。透けて見えるのがストッキング、厚地をタイツと呼ぶのだと教えてもらったのだ。エロいのがストッキング、エロくないのがタイツだな、と覚えたあの当時を振り返る。
 いや、そんなことより問題にするべきは、何故これが、降谷の下着入れから出てきたのか。何故、ありふれたストッキングではなくタイツなのか。
 そして更に酷い事に気が付いてしまい、新一は己の着眼点の良さをこの時ばかりは呪った。
「着用済みじゃねーか……」
 どーいうことだよ、降谷さん!
 指先で摘んでない方の手で、顔を覆った。
 まかり間違っても、降谷がこの部屋に女を連れ込んでその女がこっそり仕込んだ物、なんて推理はお粗末過ぎてハナから候補にない。そう思える程度に二人の付き合いは浅くないし短くもない。となると、『あの人本人が履いた』のアンサー一択しか浮かばない。どういうことだ。
 その時背後で、寝室のドアが開く音がした。
「新一くん?干すのは終わったよ。お風呂…………あ」


 今日はそれぞれ早い時間に出勤し、定時で仕事を終わらせた後、待ち合わせしていたスーパーで買い物をして帰宅した。
 何も言わずとも、降谷は夕飯の支度に取り掛かり、新一は洗濯機を回しながら風呂掃除ついでに自分のアッチの方の準備を。それから取り込んだ洗濯物をしまう係と、洗ったものを干す係で分担し、やるべき事はさっさと終わらせて二人の時間を少しでも多く確保したいとせかせか動き回る。
 なにせ明日はドライブデートなのだ。久しぶりの二人の休日。久しぶりのデート。
 降谷も、新一も目に見えて浮かれていた。
 だから手に触れた下着とは違う感触を「降谷さんが隠し持ってる大人のヒミツ!」と思い込み、悪戯心で白日の下に晒してしまったのだ。


 降谷は顔面蒼白で絶句している。
『女装趣味があっても俺は軽蔑しませんよ』
『事件の押収品を持ち出しちゃダメですよ』
 どれもこれも見当違いな言葉だ。だがこの場を取り繕う良い言葉が浮かばなくて、新一も無言でただただ降谷を見ていた。
 問題のタイツはまるでばっちいものみたいに新一の指に摘まれプラプラと揺れている。
「ち……違うんだ新一くん。これは、その…………」
 誤魔化してお茶を濁すのか、潔く真実を明かすのか。
 降谷はやがてのろのろと上げた手の甲を眉間に押し当て視線を遮ると、しどろもどろに経緯を語り始めた。
「多分、三ヶ月前くらいかな。もう何日もまともに寝てなくて、やっと大きな案件を片付けて。ドラッグストアでゴムとローションと一緒に購入したのがそれだったんだ」
「脳がイカれてたんですね」
「ぐっ……うんまぁ、そうだね……。それで、新一くんに履いてほしいなと多分、いや絶対にそう考えて、けれどもサイズはMで合うのだろうかと帰宅してから不安になり……」
「履かねぇからその心配は無用だな」
「パッケージから出してから、それがストッキングではないと気付いたんだ」
「気にするとこそこかよ」
 ――その時点で捨てるという選択肢は無かったのか。無かったのだろう。だから今、ここにある。
「着用済みなのは?」
「フッ……流石だね名探偵くん。一度洗ったんだけど、分かっちゃったか」
「オイあんた今カッコつけたつもりだろーが物凄くかっこ悪ぃし、答えによっちゃ一生ヘンタイ呼ばわりすんぞ」
「だからあの時は凄く疲れてて、頭がどうにかしてたんだよ。自分で試しに履いてみて、破れなかったら大丈夫だろうと思って」
「いやもう全ッ然!大丈夫じゃねーし!」
 人間、寝ないとこうなるんだな。
 鼻の穴をふんすと膨らませて、新一は件の物的証拠をクシャクシャに丸めると、ゴミ箱に突っ込んだ。そうしてから、これでは生ぬるいと再度取り出しハサミで切り刻んだ。
 後ろで悲痛な声が上がったが、新一は気にしない。
 こうまでしないと、この人は開き直って今日のプレイとか言って履かせようとするからだ。
 フン!と清々した気持ちで振り向くと、意外にも降谷はそれほど落ち込んでいなかった。
 訝しげに片眉を上げると、彼は「まぁ、これでふんぎりがついたな」とこちらも憑き物が落ちたような表情をして。
「やっぱり、新一くんにはタイツよりもストッキングのほうが似合うよね」
 明日、ドライブの帰りに買っていこうか、なんて本人に聞かないで欲しい。あとそれも履く気はないので諦めてほしい。共に暮らし始めて二年と半年。初めて見せられた恋人の新たな一面に戸惑いよりも呆れが勝って、「ばーろぉ」とだけ返した。今夜のご飯のメニューを告げながら寝室を出ていく降谷の後ろに付いて行く。
 だから、上手く躱されてしまったクローゼットの奥、彼が秘密裏に買い集めた様々なアダルトグッズの存在を暴くところまでは辿り着けないまま。その夜初お披露目を迎えたそれらに、新一は度々泣かされる(啼かされる)こととなるのだが、この時は知る由もなかった。



十一月三日(日) サンドイッチの日

 目覚ましのアラームがなった瞬間に条件反射で音を消した。びきりと腰が鳴った気がするが、若さを自分の体に言い聞かせて大丈夫何でもない、このくらい平気だと深呼吸を繰り返す。
 ディスプレイの時刻は6時。眠りたい気持ちと使命を果たす気持ちとがせめぎ合い、勝利のゴングが響いたのは五分後。
 もそ、と布団から足を出してすぐに引っ込めた。寒い。
 少し前まで隣で寝ていた恋人の残していった温もりが誘う。ここは楽園だよ、まだ寝てていいよ、と。
 睦み合いは日付を越えたあたりまで続き、正直言って腰もだるいし眠気は取れそうもない。ここが踏ん張りどきだと己を叱咤し、新一は体のあちこちを庇いながらのそのそと布団から抜け出した。
 いつもより足腰に力が入らないのは、確実に『アレ』のせいだ。一体どこに隠し持っていたのか、問い質してものらりくらりと躱す降谷に、昨日引き出しから見つけたあのタイツはデコイだったと確信した。きっと、その更に奥にあったのだろう。もちろん、『アレ』も処分した。二度と使わせねぇ。
 床に落ちている部屋着を適当に拾い、キッチンへと向かいながら身に着ける。寝室よりも心無しか温度が下がった気がするが、かえって目が覚めて丁度いい。
 ひたひたと裸足で歩く。二人で暮らし始めた頃は、新一だけスリッパを履いていた。けれどもいつしか、共に暮らす人の生活習慣に感化されて冬場以外は素足で過ごすようになっていった。
「っても、裸足はさみーなさすがに」
 そう呟きながらも、今更寝室にとって返すのも面倒くさい。そのうち慣れるだろ、とぼやいて椅子にかけてあったエプロンを手に取った。
 ウエストの紐を腰の後ろでしゅるりと蝶々結びにすると、冷蔵庫から次々と必要な物を調理台に並べていく。ちらりと見た時計は6時半近くまで進んでいて、少し焦りが生まれた。
「やっべえ、降谷さん七時には帰ってきてるからな、急がねーと」
 手順を思い出しながら、調理していく。温めのお湯にレタスを浸し、パンを蒸すのはちょっと手を抜いて軽く濡らしたキッチンペーパーをかぶせてチン、だ。蒸し器をわざわざ出すのも面倒くさいとぼやいた新一に、失敗すると固まるから気を付けてね、と降谷が教えてくれた技だ。
 マヨネーズをボウルに絞った所で、玄関ドアの開く音がした。
「あー、残念!」
 気付けば七時近く。降谷の早朝トレーニングは時間通りに終わったらしい。今日くらい寄り道してくりゃいいのに、と思いながらも律儀に玄関まで出迎えに行く。
「お帰り降谷さん」
「あれ、起きてたの?ただいま。体大丈夫?」
 降谷の少し驚いたような顔が、新一は好きだ。目をぱちくりとさせる表情が可愛いの一言に尽きるからだ。
 そんな気持ちを誤魔化すように口の端をもにもにとさせながら、新一は頷いた。
「もう平気。なんたって若いからな、俺は」
「……ふぅん、じゃあ朝の運動してからドライブでもいいかな」
「そういう事言う奴には、俺お手製のサンドイッチはあげませ〜ん」
 サプライズのつもりだったけど、冷蔵庫に追加されてた材料からきっとバレバレだったろう。案の定、廊下を歩きながら降谷は「もう作っちゃった?」と驚きもせずに聞いてくる。
「あとは挟むだけってとこまで」
 レンジの扉を開けて、パンを取り出した。大丈夫、乾いていない。振り向くと、先程のボウルに味噌を入れようとしている降谷の後ろ姿。新一はつい大声を出してしまった。
「あーーッ!ダメ!」
 びく、と揺れた背中に軽くパンチする。
「降谷さんはシャワーだろ、これは俺が作んの。手出し無用!」
 匙を取り上げ、シッシッと追い払った。降谷が眉尻を下げて悲しげにクゥンと鳴いた……気がした。
「一緒に作りたいんだけどな」
「また今度な。ほら早く!ドライブすんだろ?」
 シャワーを浴びてさっぱりしたら、ハムサンドとコーヒーで朝食だ。絶対にお昼前に小腹が空くから、コンビニでおにぎりを買っていこう。
 ドライブの行き先は降谷の胸先三寸。目的地に着く前に言い当てられたら新一の勝ちだ。
 ご褒美は特に無いけれど、新一は降谷に「流石だね」と言わせてやるのだと息巻いて、握り拳に気合を込めた。



十一月四日(月) かき揚げの日

「降谷さん、絶対それ取りますよね」

 全国チェーンのうどんが今夜の晩ごはんだ。時刻は二十時もとっくに過ぎていて、仕事が長引いた日は作るよりも買う方が早いし楽だと、メールでリクエストを聞くと、『うどん食いてぇ』と返ってきた。
 期間限定メニューを頼んだ彼は、甘辛いタレがしみた肉が山ほど乗ったうどんだけじゃ足りないと、サイドにかしわ天、イカ天をチョイスしていく。
 野菜っ気のない皿に降谷が心の中で眉を顰めていると、新一が野菜中心の皿を指して冒頭のセリフを言ったのだ。

「……どれ?」
「これですよ。かき揚げ」
 一番の存在感を醸し出すそれに、ついと片眉が上がる。
「そうか?」
「そうですよ。他の具はコロコロ変わるけど、これだけはいつもドーンと皿に乗ってます」
 無言になる降谷の内心の焦りを読んだのか、新一がにやりと笑った。
「……オヤオヤ〜?もしかして、これ公案件ですかね?」
 外で個人を特定されるような振る舞いをしないのが公安だと言いたいのだろう。『公安にあるまじき行動、失態』を風見に対して放った過去の一言をこうして持ち出されると、何にも言い返せなくて降谷は渋面を作った。
「かき揚げくらい、誰だって頼むだろう」
「そうですか?俺はあんま好きじゃないですけどね」
「えっ!?」
 うどんを啜ろうとした手を止めて、顔を上げた。向かいに座る新一はきょとんとしている。
「君、かき揚げ嫌いだったのか?」
 そんな筈はない。何故なら、降谷がついついかき揚げを選んでしまう理由は他でもない新一にあったからだ。
「嫌いじゃないですよ」
「だよね?だっていつだったか、『俺これ好きなんですよね』って言っ」
 うっかり素の口調が出てしまい口を噤む。動揺を見せるなど、自分らしくないと心持ちを整えて。場を取り繕うように軽く咳払いを、一つ。
 まったく、いつの間に宗旨替えしたのだ。釈然としないまま件のかき揚げに齧り付いた。そしていつもはポンコツなくせに、この時ばかり何故か勘を閃かせた新一がにたぁ、と笑って言ったのだ。
「へぇええ〜……つまり、降谷さんは俺がこれ好きだと言ったから好きになった、と」
 ふぅん、へぇぇ、そっかぁぁぁ、と新一の弓なりになった目から逃げるように、降谷は俯いて会話を打ち切る勢いでうどんを啜る。
「でもさぁ、降谷さん。ちょぉーっと推理足んねぇぜ?」
「……工藤くん、言葉遣い」
「やべ、ごめん」
 外ではどこで誰が見ているか分からないので、二人の関係は飽くまでも『歳の離れた知人レベル』で会話をしている。日本警察の救世主と、警察庁の公安が親密な関係にあると、上の一部が穿った眼で無い腹を探ろうとしてくるのでいつからかこのスタイルになり定着したのだが。
 ――我慢。させているのだろうか。
 新一の性質上、そこに関しては理解不能とまでは行かなくても理不尽さを感じさせてしまっているのかもしれない。
 頭の硬い連中を相手にするのは、ジンやベルモットを相手にするよりもある意味疲れる。老害を黙らせる力を手に入れるには途方もない道程があり、その荒波を泳いでまで椅子を手に入れたいとは今のところ思わない。
 彼は、いつまで待ち続けてくれるのだろうか。未だ不確定なままの二人の未来、ゴールテープは霞の向こう側だ。
 少々気落ちして、テーブルの上に変な空気が漂い始める。そんな時、新一が気持ちを切り替えるように「まぁ聞いてくださいよ、降谷さん」と明るいトーンでその場の色を変えてきた。
「去年の終わり頃、手打ち蕎麦天ぷら祭りしたの覚えてます?家で」
「?あ、ああ……やったな、そういえば」
「俺、あん時の降谷さんが作ったかき揚げがすっげぇ美味してくてさ、いや、美味しくてですね」
 思い出してテンションが上がってきたのだろう。浮かれて言葉遣いも普段のものに戻りかける。
 その嬉しそうな顔を見た瞬間、降谷は脳裏に浮かぶ小煩い白髪頭禿頭の面々を場外ホームランでかっ飛ばした。
「――はは、あはは」
 自分で自分に付けていた枷を外したら、心がとても軽くなった。
「ふ、降谷さん?」
「いや、何でもないよ。……覚えているよ、天ぷらを一生分揚げたあの日のことは」
「……大袈裟だっつの」
 雰囲気ががらりと変わって柔らかく笑みを浮かべる降谷に、新一も何かを感じ取ったらしい。戸惑いを混ぜながらも言い返してきた。
「けど、あんなウメーもん食べさせられたら、世の中のかき揚げに期待しちまうだろ?」
「そして売り物を食べてガッカリした、と」
「そこまで言わねぇけど……でも思い出しちまってだめなんだよなぁ」
 本気の本気で美味かったもん。と、締めくくり新一は両手を合わせた。
「ごちそーさまでした」
「ごちそうさま。ねぇ、今度休みが合ったらまたやろうか。丁度秋蕎麦の時期だし」
 同じように手を合わせ、二人分の器を重ねていく。先に立ち上がってアウターを羽織った新一がそのトレーを受け取った。
「それフラグって言うんだぜ?」
 これまでのデートだって、何度急用や事件で流れたことか。
 言外に二人の忙しさを認識させられても降谷は諦めなかった。店の外へ出るドアを開いて押さえ、新一をエスコートする。
 イチイチ気障なことしなくていいって、と照れ隠しに突っ撥ねる姿に愛しさが不意にこみ上げた。
「……君が好きだと言う顔を見れるなら、フラグも障害もなんだって僕の敵じゃないよ」
 言いながら。吹きつける秋風の冷たさで、頬の熱を自覚した。



十一月五日(火) いいご縁の日

 神奈川県警に向かう途中、駅のホームで新一と目が合った。

 朝はそれぞれ時間差で家を出た。二人共仕事で、何処に行くとも言っていなかったのに。線路四本とホームを一つ間に挟んだ向こう側、白線に並ぶ人々の頭と頭の隙間、列の後方で目を落としていたスマートフォンからふと顔を上げた動きに、降谷の視線が吸い寄せられた。
 新一の表情が動く直前、ブレーキ音を立てながら滑り込んできた電車が視界を遮る。
 流れに逆らわず乗り込む車内の窓の外、あちらも車両が到着したようだった。少しのタイムラグを置いて発車すると、別々の目的地へと走り出す。
 吊り革に捕まり、流れる景色を見る振りをして、先程の光景を反芻する。
 ――こっちに気付いてくれたかな。多分、気付いただろうな。
 そう思っただけで、胸がこそばゆい。鞄を持つ手に力を入れて、今日も一日頑張ろうと鉢巻を締め直した。

 それから数時間後、今度は都内に戻り大通りを歩いていた時。前方から来るバスを何気なく顔を上げて見たら、窓際に座って頬杖をついていた新一と一瞬、目が合った。
「――たまたま、だよな?」
 自分が彼を見間違う筈がない。
 振り向きたい気持ちを抑え、歩調も緩めない。けれども意識は後方へと引っ張られていってしまう。
 今日は行動範囲がよく被るなぁ、と嘆息して、降谷は雑念を振り払うように足を早めた。

 二度あることは三度ある、とは言ったもので、まさかここでも新一とニアミスしようとは降谷は夢にも思わなかった。
 定時直後に上司に引っ張られて連れ込まれた料亭。財政界のお偉方や諸々の密会に使われる会員制の店。てっきり仕事だと思っていたら、まさかのお見合いのような席を設けられていた。
「あちらも形式だけで結構だと仰っていてな。お互いの上司の顔を立てる為と思って。頼むよ」
「…………まぁ、そういう事なら」
 聞けば、仲人役が勝手に先走ってセッティングしたものらしく、当の本人たちどころか上司も知らされたのは今日の昼頃だと言う。
 警察庁と警視庁に顔の効く自称仲人の存在は降谷も見聞きして知っている。だがまさか、自分がターゲットにされるとは思ってもみなかった。
「あのですね、ご存知とは思いますが――」
「ああ分かってるよ、君の恋人の事は上手くはぐらかして先方に伝達済みだ。ここも私のポケットマネーだから、君は存分に飲み食いしていればいい」
 そう簡単に言ってくれるが、出来れば今すぐに帰りたい。中庭を流れる小さな川のせせらぎと、鹿威しの音がどうにも耳障りだ。これなら新一とファストフード店に行く方が何倍も何百倍もマシである。
 そう考えていたせいだろうか。
 造園を挟んだ向こう、渡り廊下を逆方向に歩く壮年男性一人の後を付いてく若い男たち四人。そこに見知った面々と彼を見つけた。
 小洒落たスーツを身に纏う新一は、今朝駅で見たラフな装いの若者から一転して美青年という看板を貼り付けている。
 ここでも束の間、視線が絡む。だが上司に悟られる前にと前を向いた降谷は、その後彼がどうしたのか遂に知ることは無かった。


「ただいま」
 明かりの付いた玄関にある靴はローファーで、やはりあれは新一だったのだなと確信した。一気に気が抜けてネクタイを緩めながら、今日はもうシャワーを浴びたら寝てしまおうか、と投げやりな気分に陥る。
「おかえり、風呂の用意出来てるぜ」
 ぺたぺたと廊下に響く足音と声のトーンがいつもと同じなのが、ますます降谷の気持ちを押し下げていく。
「降谷さん?すんげー疲れた顔してっけど大丈夫か?」
 気遣う声に知らず下がっていた目線を持ち上げれば、飛び込んできた新一の顔にスン、と感情の置きどころを失ってしまった。
「……なんか、嬉しそうだね」
 きりりとした目元も、締まった口も見慣れた恋人の真面目な顔だ。だが長い付き合いだからこそ、心配そうにひそめられた眉の端で一瞬だけぴくりと動いたのを見逃すはずがない。
「え、…………分かっちゃう?」
 内心の浮かれ様を看破された途端に崩れた締まりのない顔を見て、降谷は最後の砦が決壊しその場でどっと脱力した。――ああ、リビングまでの廊下はこんなに長かっただろうか。
「はぁぁぁぁ」
「なぁんだよ、どーしたんだよ、降谷さん!」
 しゃがみこんでしまった降谷を、重い!と呻きながら持ち上げようとしたり、引っ張ったりする新一は知らないのだろう。帰宅するまでの道中に、あちこちに新一の姿を探してしまう自分の情けなさも、ずっと抱えていた、あの場に居た事で変に勘ぐらせてしまった罪悪感も。
「なんでもないよ……」
「何でもないわけ、ねぇだろ?」
「いや、君はそのままで変わらないでいてくれよ……」
「ハァ?……マジでヤバイくらい疲れてんな」
 今日はもう寝ちまうか?と気遣う新一の背中にしがみついた。重さに耐えきれず、背中から倒れ込んできた体を難なく受け止める。
「新一くん、怒ってないの」
 ああいった店で降谷が堂々と歩くのは、任務以外の用件でしかありえない。しかも上司を伴って。常ならば事前に報告をするのだが、今回ばかりは時間がないとあれよあれよと言う間に連れてこられたのだ。
 それら全てが言い訳にしかならないからと、経緯に関して口を噤む降谷に、新一は「なんだ、そんな事」と笑って後ろ手にそのしょげた頭をくしゃくしゃに掻き混ぜた。
「今日は三回も偶然に目が合って、なんつーか……縁起がいいな、とか俺は思ったけどな。それに、今日は『いいご縁』の日らしーぜ?な?今日の俺らにぴったしじゃん」
 白馬の親父さんが夕方になって急に、奢ってやるから来いとか言い出したんで一張羅引っ張りだしたんだぜ、あれ。降谷さん俺に見惚れてただろ一瞬。なぁ、似合ってた?惚れ直した?俺さ、あの場で笑い堪えるの必死で――――。
 重たいものを背中に貼り付けたまま立ち上がり、よたよたとしながらも新一は話し続け、リビングへと降谷を運んでいった。
 降谷よりも細く薄く、頼りない体つきだというのに、伝わってくる新一の体温が安心と安らぎを与えてくれる。長く見えた廊下の景色があっという間にリビングへと変わり、ソファへと二人重なったまま背中から寝転がった。くるりと反転してこちらに覆いかぶさる形になった新一と、軽くキスを一つ。

「はぁ……本当、好きだなぁ。なんなんだどうしたいんだ、僕をここまで骨抜きにして。きみ、男前過ぎるだろ……」
「へへん。悔しかったらもっといい男になれよ、ふ・る・や・さ・ん」
 ――勝ち誇った笑みが悔しくて、その首筋に噛み付いた。



十一月六日(水) なんでもない日

「ああ、しまったな」
 それを思い出したのは、マンションの地下駐車場に車を停め、助手席の買い物袋に手を伸ばした時だった。
 愛しの恋人は遥か彼方、北の大地にいる。探偵の仕事の依頼で一泊か二泊してくる、と今朝方言っていたのに。退庁した時点でもそれはちゃんと覚えていたのだが、帰宅途中に寄ったスーパーでうっかりいつも通り二人分の食材を買ってしまった。
 余った分は明日に回すでもいいし、冷凍保存する手もある。降谷がしまった、と思ったのはあまりにも彼がいる日常が当たり前になりすぎていたからだ。
 
 広い部屋に、ぽつんと一人。
 新一と交際を始める前の、空いた時間の使い方を思い出せない。そもそもそんな暇があったら情報収集や体を鍛えてばかりいた。
 風呂上がりに生乾きの髪、下にスウェットパンツだけという格好でソファに体を投げ出した。降谷のそんな姿を見る度に、新一が「落ち着かない気持ちになるからヤメロ」と赤面しながら注意してくるのが面白くて可愛くて。
「……静かだなぁ――――」
 いやに響く自分の声から逃げるように、目を瞑った。 


 あれは潜入任務を終えて半年後のあたりだったろうか。
 江戸川コナンは当初の目的だった元の工藤新一の姿を取り戻し高校生活最後の一年を過ごすべく日常へと帰り、降谷は、後始末はこちらの仕事だと彼と一線を画した。
 それから四年が経ち、ある寒い秋の日の事。風見と連れ立って仕事終わりに一杯いこうか、と鍋料理店の暖簾をくぐった。味から何から全てが降谷の折り紙つきの店。木枯らし舞う夜、冷えた体を温めるには鍋が良い。
 くつくつと煮えてきた所で蓋を開け、巻き上がる湯気にボルテージも上がる。さぁいただこうか、と匙を手にしたところで店内に女性の悲鳴が響き渡った。
「な、何かあったんでしょうか……」
 そわ、と風見が腰を浮かせる。
 眉間を抓み、振り払えない嫌な予感に頭痛を感じた。この後の展開は分かるぞ、次に聞こえてくる台詞はきっとこうだ。
「『――落ち着いてください皆さん、これは殺人事件です。』」
 脳裏に蘇るのは四年前の、工藤新一との初対面。数年にも及ぶ潜入捜査の、最後の一年足らずで強烈な足跡を残していった少年。本来の姿は写真や映像なんかよりも、何倍も美しく、そして眩かった。あそこで人生二度目の恋に落ちるとか本当にどうかしていたとしか思えなくて、けれども捨てきれないままずっと大切に胸の中に仕舞っていた。
 叶わない恋だ。
 叶えてはいけない想いだ。
 そう自らに言い聞かせ、逃げるように遠ざかったというのに――――これだ。
 苦々しい思いで顔を上げれば、彼は友人らと入店したばかりらしく入り口近くに陣取っていた。
 相変わらずの凛とした佇まいに目が惹き付けられる。高嶺の花、とはきっと彼のことを言うのだろう。成人してから、彼は益々その溢れる知性に磨きをかけた。――――毛利さんとも上手くいっているんだろう。まさに青春を謳歌している姿そのものだ。
「降谷さん、……どうしますか」
 未練がましく鍋を見つめながら、風見が聞いてきた。
「……諦めろ」
 ですよね、と肩を落とす部下を横目に傍観者を決め込んだ降谷は、片肘をテーブルに付いて事件解決の成り行きを静かに見守ることにした。

「ふる、あー……安室さん、とお呼びした方が?」
 短絡的犯行だった事件は三人の名探偵によって即座に解決した。後から駆けつけた警察官によって容疑者と店の者以外締め出され、降谷と風見が一般市民に混じって野次馬の体でその場に留まっていたのは、出ていく寸前に新一からのアイコンタクトがあったからだ。
 やがて店内から連行されていく被疑者と、馴染みの刑事達、それから一緒に犯行トリックを推理した友人が調書作成に協力する為に出てきた。それに合わせてさり気なく人だかりから離れて、歩き出す。喧騒が遠のいた頃、背後からの呼びかけに足を止めて振り向いた。ネオンを背にした彼の表情は読めないが、偶然とはいえ数年ぶりの再会に戸惑っているのが手にとるように分かる。
「降谷で構わんよ。むしろ、あっちの名前は返って不都合が生じる恐れがあってね」
 組織内でバーボンの他に使っていた偽名だ。残党や末端が知っているとも限らないが、変な逆恨みは買わないに越したことはない。
「あ、そうか。すみません、気が回らず」
 気にするな、と手を振って応えた。
「降谷さんたちも食いっぱぐれですよね、どうです?この後、時間があるなら――」
 工藤新一がしたラーメンを啜るジェスチャーに、風見の腹が盛大に鳴って答える。
「風見……」
「すっ、すみません!つい!」
 はぁ、とついた溜息にかぶさって、快活な笑い声が冴えた夜空に響いた。「風見さん相変わらず降谷さんにこき使われてるんですか?」と今度は呆れ笑いをする彼の表情は、まるで万華鏡のようにころころと変わる。あの頃から変わった外見、変わらない仕草。いや、立ち居振る舞いが大人びてきていると思ってしまうのは、自分の中にある彼への感情に特別な意味を持ってしまったからか。
 束の間、見惚れていた。
「………………好きだなぁ」
 街灯の下、その大空を内包した瞳が徐々に大きく見開かれながら、降谷を映し出す。じわじわと耳から頬にかけて赤くなる様を色っぽいなんて呑気に考えていたが。
 隣では風見が逆に蒼白になり固まっている様子で、何かが起きているのだと気付き。そこでやっと、降谷は己が無意識に想いを口にしてしまっていたのだと。
 集まる視線から逃れる言い訳すら何も浮かばず、阿呆みたいに呆けた顔で二人を交互に見比べるしかなかった。


「――――ゃさん、降谷さ〜ん」
 ゆさゆさと肩を揺すられて覚醒した降谷は、視界いっぱいに映る新一の姿にまだ夢の続きを見ているのかと、緩慢に瞬きを繰り返した。
「んん、くどうくん……?」
「うわ、寝ぼけてる。めっずらしーの」
 降谷の『うっかり告白』から少しして交流が再スタートし、一番愛していた人は二年前くらいに一番大切な人になったのだと遠回しに破局を伝えた新一は、「アイツの事はこれからも一番大切にしていこうと思ってる。それでも、こんな俺でも好きですか」と真摯な眼差しで降谷に告白をし返してきた。
 そんな新一も、降谷にとっては愛すべき彼の一面だ。『どんな君でも、君が工藤新一である限り僕の最愛であることに変わりはない』と応え、二人は晴れて交際を始めるに至った。
「――あれ、しんいちくん?……北海道は?」
 あれから月日を重ね、新一は青少年の面影を捨て、大人へと成長していった。アラサーに足を踏み入れ、あと数年で二人が出逢った当時の降谷の年齢に追いつく。
「一泊するまでもなく、速攻で解決してきた!」
 ドヤ!と効果音が付きそうな勝ち誇った顔もまた、たまらなく愛おしい。
「何、僕の落ち込みようがそんなに心配だった?」
 確かに今朝玄関から見送った時も少しだけ昨夜の事を引きずってはいたけれど。ほんのちょっぴりでも、愛されている証が欲しくて新一の後ろ髪に手を差し入れ引き寄せれば、彼はすんなりとそれに乗ってきた。
「――――ん、」
 重ねた唇ははじめは触れるだけ。離れる間際に舌で新一の下唇をちろりと舐めると、肩に置かれた手がぴくりと震えた。
「明日はじゃあお休みかな?」
「…………午後から、ちょっとだけ仕事をするつもりでは、いるけどよ」
 三年前の秋、告白された時と同じく顔を赤らめる彼は、幾つになってもやはり可愛い恋人のままである。
 不埒な手つきと擡げる熱を彼の魅力のせいにして、降谷はもう一度交わらせた唇を早急に深めていった。



十一月七日(木) 鍋の日

 ポケットに入れていたプライベートのスマートフォンがブブ、と震えてメッセージの着信を知らせる。昼休みも終わり近くに差し掛かった頃で、午後から出勤だと言っていた新一からのものだろう。
 昨夜はちょっとしつこく虐めた気がしなくもなかったので、起きれるかどうか心配していた降谷は安心してアプリを開いた。
『今夜は鍋を食いに行きたい。あと腰が痛え』
 文末に鬼の顔の絵文字が付けられており、降谷は眦を緩める。恋人の可愛い我儘も、不満さえも嬉しく感じるのだから末期だなと自分でも思う。
『了解。お店のリクエストある?』
 毎回聞くけれど、いつも降谷の事情を汲んでこちらに一任してくる新一が、この日ばかりは勝手が違った。
『降谷さんと再会したあのお店に行きたい』
 絵文字で小悪魔が降谷ににたりと笑いかけている。
 そうきたか……と半目になりつつも、それこそ可愛い我儘だと己に言い聞かせて返事した。
『分かった。予約しておくよ』
 新一からはスタンプのみで、投げキッスをするキモい絵柄のウサギに口の端が引き攣った。――これは可愛くない。


「まさかこの店を指定してくるとはね」
 上着をハンガーに掛け、座敷の席で向かい合って座る。まだ体調は微妙らしく、座る動きにまだぎこちなさを見せた新一はそれでも上機嫌だ。
「へへ。昨日さぁ、降谷さん寝ぼけて俺のこと『工藤君』って呼んだだろ?」
「…………呼、んでたね」
 この店で再会した時の夢を見ていましたとは気恥ずかしくて言えず、かといって覚えていないと嘘をつくことも出来ず。臍のあたりが落ち着かない気持ちになって、降谷は無意味にメニューをパラパラと捲った。
「その呼び方でさ、この姿に戻ったばかりの時の降谷さん思い出して、――それでもう一個大事な事を。思い出したんですよ、俺は」
「大事な事……?」
 新一のとても深刻な表情と声に、ページを捲る手が止まる。あの時、まだ何か大失態を犯していただろうか。いや、『うっかり告白』以上の何かがあるとも思えない。だが面前の新一は組んだ両手を口元にあてて、真剣な眼差しで降谷を見つめている。
「そう、これはとても大事な事なんです。俺、あんとき――――ここの鍋料理、食べそびれたまんまだなって」

「…………それだけ?」
 がく、と力が抜けた。手にしていたメニューを新一に差し出し、水を一口含む。
「食べたいものなんでもいいよ、選んで」
「おお、美味そうなもんばっか……!」
「ここの名物はモツ鍋だけどね、これも美味しいよ」
「鴨ネギ!」
 指差した鍋料理の写真を見て、どっちがいいかと悩む姿に笑みが浮かぶ。あれから気まずくてこの店をずっと避けていたけれど、もっと早く来れば良かったかなと独りごちる。少しばかり苦々しい思い出だったが、こうして幸福な光景で上書き出来たのだから。
 結局、胃袋に余裕があればモツ鍋を頼もうということになり、一日数量限定の鴨ネギ鍋を頼んだ。

「ごちそーさま!シメの蕎麦が最高だった!」
 外に出ると、店内との寒暖差に首を竦めた新一が笑って振り向いた。もうじき吐く息が白くなるくらい寒くなって、都会にも冬が来る。
「あの鍋、降谷さん同じの作れたりする?」
「どうかな、ここの鴨は産地が――――」
 パーキングへと歩き出しながら、大都会の夜空を見上げた。
 あいつらの分も幸せを噛み締めながら生きると覚悟を決めてから、月日の経つのが早くなったような気がする。それだけ毎日が特別なもので彩られている証拠だ。
 笑って、くれているだろうか。空の彼方で。
 この背に乗せた友らの人生が、これからも実りある豊かな日々であるようにと願う。
「あ!降谷さん俺、スゲー事に気付いちまった!」
 新一がスマートフォンを見ながら声を張り上げた。
「どうしたんだ、藪から棒に」
「これ!ほら!」
 ずい、と差し出された画面には十一月のカレンダー画像。一日から三十日まで、数にばらつきはあるけれどよく見れば様々な言葉が並んでいる。
「鍋の日……だったのか。今日」
「そう、俺ら鍋の日に鍋食べたんだぜ」
 十一月は語呂合わせで『いい〇〇の日』がずっと続くらしい。こんなの毎日祝ってたら忙しいだろうなぁ、とぼやく新一に降谷は「そうでもないさ」と肩を竦めた。
「特別な日は、何でもない日常にこそ紛れてそこに有るものなのかもしれないよ」
 ちょっと良い事言ったかなと思ったのに、ふうんと生返事で聞き流した恋人の耳に顔を近づけて囁いた。
「ちなみに明日はいいおっぱいの日、だそうだね」
「へぇ………………へ?」
「いやぁ楽しみだなぁ」
「ハァ!?なん、え、ちょっ」
 パーキングに停めてあった車に乗り込み、鼻歌交じりに発車させる。隣では新一が目一杯抗議の声を張り上げているが、降谷はどこ吹く風と涼しい顔だ。
 きっと来月も、そのまた次の月も。特別で普通の日常が続いていくのだろう。
 それを彼らへの手向け花とできたなら、いつか。


 
十一月八日(金) いいおっぱいの日

 昨夜、あんなことを言うからだ、と新一は鏡に映る己の胸を凝視した。
 もともと、厚い筋肉が付きにくい体質だった。細マッチョと世間では言うらしいが、新一のそれはマッチョとも呼べない。
 しなやかな若木のようだと降谷は褒め讃えるが、新一は男に生まれたからにはやはり盛り上がる筋肉が欲しいと思うのだ。
 ……いや、盛り上がっているには、いる。
「けどこっちじゃねぇんだよな、俺が欲しいのは」
 はあ、と溜め息をついた。見てるだけで虚しくなるな、と洗濯機の上に置いたていたパジャマに手を伸ばす。社会人になってから運動する機会もめっきり減ってしまったから、ジムにでも通おうかなと袖を通しながら考えた。

「新一くん、何か悩み事?」
 ベッドサイドの明かりを絞り、寝る体勢を整えていると、降谷が天井を見上げたまま聞いてきた。
「鏡見て溜め息ついてたの、見てしまって。……マズかった?」
 あ、この声のトーンはあれだ。物凄ーくネガティブな方向に思考が飛んでるやつだ。
 降谷の、この『時々面倒くさくなる現象』を、それでも新一は嫌いになれない。今回は一体どんなトンチンカンな答えが返ってくるのやら。
「別に、マズかぁねえぜ?降谷さんはなんだと思ったんだよ」
 ごろんと横向きになり、こちらの視線に気付いているだろうにひたすら天井を見据える降谷に鬱陶しいくらいの眼力アプローチを仕掛ける。あんたの弱点は知ってんだぞ、俺から見つめられると、目を向けずにはいられないって事。これでもかとばしばし瞬きをし続けていたら、ついに根負けしたのか小さく吹き出した。
 降参だ、と白旗を上げて降谷も横向きになる。
「あー、ホントに可愛い事するの似合いすぎてやばいね。アラサーのくせに」
「アラフォーが何言ってんだっつーの」
 褒め言葉にならない褒め方にカチンときて、脛を蹴ろうとしたら躱された。
「新一くんさ、鏡に映った自分の胸見て溜め息ついていただろう?昨日僕が言ったこと気にしてるのかなって思ったんだ」
「おっぱいの日?何で?」
「うーん、『もしかして彼は女性の胸が良いのだろうか』みたいな?」
「…………」
 この世の気持ち悪い生物を全部一緒くたにしたバケツを覗いてしまったような口内の苦さ。実際にそれが顔にも出ていたらしい。
「そんなゲジゲジ踏んだみたいな顔されると傷付くな……」
「いやだって正にその通りだろ」
 ずっと手の甲同士で触れ合わせていたのを、掴み引き寄せ降谷の手のひらを胸に押し当てる。もちろん、新一の胸にだ。
「何……夜のお誘い?」
「ばぁーろぉ、俺が悩んでたのはなぁ……あんたがここまで育てたせいで、筋肉になりにくいのが悔しいって事だよ!」
 ぺたんこではない。けど、降谷や赤井が持つような胸筋には程遠い。
 細くしなやかな筋を纏わせる四肢と違い、そこには柔らかく薄い脂肪が少しだけ乗っかっていた。
 新一の言わんとするところが分かり、降谷が「あ〜……」と呻く。
「ごめん、って謝ったほうがいい?」
「謝ったら蹴る」
「これからも育てていい?」
「オイ」
 するんと新一の胸の上から抜け出した降谷の手は、脇腹を通り過ぎて背中へ。
 ぎゅ、と引き寄せられて密着する身体。脚と脚が絡み合う。
「新一くんのおっぱい触ったら少し勃っちゃったんだけど……」
「そうかいそらドーモ。けど俺は寝みぃ。般若心経か職務倫理でも唱えてりゃ収まんだろ」
「生殺しか」
「んー、明日な、明日。オヤスミ」
「…………お休み、新一くん」
 こめかみに落ちてきた唇は、触れ合っているどの部分よりも一番熱かった。
 


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