積もり積もって満ち満ちて


***

 工藤新一はαだった。だがアポトキシン4869によって体が縮み、解毒薬によって元の姿を取り戻した時、その性質はΩになっていた。
 ――科学者・宮野志保によると。
 江戸川コナンの周りにはたくさんのαがいた。生物の本能として番を望む、αが放つ無意識のフェロモンにより、αとΩ両方の遺伝子を持っていた新一の体は再度の分化の際にΩが顕在してしまったのではないか、という見解だった。
 今はもう過去にしたい、そう遠くない二年前のこと。あれから色々あったけど、新一はこの性を受け入れて前を向いて生きてきた。



「それじゃー聞くけどよ、灰原」
「灰原じゃないでしょ」
「……宮野サマ。これも、その『αのフェロモンのせい』なのかよ?」
「それはまだなんとも言えないわ。精密検査をしてみないことにはね」
 だからさっさとそこに寝て頂戴、と冷酷に言い放つ宮野だが、顔色は全く優れない。眉間に刻まれた皺が彼女の焦りを表していた。
 それもそうか、と診察台に寝転がった。見慣れた阿笠博士の家の、白く高い天井を見上げる。そこに向かって両手を上に翳すと目に入ってくるのは幼い子供の手。
「はぁ……。なんだってまたこんなんなっちまったんだ?」
「それは私が聞きたいわよ……」
 新一のぼやきに宮野が同じように力なく応える。あの解毒薬は完璧だったのに、と続けられた言葉に頷いた。
 そう、新一は確かに二年前、元の姿を取り戻していた。バースこそ変わってしまったが、トロピカルランドで殺されかけたあの日から一年、ようやく件の組織を壊滅させ解毒薬も完成し、十八歳を迎えた誕生日に工藤新一に戻れてからはずっと、副反応もなく過ごしてきていたというのに。
 ある朝、着替えをしている最中に急な脈拍の変化と胸の痛みに蹲《うずくま》り気を失い、目が覚めたら――体が縮んでしまっていた。まさかまた江戸川コナンの服を着ることになろうとは。遠い目をしてしまうのも仕方ない。
「工藤くんは思い当たる節はないの?また変なモノ食べたとか」
 心電図を取るためのパッドを外されながら昨日の行動を振り返る。
「いや、なんにも」
「変な事件に首突っ込んだり」
 今度は額にペタペタと。脳波を見るのだろうか。
「オメーなぁ……。俺がホイホイ自分から飛び込んでるみてーな言い方、」
「それじゃあ、逆に今まであったけど最近しなくなった事、食べなくなった物とか」
「んなの分かっかよ……」
 答えながら、あ、でも。と思った。
 ここ二ヶ月くらい、降谷さんのコーヒー飲んでねぇな。と。
 基本的に超多忙な降谷からのお誘いがあったときだけ開かれる、彼の自宅や自分の家でコーヒーを飲みながらのささやかなお茶会。それは多くて月に三回、少なくとも月一は行われていたのに。
「なぁ灰原、」
「み・や・の」
「どっちだって同じだろ。つか、この姿になるとついそう呼んじまうんだよ。……じゃなくて!公安で今何か大きいヤマでも抱えてんのか?降谷さんと連絡取れなくて二ヶ月経ってんだけどさ」
「アナタねぇ……。私が知りたいのはそういう事じゃないの!」
 ついに堪忍袋の緒が切れたのか、ぷいと顎を反らし、モニターの前へと離れていってしまった。
 ちぇ、なんだよ。何でもいいから教えろって言っただろ、と唇を尖らせた。――もちろん彼女はそんな事、一言も言ってはいないのだが。
「随分と……数値の乱高下が激しいわね」
 モニターから再び戻ってきた宮野が、今度は唾液を採取していった。何かの機械にセットして、モニターを睨む。
「先月よりもオキシトシン値……心の安定性が欠けている。先々月までは通常通りだったのに徐々に下がってきている。ドーパミンとセロトニンの分泌値も異様に低い」
 私としたことが見落としていたわと、額を押さえている。
「どーいうことだよ?」
「……もしかして、」
 そう呟くと、宮野はスマートフォンを手にどこかに電話をかけた。
「……私よ。ええ、一大事だからこうして連絡してるんじゃない。忙しいのは分かるわよ。……その件なら把握してるわ。貴方が必要としている情報は○▲製鉄の裏帳簿で合ってる?どうしてもっていうならそれと引き換えにしてあげるから、今すぐここに来て」
 相手の返事も待たずに通話を終わらせた宮野から、その後も採血やら何やらと検査されること三十分。その人は息せき切って現れた。
 最初に宮野を、次いで新一を視界に収めた降谷は、大きな垂れ目をさらに見開いて――絶句した。それを隣から冷めた目で見て、科学者は冷淡に言い放つ。
「はぁ……。もう、驚いている暇なんてないの。情報が欲しけりゃ、今すぐ工藤くんの隣に座って」
「解毒薬は完成したんじゃなかったのか!?」
「それを今から確かめるからつべこべ言わずに座りなさい!」
 ドスの効いた低音で急かされて、降谷が慌てて飛んできた。
「オイオイ、三十路が尻に敷かれてんじゃねーよ……」
「うるさいな、あの子に逆らうと後が怖いんだよ……」
「そこ!全部聞こえてるわよ!?」
 ヒソヒソと話しているつもりだったのに叱責が飛んできて、二人で慌てて居住まいを正した。モニターの前から動かない宮野は、じっと何かの数値を追い続けているようだ。やがて診察台に並んで座る二人のもとに来ると、再び新一の唾液を採取していった。
「というか君……。またどこかで拾い食いでもしたのか?」
 降谷がひそり、と上体を横に傾けて耳打ちしてきた。宮野と同じ事を聞かれて、一体自分はこの人たちにどんなふうに見られているのかと渋面になる。
「元太じゃあるまいし、んなことしねぇよ」
 もうすっかり落ち着いていたのに、と嘆息して新一を見下ろす降谷はきっと、元の姿を取り戻した当時の新一を思い出しているのだろう。アポトキシンの毒を中和しきった後に待ち受けていたバースの変態によって、新一は蘭との別れを余儀なくされた。
 Ωは産む性だ。抑制剤なんかも今の時代は当たり前に存在し、入手も簡単ではあるが、Ωであるが故の事件や事故は絶えることはなく。これまでも迷惑ばかりかけてきた彼女にこれ以上の面倒事を押し付けることを新一は良しとしなかった。それに、ヒートが起きたときβである蘭にはどうしてやることもできない。その時は若さと勢いでどうにかなると言えたとして、いつかは立ち止まってしまう日が訪れる。それなば、決断は早いうちの方がいいと――気持ちが離れたことによる別れよりも辛い選択を、新一は取らざるを得なかった。
「その節は……大変お世話になりました」
 ゴニョゴニョと。当時は気まずさや恥ずかしさから言えなかった言葉を、新一は二年越しで伝えた。降谷が目元を柔らかくする。大きな、大人の手のひらが新一の髪をくしゃりと撫でた。言わなくとも伝わってくるその優しさ、暖かさに満たされてうっとりするように瞼を伏せた。
 ――引きこもり、荒れ狂い、己を呪った。自分は無力だと何度叫んだか分からない。そんな日々を救ってくれたのは、今ここにいる人たちと遠くにいる両親や赤井らだったのだ。
「まぁ……戻った直後は高熱も続いていたし、本当に心配していたからね……。その後のやさぐれ期は君には悪いけど、正直生きてるからこそだと思えば、」
「ちょっと、こっちに来てこれを見て」
 二人の会話を遮って、宮野がモニターを凝視したまま声を発した。同時に立ち上がると、「工藤くんはステイよ。むしろ動かないで。計測中なんだから」と切り捨てられた。
「じゃあ名前で呼んでくれないかな」
 降谷が困ったように肩をすくめる。宮野はちらりと視線を一瞬だけ上げ。
「はいはい、バーボンさん」
「そっちで呼ばれるくらいなら安室の方がマシなんだけどな」
 刺々しさを纏わせつつも、傍目には知的な美男美女が並んで同じモニターを凝視し、小さな声で意見を交わしている姿はとても絵になる。やはり黒ずくめの組織の中で長く命を張ってきただけあって、纏う空気もどことなく鋭利で、子供の姿になってしまった自分とは全くの別世界だ。
 離れた所からそれを見ていた新一は、先程までのふわついた気持ちが一気に萎んでいくのが分かった。
「あれ、数値が――」
「ね?私の考えた通りだとすると……」
「でも君の提案は突飛だし危険すぎやしないか」
「かと言って他に妙案も適任がいるわけでもないの」
 新一はもう顔にも出るくらいに不機嫌だった。モニターと新一を交互に見やって、宮野が脅すように言い放つ。
「……αなら誰でもいいんだし、代わりにアメリカから呼び寄せてもいいのよ」
「僕がやりましょう。むしろやらせてくれ」
 二人の間で折り合いがついたのか、降谷だけが新一の元に戻ってきてぴとりと密着して座った。
「工藤くん。ちょっと、失礼するよ」
「へあ?」
 言うなり、降谷は新一をぎゅうと強くハグしてきた。ワイシャツ越しの降谷の体温よりも、彼の纏う胸筋や腹筋がダイレクトに伝わってきて息を呑む。
「ヒッ!」
「心拍数が上がったわ」
「ははははは灰原!なんだよこれ!」
 そりゃ誰だって、いきなり抱きしめられたらびっくりもするだろう。すっぽりと抱きこまれ、ネクタイのノットがぐりぐりと額に当たって地味に痛い。それよりも、わずかに匂う降谷の体臭が。どうしてだかすごく恥ずかしく感じた。なんだかいけないことをしているような気になった。
 だがあろうことか、宮野はさらに耳を疑うような指令を出してきた。
「少しずつよ……αのフェロモンをいきなり一気に浴びせたら、PTSDになるおそれもあるから」
「そのくらい知ってるさ。工藤くん、本当にごめん。少しの間だけ耐えてくれ」
「フェロモンって、だからなんの、……ッ!!」
 ふわり、と降谷の胸元辺りから立ち上がったのは、どこか嗅ぎ慣れた懐かしさを彷彿とさせる匂い。薄桃の花弁が脳裏でひらりと一枚、翻《ひるがえ》った――瞬間、ぶわりと体内の芯の奥から生まれ出た何かが新一の体全体を駆け巡る。瞳孔がきゅう、と萎まった。
「ハッ……ハッ…、」
 息が苦しい。必死で吸いこむ空気はだが、降谷の濃密なフェロモンで満たされている。お腹が苦しい、と押さえた。幼い性器が膨らみ、立ち上がっていくのが分かって泣きそうになった。
「あ、や、やだって……!ンだよこれぇ……ッ!!」
 侵食し、支配される、恐怖。Ωとなった新一は今の今まで誰とも番わず、αのフェロモンも浴びないようにと生きてきた。初めて、新一はαのフェロモンを叩きつけられるという感覚を味わった。
「離……せ!!クソッ、やめろって!」
 服従させ、強制的にヒートを起こさせるかのような錯覚。実際には降谷はそのギリギリを見極めながらフェロモンを放っていたのだが、恐慌状態にある新一に分かるはずもなく。
 小さな子供の手足をばたつかせる。だが大人の力に敵うはずもない。爪で引っ掻いても、頭突きを食らわせても。降谷は絶対に新一を離さなかった。
「はっ、はっ、はぁっ、」
 息が苦しい。心臓の鼓動も大きく激しくなっていく。
 抑え込もうとする降谷の腕を引き剥がす余裕もなくなり、ついに耐えきれなくなって自分の胸を服の上から鷲掴みした。
「あっ、……ぅ、がぁッ!」
 どくん!と大きく脈打つ。体中が引き千切られるような激痛。体中の骨が、肉が、ギシギシミチミチと悲鳴を上げる。
「服を脱がせて!早く!」
「っ!ああ!」
 遠くで宮野と降谷の声がする。そんなことより、この痛みをどうにかしてほしい。体が、熱くてたまらない。溶け落ちそうな感覚に堪らず絶叫した。
「……くそッ」
「駄目よ緩めないで!そのラインを保ったまま!」
「待て、まさかパンツも脱がすのか!?」
「当然でしょう!?絵面は犯罪臭やばいけれど!」
「十分自覚してる!」
 のたうち回る新一から上手く剥ぎ取られた下着は床に投げ捨てられ、ぐるぐる巻きにされたシーツ越しでも伝わる高温に降谷が大きく舌打ちをする。
「まさか死なないだろうな!?」
「それは分からないわ!!」
「……オイ!!」
 降谷の腕の中で、シーツの塊が徐々に重みを増していく。手足がはみ出してきたところで悲鳴は途絶えた。
「――工藤くん!」
 は、は、と短く息を切る。いつの間にか、あの濃密な空気はなくなっていた。匂いに充てられて、脳髄から絶え間なく放出されていた何か。それが途絶えたことで新一はやっと視界がクリアになった。
「っは、あ……、ふるや、さん」
 掠れてはいるが聞き慣れた自分の声は、二十歳を超えた大人の工藤新一のものだ。力が入らない四肢を見下ろして、それが成人男性のものだと確認して大きく息を吐いた。
「おれ……もど、た?」
 つかれた、とこぼせば降谷が再び強く抱きしめてきた。苦しい!と抗議の声を上げたけれど、男はぎりりと歯を食いしばり、背中に回された腕はぶるぶると震えるばかり。
「君が……生きていてくれて、よかった」
 かろうじて絞り出された言葉。新一は疲弊しきった体をどうにか動かし、その背中にそっと手を這わせた。お高そうなワイシャツは皺くちゃになり、多量の汗で湿っていた。
「これしきのことで死にゃしねぇって……」
「そうね。貴方の悪運の強さは折り紙付きだものね」
 唾液取るわね、と顎を掴んで採取する宮野の声は平坦でも、ヘラを持つ手は小刻みに揺れていた。それほどまでに心配をかけるようなことがあったのだと、新一もやっとで理解した。それだけは、分かった。
「もう一度採血と、脳波も見たら今日はおしまい。……あなたも、そこでピイピイ泣いてないで。工藤くんの服一式取ってくるくらいの気遣いをみせたらどう?」
「……」
 降谷の腕から力が抜けて。――ゆらり、と。幽鬼の如く立ち上がり、俯いたまま無言で部屋を出ていった。離れる直前、新一は降谷の押し出すような仕草の手付きにほんの少しの拒絶を感じた。ただでさえ面倒事に巻き込んでしまったのに、さらに迷惑をかけてしまったと思った。
「別に隣だし、これ巻いて走っていけばすぐだろ……?」
「……」
 別にそんくらいと見上げた先、かつての相棒はこれでもかというくらいに蔑んだ眼差しで溜息を吐いて。
「……気が利かないのはむしろ貴方の方よね」
 なんともな捨て台詞を吐き捨てて、その場を離れていった。


***

「αのフェロモンでもオキシトシンが分泌されるのか……」
 逆に興奮するものだと思っていたが、違うのか、と降谷が口を挟んだ。
 昨日はあれから一通りの診察を受け、降谷が持ってきてくれえた服に着替えて自宅に戻り。死んだように爆睡して一夜が明け、ベッドサイドで寝ずの番をしていたのか真っ黒な隈をこさえた降谷とともに阿笠邸を再度訪れた。
 ――科学者・宮野志保が言うには。
 Ωになってαのフェロモンを定期的に補充することで保たれていた精神の均衡が崩れたことで、抑え込まれていたアポトキシンの毒素が活発化したのだろう、ということだった。
「何だよ完成してねえってことかよ」
「完成はしてたわよ!その証拠に、私もメアリーおば様も、なんともなってないでしょう!?」
 何しろ、新一は何度も何度も試薬を飲んだ身なのだ。抗体がちゃんと効かないのだとしても仕方がない。むしろ今回のもこうして未然に防ぐ手立てを見つけたのだから感謝しなさいというようなことをクドクドと言われては、新一も立つ瀬がない。
「んで、今までどおり降谷さんにちょいちょい会ってりゃいいのか」
「そういう事。まぁ、αなら恐らく誰でもいいんじゃない?重要なのは、ヒートを誘引しない程度の極微量のフェロモンを嗅ぐことなんだし」
「フェロモンの微調整放出はそれなりに鍛錬がいる。原因や経緯説明無しにカウンセラーなどの他人に協力を仰ぐよりは、そこは僕一人でいいだろう」
 一通りの検査を終えて問題無しの太鼓判を貰って、ティータイムと洒落込んで。久しぶりの美味しいコーヒーをちびりちびりといただく新一の隣に座っていた男がそう締めくくって立ち上がった。
「降谷さん?」
「そろそろお暇するよ。昨日は慌てて飛んできたから、いろんなものが放りっぱなしだからね」
「忘れてたわ、これ約束の物」
 向かいのソファから宮野が放り投げた小さな何かを、降谷はキャッチして胸の内ポケットへとしまう。
「僕もすっかり忘れてたな」
 苦笑いをこぼし、それから新一を見下ろして柔和な笑みに変えて。
「毎週……は難しいだろうけど、最低でも月に一度は会えるようにする。あと、いつものようにヒートの時は予定をずらすから安心して気兼ねなく連絡してくれていい」
「あ……はい」
 そうだった。降谷は基本的に超多忙な人だった。目の下にある隈は、自分の看護ではなく寝ないで仕事の穴埋めをしていたのだろう。それに宮野が降谷に渡したのは、追っているというヤマの重要なデータ。そういえばそれと交換条件でここに急遽呼び出したのだったっけ。
 しおしおと、膨らみきっていた気持ちが萎んでいく。
「工藤くん?大丈夫か?まだどこか具合が……」
「え!いや!大丈夫です!!」
 額の熱を測ろうと手を伸ばしてきた降谷から逃げるように立ち上がり、むしろこちらからその体をグイグイと押しやった。
「その証拠品があれば悪い奴らをとっちめられるんでしょう!?早く行ってください!」「あ、ちょっ」
 さあさあと、玄関まで押していく。その広い背中が抱えているものの多さ、大きさを思って泣きそうになった。
 今までだって、面倒見の良さからやコナンの頃からの縁続きで会ってくれていた。そこには人情よりも友情に近い好意のようなものも確かにあっただろう。君は危なっかしくて目が離せない、と笑っていたのも本心だと知っている。
 けれど、今日をもってそれは『義務』になってしまった。次に会うとき、降谷のその行動原理は新一を助けるためのものになってしまったのだ。
 会いたいときに会う。それがとてもかけがえのない、大切な日常の一つだったのだと、新一はこの時になってようやく思い知った。
 もう、降谷と楽しいひとときを過ごすことは出来ないのだと。玄関先で手を振って見送りながら、失ってしまったものの大きさを噛みしめる。無邪気でいられたあの頃にはもう戻れないのだと。
 さようなら、と声に出さずに呟いた。
 次に会うとき、降谷はどんな表情で自分を迎え入れてくれるのだろう――。


***

 最低でも月に一度は、と言っていたくせに、降谷は毎週末新一と顔を合わせた。大体は工藤邸で、時々降谷の住まいに呼ばれて。そこは以前と変わりないのだが、休みが取れなかった日は新一のいる所に仕事を抜けた降谷が車で乗り付けて、短いながらも時間を確保してきたのには驚いた。
「降谷さん、忙しいんじゃないんですか?」
「いや?」
 首を振り否定する降谷の手には、三秒チャージのエネルギー補給ゼリー飲料。じゅこここ、と最後の一滴まで吸い尽くすと、コンビニの袋に入れて縛り、後部座席に放り投げ入れた。
「いや?って、寝てないですよね。隈凄いですよ!?」
 都内の緑地公園駐車場に停めて散策に出るのかと思いきや、突然の時短補給に目を白黒させた新一の前で、降谷はくたびれた様子を隠しもしない。だというのに、忙しくないなんてあからさまな嘘を吐く。
「仕事が忙しくないのは本当だよ。ただ立て込んでいるだけで……」
「それを世間では忙しいって言うんですよ」
 俺に会う暇があるなら寝てください、と諌めれば、「じゃあちょっとだけ寝させてもらおうかな」と言うが早いか腕組みをして俯き加減になって瞼を落とす始末。
「……十分経ったら起こして」
「え、あ、はい……」
 一分後には深い呼吸音だけが、静かな車内に満ちていた。大きく膨らみ、ゆっくりと萎んでいく胴体。前髪で隠れて目元は見えないが、降谷は確かに熟睡していた。
 思いもよらない展開に嘘だろ、と唖然となりながらも、ずっと眺めていたい気持ちを抑えて前を向いた。とくとくと鼓動が速くなるのは、降谷の貴重な姿を見たせいか。人の気配があると眠れないと、いつぞやこぼしていたあの降谷が。こんな真横に他人である自分を乗せて、ドアの向こうは外という状況で。
 全幅の信頼を自分に寄せているのか、はたまたそれだけ疲れていたのか。
 降谷のゆったりと深い鼻呼吸のリズムが、新一を例えようもないくらいに堪らない気持ちにさせる。
 こんなの、ズルい。
 気持ちを落ち着けようとスマートフォンを弄っても上の空で徒にスクロールするばかり。手のひらが汗でしっとりとしてきた頃、降谷が自分で目を覚ました。
「ん……。今何時だ?」
「……宣言通りきっかり十分後ですね」
 狸寝入りかと疑ってしまった新一だったが、天井すれすれまで大きく伸びをした降谷がこれまた大きく欠伸をしたので、すんでのところで言葉を飲み込んだ。
「君と会った日は不思議と良く眠れるんだ」
 刺したままのキーを回しながら降谷が何気なく放った言葉の意味を問おうとして、それも飲み込む。きっと深い意味はないのだろう。ハードワークの合間の気分転換。きっとそんなところに違いない。

 その日は結局、特に会話が盛り上がるでもなく。降谷の淹れたコーヒーも飲めなかったけれど。家まで送り届けてもらい別れた後、自室のベッドにうつ伏せに倒れ込み。
 新一はここにきてやっとで大きな声を出せた。
「クッソぉぉぉぉ!!……ンだよ俺!降谷さんの事……好きになってんじゃねーか!!」
 ばふ、と枕を拳で叩いた。
「あんなん反則だろ!?卑怯だろ!?あれで落ちないとか、おかしいだろ!?」
 バーロー!!
 掛け布団に吸収されていくだけの想いの丈を、新一はどうしたらいいか分からない。だって、こうして会ってくれるのは、それが仕事の一環みたいなものだからだ。降谷が会ってくれないと、新一はまた体が縮んでしまうからだ。それだけならいいが(いや良くはないが)、うっかり命を落とすこともあるかもしれない。何故ならアポトキシン4869は元々毒薬として開発されたから。
 ばーろー、と力なく呟いた。
 公安警察にとって、対象者との恋愛は御法度だ。私情で周りに目が行かなくなるから。ましてや降谷にしてみれば今回の件はイレギュラー中のイレギュラー。面倒くさいと思っているかはさておき、恋愛感情なんて生まれてくるはずもない。
「ばーろぉ……」
 自覚しなければ、よかった。
 きっと、Ωだと知ったばかりの荒れまくっていたあの頃、本調子を取り戻すまで降谷がそばで見守っていてくれたから。こまめに会うようになって、気付かぬうちに育っていった恋心が、会えなかった二ヶ月間で弱まってしまってアポトキシンを顕在化させたのだ。降谷の持つαフェロモンに慣れきってしまった身体が、その不足を訴えるようになってしまったのだ。
 もうこの体は。心は。
 降谷なしでは生きられなくなってしまった。


***

 それからもペースを保ったまま、二人はコーヒーを飲みながら話をしたり、時には黙々と本を読みふけったりした。天気のいい日にはドライブに誘い出してくれる降谷の顔色は、あれ以来忙しさも解消されたのかすこぶる良い。これが義務感からのものでなければ、最高に楽しい時間なのになと思わずにはいられないくらい、新一はこの逢瀬を心待ちにしていた。
 ただ、一つだけ難点を上げるとするならば。

「わっ、ごめ……すみません」
「大丈夫。……工藤くんは平気?」
「は、はい」
 新一の服を買いに来たショッピングモールで、目的のショップへと向かう途中、後ろから追い越しざまにぶつかってきた人に押される形で降谷に寄りかかった。その人は余所見をしていたと慌てて謝ってきたので、新一も何ともないことを伝えたのだが。
 開店直後のまだ混み合っていない閑散とした通路でも、二人の距離は拳一個分。
 ……近い。近すぎる。
 それとなくほんの僅かに離れてみても、降谷の方からその幅を縮めてくるのだ。さっきも人とぶつかった時にも、降谷に寄りかかるような体勢になってしまったのはそのせいだった。
 家のリビングでも真隣に座るし、頭や腕などへのボディタッチも増えたような気がする。降谷という男は、ここまで距離感ゼロなタイプだったろうか。
 いや別に、セクハラされたとかでもないし友人ならばあってもおかしくない範囲だ。けれども。降谷への恋心を自覚してしまった新一にとってそれは拷問なのかご褒美なのか、とにかく感情のアップダウンが目まぐるしくて困る。
 いつぞやは内緒話をするみたいに、耳元で囁いてきた事もあった。うっかり変な声が漏れそうになって、慌てて仰け反ってソファから転げ落ちた。
 たちの悪いことに、どうやら降谷はそれら全てを無意識にやっているようなのだ。一度だけ、耐えきれずに顔が近いと叫んだ時は降谷も頬を染めつつ謝りながら距離を取ってくれたけれど。ごめんと何度も言われて、新一もその場は流したのだった。
「――買うのはアウターだけ?」
「あ、はい」
 目的の店に入り、軽く物色していく。新一が最初に何気なく手にしたのは、カーキ色のモッズコート。フードや裾に使われているコードストッパーが赤色で、ちょっとしたアクセントになっている。内側には着脱可能な薄綿ベストが付いていて、冬のはじめころまで長く着られそうだなとそれを羽織ろうとした。
「それよりだったら、こっちの方がいいんじゃないかな」
 ずい、と降谷から出されたのは同タイプの色違い。ライトグレーの生地に黄色のコードストッパーという組み合わせで、全体的に明るい感じのものだった。
「そのデザインでカーキ色は、警察関係者の間では二極に反応が分かれるから」
 そういえば小さい頃に大流行した刑事ドラマがあったなと、その時やっと気付いた新一は降谷の助言に従ってライトグレーを買うことにした。思い起こせば数年前、高木刑事が同様のコートを着ていたら先輩刑事や同期にからかわれていた。おじさん達のいいおもちゃにされるのは少々勘弁願いたい。
「それに、赤はNGだからね」
「まだ言ってんですかそれ……」

 帰りの車内ではその刑事ドラマの話しで盛り上がった。
「なんだかもう一度見返したくなったな」
「わかります。劇場版は大体あらすじ覚えてるんですけど、ドラマの方細かいところあやふやになってますもんね」
「そうだね。……ところでさ」
 信号待ちの列の後ろに並んで、サイドブレーキを引く音。降谷が上体を捻って新一の方を向き、真顔で言った。
「どうして敬語なんか使うんだ?前みたいにもっと打ち解けた話し方をしてくれないかな」
「……あ、」
 降谷の青灰色の瞳が、新一の表情一つ漏らすまいとひたりと見据えてくる。
 油断しきっていた新一は目をうろうろ、額には汗、口からは「えっと、その……」という意味のない言葉ばかり。
 そうでしたか?なんてそらっとぼけられない。自覚して話しているとバレバレな態度。どうしよう。何て返したらいい?
「だって降谷さん、今仕事の一環として俺に会いに来てるんでしょう?」――そう言えたらどんなにいいか。でもこれじゃあまるで、仕事以外の目的で会いに来て欲しいみたいじゃないか。どこの彼女だ。
 いつになく真剣な降谷の眼差しに射竦められて、口の中がカラカラに乾いていく。
 沈黙はほんの十数秒だった。
 信号が変わり、動き出した列に沿って降谷も前に向き直り運転を再開させる。
「……僕は、義務でここにいるわけじゃないよ」
「……っ!」
 バレていた。新一の思案していたところなんか、全てお見通しだったのだ。
「君が僕の友人でいてくれなくなったら、僕は正真正銘の一人ぼっちになってしまう。それは、ちょっと寂しいな」
 重苦しい空気を和らげるようにおどけて発せられた言葉は、降谷の本心なのかもしれない。新一が勝手に作り出した距離を降谷は寂しいと言った。仕事ではなく、友人として会っているのだと言ってくれた。
 ――どうしよう。めちゃくちゃ嬉しい。
「赤井さんがいるじゃねーか」
「うん?僕と今からスパーリングしたいって?」
「ンな事言ってねーよ!」
 笑い声が車内に弾ける。気付けば背中や肩にずっとのしかかっていた緊張感はなくなっていた。

 工藤邸の駐車場に車を停め、それぞれにシートベルトを外しながら。「それにしても」と降谷が苦笑いで言った。
「君にもそんな可愛げがあったんだな」
「可愛げってなんすか」
「いや……。仕事ではなく、僕個人として会いに来て欲しいだなんて愛されてるなぁと」
 それがあまりにも軽いノリだったから、新一はついムキになってしまった。
「そりゃあ、拗ねたくもなるっての。俺だって好きな人に仕事ヅラで会いに来られたら面白くなんかねぇ……し…………」
 あ、と口をおさえる。ばくんばくんと心臓が大きく脈打った。本日何度目か分からない大粒の汗が額に浮かんだ頃、口火を切ったのは降谷の方だった。
「……悪い。君の気持ちには応えられない」
 固く、張り詰めた色。それまでの和やかな雰囲気なんかどこにも残ってなくて。
 ですよね、と力なく返した新一は泣きこそしなかったものの、その後どうやって車を降りて自分の部屋に戻ったのか。別れ際に降谷と会話を交わした内容すらあやふやで。できれば気に病まないで、これからも君と会うつもりだとかなんとか。
 ただ胸に広がるのは虚しさばかり。

 工藤新一、二度目の恋はうっかり告白の即時玉砕で幕を閉じた。
 わずか半年にも満たない、短い片恋だった。 


***

 失恋直後のヒートは、メンタルの影響もあるのかそれはもう酷いもので。抑制剤を飲んでも尚、体の奥から湧き出てくるどろどろとした感情が新一から思考力を奪っていく。微熱を孕んだ呼吸は荒く、二日か三日か、その間は食欲もなく水だけを飲んでやり過ごした。
 降谷から一度だけメールが来たけれど、『ヒート』の字面の威力は絶大で、それから数日間連絡が来ることはなく。
 その後も失恋直後に会える勇気は無いことと、月一ペースでお願いする旨を送るとすんなり了承の返事が返されて、自分で提案したことなのに落胆してベッドに突っ伏した。
 ヒートも終わろうというのに未だに重苦しい下腹部とぐにゃぐにゃの頭を抱えて唸る。もしかしなくても、このたったの一ヶ月間で失恋の痛みから立ち直らなければならないのかと。元の間柄に戻れと言うなら戻れなくもない。けれど、この先降谷にもし恋人ができたら?結婚なんてことになったら?自分はそこまで恋に愚かになるつもりはなく、また他の誰かの幸せを押しのけてまで、降谷のαフェロモンにあやかるつもりは無い。
「……っつーか、別に降谷さんじゃなくてもいいんじゃねーのか?」
 αであるならば誰でもいいみたいな事を、確か宮野も言っていた気がする。何も自分を振った人にフェロモン補充させてもらう道理はないのだ。
 そうと分かればグズグズしている暇はない。新一はヒート明けを待って、隣の家へと突撃した。

 いつもの如くアポ無しで突撃した阿笠博士の家で新一は、意外な人物が寛いでいる事に目を丸くした。
「赤井さん!いつこっちに来たんですか」
 相変わらず黒一色の装いだが、トレードマークのニットキャップはソファに腰掛ける彼の傍らに無造作に転がっている。シャツの胸ポケットからはこちらも銘柄の変わらない煙草のケースがちらりと覗いていた。
「一昨日だ。弟妹に会いに来たついでに顔を見ていこうかと。だが志保から君は今都合が良くないと知らされてな」
「アハハ……。もう大丈夫ですよ」
「ああ、そのようだ」
 赤井の対面に座っていた宮野が立ち上がり、コーヒーでいいかと聞いてきたのに謝辞で応え、代わりに空いたスペースに滑り込んだ。赤井の顔を見た瞬間に新一の頭浮かんだ名案。いたじゃないか。適任者が。
「なぁなぁ、赤井さん」
「断る」
「いやまだなんも言ってねぇし」
 赤井はそれまでの温和な笑みから一転し、とても渋い顔をした。
「言わなくてもわかるとも。今の君は、グッドニュースだと嬉々として面倒事を持ち込んできた時の真澄と同じ顔をしているからな」
 それに、と続けられた言葉に新一はフリーズした。
「君からは降谷くんの匂いが強く香ってくる。ついにペアになったのかと思ったんだが。頼む相手を間違えてはいないか?」
 ペア。諸外国では番のことをそう呼んでいる。新一は一瞬にして気持ちが舞い上がり、一瞬にして谷底に落ちた。
「……れた」
 俯き項垂れる。赤井を顎で押しやって場所を確保した宮野が、テーブルにコーヒーを置きながら聞き返す。
「どうしたって?」
「振られた……。ついうっかり告白しちまって、そしたら断られた。眼中にねーんだと」
 間髪入れずにそんなバカな、と二人が同時に口にした。
「色々とありえないことばかりなんだけど!」
「No way……」
「あれで手を出す気ないとかバカにしてるのかしら!?」
 新一が荒れ狂っていた時期は赤井も時々気分転換に付き合ってくれていたから、タイミングが重なった時などはここに降谷も入れて四人で出掛けたりもした。だから赤井は、降谷のマメに甲斐甲斐しい様子から、αとして新一を狙っているのだろうと推測していたらしい。
「っていうか!じゃあどうするのよこの先?あの人に会うのも気まずい状況じゃ、またいつあんな事が起こるか分からないじゃない」
「おう……。それについてなんだけどよ、」
 上げた視線を、宮野から隣の男へとスライドしていく。宮野もつられて顔を隣へ。
 縋るような眼差しを二人から向けられ、赤井は再び力強く「断る」と言い切った。
「まだ何にも言ってないわよ」
「何か問題が起きているのは分かった。だが俺はその話には乗らない」
 無意識にか胸ポケットから取り出した小箱を宮野に見咎められ、小さく謝罪して再びしまう。
「もう頼れるのが赤井さんしかいないんだって!」
 両手をぱん!と合わせて拝んだ。
「ちょびーっとだけ、赤井さんのαフェロモンをさ、こう……じわーっと」
「――ボウヤ」
 赤井のやや怒気を孕んだ声にぴんと張り詰める空気。宮野すら気圧されて、じわりと距離を取る。
「世界中で、αによる性暴力の被害者はβとΩどちらが多いか分かるな?」
「え……あ、うん……」
 精神を落ち着かせようと、ケースから出した一本の煙草をテーブルにトントンと打つ。翠の瞳がひたりと新一を見据えた。
「番になっていない、フリーのΩはαの放つフェロモンやラットに中てられると、否が応でも受け入れざるを得なくなる。心は拒否しても、体が反応してしまうんだ。それを加害者側が『合意の上だった』と言ってしまえばそれまでだ。αが全てに於いて優位に立つこの国の法律では尚更の事」
 こくりと、小さく頷いた。
「それ以外にもう一つ理由があることも知っているな?」
「えーと、定期的にだけでなく不意に起きてしまったΩのヒートに誘引されて、αもラットを起こしてしまう事が往々にしてあるから……?」
「その通りだ、ボウヤ。Ωのヒートを目の当たりにしてラットを起こしたαがその性衝動を抑えることは、並大抵の精神力では難しいとされる」
「だから医療に携わる人、警察官や自衛隊員は特殊な訓練を積んで薬だけでなく、自己精神力でもラットを起こさないようにしてるんだろ?あとαフェロモンを完全に抑制することだって可能だとも」
「……その通りだ」
「だから、こうして赤井さんに頼んでるんだけど。ちょろ〜っとだけでいいんだって。当てられないどころか、あるのかないのかも分かんない程度のやつ」
「理由を聞いても?」
 宮野と目を合わせる。頷いたのを了承ととり、新一は赤井に事の経緯を何一つ隠すことなく話した。
 突然体が縮まり、コナンと名乗っていた時と同じようになってしまった事。調査した結果、新一のアポトキシン解毒は耐性のせいで完全には至らず、だがαのフェロモンを微量摂取する事で分泌されていたオキシトシンが抗体力を上げており、そのおかげでアポトキシンの毒素を抑え込めていた事。αである降谷と定期的に会っていたからこそ、こんな体質になっていたと二年目にして判明したのだが。降谷にもそれは報告済で、その後もマメに会ってはいたのだが。
「それで……先程の振られた話に繋がるのだな」
 指で弄んでいた煙草をケースに戻し入れて赤井は言った。
「だがボウヤ。君にはもうペアだと思われるくらいに降谷くんの匂いが染み付いてしまっている。恐らく……いや、確実に俺のものは受け付けないだろう」
 それでもやるか?という最後の確認に迷うことなく「やる」と返して。腿の上に手を置き、しゃんと背筋を伸ばした。さぁどこからでもかかってこい。
 それを見た赤井はげんなりとしつつも宮野にビニール袋の用意を指示した。
「クソ……。後のことは知らんぞ」
「後のこと?何で?」
 その問いには答えず、袋を持ってきた宮野にそれはボウヤへ、と指差して。
「そいつを広げて、両手で持ってろ」
 どういうことだろう、と首を傾げかけたその直後。鼻腔を擽る微かな匂いの存在に気付いた瞬間、新一は全身の毛穴がぶわりと開いた感覚と激しい頭痛に見舞われた。
「ッ……!なに、これ……、っう、」
 三半規管が激しく回転したような酔い感。胃が捩れて、ぐわっとせり上がる。食道を逆流してきたものを抑える余裕も無かった。
「――――ぅ、えッ」
 袋の中に咄嗟に口を突っ込み、ぶちまけた。ぎゅるりと再び胃が波打ち、第二波が襲い来る。宮野が隣で背中を擦って名前を呼んでいるみたいだが、がんがんと痛む頭と耳鳴りでそれどころではなかった。
「……やはりな。ボウヤ。もう『閉じた』から大丈夫だ。一度外に出て新鮮な空気を吸ってくるといい」
 俺もついでに一服してくる、と赤井は立ち上がり出ていった。
 宮野が玄関と反対側の窓を開けて換気をすると、それまでの痛みが嘘のように消えていく。
「……サンキュー、宮野」
「もう大丈夫なの?」
「ああなんとか。死ぬかと思ったぜ……」
 降谷の時は平気だった(むしろ身体が火照って大変だった――いろいろと)のに、何故赤井のフェロモンは受け付けないのだろう。吐いたものを持ってトイレに向かいながら、新一は考えた。
 新一の体には、番と誤解されるくらいに降谷のフェロモンが染み付いているという。赤井のフェロモンに対する反応は言ってみればそれは拒絶反応、のようなものなのだろう。番になったΩは生涯、そのαとしか生きられない。性交も妊娠出産も、番った相手とのみしか行わない。
 トイレの水洗ボタンを押し、流れる水音を聞きながら憂鬱な気持ちになる。若くして番に捨てられたり、先立たれたΩはヒートの度に気が狂うような時間を過ごすのだという。他のαに心移り出来ないのは、何も愛情からの理由だけではないのだと新一はこのとき初めて知った。
 ――番どころか、告白段階で振られているのに。
 もはや呪縛や呪いの類に思えてくる。これが両思いだったなら新一は喜んで受け入れたのに。
「かといって、現状を正直に降谷さんに言えるか?……言えねーよなぁ」
 間違いなく、彼は義務感から番にしてくれるだろう。他の為に個を殺す男だ。容易に想像が付く。
 そんなことだけはさせたくない。降谷を好きになったのは自分の意思だが、降谷にだって自分の意思で振り向いて欲しいと思うから。欲しいのはあの人の持っているものじゃなく、降谷自身なのだ。
「はーぁ……。こんな時に限って、降谷さんのコーヒーが恋しくなっちまう」
 ぼやきながらトイレから一歩出た。とくん、と胸が小さく鳴った。
「……?」
 また吐くのか、と胃のあたりに手を当てた。いや――違う。これは。
「――――ッ!!」
 どくん!と大きく脈打ったのは、心臓のほうだった。
 がは、と息が詰まりその場に膝を付いた。宮野を呼ぼうと口を開いても、はくはくと空気を取り込もうとしても、全身の血液が沸騰する痛みと骨や肉の上げるギシギシとした悲鳴に耐えようとするので精一杯で、叫び声すら上げられない。
 しゅうしゅうと湯気のようなものがあちこちから上がる。痛い。痛い。――――痛い!!
「あ……っがぁあ!」
 床を掻きむしった。心臓が爆発するのではないかという恐怖。複数の駆け寄ってくる足が視界の中に見えた気がしたけれど、ブラックアウトしてしまった新一にはもう何も見えず、聞こえなかった。

1/2ページ
スキ