日常に至る経緯7.5
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「ただいま戻りましたー」
昼食をとりに出ていた結理が事務所へ戻ってきたのは、クラウスがスポンサーとの会食に出て少し経ってからだった。今回はラインヘルツ家の縁での相手な為、スティーブンは同行していない。他のメンバーも非番だったり所用で席を外していたりで、事務所内にいるのは自分と、たった今やってきた少女だけだ。
「おかえりお嬢さん」
「おお……チェスですか?」
笑いかけると、少女はテーブルの上のチェス盤を見て目を丸くした。
「さっきまでクラウスと対局していたんだ。君もやってみるか?」
「はいやりたいです!ああでも、あんまり強くないんでおてやわらかにお願いします……」
問いかけに即答して、少女はさっとスティーブンの対面に座って駒を並べ始めた。自分の様子をじっと眺められていることも、その視線の温度が低いことも分かっているはずなのに、まるで気付いていないように楽しげに駒を並べている。言いたいことがあるのなら口に出せと、無言の主張をしているような態度だ。
「……飛車角落ちとかありですか?」
「うん?」
「将棋でハンデつける為に強い駒をいくつか抜いてくれるルールです」
「残念だけどチェスにそういったルールはないな。代わりにはならないが先手は譲ろう」
「ありがとうございます」
へらりと笑って礼を言ってから、少女は表情を引き締める。
「よろしくお願いします」
一礼をして、真剣な表情の少女はポーンの駒に触れた。
結理の手は強くないと言う割にはかなり強気の姿勢だった。ほとんど守ることはせず、時に玉砕することを分かり切りながら、時にこちらの隙をつきながら止まることなく攻めの姿勢を貫く。だが無茶苦茶でも闇雲でもない。薄く、だが確実な守りが絶妙に侵略を阻み、攻め返してくる。手練とは言い難いが、素人では決してない。
「中々やるじゃないか」
「ありがとうございます」
「しかし……何とも君らしい手だな」
少女と知り合ってからそう長くはないが、その中で何度か見た戦闘時の彼女を彷彿とさせる手だ。評価の意味合いを理解したらしい結理は、盤上を見つめたまま苦笑を漏らす。
「昔祖父と将棋やった時に同じこと言われました。自分を削りながら突っ込む無茶な手だって」
「プロスフェアーなら30分持たずに詰みそうだ」
「ぷろ……す、ふぇあー……って何ですか?」
「異界で大昔からあるらしいチェスに似たゲームのことさ。クラウスが熱狂的にハマってるから、今度手ほどきしてもらったらどうだい?」
「何か面白そう……聞いてみます」
好奇心に表情を輝かせながらも、結理は駒を進める手を止めない。口調こそ軽いが盤上を見つめる目は真剣で、わずかだが焦りの色が浮かんでいた。
「そういえば、スティーブンさんはそのプロスフェアーはやらないんですか?」
「脳味噌を沸騰させる趣味はないよ」
「一体どんなゲームなんですか……」
「チェックメイト」
「…………え?」
さらりと告げられた言葉に、少女の顔が一気に驚きに塗り替えられた。盤面を隅々まで見て、丸い瞳を更に見開く。もう少しで相手の牙城を突き崩せるという所で、薄いながらも確実だと思っていた守りがいつの間にか崩されていたことに気付いた少女は、遠慮なく驚愕の声を上げた。
「……え、ええっ?嘘ぉっ!?」
「攻めに重点を置く戦術は有効な時もあるが、それが通じない相手もいるってことだ」
「……逆もまた、ですよね?」
「屁理屈だな」
「分かってます。負け惜しみの悔し紛れです」
言い返しながら眉間に似合わないしわを寄せて盤上を睨んだが、守りをどう崩されたのか見当がつかなかったらしく、少女はすぐにため息をつくとのけ反るようにソファにもたれかかった。
無防備で無警戒。それが当たり前だと言わんばかりに。
そんな少女に声をかけながら、スティーブンは音を立てずに床を踏む。
「もう一局やるかい?」
「はい!おねが……」
答えながらがばりと起き上った結理が、身を乗り出そうとして止まった気配がした。スティーブンは少女の方は見ずに、駒を並べ直している。
テーブルの下から伸びている氷が少女の足を絡め捕り、凍らせていた。発動した気配もタイミングも分からなかったようで、小さく息をのんだ音が聞こえてきた。わざと避けなかったのかと思ったが、そうではないらしい。感知能力も万能という訳でもなさそうだ。
「……スティーブンさん、冷たいです」
「あんまりにも無防備だから、ちょっかいをかけてみたくなってね」
「事務所の中でぐらい気を抜いたってよくないですか?」
「わざと言ってるのか?」
「わざとはぐらかしてます」
問いかけに、結理は若干の緊張はあるものの気負いなく即答した。顔を上げて少女を見ると、想像していた以上に落ち着いた表情をしていた。足を凍てつかせた相手が何を思っているのか、自分がどうするべきか、何をすれば正解か、不正解か、冷静に観察するような目に戸惑いや緊張はあっても恐怖はない。