眠りの海で待っている
深い眠りから目が醒めた。
外からは小鳥の囀りが聴こえる。白い光が部屋の隙間から差し込んでいるのを見て、朝の訪れを知った。布団から起き上がると、隣で寝ている成歩堂が身じろぎする。うん、と童子のように声を漏らす彼が愛おしくて、左目蓋に口づけを落とした。
「キサマはまだ寝ていろ」
頭を撫でてそう云えば、夢心地なのか成歩堂は目を閉じたままへにゃりと笑って、再び穏やかな寝息を立て始めた。此奴は、オレがこうして口づけをしてあやしていることなんて知らないのだろう。・・・・・・多分。
朝の鍛錬のため、浴衣から道着に着替える。外の水場で顔を洗う。水は朝日に反射して、成歩堂の瞳のようにキラキラと輝いていた。
海で目を醒ますと、いつも決まって成歩堂の目が一番初めに飛び込む。
それこそ口づけでもしてしまいそうな距離で、成歩堂が此方を覗いているのだ。彼の目の輝きは清らかな朝の光にも似ていたが、どうにもしっくりこない。似ているのは確かなのだが。
なぜそんな、目に輝く光が見えるほどの距離にいるのか、いつも不思議に思っていた。問い詰めると曖昧な返事しかしないので放っておいているが、気になるものは気になってしまう。聞けばなぜだか淋しそうな顔をするから、触れてはいけないことなのかもしれない。
相棒が隠し事など珍しいとも思うが、彼奴は人のためなら平気な顔をする。嘘が下手なくせに、変なところで肝が据わっているのだ。そこが彼の美点なので、とやかく云う必要はないが。
昨日の夜はみっともないところを見せてしまった。気がついたらオレは泣いていて、成歩堂が絶対に手を離してくれなかった。とまらない涙をどうすることもできず、抱きしめる彼の腕になすがままにされた。相棒の体温は温かくて、心臓の音も穏やかで、オレはつい安心して泣いてしまった。
ひたすら夢を見ていた。父上と母上の夢を、ずっと。しかし、二人の元へ行こうとすると、真っ黒な人影がオレの手を取って連れ戻すのだ。なぜ父上と母上のところに行かせてくれないのだと喚き嘆いても、その黒い人影はオレの話を聞かずに強い力で引っ張っていく。
毎夜のように同じ夢を見ていた。しかし、昨日は違った。
父上と母上の姿は見えず、暗い世界でぽつんと独り立っていた。とうとうオレは独りになったのだと悟った。淋しくて、哀しくて、そしてこれがオレに与えられた罰なのだと己を嘲け笑った。愛する者のために修羅になった己の、正しい末路。オレはこの光の差さない世界でずっと独りでいるしかないのだと、そう思った。
そんなとき、左手にぬくもりを感じた。
其方を見やると、いつもの黒い影が見えた。いつも靄がかかって見えないその人は、そのときはじめて口を開いた。
「亜双義」
まっすぐで、透き通った声だった。その声に聞き覚えがあった。オレが焦がれてやまないその人は、穏やかに笑んでこう云うのだ。
「お前を愛しているよ」
彼が呪文のように唱えた瞬間、さあ、と靄が晴れた。気がつけば、オレはその人の名前を呼んでいた。
なるほどう、と何度も何度も呼んで、彼の手に縋り付いて、そうして気がついたらオレは泣いていた。
鍛錬が終わり、手ぬぐいで汗を拭う。そろそろ尋ねてみてもいいかもしれない。彼が、どうやってオレを起こしているのか。
オレはもう、あの夢に縛られることはないのだから。
朝にそんなことを考えていたからだろうか。真夜中にふと目が醒めた。
暗闇に慣れた目で時計を確認すると、ちょうど深夜弐時あたりだった。こんな時間に目を醒ますなど珍しい。隣では、成歩堂が健やかな寝息を立てていた。
布団から這いずり出ると、成歩堂が意志を持って起き上がる。眠たそうな声で、オレを呼びとめた。
「亜双義、待ってくれ・・・・・・。ぼくも行く」
成歩堂はオレが自らの意思で起きていることに気づいていなかった。これはもしかすると、成歩堂がどうやって起こしているのか知る絶好の機会ではないのか。特有の悪知恵が働いて、オレは浴衣姿のまま部屋を出た。
このまま幽鬼の振りをして、成歩堂を暴いてやろうと思った。裸足のまま玄関に滑り込むと、後からついてきた成歩堂が「靴を履いてくれ」と呼びとめる。オレを無理矢理玄関に座らせて靴を履かせた。ここまで甲斐甲斐しく世話をしてくれていたとは知らなかった。
オレの肩に外套をかけて、彼は隣に並ぶ。左手に指を絡ませて、へへ、と小さく笑っていた。成歩堂の顔が見たかったが、幽鬼の振りをしているのだからそうもいかない。オレは漁港までの道のりを、心を殺して歩いた。
歩いている間も、この男は騒がしい。一切返答をしていないのに、成歩堂は嬉々としてオレに語りかけていた。この前新しい団子屋ができた話や、道ばたに咲いた花の話、海沿いにある小学校の話をしていた。あまりに楽しそうに話すので、拍子抜けしてしまう。ずっと、迷惑をかけていると思っていたのに。
ふと、成歩堂の右手が強ばった。朗らかだった空気に緊張が混じる。
言葉を詰まらせた成歩堂が、苦しげな声で云った。
「亜双義、お前を愛しているよ」
胸がざわついた。今すぐこの男を腕に囲ってしまいたい衝動に駆られた。しかし今のオレは幽鬼だ。少なくとも、成歩堂がどうやってオレを起こしているのか確かめなければ、この呪いは解けないのだ。
胸のざわつきを無理矢理抑え込み、漁港へ向かう。潮風がオレたちの間を過ぎ去っていく。澄んだ潮の香りは、隣にいるこの男を連想させた。すべての命を包む、生の香りだ。
海辺を歩いていると、花吹雪に煽られる。淡い光の欠片が靄をつくり、夜闇を照らしていた。この土手の上に小学校があるのだと、先ほど成歩堂が云っていた。
桜の花びらが海へなだれ込む。水際まで行くと、桜の欠片が水面に浮かんでいた。
桜の咲く季節になっても、夜の海はやはり冷える。思わず身震いすると、成歩堂がオレの身体を温めようと身を寄せてきた。
それにしてもやたら成歩堂の距離が近い。戸惑っていると、成歩堂が此方へ手を伸ばしてきた。
オレの頬に触れ、顔を寄せる。どうした、と問う暇もなく、唇を奪われた。
柔らかくて穏やかで、不器用な口づけだった。
一生このままでいたいと願ってしまった。泣きたくなるくらい、胸が痛んだ。心の中に巣くう幼子の己が、喧しく泣き喚いている。もう泣かなくていいのに、欲しい欲しいと駄々をこねる。
気がつけばオレは成歩堂の腕を引っ張り、海へ身を投げ入れた。
「う、わっ⁉」
成歩堂の無様な声があがる。二人して水面に叩きつけられる。水際なので、溺れず浴衣が濡れるだけで済んだ。
身体の熱が奪われていく。それでも、オレは愉しくて笑わずにはいられなかった。無様なオレは、この男に掬われていた。その事実が愉しくて・・・・・・嬉しくて、笑わずにはいられなかった。
オレに覆い被さった成歩堂が、大慌てで身を起こす。
「亜双義⁉ 大丈夫か⁉」
「いや・・・・・・、はは、すまんな」
喉奥で笑いを堪えるオレの様子を見て、成歩堂は漸く察したらしい。途端に眉をつり上げて、歯を見せて怒った。
「あ、亜双義・・・・・・ぼくを騙したな⁉ 心配しているぼくの気持ちを返してくれ!」
「だから、すまないと云っているだろう」
「ごめんで済むなら弁護士や検事なんて必要ないだろ!」
純粋に怒っている成歩堂の様子が面白くて、こんなにも愛しい。オレはそのまま水面に浮かんで夜空を見上げた。月の灯にかき消されて気づかなかったが、無数の星々が瞬いていた。
あ。と声が漏れた。星の光は、成歩堂の目に宿っていた。
星の灯と暁光は似ているのだと気づいて、余計に笑ってしまった。オレを覚醒に導くその光に目を凝らして、手を伸ばす。
「成歩堂、」
来い、という言葉はかき消えた。成歩堂がオレの身体に身を預けて唇を重ねる。どぷ、と少しだけ身体が海中に沈んだ。海の中から見える星は眩しくて、どうしても離れがたい。星灯の網が、どこまでも広がっていた。
桜の花びらが耳を掠めて流れていく。
海のような深い夜を越えて、どこまでも流れていく。
はあ、と息を溢した。水泡となった呼吸は、つやつやと輝いて水面へと上がっていった。そうして身を起こして、二人ずぶ濡れの状態で微笑み合った。
この男はそうやって、醒ましてくれるのだな。その光で、小さな己を掬いあげてくれるのだ。
無数の星々を散りばめた目を細めて、成歩堂はオレの左手を再び握った。
「帰ろう」
「ああ」
その手を握り返して、静かに頷く。海水を含んだ浴衣を引きずって、オレたちは元来た道を戻った。体温は奪われているはずなのに、指を絡ませた手は温かかった。
もう、夢で泣くことはない。
もう、海を求めて徘徊することはない。
もう、この手は離さない。
もう――独りの夜は来ない。
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