眠りの海で待っている
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
「ところで、キサマはどうやってこのオレの入水をとめているんだ?」
「え」
亜双義が事務所に居座って一週間が経った頃、二人で夕餉を食べているときに不意に彼がそう尋ねてきた。
そこで、亜双義はぼくが接吻するところまでは覚えていないのだと知った。それはそうだろう。覚えていたら今頃ぼくは斬られている。
これ幸いとばかりに、頭を掻いてごまかした。
「え、えーと・・・・・・、そんなのどうでもいいだろ。ちゃんとお前の意識を戻せてるんだから」
「しかし、その方法さえ身につければキサマにばかり頼らなくていいだろう。他のヤツに頼むという手段も・・・・・・」
「そ、それは駄目だ!」
咄嗟に卓袱台を両手で叩きつけてしまう。亜双義は驚いた顔をしていたが、すぐに微笑んで、「なんだ、ここは法廷ではないぞ」と揶揄ってきた。
他の人に頼むだなんて、絶対に駄目だ。それこそ、亜双義が想い慕っている人なら話は別だろうけれど・・・・・・まで考えて、異様に胸が痛いことに気づいた。なんて身勝手な感情だろう。唇を勝手に奪っただけではなく、彼を独占したいなどと。
亜双義がぼく以外の人と口づけするところを想像してみる。意識のない亜双義に、見知らぬ誰かが唇を重ねる。我に還った亜双義は優しく微笑んで、「帰ろう」とその人の手を取るのだ。
やっぱり、嫌だった。
皿に載った焼き鮭を箸でほぐして口に運ぶ。寿沙都さんがお裾分けしてくれた鮭は脂がのっていて、口の中で溶けていく。それに加え、蕪菁のお漬物と豆腐の味噌汁が卓袱台に飾られていた。
「そんなしけた顔をするな。キサマが云いたくないならオレも聞かん」
「・・・・・・ごめんよ、今はまだ云えないんだ」
少なくとも、亜双義が夜中出歩かなくなるまでは口にできない。ぼくが接吻していたと発覚すれば、亜双義はどんな反応をするのだろう。怒って口をきいてくれなくなるかもしれない。あるいは――。
「ぼんやりしてるな、成歩堂。飯に集中しろ」
「あ・・・・・・ああ」
亜双義の言葉で思考を中断する。今考えても仕方のないことだ。いつ、なにがどうなるかだなんて、そのときにしか分からないのだから。
亜双義は、不定期で夜中に出歩いた。
外に出る日付は決まっていないらしく、三日連続で出る日もあれば、一週間ほど音沙汰のないときもあった。ぼくは亜双義が布団から抜け出したらすぐに気づけるように、彼と床を共にした。亜双義は少し嫌そうだったが、理由が理由なのでおとなしく承諾してくれた。
ある日、暗闇の中、亜双義が口にした。
「どうしてキサマは、そんなによくしてくれるんだ」
うとうとと眠りにつきそうな真夜中、亜双義が突然尋ねてくるので、背中を翻して彼と向き合った。彼の顔が思ったより近く、吐息の音を聴いて緊張してしまう。あくまで生真面目な表情をしている彼の唇が薄く開いていて、今すぐ奪ってやりたいなどと思った。
鼻頭がくっつきそうな距離に、泣きたくなってしまった。彼の微かな呼吸音に、安心してしまう自分がいる。
「お前は、ぼくの親友だから」
漸くそれだけ口にすると、亜双義は少し不機嫌そうな声で「そうか」と返す。どうやらぼくの返答はお気に召さなかったらしい。なら、どう答えてやれば良かったのか。明確な答えを教えてほしかった。
そうして彼は目を瞑る。美しい夜がやってくる。
深夜弐時頃になると、亜双義はふ、と布団からいなくなる。亜双義の気配で目を醒まして、彼の後をついていく。冬の時期は風邪を引いてしまうので、彼を厚着させるのに苦労した。放っておくと浴衣姿で裸足のまま出てしまうので、それだけはなんとか避けた。
また、接吻する機会も窺わなければならなかった。何度か試したのだが、道の途中で口づけしても彼が正気に戻ることはなかった。必ず海を見せ、その上で接吻してやらなければならなかった。まったく、困ったお姫様だ。
しかし、そうしているうちに、夜を闊歩する回数も減ってきた。今では一週間に一度徘徊すればいいほうだ。ぼくは亜双義と夜の散歩をするのは苦ではなかった。寧ろ、楽しいくらいだ。こうして二人きりで夜を歩くのは、悪くない。夜は光が差さないが、その分夜空に浮かぶ月や星が眩しく見えるのだった。
海へ向かう途中、亜双義によく話しかけている。返答がないのは分かっているが、どうしても彼に語らずにはいられなかった。
亜双義、雪が降ってきたぞ。また寒くなるな。
亜双義、雪に月の光が反射していてキラキラしているな。
亜双義、つららがあるぞ。まるでラムネ壜みたいだ。
亜双義、雪が解けてきたな。見ろ、小さな花だ。なんて名前だろう。
亜双義、つくしだ! なんてかわいらしい格好をしているんだろうな。
亜双義、ふきのとうがあるぞ。今度天麩羅にして食ってやろう。
亜双義、桜が咲いたぞ。桜は好きだな。・・・・・・お前みたいだから。
亜双義、・・・・・・月が綺麗だな。
「亜双義――お前を愛しているよ」
穏やかな春の夜に、・・・・・・親友に届かないのを良いことに、ぼくは呟いた。
届かなくてもいいのだ。どうせこの言葉だって陳腐なものなのだから。
彼への感情をうまく言葉にできなくて、一番近かったのが「愛してる」というだけのことなのだから。
お前との夜は楽しいよ。そう笑いかけても、虚ろな目にはなにも映らない。
最初は返答のないことが淋しかったが、最近はそうでもなくなってきた。隣にいてくれるだけで心が満たされる。彼と手を繋いで、夜歩く。
ふわ、と、柔らかい香りを引き連れて、桜の花弁が目の前を通り過ぎた。
この漁港には一カ所だけ土手があり、そこに桜の樹がところ狭しと植えられていた。土手の上には小さな小学校がある。津波がきたらどうしようとも思うのだが、その土手は防波堤の役割をしているらしく、存外高いところに建物があった。
桜の花びらに手を伸ばしてみると、運良く掴み取れた。力を入れたらすぐに破けてしまいそうな柔さだった。夜に見る薄桃色の花弁は、月の光を吸収して淡く発光している。手の平を広げると、風に乗って海の彼方へ飛んでいった。
今日の亜双義も、海を目の前にして呆としている。そろそろ正気に戻そうと思って声をかけようとしたら、亜双義が此方を見つめていた。
夢に囚われている亜双義が視線を巡らせているのは珍しい。つい見つめ返していると、亜双義の夜色の目から一筋流れ星が落ちた。
「なるほどう、」
ぼろ、と頬に伝う雫を指先で拭ってやる。亜双義は声を出さずに、静かに泣いていた。そのまま片手で頬を包んで、夢から醒ましてやる。彼の唇は桜の花びらのように柔かった。
亜双義の目に光が宿る。暫くぼくを見て呆然としていたが、自分が泣いていることに気づいて、繋いでいたぼくの手を離そうとした。咄嗟に握る手に力をこめるが、亜双義は片手で顔を覆った。
「・・・・・・見るな!」
「亜双義」
「見るな・・・・・・っ! 見ないでくれ、頼む・・・・・・」
この期に及んで弱さを見せようとしない親友が逃げようとするのを引き留め、抱きしめた。
彼の背中に腕を回して、肩に顔を埋める。顔は見ないでやるから、ぼくから逃げないでほしかった。
亜双義の肩は震えていた。浴衣越しに感じる体温は、最初の頃より温かい。彼の背骨をなぞれば、落ち着いてきたのか深く呼吸をし始めた。
ぼくの親友は声も出さずに泣くのだな、と心の中で独りごちる。肩の濡れる感触が心地よい。彼の心臓がせわしなく動いている。時を刻むように、音を立てている。
夢に囚われた彼が少しでも泣けますように。心臓の音に耳を傾け、目を閉じた。鼓動と潮騒が混じり合って、まるで水の中にいるようだった。
ぼう、ぼう、と、遠くで音が鳴っていた。
「ところで、キサマはどうやってこのオレの入水をとめているんだ?」
「え」
亜双義が事務所に居座って一週間が経った頃、二人で夕餉を食べているときに不意に彼がそう尋ねてきた。
そこで、亜双義はぼくが接吻するところまでは覚えていないのだと知った。それはそうだろう。覚えていたら今頃ぼくは斬られている。
これ幸いとばかりに、頭を掻いてごまかした。
「え、えーと・・・・・・、そんなのどうでもいいだろ。ちゃんとお前の意識を戻せてるんだから」
「しかし、その方法さえ身につければキサマにばかり頼らなくていいだろう。他のヤツに頼むという手段も・・・・・・」
「そ、それは駄目だ!」
咄嗟に卓袱台を両手で叩きつけてしまう。亜双義は驚いた顔をしていたが、すぐに微笑んで、「なんだ、ここは法廷ではないぞ」と揶揄ってきた。
他の人に頼むだなんて、絶対に駄目だ。それこそ、亜双義が想い慕っている人なら話は別だろうけれど・・・・・・まで考えて、異様に胸が痛いことに気づいた。なんて身勝手な感情だろう。唇を勝手に奪っただけではなく、彼を独占したいなどと。
亜双義がぼく以外の人と口づけするところを想像してみる。意識のない亜双義に、見知らぬ誰かが唇を重ねる。我に還った亜双義は優しく微笑んで、「帰ろう」とその人の手を取るのだ。
やっぱり、嫌だった。
皿に載った焼き鮭を箸でほぐして口に運ぶ。寿沙都さんがお裾分けしてくれた鮭は脂がのっていて、口の中で溶けていく。それに加え、蕪菁のお漬物と豆腐の味噌汁が卓袱台に飾られていた。
「そんなしけた顔をするな。キサマが云いたくないならオレも聞かん」
「・・・・・・ごめんよ、今はまだ云えないんだ」
少なくとも、亜双義が夜中出歩かなくなるまでは口にできない。ぼくが接吻していたと発覚すれば、亜双義はどんな反応をするのだろう。怒って口をきいてくれなくなるかもしれない。あるいは――。
「ぼんやりしてるな、成歩堂。飯に集中しろ」
「あ・・・・・・ああ」
亜双義の言葉で思考を中断する。今考えても仕方のないことだ。いつ、なにがどうなるかだなんて、そのときにしか分からないのだから。
亜双義は、不定期で夜中に出歩いた。
外に出る日付は決まっていないらしく、三日連続で出る日もあれば、一週間ほど音沙汰のないときもあった。ぼくは亜双義が布団から抜け出したらすぐに気づけるように、彼と床を共にした。亜双義は少し嫌そうだったが、理由が理由なのでおとなしく承諾してくれた。
ある日、暗闇の中、亜双義が口にした。
「どうしてキサマは、そんなによくしてくれるんだ」
うとうとと眠りにつきそうな真夜中、亜双義が突然尋ねてくるので、背中を翻して彼と向き合った。彼の顔が思ったより近く、吐息の音を聴いて緊張してしまう。あくまで生真面目な表情をしている彼の唇が薄く開いていて、今すぐ奪ってやりたいなどと思った。
鼻頭がくっつきそうな距離に、泣きたくなってしまった。彼の微かな呼吸音に、安心してしまう自分がいる。
「お前は、ぼくの親友だから」
漸くそれだけ口にすると、亜双義は少し不機嫌そうな声で「そうか」と返す。どうやらぼくの返答はお気に召さなかったらしい。なら、どう答えてやれば良かったのか。明確な答えを教えてほしかった。
そうして彼は目を瞑る。美しい夜がやってくる。
深夜弐時頃になると、亜双義はふ、と布団からいなくなる。亜双義の気配で目を醒まして、彼の後をついていく。冬の時期は風邪を引いてしまうので、彼を厚着させるのに苦労した。放っておくと浴衣姿で裸足のまま出てしまうので、それだけはなんとか避けた。
また、接吻する機会も窺わなければならなかった。何度か試したのだが、道の途中で口づけしても彼が正気に戻ることはなかった。必ず海を見せ、その上で接吻してやらなければならなかった。まったく、困ったお姫様だ。
しかし、そうしているうちに、夜を闊歩する回数も減ってきた。今では一週間に一度徘徊すればいいほうだ。ぼくは亜双義と夜の散歩をするのは苦ではなかった。寧ろ、楽しいくらいだ。こうして二人きりで夜を歩くのは、悪くない。夜は光が差さないが、その分夜空に浮かぶ月や星が眩しく見えるのだった。
海へ向かう途中、亜双義によく話しかけている。返答がないのは分かっているが、どうしても彼に語らずにはいられなかった。
亜双義、雪が降ってきたぞ。また寒くなるな。
亜双義、雪に月の光が反射していてキラキラしているな。
亜双義、つららがあるぞ。まるでラムネ壜みたいだ。
亜双義、雪が解けてきたな。見ろ、小さな花だ。なんて名前だろう。
亜双義、つくしだ! なんてかわいらしい格好をしているんだろうな。
亜双義、ふきのとうがあるぞ。今度天麩羅にして食ってやろう。
亜双義、桜が咲いたぞ。桜は好きだな。・・・・・・お前みたいだから。
亜双義、・・・・・・月が綺麗だな。
「亜双義――お前を愛しているよ」
穏やかな春の夜に、・・・・・・親友に届かないのを良いことに、ぼくは呟いた。
届かなくてもいいのだ。どうせこの言葉だって陳腐なものなのだから。
彼への感情をうまく言葉にできなくて、一番近かったのが「愛してる」というだけのことなのだから。
お前との夜は楽しいよ。そう笑いかけても、虚ろな目にはなにも映らない。
最初は返答のないことが淋しかったが、最近はそうでもなくなってきた。隣にいてくれるだけで心が満たされる。彼と手を繋いで、夜歩く。
ふわ、と、柔らかい香りを引き連れて、桜の花弁が目の前を通り過ぎた。
この漁港には一カ所だけ土手があり、そこに桜の樹がところ狭しと植えられていた。土手の上には小さな小学校がある。津波がきたらどうしようとも思うのだが、その土手は防波堤の役割をしているらしく、存外高いところに建物があった。
桜の花びらに手を伸ばしてみると、運良く掴み取れた。力を入れたらすぐに破けてしまいそうな柔さだった。夜に見る薄桃色の花弁は、月の光を吸収して淡く発光している。手の平を広げると、風に乗って海の彼方へ飛んでいった。
今日の亜双義も、海を目の前にして呆としている。そろそろ正気に戻そうと思って声をかけようとしたら、亜双義が此方を見つめていた。
夢に囚われている亜双義が視線を巡らせているのは珍しい。つい見つめ返していると、亜双義の夜色の目から一筋流れ星が落ちた。
「なるほどう、」
ぼろ、と頬に伝う雫を指先で拭ってやる。亜双義は声を出さずに、静かに泣いていた。そのまま片手で頬を包んで、夢から醒ましてやる。彼の唇は桜の花びらのように柔かった。
亜双義の目に光が宿る。暫くぼくを見て呆然としていたが、自分が泣いていることに気づいて、繋いでいたぼくの手を離そうとした。咄嗟に握る手に力をこめるが、亜双義は片手で顔を覆った。
「・・・・・・見るな!」
「亜双義」
「見るな・・・・・・っ! 見ないでくれ、頼む・・・・・・」
この期に及んで弱さを見せようとしない親友が逃げようとするのを引き留め、抱きしめた。
彼の背中に腕を回して、肩に顔を埋める。顔は見ないでやるから、ぼくから逃げないでほしかった。
亜双義の肩は震えていた。浴衣越しに感じる体温は、最初の頃より温かい。彼の背骨をなぞれば、落ち着いてきたのか深く呼吸をし始めた。
ぼくの親友は声も出さずに泣くのだな、と心の中で独りごちる。肩の濡れる感触が心地よい。彼の心臓がせわしなく動いている。時を刻むように、音を立てている。
夢に囚われた彼が少しでも泣けますように。心臓の音に耳を傾け、目を閉じた。鼓動と潮騒が混じり合って、まるで水の中にいるようだった。
ぼう、ぼう、と、遠くで音が鳴っていた。