眠りの海で待っている

 玄関には持って行こうとして忘れ去られた洋燈があり、それに火を灯して事務所に亜双義を招き入れる。二人して足を濡らしていたので、亜双義を玄関に座らせて手ぬぐいで足を拭いてやる。彼の足はあかぎれていて痛々しい。亜双義の足に恐る恐る触れると、少しだけ身体を揺らした。痛いだろうに、表情を一つも動かさない。後で薬を塗ってやろうと提案すると、亜双義は漸く顔を顰めて、「自分で拭く」と手ぬぐいを奪った。
 ぼくも濡れた靴と洋袴を脱いで、とりあえず玄関に置く。冷えた空気に素肌が晒され、総毛立った。さすがに褌一丁では締まりがないので、適当に足を手ぬぐいで拭って建物の中に入る。亜双義に「勝手に入ってくれ」と声をかけておいた。まっすぐに寝室に向かい、箪笥から鼠色の浴衣を取り出す。乱雑に服を脱ぎ捨て浴衣を着た。寝室の引き戸を開けっぱなしにしていたので、亜双義の足音が近づいてくるのが分かった。
 ぽて、ぽてと、頼りない足音が聞こえてくる。亜双義の浴衣も濡れていた気がする。あの、白蛇のような浴衣。ぞっとするほど、吐き気を催すほど美しいその色。目の裏に焼きついてしまった白が、どうしても嫌いになれなかった。
 箪笥からもう一枚浴衣を取り出す。亜双義が心許なげに寝室を覗いていたので、もう一枚取り出していた藍色の浴衣を渡してやった。藍色は亜双義には似合わないかもしれないが、着替えないよりはマシだろう。
 狭い自室の扉を閉め、洋燈を文机の上に置いた。身体が冷えてしょうがないので、火鉢を用意する。分厚い毛布を手にして、亜双義を振り返った。
「あそう、ぎ・・・・・・」
 亜双義はその場で浴衣を取り替えていた。洋燈に照らされた肉体は完成されており、筋に陰が出来ている。男性の香りのする四肢はしっかりしているのに、晒された白いうなじがやけに艶めかしく、つい釘付けになってしまった。
 衣擦れの音と共に、亜双義の肌が藍に隠される。そこで彼は目を細めてぼくに微笑んだ。
「どうした、成歩堂。顔が紅いぞ」
「い、いや・・・・・・」
「風邪を引かせてしまったか?」
 違う方向に話が逸れて助かった。ぼくはまっすぐに見てくる亜双義に分厚い毛布を押しつけた。
 火鉢の前に陣取ると、毛布で身を包んだ亜双義が手招きする。亜双義の真意を測りかねて首を傾げると、彼は片腕で毛布を持ち上げて空間をつくった。
「キサマも来い」
「いいよ。お前が使えよ」
「二人で使ったほうが暖かい。それともオレを凍死させるつもりか?」
 先ほど親友を邪な目で見てしまった手前、居心地が悪い。遠慮するが、こういうときの亜双義は押しが強いから厄介だ。結局ぼくが折れて。二人寄り添って毛布にくるまれた。
 凍死なんて大袈裟な、と思ったが、実際亜双義の身体は氷のように冷たかった。亜双義の肩に頭を乗せると、彼の深い呼吸音が聴こえてくる。夜もすっかり更けている。きっと亜双義も眠いのだ。もう少し暖まったら布団を敷かなければと、ぼんやりした頭で考える。この親友を暖めるには、火鉢なんかでは足りなかった。
「なにか温かい飲み物でも持ってこよう」
 そう云って一度毛布から出ようとするが、亜双義がぼくの腕を掴んで離してくれない。亜双義を見やれば、親を見失った幼子のような目をしていた。
「そんなのはどうでもいい」
「でも」
「・・・・・・共にいてくれ。頼む」
 間近で見る亜双義の睫毛は長くて、少し濡れていた。腕を掴む亜双義の手が震えていたので、その手に自分の手を重ね合わせる。もう一度強く繋ぎ直した。
 火の鳴る音が聴こえる。洋燈の中で燃え盛る焔はゆらゆらと蠢き、狭い寝室を不思議な色合いで彩っていた。焔の臙脂色が、部屋の壁に溶けていく。亜双義が深く息を吐いた。
「なあ、亜双義。お前、いつからああなったんだ」
「・・・・・・はじめて気がついたのは一ヶ月ほど前だ。目が醒めたら海で溺れていた」
 やはり今回みたいなことは一度や二度ではないらしい。海で溺れていると聞いて、ぞっと身の毛がよだった。
 亜双義は静かに語る。
「オレはただ、夢を見ているだけなのだ」
「夢?」
「父上と母上に呼ばれる夢。オレはいつも光の差さないところにいて、彼らに向かって必死に走っている。そんな夢を見る。そうして目が醒めると、オレはいつも海の中にいるのだ」
 亜双義の横顔はどこか淋しそうだった。
「オレはとうとう気狂いになってしまったのだろうか」
「・・・・・・亜双義」
 珍しく弱音を吐く亜双義の手を強く握る。ぼくは亜双義が気狂いになっただなんて思ってもいなければ、弱い人間だとも思っていなかった。
 亜双義はただ、愛する人たちを忘れられないだけなのだ。
 深く愛し、深く悼み、時には己を犠牲にする。亜双義はそんな男だった。その苛烈とも云える情念は、裏を返せば彼なりの優しさだった。忘れられないことは、悪ではない。ぼくも、親友のことを片時も忘れたことはなかった。どのみち不器用な優しさを持つ此奴を愛してしまったぼくも、同じ穴の狢なのだ。
「亜双義、ぼくはお前が気狂いになったとは思えない。ただお前は淋しいだけなんだ」
「成歩堂・・・・・・」
「だから、今日から暫くの間ここに住め」
「ああ・・・・・・・・・・・・は?」
 一緒に住むことを提案すると、亜双義が訝しげに眉を顰める。
「どうしてそうなる」
「だって、お前が溺れないためには誰かがとめなきゃいけないだろう?」
「だがな・・・・・・」
「それに、今日ぼくはお前をとめてみせただろう。お前が入水すると云うならぼくがとめてやる」
「しかし」
「亜双義」
 彼は弱った自分を見せたくないのだろう。親友であるぼくにも、きっと。此奴は大英帝国へ向かう前、ぼくになにも話してくれなかった。だから今回も、独りで抱えるつもりだったのだろう。しかし、そんなのはもう赦されない。ぼくはお前を知ってしまったのだから。
「ぼくを信じろ」
 強く手を握り、衿を掴んで引き寄せた。亜双義の目を見据えると、彼は一度狼狽え、そして鼻頭に皺をつくった。ぼくが亜双義を引き寄せたように、亜双義もぼくを引き寄せる。ぼくの肩に額を押しつけて、震える声で云った。
「・・・・・・・・・・・・助けてくれ」
 焔の爆ぜる音にすらかき消えてしまいそうなか細い声で、確かに彼はぼくに救いを求めた。
 亜双義の背中に手を回し、抱き寄せた。親友の身体は凍りついている。少しでも体温を分けてあげられたらいいのに、二人して冷えていくばかりだ。
 毛布にくるまれた小さな世界で、ぼくらは朝まで過ごした。空が白んでいく。朝日の欠片が部屋の隙間から入り込んでくる。
 座ったまま眠ってしまった亜双義の頬を撫でた。その頃には体温も元に戻っていて、ひどく安堵した。
 亜双義、また、二人で暁光を浴びよう。小さな覚悟が、きっとぼくらの道を照らしてくれる。ぼくはお前との未来を信じている。

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