眠りの海で待っている

 事務所兼自分の家に戻り、整理していなかった仕事のあれこれを確認していたら深夜弐時になっていた。
 十一月の晩秋、外は冬の息吹を感じるようになり、寒さばかりが肌を突き刺した。月灯に照らされた亜双義の白い頬が目に焼きついて離れてくれない。店内ではあんなに赤らんでいたのに、外に出た彼の皮膚は死人のように真っ白だった。
 色を無くした唇から漏れる白い吐息が、月に反射して輝いて見えた。白い靄で、彼の顔が見えなくなるのが恐かった。亜双義は白く彩られた表情のまま手を振ってその場を後にした。
 考えすぎだ。ぼくの親友は強い人だ。ぼくが心配する余白などないくらい、亜双義は一本筋の通った男なのだ。それこそ、記憶を亡くしても大英帝国まで渡ってきたのだから。
 それでも、たまに。
 たまに彼の纏う陰が濃くなるときがある。咄嗟に抱きしめたくなって手を伸ばしかけるけれど、そんなことはできなかった。そんなことをしてしまえば、気丈な彼を傷つけてしまいかねない。傍にいるのに、なにもしてやれなかった。分かっている。亜双義は子どもではない。それでも親友として見過ごせないのだ。すべてが解決してもなお、彼を苦しめているものがなんなのか知りたかった。真実を追究する者として、妥協なんてできなかった。
 酒気も抜け、そろそろ眠ろうと窓の外を眺める。寒空に凜と輝く満月が、窓下の細い道を照らしていた。
 そこに浮かび上がる、白い人影。
 ひゅ、と息を呑んだ。こんな時間に人がいるとは思えなかったのだ。突然浮かんだそれに心臓が悲鳴をあげた。人間か、幽霊か、はたまた別のなにかか。心臓が口から出そうなのに確認せずにはいられなかった。
 よく見ると、その人影は白い浴衣を纏っていた。濡羽色の髪が、寒風に吹きつけられ乱れている。女性のような淑やかな雰囲気はあったが、その体格は男性のものであった。その出で立ちは、ぼくがよく知っている男だった。
「亜双義・・・・・・?」
 見間違えるはずはない。あれはぼくの親友、亜双義一真だ。こんな時間に出歩くなど、一体なにがあったのだろう。狩魔はまだぼくの手元にあるから仕方ないと云えばそれまでだが、それでもこの時間に出歩いているのに獲物の一つや二つ持っていないのは不用心が過ぎる。
 まだ寝間着に着替えていなくて良かった。洋服の上に外套を羽織って外に出る。やはり深夜故に空気は凍りついており、つんざく寒さに身震いした。道なりに進むと浴衣姿の亜双義にすぐ追いついた。足取りは覚束ず、吹きすさぶ風にふらついている。普段の気丈な彼はなりを潜め、病人のように不安定だ。浴衣から覗く手首がやけに生白く見える。亜双義の様子がまるで幽鬼のようで、目が離せなかった。
「亜双義」
 名前を呼んでも彼が振り向く気配はない。白いうなじを晒すのみだった。大英帝国で記憶を亡くしていたときのほうがよっぽど反応があったものだ。
「亜双義、どこへ行くんだ」
 もう一度呼びかける。やはり歩みをとめる気配はない。仕方がないので彼の隣に並んでついていった。そっと左手に触れてみると、ぞっとするほど冷たかった。先ほどまで酒で顔を赤らめていた人物だとは思えなかった。寒空の下、浴衣一枚で歩いているなど尋常ではない。ぼくは自分の外套を脱いで、彼の肩にかけてやった。
 よくよく亜双義の横顔を見ると、目の下には深い隈ができていた。今日一緒に飲んだときにこんな暗い隈はあっただろうか。亜双義の凍った左手に指を絡ませてみるが、握り返されることはなかった。
 親友の身体を少しでも温めてやりたくて、できるだけ身体をひっつけて歩く。ぼくの熱がどんどん奪われるばかりで、亜双義の手も全然温かくならない。それでも一緒にいたいのは、自分の我が儘なのだろう。
 やがて、潮騒が近づいてくる。もうそんなに歩いたのかと顔をあげれば、漁港に続く道筋であることに気づいた。そこで、亜双義の目的地を知った。生臭い潮の香りが近づいてくる。生物たちの死骸の匂いだ。亜双義はなぜそんなところへ向かおうとするのか、ぼくにはさっぱり分からない。
 いつものように、ぼくの名前を呼んでくれ。一向に握り返されない手を強く握って念じても、今の彼には届かなかった。
 そうして、夜の海にたどり着いた。
 今日は風が強いから夜釣りはしていないようで、海には光が一切見当たらない。ただひたすら、暗澹たる色と壮絶な水の音が広がっていた。夜の海は夜空よりずっと深く昏い。この波に呑み込まれたら、人間なんて見つかりはしないのだ。
 夜空と夜の海は、境界線が明確に分かるほど、黒の種類が違っていた。月灯さえ吸い込んでしまう黒は、ぼくらの姿を簡単に隠せてしまうのだろう。不思議なのは、この暗闇の中でも白波の色が見えることだった。深い暗闇の中で、波の白だけが鈍く光る。亜双義の浴衣の色みたいだった。
 亜双義は一度歩みをとめた。なにも映していない目が思案げに揺れる。そして、一歩前に出た。海のほうへ向かっていく。そこでぼくは、彼が今まで裸足だったことに気づいた。すっかり色の失った踵が波の泡を踏みつける。ぼくは慌てて亜双義を引き留めた。
「亜双義! どこへ行こうと云うんだ!」
 亜双義はぼくを見ようともしなかった。ただ、海の果てだけに視線を巡らせている。ぼくの言葉には耳を傾けず、代わりに、か細い声で口にした。
「・・・・・・父上」
 それは、亜双義が心の底から尊敬していた人物だった。
 海の果ての大英帝国で亡くなった亜双義の父親、亜双義玄真。その亡霊が、事件が解決してもなお彼の心を苛んでいた。
 愛する者が亡くなった傷は、癒えることはない。
 生き残った者がその痛みを享受して、噛み砕いて、己の中で整理して、そうして生きていく。亜双義はずっと独りでそうやって生きていた。独りだった期間、彼に寄り添ってやれた者がどれほどいたのだろうか。ぼくには分からなかった。
 お前を隠す陰はこれだったのだと、漸く合点がいく。けれど、亜双義まで海の向こうに行かせるわけにはいかなかった。
 どこにそんな力があるのか、亜双義はぼくの手に構わず、迷いのない歩みで海の中へ入っていく。必死に亜双義の腕を引っ張るが、ぼくの力では引き留められない。ぼくも海へ足を踏み入れてしまい、洋袴の裾が濡れた。亜双義をどうとめるべきか、必死に思考を巡らす。親友にぼくの声は聞こえていない。まるで寝言のように亜双義玄真を呼んでいるだけだ。・・・・・・寝言?
『眠り姫と云う女を知っているか』
 今日、酒の席で亜双義が話していたことを思い出す。
『なんでも、茨の生け垣を越えた城でずっと眠り続けているとか』
 あの話が、ぼくに助けを乞うものだとしたら。しかし、そんなことがあり得るのか。
『その姫様は、ある日城を通りかかった王子の接吻で呪いが解けて目が醒めるのだ』
 親友に接吻なんてできるはずもない。友への背信行為と云っても過言ではない。きっと我に還った亜双義に殴られるのが関の山だ。
 しかし、亜双義は確かにこう云ったのだ。
『オレは・・・・・・どんな手を使ってでも起こしてほしいがな』
 起こしてほしい。そう云ったのだ。亜双義は。だったら一か八か、試してみるしかない。
「・・・・・・亜双義、ごめんよ!」
 亜双義の肩を無理に掴んで、顔だけ此方を向かせる。勢いで彼の唇を奪った。慌てたせいで歯ががつ、とぶつかる。唇から鉄の味がした。亜双義の唇は冷え切っていて、体温など一欠片も感じられない。かさついたそれから唇を離せば、亜双義の目に焔が灯り始めた。
「・・・・・・なるほどう、」
「亜双義、目が醒めたか」
 いつもの、生気のある亜双義の表情になったところで、彼は大きく身震いした。がちがちと歯の根が合わなくなり、ぼくと繋いでいないほうの手で外套を握りしめた。
「・・・・・・寒い」
 十一月の海は凍りつくような冷たさだ。そこへ裸足で立っているのだ。いくら頑丈な亜双義でも堪えられないだろう。亜双義の手を引いて海から上がった。
「とりあえずぼくの事務所に帰るぞ。いいな」
 夜の浜風に当たりすぎるのも良くない。亜双義はそこで漸くぼくの手を握り返してくれた。力の入っていない、弱々しい手だった。
「成歩堂、どうしてキサマが」
「どうしてって・・・・・・外を眺めてたらお前が歩いているのを見たんだ。尋常じゃない雰囲気だったから心配になってついていったらこの有様だよ」
「そうか・・・・・・」
 亜双義はぼくの足下を見て、顔を顰めた。服など洗えばどうとでもなる。しかし、亜双義はそうはいかない。親友のためには洋袴は必要な犠牲だったのだ。
 亜双義はぼくの外套を着直して、衿に顔を埋める。顔色は未だに白く、血色が戻らない。
「亜双義、正直に答えてくれ」
「・・・・・・・・・・・・」
「一度や二度じゃないだろう」
 問い詰めると、亜双義は暫しの沈黙の後、深く頷いた。
 二人並んで夜道を歩く。ぼくらの背後を照らす満月の光で、二人分の陰が重なって見えた。亜双義の指先は震えている。すっかり冷え切ったぼくらの手は、それでも離すことなんてできなかった。
 恐かった。友がいなくなってしまうのではないかという不安が、一度に押し寄せてくる。亜双義が隣にいる事実が、ぼくをひどく安心させた。みっともなく鼻を啜りそうになり、ぐっと堪えた。
 二度と失わせてくれるなよ、親友。もう、あんな痛みなんてごめんだ。

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