眠りの海で待っている
「眠り姫と云う女を知っているか」
居酒屋で飲んでいた折、赤らんだ顔の亜双義がそんなことを云い始めた。
今日の仕事を終え、約束通り二人で牛鍋をつつきながら日本酒をいただく。検事として働く亜双義も、弁護士として働くぼくも、まだまだ若いので苦労が絶えない。そんな中でたまにこうして二人で会うのが息抜きになっていた。
日本酒に映る電灯の色がつるりと蠢く。東北の地酒であるらしいこの酒の名前はなんと云ったか。そんなことも思い出せないくらい、ぼくも亜双義も出来上がっていた。
「さあ・・・・・・誰なんだ?」
「独逸の民話に出てくるそうだ。なんでも、茨の生け垣を越えた城でずっと眠り続けているとか」
「へえ。いいなあ。ぼくもずっと眠っていられるなら眠っていたいよ」
「キサマはまたそんな・・・・・・まあ、キサマらしいと云えばそうなのだろうが」
亜双義からその民話について詳しく聞く。なんでも、幼い頃に魔女の呪いにかけられたお姫様が糸車の紡錘で深い眠りに落ちてしまう話らしい。ぼくだったら針なんかに触らないけどなあと考えていると、亜双義がにやりと下卑た笑みを浮かべた。
「一説によると、紡錘は男性器の象徴らしい」
口に含んだ日本酒を吹き出せば、亜双義はあっはっはといつもの通り快活に笑った。彼がそんな冗談を口にするなんて珍しかった、
これは亜双義も相当酔っている。酔狂に異国の民話を話す彼は、実に楽しそうだった。
ころころと鈴のように笑う亜双義の声に耳を澄ます。周囲も酔っ払いばかりで騒がしいが、なぜか彼の声だけは湖の清水のようで、ぼくの耳によく届いた。
「で、その姫様は、ある日城を通りかかった王子の接吻 で呪いが解けて目が醒めるのだ」
「き、接吻 ・・・・・・。そんな卑猥な民話があるのか、独逸には」
「さあな。オレもホームズ氏が話しているのを聞いただけだ」
相変わらずホームズさんは物知りだなと感心したいのは山々だが、そんな破廉恥な話を亜双義に聞かせるのはどうかしらん、とも思う。亜双義は美丈夫だから、そのような経験もあるかもしれない。しかし生真面目な此奴がそう簡単に人に靡かないのはぼく自身がよく知っている。どうにもこうにも、胸の靄がつかえてしまってよくない。
「それにしても、キサマには卑猥な話に聞こえるのだな」
「お前は違うのか?」
首を傾げて問うと、亜双義は、す、と笑みを消した。凄絶な陰が途端に彼の目元を覆い隠してしまう。ぼくらを照らす天井の電灯が、ぱちぱちと点滅した。
「そうだな、オレは・・・・・・」
彼の長い睫毛が邪魔で、思わず手を伸ばしたくなってしまう。亜双義に纏いつく陰は、大英帝国での出来事が終わってもずっとついてまわっている。その陰が取り払われることは一生ないのだろうけれど、それでもぼくは彼の傍にいられて幸せだった。
陰ですらも、亜双義を美しく仕立てあげてしまうのが、どうにも悔しくていけない。
亜双義は目を伏せて呟いた。その小さな声は、ぼくの耳にちゃんと届いていた。
「オレは・・・・・・どんな手を使ってでも起こしてほしいがな」
居酒屋で飲んでいた折、赤らんだ顔の亜双義がそんなことを云い始めた。
今日の仕事を終え、約束通り二人で牛鍋をつつきながら日本酒をいただく。検事として働く亜双義も、弁護士として働くぼくも、まだまだ若いので苦労が絶えない。そんな中でたまにこうして二人で会うのが息抜きになっていた。
日本酒に映る電灯の色がつるりと蠢く。東北の地酒であるらしいこの酒の名前はなんと云ったか。そんなことも思い出せないくらい、ぼくも亜双義も出来上がっていた。
「さあ・・・・・・誰なんだ?」
「独逸の民話に出てくるそうだ。なんでも、茨の生け垣を越えた城でずっと眠り続けているとか」
「へえ。いいなあ。ぼくもずっと眠っていられるなら眠っていたいよ」
「キサマはまたそんな・・・・・・まあ、キサマらしいと云えばそうなのだろうが」
亜双義からその民話について詳しく聞く。なんでも、幼い頃に魔女の呪いにかけられたお姫様が糸車の紡錘で深い眠りに落ちてしまう話らしい。ぼくだったら針なんかに触らないけどなあと考えていると、亜双義がにやりと下卑た笑みを浮かべた。
「一説によると、紡錘は男性器の象徴らしい」
口に含んだ日本酒を吹き出せば、亜双義はあっはっはといつもの通り快活に笑った。彼がそんな冗談を口にするなんて珍しかった、
これは亜双義も相当酔っている。酔狂に異国の民話を話す彼は、実に楽しそうだった。
ころころと鈴のように笑う亜双義の声に耳を澄ます。周囲も酔っ払いばかりで騒がしいが、なぜか彼の声だけは湖の清水のようで、ぼくの耳によく届いた。
「で、その姫様は、ある日城を通りかかった王子の
「き、
「さあな。オレもホームズ氏が話しているのを聞いただけだ」
相変わらずホームズさんは物知りだなと感心したいのは山々だが、そんな破廉恥な話を亜双義に聞かせるのはどうかしらん、とも思う。亜双義は美丈夫だから、そのような経験もあるかもしれない。しかし生真面目な此奴がそう簡単に人に靡かないのはぼく自身がよく知っている。どうにもこうにも、胸の靄がつかえてしまってよくない。
「それにしても、キサマには卑猥な話に聞こえるのだな」
「お前は違うのか?」
首を傾げて問うと、亜双義は、す、と笑みを消した。凄絶な陰が途端に彼の目元を覆い隠してしまう。ぼくらを照らす天井の電灯が、ぱちぱちと点滅した。
「そうだな、オレは・・・・・・」
彼の長い睫毛が邪魔で、思わず手を伸ばしたくなってしまう。亜双義に纏いつく陰は、大英帝国での出来事が終わってもずっとついてまわっている。その陰が取り払われることは一生ないのだろうけれど、それでもぼくは彼の傍にいられて幸せだった。
陰ですらも、亜双義を美しく仕立てあげてしまうのが、どうにも悔しくていけない。
亜双義は目を伏せて呟いた。その小さな声は、ぼくの耳にちゃんと届いていた。
「オレは・・・・・・どんな手を使ってでも起こしてほしいがな」
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