ドラアグに溺れる
亜双義と夕餉を食べていたらすっかり日が暮れてしまった。
時刻は零時。日を跨ぐ時間までなにをやっていたかと問われたら、専ら亜双義の憂国論義やぼくの趣味の話ばかりだったのだが。亜双義と共に過ごしていると時間なんて忘れてしまうなあと笑えば、亜双義も目を細めて愉快そうにしている。
晩夏の九月、昼間は日が差して息苦しいときもあるが、夜は幾分か過ごしやすくなった。夜闇の涼しい風が頬を撫でる。亜双義の鉢巻きが風に靡いて、夜空に赤い線を引いていた。
「……まだ話し足りないな」
亜双義と離れがたくなってそう呟くと、親友は「オレもだ」と返してくれた。
「今日はオレの部屋に泊まっていけ。布団は一式しかないがな」
「いいのか?」
「オレとキサマの仲だ。良いも悪いもあるまい」
そうして下宿にある亜双義の部屋に案内されたぼくは、布団を敷く前にごろりと板の床に寝転がった。文机に置かれた蝋燭がゆらりと蠢いた。亜双義の部屋にはよく足を運んでいる。彼の部屋には余計な物がなく、常に整理整頓されていて過ごしやすい。規則正しい部屋の様相は、亜双義らしいので安心する。胸いっぱいに深呼吸すると、布団を抱えた亜双義に軽く腹部を蹴られた。
「邪魔だ」
「ははは、ごめんよ」
身体を避けると、亜双義はせっせと布団を敷き始める。普段から日干しをしているのだろう。真っ白な布団からは陽だまりの香りがした。亜双義が布団を敷いている間、ぼくは適当に亜双義の文机の上を物色していた。
文机の上も綺麗に整頓されている。ぼくの文机とは大違いだ。しかし、普段は見慣れない物が机の端に置かれている。なにやら小瓶のようだ。手を伸ばしてみると、小瓶にはラベルが貼られてある。なにかしらの錠剤のようだった。健康優良児の亜双義に薬の印象はない。亜双義にこの錠剤について尋ねてみることにした。
「成歩堂、寝巻きはオレのでいいか」
「ああ。それよりも亜双義、これはなんだ?」
布団を敷き終わり、ぼくに視線を投げた亜双義が少し気まずそうに口を開いた。
「……薬だ」
「お前、どこか具合が悪いのか? どんな薬なんだ?」
「最近眠れなくてな、睡眠薬を処方してもらっている」
睡眠薬、と復唱すると、亜双義が大きく頷いた。
「と言っても、そんな大した量ではない。心配するな」
「いや、それで眠れてるならいいんだ。亜双義はいつも忙しそうだから、寝るのは大事だぞ」
ぼくがそう言うと、亜双義は黙りこくってしまう。なにやら隠しているようだ。亜双義の目を覗き込んで、ぼくは問いかけた。
「……もしかして、眠れてないのか?」
「…………なに、眠れなくとも勉学に支障はない」
「亜双義……」
「それより寝巻きだ。これでいいな?」
亜双義はそっぽを向いてぼくに寝巻きを渡した。こうなると亜双義は強情だ。ぼくは諦めて、制服を脱いで着替えることにした。
着替えている間、悶々と考えてしまう。亜双義は快活な熱い男で、誰に対しても好印象を与える傑物だ。そんな親友が睡眠薬を飲んでいるなんて、心配にならないわけがない。ふとしたときに見せる翳りのようなものが、彼に薬を飲ませているのだろうか。
「着心地はどうだ」
「亜双義とぼくだと体格差があるからなあ。少しだぼっとしているよ」
「鍛錬をしろ。なんなら、オレの鍛錬に付き合え」
「……遠慮しておく」
返答して亜双義のほうを見やると、親友は目を細めて此方を見つめていた。その目尻が紅く色づいているように見える。彼の端正な顔立ちに色香を感じて、目が離せなくなってしまった。
「……お前は着替えないのか?」
「どうせ眠れんのだ。机と向き合うさ」
「眠れるときに寝ないと、身体が持たないぞ」
「眠れるときがないから構わん」
呆れて嘆息する亜双義に、なにかしてやれることはないだろうか。布団は一式しかない。薬を飲んでも眠れない。
ならば友であるぼくができることは一つしかない。
「……分かった。亜双義、ぼくが添い寝してやる」
「…………は?」
ぼくはおかしなことを言っただろうか。亜双義があんぐりと口を開けて、間抜けな表情をしている。普段きりりとしている親友のそんな顔を見られるのは気分が良い。楽しくなって、ぼくは繰り返した。
「だから、添い寝だよ。人の温もりがあると寝つきが良くなると聞いたことがある」
「……正気か?」
「ぼくはいたって真面目だとも。ものは試しだろう? お前に付き合ってやるぜ、亜双義」
ぼくがしつこく繰り返せば、難色を示していた亜双義はすぐ折れた。
亜双義に着替えるよう急かし、薬も飲ませる。湯呑に注いだ水を薬ごと煽る。蝋燭の微かな灯に照らされた亜双義の喉仏が上下に動いた。その姿がやけに艶めかしく、親友の悪い部分を見ている心地になった。ぼくは先に布団に入って亜双義を待つ。
ふ、と亜双義が手で煽いで蝋燭を消した。途端、夜闇が狭い部屋を覆いつくす。暗闇に目が慣れず、なにも見えない。黙っていると、亜双義が布団に潜り込んできた。
「こっち来いよ、親友」
目の前が暗いまま、ぼくは亜双義がいるであろう方向へ手を伸ばした。亜双義の丸い後頭部であろう場所に触れて引き寄せる。親友の身体は硬直していた。頭を抱き寄せれば、首筋に熱い吐息を感じる。
「……さすがに恥ずかしくはないか、相棒」
「まあ、恥ずかしいかそうでないかと言われたら、恥ずかしいな」
苦笑して答えると、亜双義が再び溜め息をつく。暗がりに目を凝らすと、亜双義が息の触れそうなくらい近くでぼくを見据えていた。
「……キサマは温いな」
「お前より温い自信はあるぞ」
亜双義もぼくにしがみつくように、背中に手を回してくる。その手は震えていて、なにかに怯えていた。人の温もりが怖いのだろうか。友よ、ぼくで良ければいつでも温もりを分け与えてやるとも。
「……いいから寝るんだ亜双義」
おやすみ、と囁けば、亜双義の美しい「おやすみ」が聴こえてくる。
そうしてぼくらは互いの温度を感じて、深い眠りに落ちていった。
翌朝、陸時を知らせる鐘の音で目が覚めた。
柔らかな朝の光が窓から差し込んでくる。亜双義と寝るのは緊張したが、存外悪くない目覚めだ。寧ろ普段よりよく眠れた気がした。目の前で亜双義が寝こけている。朝の光が反射している頬は滑らかだった。近くで見ると、亜双義の睫毛の長さに驚く。ぼくを散々抱き枕にしたのだろう。ぼくの背中はがっしりと亜双義の腕で固定されていた。
かっこよく、美しく、魂の熱いぼくの親友。そんな親友が誇らしかった。
いつまでも眺めていたかったが、そうも言っていられなかった。亜双義は早朝から鍛錬をはじめる。さすがに起こしたほうがいいだろうと、亜双義の身体を揺すった。
「亜双義、朝だ。そろそろ起きたほうがいい」
亜双義は幼子のようにぼくに擦り寄る。可愛いところもあるじゃないかと頭を撫でてやると、しばらくして亜双義はハッと目を開けた。その勢いで亜双義はがばりと身体を起こす。いきなり布団を捲られたので、寒さで肌が粟だった。覚醒までの時間が早すぎやしないか。
亜双義は呆然として、己の両の手を眺めている。そして、隠しきれない歓喜を声に乗せて呟いた。
「…………眠れた」
「良かったじゃないか」
「心なしか頭もすっきりしている。身体も軽い」
「添い寝の甲斐があったな」
揶揄うつもりで言ったのだが、亜双義は至極真面目な顔つきでぼくを見やった。
「恩に着る」
「お前の役に立てたなら光栄だよ。これからも共に寝てやろうか?」
亜双義はむ、と押し黙った。どうやら熟考しているようだ。ぼくとしては、共に寝ようが寝まいが特に気にしないのだが。
間が空いて、亜双義が声を絞り出す。
「…………頼まれてくれないか」
「いいとも」
ぼくが即答すると、亜双義はほう、と息を吐いた。
その日からぼくらは共に眠った。亜双義の部屋に限らず、ぼくの部屋でも。
亜双義は本当によく眠れるらしく、朝はきっかり陸時に起きるようになった。眠れるようになった亜双義は、以前より溌剌として、より勉学に励んだ。他の学友からも「亜双義の機嫌が前より良くなった」と耳にした。親友の役に立てるならこれほど嬉しいことはない。
しかし、一つだけ困ったことがあった。
今日の夜も二人で身を寄せ合い眠る。亜双義は今日も念のため薬を飲んで、ぼくの隣でうつらうつらとしていた。
ぼくは今日もひどく緊張して、そのときを待つ。やがて亜双義はぼくに覆いかぶさり、蜜のようにとろけた眼で見下ろしてくるのだった。
ゆっくりと距離を詰められ、思わずぎゅう、と目を瞑る。ふに、と柔らかい感触がぼくの唇を覆った。
ぼくが困っていることと言えば、これだ。亜双義は寝ぼけているのか、毎夜ぼくに接吻してくるのだ。はじめの一回は驚いて一睡もできなかった。
一度目の口付けをされたその日の朝、「昨夜のこと、覚えているか?」と奴に尋ねてみた。すると亜双義は爽やかな笑顔で信じられない返答をしてきた。
「すまない。薬を飲むとどうやら眠る直前の記憶が飛ぶみたいでな。よく覚えていないのだ」
でもキサマのおかげで薬も効くようになった。ありがとうと言われてしまうと、ぼくは亜双義を糾弾できなくなってしまった。亜双義がこの事実を知ってしまうと腹を切りかねない。ぼくが黙っていれば済むことだと割り切った。それに、亜双義との口付けは不思議と悪い気がしなかった。反対に、少し嬉しいような、亜双義に忘れられて残念なような。
うまく形容できない感情を持て余しつつ、ぼくは緊張しながらも毎夜期待してしまっていた。
そして今日も、亜双義はぼくと唇を合わせている。最初と比べたら慣れたものだが、この後しつこいくらいに何度も唇を重ねてくるので心臓がうるさくてしょうがない。
亜双義の接吻は、……あえて言葉を選ぶなら、とても情熱的だ。触れるだけの口付けを何度も何度も落とし、やがて糸が切れたように眠りに落ちる。
……亜双義の奴、恋人がいたらこんなにしつこいのかしらん。
友であるぼくですら悪い気はしないのだから、恋人なら尚更嬉しいのだろう。瞑っていた目を開けると、暗闇に光る亜双義の目があった。
どこか熱っぽくて潤んだ目。亜双義はこんなに綺麗な男だったのだと今更気づく。今日も亜双義の唇を甘受していた。なんだか亜双義に乞われているようで嬉しかった。
しかし、事態は急変する。いつも触れるだけの唇から、ぬるついた感触がした。それが亜双義の粘膜であることを理解するのに時間がかかった。亜双義の長くぬるついた舌がぼくの唇を割って侵入してくる。背筋がぞくぞくと痺れて、咄嗟に声を出して亜双義を突き飛ばした。
「う……っ、わっ」
ぼくの情けない声が部屋に響いた。亜双義は突き飛ばされた反動で上体を起こす。とろけていた目は衝撃で我にかえっており、動揺していた。困惑した表情で口元を抑えている。みるみるうちに彼の顔が青ざめていくのが暗闇の中でも分かった。それこそ、かわいそうなくらいに。
「……すまん!」
亜双義は布団から飛び起き、逃げるように部屋を出ていく。突然の展開に一瞬呆けてしまったが、亜双義を追いかけなければと布団から這い出る。下宿の廊下は冷え込んでいて、寒さで身震いしてしまう。布団の中はあんなに温かかったのに、外は非情だ。
亜双義は外に出てしまっただろうか。とりあえず下宿の中を彷徨っていると、共同の水場の前で亜双義を見かけた。夜闇に、彼が纏っている寝巻きの薄鼠色が浮かぶ。亜双義、と名前を呼ぶと、彼は怯えるように肩を震わせた。
「……成歩堂」
「なんだ、亜双義」
「軽蔑したか」
「そんなわけないだろ。お前は友なのだから」
亜双義は此方に顔を向けようとはしなかった。
「ぼくは気にしてないよ、亜双義」
「……オレはいつから、あんな」
「……知りたいのか?」
問えば、亜双義は深く項垂れる。亜双義は真面目な奴だから、ぼくに不貞を働いていると思っているのだろう。気にしなくていいのに、亜双義は律儀だ。
やがて亜双義は、ぼくの目を見ずに言った。
「……もういい」
「え」
「キサマには世話になった。もう大丈夫だ」
亜双義の手を握るが、彼は背中を向けたままだ。顔が見たいのに、彼はぼくを拒んでいた。
「……成歩堂、こんなことにキサマを巻き込むべきではなかった」
「巻き込むだなんて、そんな大袈裟な。お前だって男児なんだ。そういうことだってあるさ」
「だがオレは、到底己を許せん」
「まあ……そうだろうな、お前は。でもぼくは本当に気にしてないんだ。寧ろお前の役に立てて嬉しいよ」
そう亜双義に語りかければ、漸く此方を向いてくれた。亜双義の顔は、ぼくの胸が痛んでしまうほど真っ白だった。窓から月灯りが差し込む。月の色に包まれた亜双義は幽鬼のようで。どこか遠くに行ってしまいそうだった。
亜双義はぼくの手を払って、悲痛な面立ちで言った。
「忘れてくれ」
ぼくは構わないが、お前のことだ。きっとお前は今日の出来事を忘れられない。それがお前を一層苦しめるのではないのか。口から出そうになったが、済んでのところで堪えて、笑ってやった。
「分かった。だからそんな顔をするなよ、親友」
ぼくも自信がなかったのだ。なにに、と言われてしまえば、はっきりとは言えないが。
その日からぼくらが共に眠りにつくことはなかった。しかしそのときはそうするしかなかった。
亜双義は、ぼくにはなにも話してくれなかったから。
時刻は零時。日を跨ぐ時間までなにをやっていたかと問われたら、専ら亜双義の憂国論義やぼくの趣味の話ばかりだったのだが。亜双義と共に過ごしていると時間なんて忘れてしまうなあと笑えば、亜双義も目を細めて愉快そうにしている。
晩夏の九月、昼間は日が差して息苦しいときもあるが、夜は幾分か過ごしやすくなった。夜闇の涼しい風が頬を撫でる。亜双義の鉢巻きが風に靡いて、夜空に赤い線を引いていた。
「……まだ話し足りないな」
亜双義と離れがたくなってそう呟くと、親友は「オレもだ」と返してくれた。
「今日はオレの部屋に泊まっていけ。布団は一式しかないがな」
「いいのか?」
「オレとキサマの仲だ。良いも悪いもあるまい」
そうして下宿にある亜双義の部屋に案内されたぼくは、布団を敷く前にごろりと板の床に寝転がった。文机に置かれた蝋燭がゆらりと蠢いた。亜双義の部屋にはよく足を運んでいる。彼の部屋には余計な物がなく、常に整理整頓されていて過ごしやすい。規則正しい部屋の様相は、亜双義らしいので安心する。胸いっぱいに深呼吸すると、布団を抱えた亜双義に軽く腹部を蹴られた。
「邪魔だ」
「ははは、ごめんよ」
身体を避けると、亜双義はせっせと布団を敷き始める。普段から日干しをしているのだろう。真っ白な布団からは陽だまりの香りがした。亜双義が布団を敷いている間、ぼくは適当に亜双義の文机の上を物色していた。
文机の上も綺麗に整頓されている。ぼくの文机とは大違いだ。しかし、普段は見慣れない物が机の端に置かれている。なにやら小瓶のようだ。手を伸ばしてみると、小瓶にはラベルが貼られてある。なにかしらの錠剤のようだった。健康優良児の亜双義に薬の印象はない。亜双義にこの錠剤について尋ねてみることにした。
「成歩堂、寝巻きはオレのでいいか」
「ああ。それよりも亜双義、これはなんだ?」
布団を敷き終わり、ぼくに視線を投げた亜双義が少し気まずそうに口を開いた。
「……薬だ」
「お前、どこか具合が悪いのか? どんな薬なんだ?」
「最近眠れなくてな、睡眠薬を処方してもらっている」
睡眠薬、と復唱すると、亜双義が大きく頷いた。
「と言っても、そんな大した量ではない。心配するな」
「いや、それで眠れてるならいいんだ。亜双義はいつも忙しそうだから、寝るのは大事だぞ」
ぼくがそう言うと、亜双義は黙りこくってしまう。なにやら隠しているようだ。亜双義の目を覗き込んで、ぼくは問いかけた。
「……もしかして、眠れてないのか?」
「…………なに、眠れなくとも勉学に支障はない」
「亜双義……」
「それより寝巻きだ。これでいいな?」
亜双義はそっぽを向いてぼくに寝巻きを渡した。こうなると亜双義は強情だ。ぼくは諦めて、制服を脱いで着替えることにした。
着替えている間、悶々と考えてしまう。亜双義は快活な熱い男で、誰に対しても好印象を与える傑物だ。そんな親友が睡眠薬を飲んでいるなんて、心配にならないわけがない。ふとしたときに見せる翳りのようなものが、彼に薬を飲ませているのだろうか。
「着心地はどうだ」
「亜双義とぼくだと体格差があるからなあ。少しだぼっとしているよ」
「鍛錬をしろ。なんなら、オレの鍛錬に付き合え」
「……遠慮しておく」
返答して亜双義のほうを見やると、親友は目を細めて此方を見つめていた。その目尻が紅く色づいているように見える。彼の端正な顔立ちに色香を感じて、目が離せなくなってしまった。
「……お前は着替えないのか?」
「どうせ眠れんのだ。机と向き合うさ」
「眠れるときに寝ないと、身体が持たないぞ」
「眠れるときがないから構わん」
呆れて嘆息する亜双義に、なにかしてやれることはないだろうか。布団は一式しかない。薬を飲んでも眠れない。
ならば友であるぼくができることは一つしかない。
「……分かった。亜双義、ぼくが添い寝してやる」
「…………は?」
ぼくはおかしなことを言っただろうか。亜双義があんぐりと口を開けて、間抜けな表情をしている。普段きりりとしている親友のそんな顔を見られるのは気分が良い。楽しくなって、ぼくは繰り返した。
「だから、添い寝だよ。人の温もりがあると寝つきが良くなると聞いたことがある」
「……正気か?」
「ぼくはいたって真面目だとも。ものは試しだろう? お前に付き合ってやるぜ、亜双義」
ぼくがしつこく繰り返せば、難色を示していた亜双義はすぐ折れた。
亜双義に着替えるよう急かし、薬も飲ませる。湯呑に注いだ水を薬ごと煽る。蝋燭の微かな灯に照らされた亜双義の喉仏が上下に動いた。その姿がやけに艶めかしく、親友の悪い部分を見ている心地になった。ぼくは先に布団に入って亜双義を待つ。
ふ、と亜双義が手で煽いで蝋燭を消した。途端、夜闇が狭い部屋を覆いつくす。暗闇に目が慣れず、なにも見えない。黙っていると、亜双義が布団に潜り込んできた。
「こっち来いよ、親友」
目の前が暗いまま、ぼくは亜双義がいるであろう方向へ手を伸ばした。亜双義の丸い後頭部であろう場所に触れて引き寄せる。親友の身体は硬直していた。頭を抱き寄せれば、首筋に熱い吐息を感じる。
「……さすがに恥ずかしくはないか、相棒」
「まあ、恥ずかしいかそうでないかと言われたら、恥ずかしいな」
苦笑して答えると、亜双義が再び溜め息をつく。暗がりに目を凝らすと、亜双義が息の触れそうなくらい近くでぼくを見据えていた。
「……キサマは温いな」
「お前より温い自信はあるぞ」
亜双義もぼくにしがみつくように、背中に手を回してくる。その手は震えていて、なにかに怯えていた。人の温もりが怖いのだろうか。友よ、ぼくで良ければいつでも温もりを分け与えてやるとも。
「……いいから寝るんだ亜双義」
おやすみ、と囁けば、亜双義の美しい「おやすみ」が聴こえてくる。
そうしてぼくらは互いの温度を感じて、深い眠りに落ちていった。
翌朝、陸時を知らせる鐘の音で目が覚めた。
柔らかな朝の光が窓から差し込んでくる。亜双義と寝るのは緊張したが、存外悪くない目覚めだ。寧ろ普段よりよく眠れた気がした。目の前で亜双義が寝こけている。朝の光が反射している頬は滑らかだった。近くで見ると、亜双義の睫毛の長さに驚く。ぼくを散々抱き枕にしたのだろう。ぼくの背中はがっしりと亜双義の腕で固定されていた。
かっこよく、美しく、魂の熱いぼくの親友。そんな親友が誇らしかった。
いつまでも眺めていたかったが、そうも言っていられなかった。亜双義は早朝から鍛錬をはじめる。さすがに起こしたほうがいいだろうと、亜双義の身体を揺すった。
「亜双義、朝だ。そろそろ起きたほうがいい」
亜双義は幼子のようにぼくに擦り寄る。可愛いところもあるじゃないかと頭を撫でてやると、しばらくして亜双義はハッと目を開けた。その勢いで亜双義はがばりと身体を起こす。いきなり布団を捲られたので、寒さで肌が粟だった。覚醒までの時間が早すぎやしないか。
亜双義は呆然として、己の両の手を眺めている。そして、隠しきれない歓喜を声に乗せて呟いた。
「…………眠れた」
「良かったじゃないか」
「心なしか頭もすっきりしている。身体も軽い」
「添い寝の甲斐があったな」
揶揄うつもりで言ったのだが、亜双義は至極真面目な顔つきでぼくを見やった。
「恩に着る」
「お前の役に立てたなら光栄だよ。これからも共に寝てやろうか?」
亜双義はむ、と押し黙った。どうやら熟考しているようだ。ぼくとしては、共に寝ようが寝まいが特に気にしないのだが。
間が空いて、亜双義が声を絞り出す。
「…………頼まれてくれないか」
「いいとも」
ぼくが即答すると、亜双義はほう、と息を吐いた。
その日からぼくらは共に眠った。亜双義の部屋に限らず、ぼくの部屋でも。
亜双義は本当によく眠れるらしく、朝はきっかり陸時に起きるようになった。眠れるようになった亜双義は、以前より溌剌として、より勉学に励んだ。他の学友からも「亜双義の機嫌が前より良くなった」と耳にした。親友の役に立てるならこれほど嬉しいことはない。
しかし、一つだけ困ったことがあった。
今日の夜も二人で身を寄せ合い眠る。亜双義は今日も念のため薬を飲んで、ぼくの隣でうつらうつらとしていた。
ぼくは今日もひどく緊張して、そのときを待つ。やがて亜双義はぼくに覆いかぶさり、蜜のようにとろけた眼で見下ろしてくるのだった。
ゆっくりと距離を詰められ、思わずぎゅう、と目を瞑る。ふに、と柔らかい感触がぼくの唇を覆った。
ぼくが困っていることと言えば、これだ。亜双義は寝ぼけているのか、毎夜ぼくに接吻してくるのだ。はじめの一回は驚いて一睡もできなかった。
一度目の口付けをされたその日の朝、「昨夜のこと、覚えているか?」と奴に尋ねてみた。すると亜双義は爽やかな笑顔で信じられない返答をしてきた。
「すまない。薬を飲むとどうやら眠る直前の記憶が飛ぶみたいでな。よく覚えていないのだ」
でもキサマのおかげで薬も効くようになった。ありがとうと言われてしまうと、ぼくは亜双義を糾弾できなくなってしまった。亜双義がこの事実を知ってしまうと腹を切りかねない。ぼくが黙っていれば済むことだと割り切った。それに、亜双義との口付けは不思議と悪い気がしなかった。反対に、少し嬉しいような、亜双義に忘れられて残念なような。
うまく形容できない感情を持て余しつつ、ぼくは緊張しながらも毎夜期待してしまっていた。
そして今日も、亜双義はぼくと唇を合わせている。最初と比べたら慣れたものだが、この後しつこいくらいに何度も唇を重ねてくるので心臓がうるさくてしょうがない。
亜双義の接吻は、……あえて言葉を選ぶなら、とても情熱的だ。触れるだけの口付けを何度も何度も落とし、やがて糸が切れたように眠りに落ちる。
……亜双義の奴、恋人がいたらこんなにしつこいのかしらん。
友であるぼくですら悪い気はしないのだから、恋人なら尚更嬉しいのだろう。瞑っていた目を開けると、暗闇に光る亜双義の目があった。
どこか熱っぽくて潤んだ目。亜双義はこんなに綺麗な男だったのだと今更気づく。今日も亜双義の唇を甘受していた。なんだか亜双義に乞われているようで嬉しかった。
しかし、事態は急変する。いつも触れるだけの唇から、ぬるついた感触がした。それが亜双義の粘膜であることを理解するのに時間がかかった。亜双義の長くぬるついた舌がぼくの唇を割って侵入してくる。背筋がぞくぞくと痺れて、咄嗟に声を出して亜双義を突き飛ばした。
「う……っ、わっ」
ぼくの情けない声が部屋に響いた。亜双義は突き飛ばされた反動で上体を起こす。とろけていた目は衝撃で我にかえっており、動揺していた。困惑した表情で口元を抑えている。みるみるうちに彼の顔が青ざめていくのが暗闇の中でも分かった。それこそ、かわいそうなくらいに。
「……すまん!」
亜双義は布団から飛び起き、逃げるように部屋を出ていく。突然の展開に一瞬呆けてしまったが、亜双義を追いかけなければと布団から這い出る。下宿の廊下は冷え込んでいて、寒さで身震いしてしまう。布団の中はあんなに温かかったのに、外は非情だ。
亜双義は外に出てしまっただろうか。とりあえず下宿の中を彷徨っていると、共同の水場の前で亜双義を見かけた。夜闇に、彼が纏っている寝巻きの薄鼠色が浮かぶ。亜双義、と名前を呼ぶと、彼は怯えるように肩を震わせた。
「……成歩堂」
「なんだ、亜双義」
「軽蔑したか」
「そんなわけないだろ。お前は友なのだから」
亜双義は此方に顔を向けようとはしなかった。
「ぼくは気にしてないよ、亜双義」
「……オレはいつから、あんな」
「……知りたいのか?」
問えば、亜双義は深く項垂れる。亜双義は真面目な奴だから、ぼくに不貞を働いていると思っているのだろう。気にしなくていいのに、亜双義は律儀だ。
やがて亜双義は、ぼくの目を見ずに言った。
「……もういい」
「え」
「キサマには世話になった。もう大丈夫だ」
亜双義の手を握るが、彼は背中を向けたままだ。顔が見たいのに、彼はぼくを拒んでいた。
「……成歩堂、こんなことにキサマを巻き込むべきではなかった」
「巻き込むだなんて、そんな大袈裟な。お前だって男児なんだ。そういうことだってあるさ」
「だがオレは、到底己を許せん」
「まあ……そうだろうな、お前は。でもぼくは本当に気にしてないんだ。寧ろお前の役に立てて嬉しいよ」
そう亜双義に語りかければ、漸く此方を向いてくれた。亜双義の顔は、ぼくの胸が痛んでしまうほど真っ白だった。窓から月灯りが差し込む。月の色に包まれた亜双義は幽鬼のようで。どこか遠くに行ってしまいそうだった。
亜双義はぼくの手を払って、悲痛な面立ちで言った。
「忘れてくれ」
ぼくは構わないが、お前のことだ。きっとお前は今日の出来事を忘れられない。それがお前を一層苦しめるのではないのか。口から出そうになったが、済んでのところで堪えて、笑ってやった。
「分かった。だからそんな顔をするなよ、親友」
ぼくも自信がなかったのだ。なにに、と言われてしまえば、はっきりとは言えないが。
その日からぼくらが共に眠りにつくことはなかった。しかしそのときはそうするしかなかった。
亜双義は、ぼくにはなにも話してくれなかったから。
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