たとえ海の果てに消えてしまっても
電車に揺られ、オレたちは都市から離れた海岸に向かっていた。
隣では成歩堂がすっかり寝こけて、オレの肩に寄りかかっている。むにゃむにゃと口を動かす様はまるで童子そのものだ。随分気持ちよさそうに寝ているので放っている。車窓から差し込む夕陽が、成歩堂の丸い頬を照らしている。光と影のコントラストが目に焼きついて離れない。
真夏の炎天下、人気のない電車の冷房で足元は涼しい。しかし肌寒いわけではなく、反対に天気が良すぎて暑いくらいだ。黒いシャツに薄手のパーカーを羽織った成歩堂もそれは同じであるはずなのに、じわじわと上がる体温を嫌がらない。肩も腕も、隙間なくオレと密着させている。異様に湧き上がる高揚感に息が詰まる。感情の行き場がなくなり、成歩堂のだらりとした右手を指でなぞった。指を絡ませてみると、反射なのか手を握りこまれる。起こすのもかわいそうなので手を繋いだまま、再び車窓の外を眺めた。
なにもない木々の間を抜け、廃ホテル群が見えてくる。
都市から二時間かかる街で、小さな花火大会が行われると聞いたのは、今から一週間前。同級生から噂を耳にしたオレは、成歩堂を誘うことにした。屋台があまり出ないらしいので断られるかと思ったが、予想に反して成歩堂は二つ返事で了承した。
「お前とならどこでも楽しいからなあ」
無邪気に笑った相棒の、なんと眩しいことか。
そうして今、電車に揺られ、都市から離れた海岸に辿り着いた。電車で眠っていた成歩堂は大きく背伸びをして、四肢全体で潮風を浴びている。大きな石が敷き詰められており、砂浜ではない。足に砂が纏わりつかなくて楽ではあった。先に見える灯台がともる。岩礁やブロックに波がぶつかり、水の欠片となって散っていく。日は既に落ちていて、夜空の下、潮騒が奏でられている。月に見下ろされる中、人がそれなりにいる海岸を一頻り見て回った。
「なにか食べよう、亜双義」
成歩堂に誘われるがまま、海の家に向かう。海の家は花火大会が開催されるのもあり繁盛していたが、運よく席に座れた。申し訳程度の扇風機がぷぅん、とそよ風を送っている。人も多いので暑くはあったが、日が昇っているときよりはなりを潜めていた。二人、向かい合って焼きそばを食べた。成歩堂はなんでもおいしそうに食べるので、見ているこちらも気持ちいい。焼きそばのソースの味が舌に絡みつく。
焼きそばを食べ終えた成歩堂は、食後のデザートに棒付きのバニラアイスを買う。喉が渇いたオレは、折角だから夏を満喫しようとラムネ壜を買った。人々はブロックや岩礁、コンクリートの堤防に思うがままに座り、花火が打ちあがる時を待っている。オレと成歩堂もブロックの上に座った。
「さっき、海の家の温度計を見たら二十五度だった」
成歩堂がそう言うので、オレも適当に返す。
「夜だから少しは過ごしやすくなったな」
「暑いのには変わりないけど」
相棒は苦笑してバニラアイスを咥える。今まで封を切らず持ち歩いていたので少し溶けてしまっている。純白の雫が、彼の手に落ちた。
咄嗟に彼の手をとり、白い液体の伝った皮膚を舌で舐め取る。成歩堂の指がぴくりと動いた。
「垂れているぞ。気をつけろ」
口を離して成歩堂を見やれば、彼は純朴な顔を真っ赤に染めてこちらを睨んでいる。熱気を孕んだ色がやけに艶めかしく、なぜか胸が痛んだ。
「……亜双義、絶対他の人にそれやるなよ」
「は?」
「だって、あんな……っ、あんなの変態だぜ⁉」
「へんた……っ⁉ キサマ、オレを侮辱するか!」
ラムネ壜を持っていない左手で成歩堂の頬を引っ張る。惨めな顔になった成歩堂はきゃんきゃんと犬のように吠えた。いい気味だ。
そうやって戯れているうちに、どん、と海が震えた。花火の打ち上げが始まったのだ。夜空に色彩豊かな華が咲き乱れる。空が、紅や碧や翠などに染められ、炎の灯で明るく照る。成歩堂の柔らかい頬から手を離し、ラムネ壜のびい玉を落とした。びい玉が落ちたところから白波のような泡が吹きこぼれる。透明な壜に伝った泡を舌で掬うと、クリアで無機質な味がした。花火の光を反射するラムネ壜は、複雑な色合いの光彩を放っていた。相棒に視線を戻すと、こちらを食い入るように見つめていた。目が合うと気まずそうにそらされる。成歩堂の目元が赤い気がして、うっかり手を伸ばしそうになった。また変態だと罵られるのは癪なので、拳を握りしめてラムネを煽った。爽やかな香りが、口から鼻まで満ちた。砂糖水に気体を入れた飲み物は甘ったるかった。
どん、と震えるたびに、黒の海面が明るく彩られる。海に華が咲き誇り、波に揺れる。
とても美しい景色のはずなのに、隣にいる成歩堂のことばかりを考えてしまう。
こうやって、なにもしなくていいから、ずっと隣にいてほしい。オレが海の果てへ行ってしまっても、ずっと。そんなことを友に想うのは、悪いだろうか。
笑いかけて、「亜双義」と呼んでほしい。それだけで勇気が出る。どんな困難が待ち受けていようとも、胸を張って生きていられる。たとえどんな使命を抱えていても、オレは立って歩いていける。
「亜双義」
聞きなれた声で、相棒は言う。
「誘ってくれて、ありがとうな」
成歩堂はやっとオレと視線を合わせて、笑っていた。
その目に映る花火だけを見つめていたかった。
花火大会が終わり、人気のなくなった海岸で、成歩堂と二人歩いていた。終電まで時間があるので、少しゆっくりしていくことにしたのだ。ラムネ壜と棒きれをごみかごに入れて、身軽なまま海辺を歩く。
大きめの石が積められていると思っていたが、海との境界線はさすがに砂になっている。成歩堂は裸足になり、波打ち際で海水に足を入れていた。捲りあげた裾が、水しぶきで若干濡れている。黒い水面から跳ね上がる足は、月明かりで白く照らされていた。
対するオレは、裸足にはなっているが海に浸かることはない。妙に用意のいい成歩堂はタオルを持ってきている。だから濡れてもなんとかなるが、海に浸かる気分にはなれなかった。
成歩堂がオレよりずっと背後にある景色を見て言う。
「少し気になってたけど、ここらへん廃墟多いよな」
「ああ……。数十年前は観光名所だったらしいのだが、すっかり客足が途絶えてしまったようだ。あれらはすべて宿泊施設だろう」
「そうなのか……。なんだか悲しいな」
成歩堂は眉間に皺を寄せて、オレの背後に立ち並ぶ死骸たちに想いを馳せている。廃ホテルを気味悪いと遠巻きにするのではなく、「悲しい」と表現するのは成歩堂が善良である証拠だ。
月の光のせいか、相棒が眩しい。
ずっと隣を歩いていたいのに、それが叶わない。
「……今日はすまなかった」
「なんで謝るんだよ。ぼくはお前とだったら、なんだって……」
「どうしても欲しかったのだ」
相棒の言葉を遮って、干からびた咽喉から絞り出す。成歩堂以外にはどこにも行くあてがない、オレの我が儘だった。
「……キサマとの思い出が、どうしても欲しかった」
成歩堂の丸い目が見開かれた。
数か月後、オレは英国に留学する。見聞を広めるため、司法を学ぶため……表向きはそうなっているが、実際は国家間の黒い取り引きがある。己の為すべきことのため手段は選ばないと覚悟していた。
そんな暗い思惑を、相棒の成歩堂には伝えていない。伝えられるはずがなかった。
「二度とキサマに顔向けができぬ。そんな気がしてやまない」
「……なに、言ってるんだよ。亜双義」
「キサマをトランクに詰めて、連れて歩ければ良かったのだがな」
つい自嘲気味に笑ってしまう。技術が発達した現代では、そんなことできるはずはないのに。
きっと今、オレは醜悪な顔をしているのだろう。歪で、執念深く、欲しがりな、そんな魔物の顔をしているのだろう。
一歩進んで、成歩堂に顔を寄せる。足首に冷たい夜の海が通る。
海と地の境界線で、相棒の唇を奪った。
触れるだけの、ほんの一瞬の口付けだ。感触に溺れたかったが、今、そんなことは重要ではない。相棒の口はバニラが香っていた。そんな甘ったるい気持ちではいられなかった。
すぐに唇を離し、相棒を見つめる。成歩堂は今にも泣きそうな顔をして、下唇を噛んで震えていた。
大切な友を深く傷つけてしまった。それと同時に高揚した。
成歩堂は、これで一生オレを忘れられない。
オレが隣にいたことを忘れないで欲しかった。この男に忘れ去られたら、己を見失ってしまいそうだった。相棒の一生を縛りつけたかった。それがどんなに愚かであっても。オレは、手段を選んでいられないのだから。
赦してくれなくてもいい。罵ってくれてもいい。それで相棒の気が済むのならば、あえて痛みを受けよう。
だというのに、成歩堂はこちらに手を伸ばし、オレを引き寄せた。
「大丈夫だ。亜双義」
潮騒が響く世界で、成歩堂の穏やかな声がはっきりと聴こえた。
オレを抱きとめ、背中に手を回してくる。震える手は弱々しいはずなのに、確かな強さを持って熱を伝えてきた。
「ぼくらは離れていても、ずっと一緒だ」
慰めにしかならない言葉が胸に刺さる。鼻の奥がつんとして、目の前が曇る。泣くのは惨めだ。弱い証拠だ。そう思って耐えるのに、なにも見えない。
成歩堂の肩に顔を埋めて、深呼吸した。熱と汗と、優しい海の匂いがした。
頼む。オレがどこか遠くへ消えてしまっても、必ず見つけてくれないか。強く願ってもしょうがないことを、オレは考えてしまっている。
成歩堂の背中に腕を回した。この体温だけは、忘れないでいたかった。
友の背後には、空に浮かぶ月と、月の色に染まった海が広がっていた。
亜双義一真が英国へ旅立って数日後。
親友は客船の中で事件に巻き込まれ亡くなったと、成歩堂龍ノ介の耳に入ってきた。
隣では成歩堂がすっかり寝こけて、オレの肩に寄りかかっている。むにゃむにゃと口を動かす様はまるで童子そのものだ。随分気持ちよさそうに寝ているので放っている。車窓から差し込む夕陽が、成歩堂の丸い頬を照らしている。光と影のコントラストが目に焼きついて離れない。
真夏の炎天下、人気のない電車の冷房で足元は涼しい。しかし肌寒いわけではなく、反対に天気が良すぎて暑いくらいだ。黒いシャツに薄手のパーカーを羽織った成歩堂もそれは同じであるはずなのに、じわじわと上がる体温を嫌がらない。肩も腕も、隙間なくオレと密着させている。異様に湧き上がる高揚感に息が詰まる。感情の行き場がなくなり、成歩堂のだらりとした右手を指でなぞった。指を絡ませてみると、反射なのか手を握りこまれる。起こすのもかわいそうなので手を繋いだまま、再び車窓の外を眺めた。
なにもない木々の間を抜け、廃ホテル群が見えてくる。
都市から二時間かかる街で、小さな花火大会が行われると聞いたのは、今から一週間前。同級生から噂を耳にしたオレは、成歩堂を誘うことにした。屋台があまり出ないらしいので断られるかと思ったが、予想に反して成歩堂は二つ返事で了承した。
「お前とならどこでも楽しいからなあ」
無邪気に笑った相棒の、なんと眩しいことか。
そうして今、電車に揺られ、都市から離れた海岸に辿り着いた。電車で眠っていた成歩堂は大きく背伸びをして、四肢全体で潮風を浴びている。大きな石が敷き詰められており、砂浜ではない。足に砂が纏わりつかなくて楽ではあった。先に見える灯台がともる。岩礁やブロックに波がぶつかり、水の欠片となって散っていく。日は既に落ちていて、夜空の下、潮騒が奏でられている。月に見下ろされる中、人がそれなりにいる海岸を一頻り見て回った。
「なにか食べよう、亜双義」
成歩堂に誘われるがまま、海の家に向かう。海の家は花火大会が開催されるのもあり繁盛していたが、運よく席に座れた。申し訳程度の扇風機がぷぅん、とそよ風を送っている。人も多いので暑くはあったが、日が昇っているときよりはなりを潜めていた。二人、向かい合って焼きそばを食べた。成歩堂はなんでもおいしそうに食べるので、見ているこちらも気持ちいい。焼きそばのソースの味が舌に絡みつく。
焼きそばを食べ終えた成歩堂は、食後のデザートに棒付きのバニラアイスを買う。喉が渇いたオレは、折角だから夏を満喫しようとラムネ壜を買った。人々はブロックや岩礁、コンクリートの堤防に思うがままに座り、花火が打ちあがる時を待っている。オレと成歩堂もブロックの上に座った。
「さっき、海の家の温度計を見たら二十五度だった」
成歩堂がそう言うので、オレも適当に返す。
「夜だから少しは過ごしやすくなったな」
「暑いのには変わりないけど」
相棒は苦笑してバニラアイスを咥える。今まで封を切らず持ち歩いていたので少し溶けてしまっている。純白の雫が、彼の手に落ちた。
咄嗟に彼の手をとり、白い液体の伝った皮膚を舌で舐め取る。成歩堂の指がぴくりと動いた。
「垂れているぞ。気をつけろ」
口を離して成歩堂を見やれば、彼は純朴な顔を真っ赤に染めてこちらを睨んでいる。熱気を孕んだ色がやけに艶めかしく、なぜか胸が痛んだ。
「……亜双義、絶対他の人にそれやるなよ」
「は?」
「だって、あんな……っ、あんなの変態だぜ⁉」
「へんた……っ⁉ キサマ、オレを侮辱するか!」
ラムネ壜を持っていない左手で成歩堂の頬を引っ張る。惨めな顔になった成歩堂はきゃんきゃんと犬のように吠えた。いい気味だ。
そうやって戯れているうちに、どん、と海が震えた。花火の打ち上げが始まったのだ。夜空に色彩豊かな華が咲き乱れる。空が、紅や碧や翠などに染められ、炎の灯で明るく照る。成歩堂の柔らかい頬から手を離し、ラムネ壜のびい玉を落とした。びい玉が落ちたところから白波のような泡が吹きこぼれる。透明な壜に伝った泡を舌で掬うと、クリアで無機質な味がした。花火の光を反射するラムネ壜は、複雑な色合いの光彩を放っていた。相棒に視線を戻すと、こちらを食い入るように見つめていた。目が合うと気まずそうにそらされる。成歩堂の目元が赤い気がして、うっかり手を伸ばしそうになった。また変態だと罵られるのは癪なので、拳を握りしめてラムネを煽った。爽やかな香りが、口から鼻まで満ちた。砂糖水に気体を入れた飲み物は甘ったるかった。
どん、と震えるたびに、黒の海面が明るく彩られる。海に華が咲き誇り、波に揺れる。
とても美しい景色のはずなのに、隣にいる成歩堂のことばかりを考えてしまう。
こうやって、なにもしなくていいから、ずっと隣にいてほしい。オレが海の果てへ行ってしまっても、ずっと。そんなことを友に想うのは、悪いだろうか。
笑いかけて、「亜双義」と呼んでほしい。それだけで勇気が出る。どんな困難が待ち受けていようとも、胸を張って生きていられる。たとえどんな使命を抱えていても、オレは立って歩いていける。
「亜双義」
聞きなれた声で、相棒は言う。
「誘ってくれて、ありがとうな」
成歩堂はやっとオレと視線を合わせて、笑っていた。
その目に映る花火だけを見つめていたかった。
花火大会が終わり、人気のなくなった海岸で、成歩堂と二人歩いていた。終電まで時間があるので、少しゆっくりしていくことにしたのだ。ラムネ壜と棒きれをごみかごに入れて、身軽なまま海辺を歩く。
大きめの石が積められていると思っていたが、海との境界線はさすがに砂になっている。成歩堂は裸足になり、波打ち際で海水に足を入れていた。捲りあげた裾が、水しぶきで若干濡れている。黒い水面から跳ね上がる足は、月明かりで白く照らされていた。
対するオレは、裸足にはなっているが海に浸かることはない。妙に用意のいい成歩堂はタオルを持ってきている。だから濡れてもなんとかなるが、海に浸かる気分にはなれなかった。
成歩堂がオレよりずっと背後にある景色を見て言う。
「少し気になってたけど、ここらへん廃墟多いよな」
「ああ……。数十年前は観光名所だったらしいのだが、すっかり客足が途絶えてしまったようだ。あれらはすべて宿泊施設だろう」
「そうなのか……。なんだか悲しいな」
成歩堂は眉間に皺を寄せて、オレの背後に立ち並ぶ死骸たちに想いを馳せている。廃ホテルを気味悪いと遠巻きにするのではなく、「悲しい」と表現するのは成歩堂が善良である証拠だ。
月の光のせいか、相棒が眩しい。
ずっと隣を歩いていたいのに、それが叶わない。
「……今日はすまなかった」
「なんで謝るんだよ。ぼくはお前とだったら、なんだって……」
「どうしても欲しかったのだ」
相棒の言葉を遮って、干からびた咽喉から絞り出す。成歩堂以外にはどこにも行くあてがない、オレの我が儘だった。
「……キサマとの思い出が、どうしても欲しかった」
成歩堂の丸い目が見開かれた。
数か月後、オレは英国に留学する。見聞を広めるため、司法を学ぶため……表向きはそうなっているが、実際は国家間の黒い取り引きがある。己の為すべきことのため手段は選ばないと覚悟していた。
そんな暗い思惑を、相棒の成歩堂には伝えていない。伝えられるはずがなかった。
「二度とキサマに顔向けができぬ。そんな気がしてやまない」
「……なに、言ってるんだよ。亜双義」
「キサマをトランクに詰めて、連れて歩ければ良かったのだがな」
つい自嘲気味に笑ってしまう。技術が発達した現代では、そんなことできるはずはないのに。
きっと今、オレは醜悪な顔をしているのだろう。歪で、執念深く、欲しがりな、そんな魔物の顔をしているのだろう。
一歩進んで、成歩堂に顔を寄せる。足首に冷たい夜の海が通る。
海と地の境界線で、相棒の唇を奪った。
触れるだけの、ほんの一瞬の口付けだ。感触に溺れたかったが、今、そんなことは重要ではない。相棒の口はバニラが香っていた。そんな甘ったるい気持ちではいられなかった。
すぐに唇を離し、相棒を見つめる。成歩堂は今にも泣きそうな顔をして、下唇を噛んで震えていた。
大切な友を深く傷つけてしまった。それと同時に高揚した。
成歩堂は、これで一生オレを忘れられない。
オレが隣にいたことを忘れないで欲しかった。この男に忘れ去られたら、己を見失ってしまいそうだった。相棒の一生を縛りつけたかった。それがどんなに愚かであっても。オレは、手段を選んでいられないのだから。
赦してくれなくてもいい。罵ってくれてもいい。それで相棒の気が済むのならば、あえて痛みを受けよう。
だというのに、成歩堂はこちらに手を伸ばし、オレを引き寄せた。
「大丈夫だ。亜双義」
潮騒が響く世界で、成歩堂の穏やかな声がはっきりと聴こえた。
オレを抱きとめ、背中に手を回してくる。震える手は弱々しいはずなのに、確かな強さを持って熱を伝えてきた。
「ぼくらは離れていても、ずっと一緒だ」
慰めにしかならない言葉が胸に刺さる。鼻の奥がつんとして、目の前が曇る。泣くのは惨めだ。弱い証拠だ。そう思って耐えるのに、なにも見えない。
成歩堂の肩に顔を埋めて、深呼吸した。熱と汗と、優しい海の匂いがした。
頼む。オレがどこか遠くへ消えてしまっても、必ず見つけてくれないか。強く願ってもしょうがないことを、オレは考えてしまっている。
成歩堂の背中に腕を回した。この体温だけは、忘れないでいたかった。
友の背後には、空に浮かぶ月と、月の色に染まった海が広がっていた。
亜双義一真が英国へ旅立って数日後。
親友は客船の中で事件に巻き込まれ亡くなったと、成歩堂龍ノ介の耳に入ってきた。
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