今宵、救いの華が咲く
亜双義からの連絡が途絶えて五十日が過ぎた。
事務室の窓からは蜜柑色の夕陽が差し込んでいる。目を細めていると、寿沙都さんが帰りの支度をしながら尋ねてきた。
「成歩堂さま、どうかなさったのですか? 浮かない顔をしています」
「え、ええ……」
大英帝国で検事の勉強をしている親友、亜双義一真からの連絡が最近ないのだ。まめに手紙で連絡を取り合っていたのだけれど、ここ五十日は一通も届いていない。心配になって何度か一方的に手紙を送ったのだが、返信はなかった。
寿沙都さんなら亜双義のことをなにか知っているかもしれない。思い切って、このしっかりしている法務助士に聞いてみた。
「実は、亜双義のやつから連絡が来ないのです。前まではよく返信が届いていたのですが……」
「まあ、そうだったのですね」
「なにか知りませんか。亜双義のこと」
寿沙都さんは少し困ったように眉を寄せ、首を横に振った。
「私からお話できることはありませんが……どうなさったのでしょうね、一真さま」
「親友として心配なのです。あいつは少し……いや、かなり無茶をする男ですから」
ち、ち、と、壁にかけた時計の針が進む。二人で首を捻ったあと、寿沙都さんはお辞儀をした。
「……では、今日はこれにて失礼します。成歩堂さまも、あまり根を詰めすぎないよう」
「いえ、そんな。寿沙都さんのおかげでそこまで追い詰められては……」
「そうではなく。最近思いつめた顔をしてましたが、まさか一真さまのことだとは……」
「……そんなに顔に出てましたか?」
寿沙都さんは口元に手を当て、まるで幼子を相手にしているように柔く微笑んだ。
「成歩堂さまは、すぐに顔に出ますから」
「うう……」
「そこが成歩堂さまのいいところです。自信を持ってください」
(これは褒められてるのかしらん……)
ふふ、と意味ありげに笑う寿沙都さんは、そういえば、と人差し指を上に向ける。どうやら仕事終わりにぼくに伝えることがあるらしい。彼女の鈴のような声に耳を傾ける。
「川沿いの桜が見頃ですよ。私も朝に通ったのですが、それはもう素晴らしく」
「ああ。あの樹齢二百年を超えると噂の大きな桜ですか」
事務所を出て少し歩いたところに、街中を流れる川がある。煉瓦造りの橋の傍に、一本だけ大きな桜の樹が聳え立っているのだ。
季節は爛漫と花が咲き乱れる四月。そろそろ桜の開花が始まっても良い頃だ。寿沙都さんは首肯して、楽し気に話す。
「成歩堂さまは、花より団子かもしれませんが」
「……寿沙都さんにとって僕という人間がどんなことになっているのか、非常に気になります」
寿沙都さんは小さく笑って、背中を向けた。手荷物を持って、扉へ向かう。
寿沙都さんは顔だけ振り向かせて云った。
「では、明日もよろしくお願いします」
「はい。今日もありがとうございました」
「とにかく、たまには花見もいいものですよ。気分転換に行ってみてはいかがでしょう」
そうですね、とから返事をすると、寿沙都さんは優しく笑った。
彼女の目には、郷愁の色があった。
「是非とも行ってみてくださいまし。……きっと、素敵なものが見れると思いますから」
どこか懇願するような声が、なぜか耳に残った。
寿沙都さんが帰ってからも、ぼくは椅子に座って夕陽を眺めていた。日が沈んで空が紫になり、やがて濃紺の夜が訪れても、ぼくはただ一人、静かな事務室で呆としているのだった。寿沙都さんと仕事をしていると忘れられるけれど、一人になってしまうともう駄目だった。亜双義は、一体どうしちまったんだろう。今までこんなに長い期間、連絡が途絶えることはなかった。大英帝国での生活が忙しいのだろうか。あいつは生真面目だから、もしかすると自分を追い込んでいるのかもしれない。とにかく体調を崩していなければそれでいい。
――それとも、ぼくのことなんてどうでもよくなったのかしらん。
亜双義がそんな薄情なやつではないことは、このぼくが一番知っている。ぼくが今まで出会ったなかで、誰よりも熱い魂を持っている男だ。あいつは、人を愛し、大切にできる人間だ。でも、それを知っているからこそ、今回の小さな事件は引っかかる。
そんなことをぐるぐると考えていたって、袋小路の鼠だ。ちょうど腹の虫も鳴っている。適当な居酒屋にでも寄ってなにか口に入れよう。そう思って、財布と、奥の棚に飾ってある狩魔を手に取って事務所を出た。
外に出ると、柔らかな夜風がふわりと頬を撫でる。四月といえども、夜の冷たさは肌に染みる。仕事着の洋服で出てきてしまった。外套でも羽織れば良かったと後悔したが、時既に遅し。また事務所に戻る気にもなれず、渋々街中を歩いた。
街中を歩いていると、やがて川沿いにたどり着く。寿沙都さんが云っていた桜の樹でも見に行こうと足を速めた。どっちにしろ、居酒屋に行くためには煉瓦の橋を渡らなければいけなかった。
嗚呼、亜双義とまた、酒を飲み交わしたい。
学生のときは当たり前のようにできていたことが、大人になってからはできない。勿論、ぼくも亜双義も後悔などしていない。ぼくたちは、歩むべき道を歩いている。ぼくの道を亜双義が照らし、彼奴の道をぼくが照らす。それだけで誇り高い気持ちになれる。それでも稀に訪れる、この寂寥感はどう表現すればいいのだろうか。
親友に会いたいと思うのは、悪いことではない。悪いことではないけれども、不貞行為を働いている気にもなるのだ。ぼくのこの想いは、親友を裏切っているのではないかと。
寂しいと思うこと自体が罪だと云われたら、ぼくはどうすればいいのだろう。
目の前にひら、と、薄桃色の花びらが舞う。
「あ、」
思わず花びらに手を伸ばすと、運よく捕まえられた。空中をくるくると踊る小さな花弁は、可愛らしく淡い色彩で夜闇を染める。触れてみると、柔くて脆い。桜の花びらだ。
気が付けば橋にたどり着いていた。最近はいつの間にか目的地についていることが多かった。それくらい、この頃のぼくはぼんやりとしている。
橋の傍の大きな桜は、寿沙都さんの云ったとおり満開だった。夜の暗がりに負けず、街の光を吸いこんで、華たちは淡く輝いている。目が眩むほど、幻想的であった。
でも、それよりも、ぼくの目を惹きつけたのは。
「……亜双義」
友の名を呼んだ。声は掠れてしまったが、正しく受け取った友はこちらを振り向いた。
彼も驚いているのだろう。目を見張って、こちらを見ていた。
「……成歩堂」
桜の下、欄干に両手をかけて、友はそこに立っていた。
夜だというのに、彼の白い洋装は眩かった。桜の色を反射して、肩のあたりが薄桃色に染まっている。強い花の香りに酩酊した。
「亜双義、どうして」
思いがけない再会に立ちすくんでいると、亜双義は昔から変わらない不敵の笑みを浮かべる。彼の堂々とした姿が、そこにはあった。
「今日の朝に着いた。留学期間が満了したからな。これでオレも晴れて日本の検事だ」
「……な、なんで云ってくれなかったんだよ! 連絡がなくて心配したんだぞ」
友は高らかに笑って、ぼくに向かって歩んでくる。ぼくも、引き寄せられるように亜双義へ歩を進めた。
「いや、すまん。キサマを驚かせたくてな。皆に黙っていてもらった」
「お前な……」
「いいだろう? 現にこうやって会えたのだ。なにも文句はあるまい」
「あるに決まってるだろう! ……あ! もしかして、寿沙都さんも知って……⁉」
「勿論だ」
ぼくと一緒に働いているのに、黙っているなんてひどすぎる。知っているのを前提とすると、夕方頃の寿沙都さんはかなり演技力があった。すっかりぼくも騙されてしまった。
「……五十日間連絡がなかったのは、船に乗っていたからか」
「まあ、そうなるな」
「まったく……心配したこちらの身にもなってくれ。体調でも悪いのかと思ったじゃないか」
「だから、謝っているだろう?」
亜双義に反省の色は見られず、反対にふてぶてしく笑っている。ここまでくると堂々としているというよりは些か偉そうだ。でも、手を伸ばせば届く距離に親友がいるのは、素直に嬉しい。
もう二度と並んで歩けないのかもしれない。そう思う日もあった。ぼくと亜双義が信念を持って歩んでいけるのならば、それでも良かったのだけれども。
ぼくは帯刀した狩魔を手に持って、亜双義に差し出した。
「……お前の魂を返すよ、亜双義」
亜双義は目を見張って、息を呑んだ。亜双義にしては珍しく、唇を開けたり閉じたりしている。なにを言うべきか熟考しているのだろう。やがて、いつもの冷静さを取り戻した声で静かに云った。
「……まだ、預かっていてほしい」
「なぜだ?」
「それは、」
亜双義は歯を食い縛り、整った顔に皺を刻んだ。鋭い痛みに耐えているような表情で、見る者の心を苛んだ。夜だと云うのに、亜双義の目には深い陰がある。彼は喉から声を絞り出した。
「……いるんだ。まだ、オレの中に」
「……魔物、か」
「そうだ。オレは、心底それが恐ろしい」
亜双義が「怖い」とはっきり云うのは新鮮だった。ぼくの友はいつも頼りがいがあって、かっこいい。そんな彼がぼくにそんな面を見せてくれるのは、なんだか気を赦されているみたいでまんざらでもなかった。
「分かった。当面の間、預かっておくよ」
「……感謝する」
「いいんだ、亜双義。それより今から飲みに行くんだ。一緒に行こう」
「……ああ。キサマと飲むのは久しぶりだな」
亜双義と並んで歩き始める。桜の花びらが彼の目元を隠してしまう。邪魔だなあと、指先で亜双義の前髪を払った。不思議な色の目と合った。ぼくにはなんの色か分からなかった。嘘だ。本当は知っている。僕もこの色を持っている。
亜双義が眩しそうに目を細めて呟く。
「……赦してくれ」
ぼくの親友が、あまりにも苦しそうに吐き出すものだから。思わず笑ってしまって、彼の目を覗き込んだ。
「なにを云っているんだ、亜双義。赦すも赦さないもないだろう? ぼくらは親友なんだから」
笑うぼくとは対照的に、亜双義はなんとも云えない微妙な顔をしていた。
それからぼくたち二人は居酒屋へ向かって、やはり二人きりで飲み交わした。亜双義から聞く大英帝国の暮らしは、ぼくとは見方が違って新鮮だ。バンジークス卿が法廷でワインボトルを投げすぎて苦情が来たやら、それをどこ吹く風で無視しているやら、最近アイリスちゃんが誰かに恋をしているやら、ホームズさんがその件でやきもきしているやら。ジーナさんも相変わらずのようだが、最近は証言の効率が良くなって、ますますグレグソン刑事に似てきたらしい。稀に彼らとも手紙のやり取りをするが、人から伝えられる彼らの生活は生き生きとしている。亜双義から語られる彼らは実に楽しそうだ。亜双義も大英帝国でつらい思いをしてきたが、こうして楽しい思い出を胸に日本へ帰還できて良かった。
酔いが深くならないうちに、居酒屋を後にした。亜双義がぼくの事務所を見たいと云うので、今日は事務所兼ぼくの家に泊まらせることにした。
鍵を回して、廊下の電灯を点ける。寝室として使っている畳の間へ亜双義を案内した。畳の間は電灯がないので、蝋燭を点けて机の上に置く。
「ごめんよ。布団が一人分しかないんだ。ぼくは床で寝るから、亜双義はこれを使ってくれ」
「すまんな。恩に着る」
「いちいち大袈裟だなあ」
ぼくが普段使っている布団を敷いている間、亜双義には着替えをしてもらった。さすがに洋装のままでは寝づらいだろう。和服なので、多少寸法があっていなくとも貸せる。亜双義はぼくよりも体格がいいので、洋服だとなかなかこうはいかない。
亜双義を布団に寝かせて、ぼくも着替えをする。やはり和服は安心する。亜双義は何やら鼻をひくひくと動かしている。もしかすると布団が匂うのかもしれない。一応日干しはしておいてあるのだが。
僕は布団の隣に手ぬぐいを敷き、膝掛けを毛布代わりにして横になった。こうして話してみて、やはりぼくたちはなにも変わっていないのかもな、と思っていた。劇的に変化したことも勿論あったのだけれども、根本的なところはなにも変わっていない。亜双義はぼくの親友だ。
蝋燭の灯を消すと、途端に夜の空気が部屋を満たす。暗闇に目が慣れた頃、亜双義がぼくの名を呼んだ。
「成歩堂」
「なんだ、親友」
亜双義は穏やかに笑んで、布団を二度手の平で叩いた。「いいのか?」と問うと、「なにを今更」と返された。
友の言葉に甘え、床から離れて亜双義の隣へ潜り込む。やはり布団と手ぬぐいとでは、硬さが違う。優しい温度に包まれ、すぐに眠れそうだった。すぐ傍にある亜双義の温もりが心地良い。つい擦り寄ると、馨しい酒と桜の匂いがした。美しい匂いだ。
ぼくの髪が首元にあたって擽ったいのか、亜双義は僅かに身じろぎする。
「成歩堂」
「今度はなんだ?」
久しぶりの再会で心躍っているのだろう。ぼくもまだ話し足りないので、亜双義に付き合ってやることにした。
しかし、軽く返答したぼくとは違い、亜双義は思いつめた声で云った。
「キサマには悪いことをした」
悪いこと、と云われ、察しがつかないほど鈍くはなれなかった。亜双義は大英帝国でのあの一幕について話している。ぼくの親友を巻き込んだ、あの事件を。
「云えなかったのだ。特に父上のことは……」
「亜双義……」
「嫌われるのが怖かった」
親友は、ぼくの目をまっすぐに射抜いていた。その瞳孔が怯えで揺れているのが、暗闇の中でもはっきり見えた。弱さを見せた親友から、目を離すことなどできなかった。
亜双義は暗闇の中、身を起こしてぼくに覆いかぶさる。布団に投げ出されたぼくの左手首を抑えるが、亜双義の手は震えていた。
「赦せ」
亜双義の顔が近づいてくる。時間がまるでゆっくりと流れていくような、不思議な光景だった。親友の細い息遣いを感じる。指先と同じくらい震えた唇がぼくの唇に触れた。それをぼくは当たり前に甘受した。
触れるだけの口づけは、やがて終わる。亜双義は戸惑いの色を含ませた声でぼくに問う。
「なぜ、抵抗しない」
夜よりも深い闇の中、亜双義は迷子のような顔をして、ぼくだけを見つめる。
ぼくには親友の顔がよく見えた。それが例え、暗闇の中だとしても。
「ぼくがもしお前と同じことをしたら、お前はどうするんだ?」
そう返せば、息を呑む音が聞こえた。そして、やがてぼくを抑えていた手は離れる。
自由になった腕を亜双義の首に回して引き寄せた。
なるほどう、と泣きそうな声で名前を呼ばれる。だから、ぼくも親友の名前を呼んでやった。
あそうぎ、ぼくは、お前が生きていたらそれでいいんだ。
夜の間に、桜が咲く。淡い白の花びらが、ぼくらの上に舞い落ちる。
かみさま、ぼくはこの人間 を愛してしまつたやうです。
そうしてぼくらは、朝まで触れるだけの口づけを繰り返した。
事務室の窓からは蜜柑色の夕陽が差し込んでいる。目を細めていると、寿沙都さんが帰りの支度をしながら尋ねてきた。
「成歩堂さま、どうかなさったのですか? 浮かない顔をしています」
「え、ええ……」
大英帝国で検事の勉強をしている親友、亜双義一真からの連絡が最近ないのだ。まめに手紙で連絡を取り合っていたのだけれど、ここ五十日は一通も届いていない。心配になって何度か一方的に手紙を送ったのだが、返信はなかった。
寿沙都さんなら亜双義のことをなにか知っているかもしれない。思い切って、このしっかりしている法務助士に聞いてみた。
「実は、亜双義のやつから連絡が来ないのです。前まではよく返信が届いていたのですが……」
「まあ、そうだったのですね」
「なにか知りませんか。亜双義のこと」
寿沙都さんは少し困ったように眉を寄せ、首を横に振った。
「私からお話できることはありませんが……どうなさったのでしょうね、一真さま」
「親友として心配なのです。あいつは少し……いや、かなり無茶をする男ですから」
ち、ち、と、壁にかけた時計の針が進む。二人で首を捻ったあと、寿沙都さんはお辞儀をした。
「……では、今日はこれにて失礼します。成歩堂さまも、あまり根を詰めすぎないよう」
「いえ、そんな。寿沙都さんのおかげでそこまで追い詰められては……」
「そうではなく。最近思いつめた顔をしてましたが、まさか一真さまのことだとは……」
「……そんなに顔に出てましたか?」
寿沙都さんは口元に手を当て、まるで幼子を相手にしているように柔く微笑んだ。
「成歩堂さまは、すぐに顔に出ますから」
「うう……」
「そこが成歩堂さまのいいところです。自信を持ってください」
(これは褒められてるのかしらん……)
ふふ、と意味ありげに笑う寿沙都さんは、そういえば、と人差し指を上に向ける。どうやら仕事終わりにぼくに伝えることがあるらしい。彼女の鈴のような声に耳を傾ける。
「川沿いの桜が見頃ですよ。私も朝に通ったのですが、それはもう素晴らしく」
「ああ。あの樹齢二百年を超えると噂の大きな桜ですか」
事務所を出て少し歩いたところに、街中を流れる川がある。煉瓦造りの橋の傍に、一本だけ大きな桜の樹が聳え立っているのだ。
季節は爛漫と花が咲き乱れる四月。そろそろ桜の開花が始まっても良い頃だ。寿沙都さんは首肯して、楽し気に話す。
「成歩堂さまは、花より団子かもしれませんが」
「……寿沙都さんにとって僕という人間がどんなことになっているのか、非常に気になります」
寿沙都さんは小さく笑って、背中を向けた。手荷物を持って、扉へ向かう。
寿沙都さんは顔だけ振り向かせて云った。
「では、明日もよろしくお願いします」
「はい。今日もありがとうございました」
「とにかく、たまには花見もいいものですよ。気分転換に行ってみてはいかがでしょう」
そうですね、とから返事をすると、寿沙都さんは優しく笑った。
彼女の目には、郷愁の色があった。
「是非とも行ってみてくださいまし。……きっと、素敵なものが見れると思いますから」
どこか懇願するような声が、なぜか耳に残った。
寿沙都さんが帰ってからも、ぼくは椅子に座って夕陽を眺めていた。日が沈んで空が紫になり、やがて濃紺の夜が訪れても、ぼくはただ一人、静かな事務室で呆としているのだった。寿沙都さんと仕事をしていると忘れられるけれど、一人になってしまうともう駄目だった。亜双義は、一体どうしちまったんだろう。今までこんなに長い期間、連絡が途絶えることはなかった。大英帝国での生活が忙しいのだろうか。あいつは生真面目だから、もしかすると自分を追い込んでいるのかもしれない。とにかく体調を崩していなければそれでいい。
――それとも、ぼくのことなんてどうでもよくなったのかしらん。
亜双義がそんな薄情なやつではないことは、このぼくが一番知っている。ぼくが今まで出会ったなかで、誰よりも熱い魂を持っている男だ。あいつは、人を愛し、大切にできる人間だ。でも、それを知っているからこそ、今回の小さな事件は引っかかる。
そんなことをぐるぐると考えていたって、袋小路の鼠だ。ちょうど腹の虫も鳴っている。適当な居酒屋にでも寄ってなにか口に入れよう。そう思って、財布と、奥の棚に飾ってある狩魔を手に取って事務所を出た。
外に出ると、柔らかな夜風がふわりと頬を撫でる。四月といえども、夜の冷たさは肌に染みる。仕事着の洋服で出てきてしまった。外套でも羽織れば良かったと後悔したが、時既に遅し。また事務所に戻る気にもなれず、渋々街中を歩いた。
街中を歩いていると、やがて川沿いにたどり着く。寿沙都さんが云っていた桜の樹でも見に行こうと足を速めた。どっちにしろ、居酒屋に行くためには煉瓦の橋を渡らなければいけなかった。
嗚呼、亜双義とまた、酒を飲み交わしたい。
学生のときは当たり前のようにできていたことが、大人になってからはできない。勿論、ぼくも亜双義も後悔などしていない。ぼくたちは、歩むべき道を歩いている。ぼくの道を亜双義が照らし、彼奴の道をぼくが照らす。それだけで誇り高い気持ちになれる。それでも稀に訪れる、この寂寥感はどう表現すればいいのだろうか。
親友に会いたいと思うのは、悪いことではない。悪いことではないけれども、不貞行為を働いている気にもなるのだ。ぼくのこの想いは、親友を裏切っているのではないかと。
寂しいと思うこと自体が罪だと云われたら、ぼくはどうすればいいのだろう。
目の前にひら、と、薄桃色の花びらが舞う。
「あ、」
思わず花びらに手を伸ばすと、運よく捕まえられた。空中をくるくると踊る小さな花弁は、可愛らしく淡い色彩で夜闇を染める。触れてみると、柔くて脆い。桜の花びらだ。
気が付けば橋にたどり着いていた。最近はいつの間にか目的地についていることが多かった。それくらい、この頃のぼくはぼんやりとしている。
橋の傍の大きな桜は、寿沙都さんの云ったとおり満開だった。夜の暗がりに負けず、街の光を吸いこんで、華たちは淡く輝いている。目が眩むほど、幻想的であった。
でも、それよりも、ぼくの目を惹きつけたのは。
「……亜双義」
友の名を呼んだ。声は掠れてしまったが、正しく受け取った友はこちらを振り向いた。
彼も驚いているのだろう。目を見張って、こちらを見ていた。
「……成歩堂」
桜の下、欄干に両手をかけて、友はそこに立っていた。
夜だというのに、彼の白い洋装は眩かった。桜の色を反射して、肩のあたりが薄桃色に染まっている。強い花の香りに酩酊した。
「亜双義、どうして」
思いがけない再会に立ちすくんでいると、亜双義は昔から変わらない不敵の笑みを浮かべる。彼の堂々とした姿が、そこにはあった。
「今日の朝に着いた。留学期間が満了したからな。これでオレも晴れて日本の検事だ」
「……な、なんで云ってくれなかったんだよ! 連絡がなくて心配したんだぞ」
友は高らかに笑って、ぼくに向かって歩んでくる。ぼくも、引き寄せられるように亜双義へ歩を進めた。
「いや、すまん。キサマを驚かせたくてな。皆に黙っていてもらった」
「お前な……」
「いいだろう? 現にこうやって会えたのだ。なにも文句はあるまい」
「あるに決まってるだろう! ……あ! もしかして、寿沙都さんも知って……⁉」
「勿論だ」
ぼくと一緒に働いているのに、黙っているなんてひどすぎる。知っているのを前提とすると、夕方頃の寿沙都さんはかなり演技力があった。すっかりぼくも騙されてしまった。
「……五十日間連絡がなかったのは、船に乗っていたからか」
「まあ、そうなるな」
「まったく……心配したこちらの身にもなってくれ。体調でも悪いのかと思ったじゃないか」
「だから、謝っているだろう?」
亜双義に反省の色は見られず、反対にふてぶてしく笑っている。ここまでくると堂々としているというよりは些か偉そうだ。でも、手を伸ばせば届く距離に親友がいるのは、素直に嬉しい。
もう二度と並んで歩けないのかもしれない。そう思う日もあった。ぼくと亜双義が信念を持って歩んでいけるのならば、それでも良かったのだけれども。
ぼくは帯刀した狩魔を手に持って、亜双義に差し出した。
「……お前の魂を返すよ、亜双義」
亜双義は目を見張って、息を呑んだ。亜双義にしては珍しく、唇を開けたり閉じたりしている。なにを言うべきか熟考しているのだろう。やがて、いつもの冷静さを取り戻した声で静かに云った。
「……まだ、預かっていてほしい」
「なぜだ?」
「それは、」
亜双義は歯を食い縛り、整った顔に皺を刻んだ。鋭い痛みに耐えているような表情で、見る者の心を苛んだ。夜だと云うのに、亜双義の目には深い陰がある。彼は喉から声を絞り出した。
「……いるんだ。まだ、オレの中に」
「……魔物、か」
「そうだ。オレは、心底それが恐ろしい」
亜双義が「怖い」とはっきり云うのは新鮮だった。ぼくの友はいつも頼りがいがあって、かっこいい。そんな彼がぼくにそんな面を見せてくれるのは、なんだか気を赦されているみたいでまんざらでもなかった。
「分かった。当面の間、預かっておくよ」
「……感謝する」
「いいんだ、亜双義。それより今から飲みに行くんだ。一緒に行こう」
「……ああ。キサマと飲むのは久しぶりだな」
亜双義と並んで歩き始める。桜の花びらが彼の目元を隠してしまう。邪魔だなあと、指先で亜双義の前髪を払った。不思議な色の目と合った。ぼくにはなんの色か分からなかった。嘘だ。本当は知っている。僕もこの色を持っている。
亜双義が眩しそうに目を細めて呟く。
「……赦してくれ」
ぼくの親友が、あまりにも苦しそうに吐き出すものだから。思わず笑ってしまって、彼の目を覗き込んだ。
「なにを云っているんだ、亜双義。赦すも赦さないもないだろう? ぼくらは親友なんだから」
笑うぼくとは対照的に、亜双義はなんとも云えない微妙な顔をしていた。
それからぼくたち二人は居酒屋へ向かって、やはり二人きりで飲み交わした。亜双義から聞く大英帝国の暮らしは、ぼくとは見方が違って新鮮だ。バンジークス卿が法廷でワインボトルを投げすぎて苦情が来たやら、それをどこ吹く風で無視しているやら、最近アイリスちゃんが誰かに恋をしているやら、ホームズさんがその件でやきもきしているやら。ジーナさんも相変わらずのようだが、最近は証言の効率が良くなって、ますますグレグソン刑事に似てきたらしい。稀に彼らとも手紙のやり取りをするが、人から伝えられる彼らの生活は生き生きとしている。亜双義から語られる彼らは実に楽しそうだ。亜双義も大英帝国でつらい思いをしてきたが、こうして楽しい思い出を胸に日本へ帰還できて良かった。
酔いが深くならないうちに、居酒屋を後にした。亜双義がぼくの事務所を見たいと云うので、今日は事務所兼ぼくの家に泊まらせることにした。
鍵を回して、廊下の電灯を点ける。寝室として使っている畳の間へ亜双義を案内した。畳の間は電灯がないので、蝋燭を点けて机の上に置く。
「ごめんよ。布団が一人分しかないんだ。ぼくは床で寝るから、亜双義はこれを使ってくれ」
「すまんな。恩に着る」
「いちいち大袈裟だなあ」
ぼくが普段使っている布団を敷いている間、亜双義には着替えをしてもらった。さすがに洋装のままでは寝づらいだろう。和服なので、多少寸法があっていなくとも貸せる。亜双義はぼくよりも体格がいいので、洋服だとなかなかこうはいかない。
亜双義を布団に寝かせて、ぼくも着替えをする。やはり和服は安心する。亜双義は何やら鼻をひくひくと動かしている。もしかすると布団が匂うのかもしれない。一応日干しはしておいてあるのだが。
僕は布団の隣に手ぬぐいを敷き、膝掛けを毛布代わりにして横になった。こうして話してみて、やはりぼくたちはなにも変わっていないのかもな、と思っていた。劇的に変化したことも勿論あったのだけれども、根本的なところはなにも変わっていない。亜双義はぼくの親友だ。
蝋燭の灯を消すと、途端に夜の空気が部屋を満たす。暗闇に目が慣れた頃、亜双義がぼくの名を呼んだ。
「成歩堂」
「なんだ、親友」
亜双義は穏やかに笑んで、布団を二度手の平で叩いた。「いいのか?」と問うと、「なにを今更」と返された。
友の言葉に甘え、床から離れて亜双義の隣へ潜り込む。やはり布団と手ぬぐいとでは、硬さが違う。優しい温度に包まれ、すぐに眠れそうだった。すぐ傍にある亜双義の温もりが心地良い。つい擦り寄ると、馨しい酒と桜の匂いがした。美しい匂いだ。
ぼくの髪が首元にあたって擽ったいのか、亜双義は僅かに身じろぎする。
「成歩堂」
「今度はなんだ?」
久しぶりの再会で心躍っているのだろう。ぼくもまだ話し足りないので、亜双義に付き合ってやることにした。
しかし、軽く返答したぼくとは違い、亜双義は思いつめた声で云った。
「キサマには悪いことをした」
悪いこと、と云われ、察しがつかないほど鈍くはなれなかった。亜双義は大英帝国でのあの一幕について話している。ぼくの親友を巻き込んだ、あの事件を。
「云えなかったのだ。特に父上のことは……」
「亜双義……」
「嫌われるのが怖かった」
親友は、ぼくの目をまっすぐに射抜いていた。その瞳孔が怯えで揺れているのが、暗闇の中でもはっきり見えた。弱さを見せた親友から、目を離すことなどできなかった。
亜双義は暗闇の中、身を起こしてぼくに覆いかぶさる。布団に投げ出されたぼくの左手首を抑えるが、亜双義の手は震えていた。
「赦せ」
亜双義の顔が近づいてくる。時間がまるでゆっくりと流れていくような、不思議な光景だった。親友の細い息遣いを感じる。指先と同じくらい震えた唇がぼくの唇に触れた。それをぼくは当たり前に甘受した。
触れるだけの口づけは、やがて終わる。亜双義は戸惑いの色を含ませた声でぼくに問う。
「なぜ、抵抗しない」
夜よりも深い闇の中、亜双義は迷子のような顔をして、ぼくだけを見つめる。
ぼくには親友の顔がよく見えた。それが例え、暗闇の中だとしても。
「ぼくがもしお前と同じことをしたら、お前はどうするんだ?」
そう返せば、息を呑む音が聞こえた。そして、やがてぼくを抑えていた手は離れる。
自由になった腕を亜双義の首に回して引き寄せた。
なるほどう、と泣きそうな声で名前を呼ばれる。だから、ぼくも親友の名前を呼んでやった。
あそうぎ、ぼくは、お前が生きていたらそれでいいんだ。
夜の間に、桜が咲く。淡い白の花びらが、ぼくらの上に舞い落ちる。
かみさま、ぼくはこの
そうしてぼくらは、朝まで触れるだけの口づけを繰り返した。
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