かきつばたの郷愁
春は曙。のどかな陽の光が小さい隙間から差し込む昼時。ぼくは借宿の自室で大の字になっていた。折角の休日なのだからどこかに出かけようとも思ったのだが、温かな日差しに負け、うとうとと微睡む。だるまなどの物が転がった煩雑な室内で一人のんびりと過ごしていた。しかし、そんな穏やかな日常はたった一人の男の介入によって見るも無惨に壊されてしまった。
自室の引き戸を開ける者がいる。がらりと大仰な音を立てて乱入してきたのは、誰でもない、ぼくの親友だった。
「成歩堂! 土産だ!」
風がないのに鉢巻きをたなびかせた亜双義は、溌剌とした笑顔で、問答無用で部屋に入ってきた。なんだなんだと身を起こせば、男はいそいそと手に持っていた風呂敷を床に置き広げてみせる。持ち運び用の皿に載せられていたのは、可愛らしい形をした紫色の生菓子だった。
「練り切りじゃないか! こんな高価なもの、どこから……」
「そんなことはどうでもいい。折角だから花見でもして楽しもうではないか、成歩堂!」
そう言って亜双義は再び菓子を風呂敷で包み、外出の支度をしろと急かしてくる。練り切りには覚えがあった。昔、父がもらってきたそれを食べたことがある。外郎生地に包んだこし餡が非常に甘く、頬が落ちてしまいそうだった。遥か遠い記憶を思い出していると、亜双義から抹茶も点てようと提案され、部屋の隅で置物と化していた道具一式を風呂敷にまとめ、湯の入った薬缶を持つ。洋服の上に長着と袴を合わせた書生姿で出かけることにした。亜双義は休日だというのになぜか黒い制服姿だ。宿を出て近くの広場へと足早に向かう。近所には住民が憩いの場として使っている広場があり、そこでよく宴会なども行っている。多くの桜でひしめき合っているその場所は、お花見には丁度良い。気持ちが急いているからか、ぼくらの間に会話は一言も無かった。
広場につき、桜と桜の間に陣取る。広場には同じく花見をしている人々がいた。さすがに地べたに座るのはどうなのかと文句を言えば、亜双義は肩にかけていた巾着袋から二人は座れそうな大きな布を取り出した。さすが相棒と持て囃してやると、「都合のいいときだけ相棒と呼ぶな」と一蹴されてしまった。
二人で足を崩して座る。茶を点てるなら正座がいいのだろうが、亜双義の前で「きちんと」する必要はないだろう。亜双義も同じらしく、胡座をかいて巾着から道具一式を取り出していた。
再び風呂敷を広げる。皿に慎ましく飾られたたった二つだけの練り切り。そのどちらも同じ色と形をしていた。抹茶を点てながら、花のように可愛らしい生菓子を見つめた。
「いいのかい? ぼくもいただいてしまって……」
「意気揚々とオレについてきたくせに今更謙虚な姿勢を見せるのか。いっそのこと清々しいな」
「だって練り切りだろ⁉ 普段口にできないものを見せられたらついていってしまうよ」
「これがどこの馬の骨とも知れない輩相手でもキサマの場合ついていきそうだな。まあいい。キサマが好むだろうと思って持ってきたのだ。一人一つの分配なのだから心して食せよ」
小さな和菓子切りを摘まみ、恐る恐る練り切りに差し込む。下郎生地のふわりとした感触がして、それからすっと切れた。勿体ない精神で小さく一欠片切り分け、口の中に放る。下郎生地の柔らかな食感と、こし餡の甘さが見事に調和していた。口の中で蕩けていく生地は、甘味独特の風味を残していく。抹茶など口に入れずともこの甘さだけで十分だと口にすれば、亜双義が眉尻を下げて「キサマというやつは……」と呆れかえるのだった。
亜双義は手慣れた様子でさくさくと生菓子を切り、小さな欠片を放りこむ。紫の花の形をした小さな菓子は、どうしたことか亜双義に似合っていた。茶を口に含んだ亜双義の喉が上下に動く。いつなにを口にしても様になる男だ、と感嘆した。
「練り切りには、種類があるらしい」
唐突に話題を振られ、うんと頷く。
「ああ、そうだよな。ぼくが昔見たものは、このお花だけではなくて梅やら鯛やらあったもの」
「待て。キサマ、どうしてこの菓子が花の形をしていると知っているのだ」
「母が昔教えてくれたんだ。花には興味がないから、どういう名前の花だったかは忘れてしまったのだけど」
亜双義は、今度は呆れることもなく、いつもの調子で淡々と教えてくれる。
「その菓子の名前は『唐衣』だ」
「唐衣……? 唐衣って着物だよな。花じゃなかったのか」
「いや、花で合っている。かきつばたという花だそうだ」
「ええ……。唐衣と花にどんな接点があるんだよ。よく分からないな」
「……キサマ、よくその程度で勇盟大学に入学できたな。いいか教えてやる」
そうして亜双義の口から美しい日の言葉が流れ出した。
から衣 きつつなれにし つましあれば はるばる来ぬる たびをしぞ思ふ
亜双義から流れる日の本の言葉は、厳かな音色をしていた。それでも声に柔らかさを感じるのは、彼の心優しい部分が反映されているからか。清潔ながらも低い声は、ぼくの鼓膜を震わせた。
「どうだ。思い出したか」
「あ、ああ。……古今和歌集か」
「そうだ。在原業平が旅先で妻を想い綴った歌だ。五七五七七の頭文字を読むと『かきつばた』になる。ようやく思い出したか」
「なるほどな。……題材は花でも着物でもなく、歌だったのか」
「そういうことになるな。さあ成歩堂、しっかりと味わえよ」
不敵に笑う亜双義にはっとして、慌ててもう一欠片切り分ける。亜双義は既に二欠片目を口に放っていた。ぼくに味わえと言う割に、亜双義が口に運ぶ速度は自分より少し速い。二口目を喉に流し込み、茶を味わう亜双義は、ふと目を細めて言った。
「……懐かしい。父上が練り切りを土産に持ってきたことがあってな。母上が、これは上等なものだからゆっくり味わって食べなさいと注意してきたのだ。しかしせっかちなオレは一口で食べてしまってな」
亜双義が家族の話をするのは珍しい。珍しいどころか、記憶が正しければはじめてのことだった。だからこそ、亜双義という男と、イエの印象が結びつかない。この傑物にも家族がいるのだと、思い知らされた心地になった。亜双義はぼくの家の話を聞くとき、いつも優しい目をしている。しかし本人の口から家族の話題が出たことは一度も無かった。彼にとっての家族とはどんなものなのだろう。気になりはしたが、追及はしなかった。言いづらいことなら無理に話してほしいとは思えなかったし、わざわざ家族の話をしなくともいいほど、ぼくらの間には話すべきことが山ほどあった。だからまさか、こんなところで家族の話を聞くことになるとは予想していなかった。
遥か遠くを懐かしむ、そんな眼差しに胸がざわつく。
「亜双義……?」
彼の名を呼ぶと、我に還ったのか和菓子切りを皿の上に置く。笑みを消したまま、身を寄せられた。
そして不意に、唇を奪われる。
亜双義の唇は珍しく甘ったるかった。煙草の味よりは好きだが、彼らしくない感触だ。その甘さにどこか寂寥が滲んでいる。その寂しさに溺れそうになり、はっと我に還る。ここは、広場ではなかったか。しかも休日で、人もそれなりに多い。慌てて身を引いて、腕で口元を拭う。
「なっ……! お前、なにするんだよ!」
「面白い顔をしていたからな。つい」
「『つい』、で済まされないだろ! 人目を気にしろよ」
「ほう。キサマにも人目を気にする繊細さがあったか」
けたけたと笑う亜双義に憤慨した。これでは味わって食べるどころの話ではない。人の視線が気になり、乱雑に生菓子を口に運ぶ。口の中は更に甘ったるくなった。亜双義はそんなぼくがおかしかったのか、ずっと陽気に笑っていた。
ごまかされた。悔しかった。亜双義にとってぼくは、頼りにならないのかもしれない。そんな侘しさが、甘味と共に腹に落ちていった。
なあ、亜双義。
あのとき、本当はなにを思い、誰を想っていたんだ?
自室の引き戸を開ける者がいる。がらりと大仰な音を立てて乱入してきたのは、誰でもない、ぼくの親友だった。
「成歩堂! 土産だ!」
風がないのに鉢巻きをたなびかせた亜双義は、溌剌とした笑顔で、問答無用で部屋に入ってきた。なんだなんだと身を起こせば、男はいそいそと手に持っていた風呂敷を床に置き広げてみせる。持ち運び用の皿に載せられていたのは、可愛らしい形をした紫色の生菓子だった。
「練り切りじゃないか! こんな高価なもの、どこから……」
「そんなことはどうでもいい。折角だから花見でもして楽しもうではないか、成歩堂!」
そう言って亜双義は再び菓子を風呂敷で包み、外出の支度をしろと急かしてくる。練り切りには覚えがあった。昔、父がもらってきたそれを食べたことがある。外郎生地に包んだこし餡が非常に甘く、頬が落ちてしまいそうだった。遥か遠い記憶を思い出していると、亜双義から抹茶も点てようと提案され、部屋の隅で置物と化していた道具一式を風呂敷にまとめ、湯の入った薬缶を持つ。洋服の上に長着と袴を合わせた書生姿で出かけることにした。亜双義は休日だというのになぜか黒い制服姿だ。宿を出て近くの広場へと足早に向かう。近所には住民が憩いの場として使っている広場があり、そこでよく宴会なども行っている。多くの桜でひしめき合っているその場所は、お花見には丁度良い。気持ちが急いているからか、ぼくらの間に会話は一言も無かった。
広場につき、桜と桜の間に陣取る。広場には同じく花見をしている人々がいた。さすがに地べたに座るのはどうなのかと文句を言えば、亜双義は肩にかけていた巾着袋から二人は座れそうな大きな布を取り出した。さすが相棒と持て囃してやると、「都合のいいときだけ相棒と呼ぶな」と一蹴されてしまった。
二人で足を崩して座る。茶を点てるなら正座がいいのだろうが、亜双義の前で「きちんと」する必要はないだろう。亜双義も同じらしく、胡座をかいて巾着から道具一式を取り出していた。
再び風呂敷を広げる。皿に慎ましく飾られたたった二つだけの練り切り。そのどちらも同じ色と形をしていた。抹茶を点てながら、花のように可愛らしい生菓子を見つめた。
「いいのかい? ぼくもいただいてしまって……」
「意気揚々とオレについてきたくせに今更謙虚な姿勢を見せるのか。いっそのこと清々しいな」
「だって練り切りだろ⁉ 普段口にできないものを見せられたらついていってしまうよ」
「これがどこの馬の骨とも知れない輩相手でもキサマの場合ついていきそうだな。まあいい。キサマが好むだろうと思って持ってきたのだ。一人一つの分配なのだから心して食せよ」
小さな和菓子切りを摘まみ、恐る恐る練り切りに差し込む。下郎生地のふわりとした感触がして、それからすっと切れた。勿体ない精神で小さく一欠片切り分け、口の中に放る。下郎生地の柔らかな食感と、こし餡の甘さが見事に調和していた。口の中で蕩けていく生地は、甘味独特の風味を残していく。抹茶など口に入れずともこの甘さだけで十分だと口にすれば、亜双義が眉尻を下げて「キサマというやつは……」と呆れかえるのだった。
亜双義は手慣れた様子でさくさくと生菓子を切り、小さな欠片を放りこむ。紫の花の形をした小さな菓子は、どうしたことか亜双義に似合っていた。茶を口に含んだ亜双義の喉が上下に動く。いつなにを口にしても様になる男だ、と感嘆した。
「練り切りには、種類があるらしい」
唐突に話題を振られ、うんと頷く。
「ああ、そうだよな。ぼくが昔見たものは、このお花だけではなくて梅やら鯛やらあったもの」
「待て。キサマ、どうしてこの菓子が花の形をしていると知っているのだ」
「母が昔教えてくれたんだ。花には興味がないから、どういう名前の花だったかは忘れてしまったのだけど」
亜双義は、今度は呆れることもなく、いつもの調子で淡々と教えてくれる。
「その菓子の名前は『唐衣』だ」
「唐衣……? 唐衣って着物だよな。花じゃなかったのか」
「いや、花で合っている。かきつばたという花だそうだ」
「ええ……。唐衣と花にどんな接点があるんだよ。よく分からないな」
「……キサマ、よくその程度で勇盟大学に入学できたな。いいか教えてやる」
そうして亜双義の口から美しい日の言葉が流れ出した。
から衣 きつつなれにし つましあれば はるばる来ぬる たびをしぞ思ふ
亜双義から流れる日の本の言葉は、厳かな音色をしていた。それでも声に柔らかさを感じるのは、彼の心優しい部分が反映されているからか。清潔ながらも低い声は、ぼくの鼓膜を震わせた。
「どうだ。思い出したか」
「あ、ああ。……古今和歌集か」
「そうだ。在原業平が旅先で妻を想い綴った歌だ。五七五七七の頭文字を読むと『かきつばた』になる。ようやく思い出したか」
「なるほどな。……題材は花でも着物でもなく、歌だったのか」
「そういうことになるな。さあ成歩堂、しっかりと味わえよ」
不敵に笑う亜双義にはっとして、慌ててもう一欠片切り分ける。亜双義は既に二欠片目を口に放っていた。ぼくに味わえと言う割に、亜双義が口に運ぶ速度は自分より少し速い。二口目を喉に流し込み、茶を味わう亜双義は、ふと目を細めて言った。
「……懐かしい。父上が練り切りを土産に持ってきたことがあってな。母上が、これは上等なものだからゆっくり味わって食べなさいと注意してきたのだ。しかしせっかちなオレは一口で食べてしまってな」
亜双義が家族の話をするのは珍しい。珍しいどころか、記憶が正しければはじめてのことだった。だからこそ、亜双義という男と、イエの印象が結びつかない。この傑物にも家族がいるのだと、思い知らされた心地になった。亜双義はぼくの家の話を聞くとき、いつも優しい目をしている。しかし本人の口から家族の話題が出たことは一度も無かった。彼にとっての家族とはどんなものなのだろう。気になりはしたが、追及はしなかった。言いづらいことなら無理に話してほしいとは思えなかったし、わざわざ家族の話をしなくともいいほど、ぼくらの間には話すべきことが山ほどあった。だからまさか、こんなところで家族の話を聞くことになるとは予想していなかった。
遥か遠くを懐かしむ、そんな眼差しに胸がざわつく。
「亜双義……?」
彼の名を呼ぶと、我に還ったのか和菓子切りを皿の上に置く。笑みを消したまま、身を寄せられた。
そして不意に、唇を奪われる。
亜双義の唇は珍しく甘ったるかった。煙草の味よりは好きだが、彼らしくない感触だ。その甘さにどこか寂寥が滲んでいる。その寂しさに溺れそうになり、はっと我に還る。ここは、広場ではなかったか。しかも休日で、人もそれなりに多い。慌てて身を引いて、腕で口元を拭う。
「なっ……! お前、なにするんだよ!」
「面白い顔をしていたからな。つい」
「『つい』、で済まされないだろ! 人目を気にしろよ」
「ほう。キサマにも人目を気にする繊細さがあったか」
けたけたと笑う亜双義に憤慨した。これでは味わって食べるどころの話ではない。人の視線が気になり、乱雑に生菓子を口に運ぶ。口の中は更に甘ったるくなった。亜双義はそんなぼくがおかしかったのか、ずっと陽気に笑っていた。
ごまかされた。悔しかった。亜双義にとってぼくは、頼りにならないのかもしれない。そんな侘しさが、甘味と共に腹に落ちていった。
なあ、亜双義。
あのとき、本当はなにを思い、誰を想っていたんだ?
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