小さな恋人

「なぜわざわざこんなところに来てまでさくらんぼ狩りなんだ」
 六月の梅雨の時期、ぼくと亜双義はさくらんぼを狩るためにある東北の村に旅行していた。雨の降る季節だというのに空は恐ろしいほどの晴天だ。雲一つない青に塗りつぶされながら、さくらんぼの木の間を通り抜けていく。
「なにって……温泉嫌いだったか?」
「温泉はこの際良いとして……なぜさくらんぼなんだ」
「なんでって、さくらんぼは今が旬だからだろ」
「帝都でもいいだろう」
「それは前に説明しただろう?」
 東北に住む親戚が、今なら安くしてあげるよとさくらんぼ狩りに誘ってくれたのだった。親戚はさくらんぼ農家をしていて、ある程度融通をきかせてくれる。更に学生服を着てくれば更に安くしてくれると提案してきたのだ。これに乗らない手はない。もう一度説明すると、亜双義はム、と顔を顰めた。
「いいじゃないか。ついでに温泉にも入れるのだし。たまにはゆっくりしていこうぜ」
「それはそうだが……それならオレだけ誘う必要は無かったのではないか? 他の者も誘えば良かっただろう」
「……失念してた」
「キサマ……」
 亜双義以外を誘うつもりは一切なかった。亜双義といると安心するし、二人きりの時間を楽しみたいと思っていた。それに亜双義は、秋頃になれば今よりも忙しくなり、こうして遊びに行くのも難しくなるだろう。彼が遠くへ行ってしまう前に、共有できる思い出をつくっておきたかった。それを真っ正面から伝えるには照れくさく、視線を頭上の紅い実へ向ける。木々の隙間から見える青色が目に痛かった。
 黙々と小さな実をもぎ取りながら、少しずつ口へ運んでいく。とりたてのさくらんぼは瑞々しく甘酸っぱい。柔らかな果肉を噛むと、じゅわりと喉奥まで香り高い果汁が染みこむ。あまりの甘さに呻くと、隣で見ているだけの亜双義が険のある声で言った。
「おい。取りながらつまむな」
「つまみ食いしても良いって言われてるからいいんだよ。種を吐き出すための器ももらったし」
「いくらなんでも親戚に甘えすぎだろう、キサマは……」
「うるさいな。お前も食べてみろよ。おいしいぞ」
「あ」
 すると、肩を寄せた亜双義がぱかりと口を開ける。途端、唾液に濡れた赤い舌が見えた。彼は歯並びが良く、美しく白い歯が少し見えている。どきりとしてしまい、体が硬直した。
「なんだよ」
「食わせてくれるのだろう。早くしろ」
 そう話してから、再び「あ、」と口を開ける。仕方なく、二つ揃ったさくらんぼの実を片方取り、まるまるとした実を差し向ける。口元に持っていってやると、亜双義は幼い雛のように実を口に咥えた。その際、唇が人差し指に触れた。少しかさついた、男の感触だった。
 瞬間、共寝をしたある月夜を思い出した。月の光に照らされた友の肢体は蒼白く煌めき、玉のように滲んだ汗は美しく。「成歩堂」と己を呼ぶ声はひどく掠れていて、乞うように口づけをねだり、そして――。
「――そんなに物欲しそうな顔をしなくてもくれてやる」
 親友の低い声で我にかえっても後の祭りだ。亜双義の顔はすぐ傍にある。その目はさくらんぼなんか目もくれず、ぼくだけを映していた。触れるだけの口づけを享受してしまう。許してしまった。鳥のように幾度も啄まれる。さくらんぼを詰めた籠を落としてしまった。顔に熱が溜まっていく。ようやく口が自由になると、不平不満を漏らす他なかった。
「ほ、他の人に見られてたらどうするんだよ」
「オレたち以外に人の気配はしないが」
「そうじゃなくても、だよ! 親戚に見られたらもう一生顔合わせられなくなるところだぞ!」
 熱くなる顔を両手で覆うと、亜双義はあっはっはと快活に笑う。普段は爽快な気分にさせてくれる笑い声が、今は恨めしかった。
「宿まで我慢しろ。今夜は楽しもうぜ、相棒」
 木漏れ日の煌めく空間の中、夜伽の話をしはじめるのでたまったものではない。いつから親友はこんなにふしだらになってしまったのか。それは、ぼく自身にも言えることなのだが。
 木の黒い影が彼の白い肌に反射する。陽と陰の明度がくっきりと分かれている世界で、亜双義は揺蕩うように笑う。青色の滲む木々が眩しい。光を凝縮して地面に放つ緑葉は、ぼくの親友を美しく、儚く彩る。

 ………………。

 真夜中、狩り取ったさくらんぼを口に含みながら月見酒をする。梅雨の季節だというのに、良い天気に恵まれた。温泉宿から見える満月を眺めながら、敷かれた二組の布団でだらだらと酒を飲んでいる。用意された日本酒は大層おいしい。日本酒にさくらんぼの実を浮かべると、赤い実が洋燈の灯りに照らされてくるくると回った。
 亜双義が無骨な指でさくらんぼを摘まむ。月灯りに照らされた爪は白い。まるで死人のようだなどと言えば、活気のあるこの男は怒ってしまうだろう。丸い実をぼくの唇に押しつけてくるので、遠慮なく口を開ける。やはりこの果物は、甘い。
 種を吐き出せば、猪口を盆に置いた亜双義が覆い被さり、口を合わせてくる。吐き出す息は、酒の味がした。彼の口の中は赤く、さくらんぼのように色鮮やかだ。洋燈は消され、月灯りだけの世界になると、自分からおずおずと足を開く。さくらんぼはまだ食べきっていないというのに、ぼくら二人ははしたない。
 身体で親友の心を縛れたらどんなに良かっただろう。ぼくが羞恥の心を押し隠して身体を開いても、彼はもうすぐこの国を旅立ってしまうに違いなかった。
 衣擦れの音が静かな部屋に響く。甘い果肉の香りがする。
 ああ、ぼくら、さくらんぼの実のように、二人で一つになれたらいいのになあ。どんなに願っても親友には届かないのだろう。
 悔しくて噛みついた親友の首筋は、酸っぱい肉の味がした。
1/1ページ