融けて、月の道。

「見ろよ亜双義。可愛くできただろう」
 息の凍りつく日、成歩堂は大学の裏庭の隅で小さな雪だるまを作っていた。雪はしんしんと降り積もるばかりで視界は悪い。地面も空も真っ白で、境界線など分かりはしない。輝く白に目を痛めながら息を吐く。
「そんなもの作ってなんになるのだ」
「だって、雪が降ったら作ってあげないと。雪だるま。お前だって小さい頃作ってただろう?」
 思い当たる節があったため口を紡ぐ。まだ少年だった頃、恩師の娘と一緒に雪だるまを作ったのを思い出す。まだ幼かった寿沙都は鼻を真っ赤にして喜んでいた。目の前の男も、鼻を赤くして雪だるまの頭を撫でている。その指も真っ赤だったので、思わず掴んで両手で包んだ。手を揉みしだいて息を吐きかけると、今度は目元まで赤くして不満を述べ始めた。
「ああ、これだから色男は嫌になっちまうよ」
「莫迦なことを言うな。霜焼けになったら痛い目見るのはキサマだぞ」
「そうなんだけどさあ……」
 この冴えない男、成歩堂龍ノ介とは夏の時期に出会った。共に行動するようになって半年ほどしか経っていないが、彼との間に友情めいたものを感じている。隣にいると、不思議と勇気がわいてくる。同時に、もっと彼の表情を見たいとも、思う。特に成歩堂が笑うと、オレもつられて笑ってしまうのだ。不思議な引力を持った男だった。
 成歩堂はオレの手から逃れると、雪だるまの制作を再開した。
「おい。まだ続けるのか」
「もうちょっとだから……ほら、こうすると亜双義みたいだ」
 雪だるまは二体作られていた。どこから調達してきたのか、右側の雪だるまには赤い鉢巻きが巻かれている。胴体に差した枝は手のつもりなのだろう。二体の雪だるまは仲良く隣り合っていた。なんだか胸がそわそわして落ち着かず、懐から青の手ぬぐいを取り出して、もう片方の雪だるまの左手に巻きつけてやった。
「これで完成だな」
 鼻を鳴らして見やると、成歩堂は呆けた面で口を開けている。彼の名前を呼ぶと、ようやく相棒はハッとして立ち上がった。
「亜双義って、たまに恥ずかしいことを平気でするよな」
「どういう意味だ」
「そのままの意味だよ。さて、完成したし、どっか飯屋にでも寄るか」
「それなら牛鍋にしようぜ。いい加減凍え死んでしまいそうだ。どっかの誰かさんがオレを放っといて雪だるまなぞに現を抜かしていたからな」
 成歩堂はむうと口をへの字に曲げるので、愉快になって笑ってしまった。この男は揶揄いがいがあって存外楽しい。成歩堂と共に過ごすようになってから笑うことが増えた。空虚だった心が満たされていく。頭に雪を被った成歩堂は白く、眩かった。相棒の、些か純すぎる清廉な心を見つめていると、不思議と世界が光り輝いて見える。この男がオレの世界に様々な白を与えてくれた。成歩堂が傍にいたら、オレはどこまでも強くなれる。雪を踏みしめると、二人分の足跡がついた。それに一筋の僥倖を見い出して、その場を後にした。

 夢を見た。
 父上が頭から血を流し、オレの前に立っている。今日もオレの大切な人たちは呪詛を吐く。
「使命を果たせ」
 分かっております、父上。オレは必ずやり遂げます。英国でぬくぬくと生きているであろう、父上を追い詰めた人間に必ず罰を与えてやります。それまでもう少しお待ちください。父上、母上。
 腰に下げた狩魔を引き抜いて掲げて見せても、父上は険しい顔をしていた。やがて、父上は一人の男を連れてきた。
「では、この男を殺せるか」
 同じ帝都勇盟大学の制服を着た男は、怯えた目でこちらを見つめていた。なぜ、そんな目で見るのだ。キサマだけは、そんな目でオレを見ないと信じていたのに。
「使命にこの男は必要ない。斬れ」
 ふざけるな。父上はそんなこと言わない。これはオレの心が見せる夢だ。オレの心の弱さが反映された夢だ。狼狽えるな。堂々としていれば良い。
 そう分かっているのに、オレは。
 叫んだ。狂乱した。頭が真っ白になった。喉から血が出るほど叫び、狩魔を振り上げ、そして――。

 目を覚ました。講義室の隅で勉学に励んでいたはずだが、どうやら寝てしまったらしい。夢見が悪かった。背中に汗が張りついている。講義室と言えども暖房が消された空間は寒く、身体が急速に冷えていった。空には月が浮かんでおり、一人の空間に光を溜めている。オレは筆記具を片付け、講義室を後にした。
 表玄関は閉まっているようなので、裏玄関から帰った。外に出ると、閑々と月灯の道ができていた。裏庭に積もった雪は月の光を吸収し、星砂の輝きを放っている。ふと思い至り、裏庭の隅に作られた雪だるまを見に行った。ここ最近は温度も上がり、徐々に雪も少なくなっている。二週間前に作った雪だるまは、やはり融けかかっていた。最早見る影もなく、無様に崩れ落ちている。オレが感じていた友情のようだった。
 どうせなら自らの手で終わりにしてあげたほうが良いだろう。雪だるまを蹴散らそうとした。蹴散らしたいのに、足が棒になって動かない。なぜ、どうして。これくらい造作もないはずなのに、小さな雪だるまの友情を壊すことに恐怖を覚えていた。
「……亜双義?」
 その時、聞くはずのない男の声を聞いた。至極真っ直ぐで、誠実な声。オレが今聞きたくない声だった。
 恐る恐る振り返ると、成歩堂が立っていた。
「……成歩堂。なぜ、ここに」
「いやあ、それが講義室で居眠りしちまって……。まさかこんな時間にお前も残ってるなんて思わなかったよ」
 月灯に照らされた相棒の顔は慈愛に満ちていた。なぜそんな、優しい顔ができるのか分からない。成歩堂は近寄ってオレを覗き見た。
「お前、顔色悪いぞ。大丈夫か?」
「ああ、平気だ」
「そうは見えないけど……。ああお前、この前の雪だるま見てたのか。ありゃ、融けてしまっているな」
 成歩堂は融けかかっている雪だるまを見ようとしゃがむ。オレはまだ動けなかった。
「雪など、すぐに消えてなくなる。そんなもの作っても無意味だな」
「そんなことないぞ」
「なんだと?」
「お前もしゃがんでよく見てみろよ」
 そう言って洋袴の裾を引っ張ってくるので、渋々隣合わせになりしゃがみこむ。成歩堂はにいと笑い、月の色に染まった雪だるまを指さした。
「ここ、見ろよ。手を繋いでる」
 手に見立てた木の棒が重なり合っていた。巻いた青の手ぬぐいが、二体の雪だるまの間で揺蕩っている。雪が崩れた故の結果だった。
 成歩堂は隣で笑った。
「融けても寂しくないな」
 声をあげて泣きたくなった。この男はどうして、欲しい言葉をすぐ与えてくれるのだろう。そのたびに胸が張り裂けそうになる。この男の優しさに甘えてしまう己がいる。駄目だと分かっているのに、信じてしまう。
 ――父上、オレはこの男を信じてみます。
 不安だらけの道だと分かっている。しかし、この男が、相棒が隣にいてくれたらオレはきっとどこまでも進んでいける。迷わないでいられる。だからオレは、信じたい。月の光のような相棒を、信じてみたい。
「寒いから帰ろうぜ、亜双義」
 寒空の下、輝く月の息を吐いて成歩堂はオレに手を差し伸べる。ひどく優しい気持ちになって、己の手を重ねた。
 この男と――成歩堂とならば、海の向こうどころか、月の果てまで行けるかもしれないな。
 融けて一つになる雪だるまを見届けて、月灯の道を歩いた。
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