勿忘草
四月、麗らかな春。亜双義一真は御琴羽寿沙都に相談していた。
「オレに花言葉を教えてくれないか」
大審院の待合室で偶然出会い、挨拶もそこそこに亜双義は寿沙都に尋ねた。寿沙都は困惑すらせず、当然のように答える。
「勿論、それは良いですが……。花言葉と言っても沢山あります。よろしければ花言葉の辞書をお貸ししますよ」
「それは助かる」
「ちなみに、どんな花言葉をご所望なのですか?」
「戀にまつわるものがいい。多ければ多いほど助かる」
「恋、ですか……。意中の方に贈るのですか?」
寿沙都は優しい気持ちになった。ずっと独りで抱え込んでいた亜双義がとうとう誰かを想えるようになったのだ。ずっと傍で見守っていたからこそ、僥倖のように思えた。
しかし彼女の優しさが実ることはなかった。亜双義は淡々とした口調で、それこそ当然のように応えた。
「燃やすのだ」
そう云う彼の目には、寂寥の言葉が綴られていた。
ぼくは親友の亜双義一真に戀をしている。
静かで嫋やかなその感情は、心の奥深くに根付いてしまって忘れられなかった。何度も何度も反芻して、噛みしめて、ふとしたときに彼の白を思い出して。帰国した亜双義と再会したとき、これが戀なのだと気づいた。
親友のことをずっと諦めきれないでいる。ずっと、ずっとそうだった。でもその感情が悪いものだとも思えなかった。離れても、一緒にいても、ずっと苦しくて、煌めいている。親友を大切に想えるのが幸せだった。それだけでなにもいらないと思っていた。
そんな折、ぼくに縁談の話が持ちあがった。御琴羽教授からの進言で、無碍にすることもできない。桜の舞う季節、とぼとぼと歩いていたら、散歩途中の亜双義に偶然出くわした。青空の下、彼と桜の影が重なる。亜双義に縁談の話をすると、彼は快活に笑って応援してくれた。胸が苦しい。喉奥から涙がこみあげてきそうだった。
「どうした成歩堂。顔色が優れんぞ」
「……縁談、断りたいんだ」
「なぜだ? 悪い話ではなかろう」
「……好きな人がいるんだ」
肯定的な亜双義に呻いた。言おうかどうか悩んだが、結局言ってしまう。亜双義にとっても予想外の言葉だったのか、口を噤んでしまった。二人で無言のまま、花弁の落ちる音だけ聴いていた。
やがて、亜双義が静かに問う。
「想い人が、いるのか」
ぼくは黙って頷く。亜双義は辿々しく助言をしてくる。
「そんな顔をするくらいなら、相手に伝えたほうがいい」
「……うん」
親友の顔が見られなかった。なんだか喉の奥が熱くて苦しい。笑おうとしたのに、できなかった。亜双義から逃げるように帰って、自分の寝室に閉じこもる。途端、身体から力が抜けた。ぼろ、と視界が滲む。うあ、と意味もない声があがる。ぼくは日本男児だ。泣くなんてみっともない。でも今は、誰も見ていないのだから少しくらいはいいだろう。ああ、もう、なにもかもぐちゃぐちゃだ。親友のさりげない優しさが胸に刺さる。ぼくはお前に戀をしているのに、そうやって爽やかに笑うのだ。苦しい。紐で首を括られているようだ。でも忘れるのは嫌だった。この感情を失うのだけは御免だった。
「そういえば成歩堂さま、少々気がかりなことがございまして……」
次の日、仕事終わりに寿沙都さんから打ち明けられた。帰り支度をすませた寿沙都さんが、窓から差し込む夕陽を目に溜めている。
「どうしたのですか?」
「実は……先日、一真さまが花言葉を教えてくれと」
「へえ。彼奴にしては珍しいですね。それがどうかしたのですか?」
「私、てっきり意中の相手に花を贈るのかと思ったのですが……そうではないようで」
寿沙都さんは頬に手を当てて、唇を震わせている。心配の気持ちが顔にはっきりと書かれていた。
「どうやら、恋にまつわる花を燃やしたいらしく」
「……どういうことですか?」
「私にもさっぱり分からないのです。もしかして、失恋してしまったのでしょうか……」
あの美丈夫の亜双義が失恋するだなんて、想像したこともない。傷心してしまっているのだろうか。しかしそんな話、昨日は全然してくれなかった。ぼくの縁談の話なんてしている場合ではなかった。彼の顔を、もっとちゃんと見ておけば良かった。
「……分かりました。ちょっと彼奴の家に寄ってみます」
「お願いします。成歩堂さまになら話せることもあると思いますので、何卒」
寿沙都さんを送ってから、足早に亜双義の家へと向かう。この桜並木を抜けると亜双義の家がある。空は既に薄闇に染まりつつあった。涼しい風を頬に感じながら、彼の家の門をくぐった。この広い家には亜双義一人しか住んでおらず、がらんとしている。扉の前で名を呼んだが、返事は帰ってこない。人の気配があるのだが、帰ってくるのは春の静けさばかりだ。見つかったら謝ろうと思い、家の裏にまわってみる。裏庭からは火の爆ぜる音がした。顔を出すと、宵闇の中で亜双義が一人、花を焼べていた。ぱちぱちと木の枝が燃え、崩れ去っていく。薄い煙幕が彼の美しいかんばせを照らしていた。亜双義は残りの一本の花を焼べようとしていた。
「……待て!」
慌てて駆け、彼の腕を掴む。亜双義は今の今までぼくの存在に気づいていなかったようで、はっと目を見開いた。そこには困惑と動揺が混じっている。ぼくは必死に声を張り上げた。
「燃やすくらいなら、ぼくにくれ!」
必死だった。ぼくはどうしてもそれが欲しい。彼の戀が欲しかった。燃やして捨てるだなんて勿体ない。そんなことをするくらいなら、一本でいい。ぼくに寄こしておくれ。
けれど亜双義は、首を横に振った。
「これは渡せない。誰にも譲る気はない。無論、キサマにもだ」
そうして亜双義は躊躇いなく花を投げ入れる。青色の花が火の中で黒く色づいていく。亜双義の感情が、燃やされていく。あれが最後の一本だった。ぼくはどうしても、それが欲しかったのに。彼は、ぼくに譲る気はないと云った。ぼくに戀をくれることはない。そう宣告されている気分になった。
どうしても、欲しかったのに。たった一つでもいいから、欲しかったのに。
我が儘な涙が、頬を伝っていく。傍には亜双義がいる。男なんだから泣くんじゃないと言われるだろう。泣きたくない。それなのに、目の前が滲んでよく見えない。燃え盛る火がぼやけている。
「……成歩堂、泣いているのか?」
亜双義の上ずった声が聞こえる。喉が熱くて、うまく呼吸ができない。それでも必死に喘いで、言葉を紡いだ。
「……ぼくじゃ、やっぱりだめなのか?」
「成歩堂、なにを……」
「おまえが好きだよ」
息を呑む音が聞こえる。それはそうだろう。友だと思っていた男から突然好きだなんて伝えられて動揺しない人間などいない。それでもとまれなかった。もう、とまるのは嫌だった。
「だからもうやめてくれ。燃やすくらいなら全部ぼくにくれよ。おまえの全部が欲しいよ」
ぼろぼろと目から水が溢れる。男が泣いたって困らせるだけなのに、どうにもとまらない。ふと、頬にかさついた皮膚の感触がした。亜双義が焦った様子でぼくの涙を拭っている。震える指の感覚が気持ちよかった。
「泣くな。どうしたら泣き止んでくれるんだ。キサマは」
みっともないぼくの涙を拭う親友は、やはり優しい。自分の我が儘だと分かっているのに、その花が欲しかった。亜双義の戀が欲しかった。火が消えるまで、ぼくは哀しくて泣いてしまった。
火が消えて落ち着いた頃、ぼくは黒く焦げてしまった花に手を伸ばす。けれども花の形をした炭は、触れると崩れ落ちてしまった。それが哀しくて、また泣いた。炭になってしまった花の残骸を握りしめた。
「なぜ、そのような穢れたものを欲しがるのだ。ろくなものではないぞ」
「おまえのものだからだよ」
深い哀しみが肩に、背中に貼り付いて退いてくれない。ぼくはとうとう、声をあげて泣いてしまった。
「燃やすくらいならぼくにくれよ。おまえのだから欲しいんだ。全部くれ。おまえのそれが欲しいよ……」
「成歩堂……」
亜双義はぼくの肩に手を添えている。その手は可哀想なくらい震えていた。そして、突然抱きすくめられた。
「どうしたら、涙をとめてくれるんだ」
「……亜双義?」
「キサマの泣くところなど見たくないというのに……」
亜双義の身体が震えているので、そっと背中に手を回した。亜双義が、泣いている。彼の顔は見えないが、声も涙で濡れていた。ぼくの肩がどんどん湿っていく。気丈な親友は、声もあげずに泣くのだ。
「……本当に、受け取ってくれるのか。キサマが、総て」
「ああ。全部おくれよ」
亜双義は顔をあげて、涙に濡れた目でぼくを見据える。闇の中でも、その美しい光はよく見えた。
「成歩堂。キサマが好きだ。……ずっと、好きだった」
「亜双義……」
「本当はキサマに総て受け取ってほしかった。……受け取ってくれるか」
夜空に星の花が浮かぶ。彼の背中を照らす一等星がここからよく見えた。亜双義はあの花を、ぼくにくれるのだ。彼を抱きしめて、静かに目を閉じた。焦げた空気の匂い。真っ暗な視界。そして親友の少し冷えた体温を感じて、ぼくはまた泣いてしまった。
「いいよ。おまえがくれるなら、なんでも」
その戀をぼくにくれるのなら、なんだっていいんだ。
それから数日が過ぎた頃、ぼくの家に訪れていた亜双義が縁側で突然花を差し出してきた。
青空が澄み渡る午後、二人でお茶を嗜んでいるときに突然渡されたので何度もまばたきしてしまう。空と同じ色が綺麗な花だった。小さくて淡くて、なんとも可愛らしい。花弁を指で突いていると、亜双義が気まずそうに話した。
「キサマにやる」
「え、……うん?」
「この前、欲しがっていただろう」
そう言われ、ぼくはその花を陽に透かす。どこかで見たことのある花だと思ったら、あのとき燃やされていたやつだったのか。あの夜のことを思い出して、若干……いやかなり恥ずかしくなった。
「あ、ありがとう。飾っとくよ」
「……そうしてくれ」
「でも、どうせならおまえも飾れよ。一人きりは寂しいから」
「……分かった」
亜双義が殊勝に頷くので、思わず笑ってしまった。器用なのに、不器用な男だ。笑っていると、亜双義がじっと此方を見つめてくるので、顔になにかついているのかと聞いた。亜双義は首を振って、「なにも」と応えた。
親友は花を持ったぼくの手を握る。少し汗ばんだ感触が心地よい。彼の清廉な声に耳を傾けた。
「オレの総てを受け取ってくれ、成歩堂」
ぼくはその言葉だけで嬉しくなって、花と共に指を絡ませた。苦しくて、煌めいている彼の戀が、全部ぼくのものになる。たったそれだけのことが嬉しくて、ぼくはずっと笑っていた。
ああ、ぼくは、親友に戀をしている。幸せな、戀をしている。
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