勿忘草

 目が醒めると、大学の構内にいた。
 窓から差し込む夕焼けが廊下を染め上げている。あまりの強い光に目が眩んだ。どこか懐かしいような、臙脂色の廊下。妙に苛々してしまってしょうがなかった。
 目の前の男が窓を開け、夕陽を眺めている。頭に巻いた赤い鉢巻きが音を立てて揺れていた。己はこの男のことをよく知っていた。だというのに、目の前の男は己に構わず、穏やかに笑っている。そこに誰かいるのか、会話に混じって笑い声が聞こえてくる。視界が怒りで赤く滲んだ。貴様は、一体なにを呑気にやっているというのだ。なぜそんなふうに笑っている。貴様には笑っている暇などない。己も貴様も、やるべきことは一つだけだ。こんなところで現を抜かしている場合ではない。男の目を醒ますべく掴みかかった。
 貴様、使命を忘れたのか。そう声をかけると、男は笑みを消して己を見た。そう。貴様はそれでいい。貴様は己だけ見ていればいいのだ。
 しかし、男は云った。
「キサマは、可哀想な奴だな」
 口ぶりはひどく冷たく、己を見下していた。怒りで血が上り、狩魔を鞘から抜く。貴様などもういらぬ。消え失せろ。男の首を刎ねる。椿のように紅い血が舞った。ごとりと生気を失った首が己を見上げていた。やめろ、そんな目で見るな。己はなにも間違っていない。己にはやらなくてはならないことがある。一生をかけても、必ず。
 顔をあげると、今度は寄席にいた。赤い鉢巻きを巻いた男が壇上で愉しげに言葉を紡いでいる。よく見れば、男の取り巻く空気は澄んだ青の色をしていた。男は青色に包まれて幸せそうだ。男は微笑んで己に云った。
「愛している人の眼を見たことはないか」
 それなら沢山ある。真っ直ぐで誠実な父の眼。家族を愛してくださった母の眼。目を瞑ると鮮明に思い出せる。両親の穏やかな影を。だからこそ貴様も己も、こんな場所にいるべきではない。愛した人たちを奪った者どもを根絶やしにしなければ。そのためならばなんだってする。そう決めたのだ。
 しかし、男は云った。
「キサマは、なにも分かっていない」
 己は再び刀を振るった。分かっていないのは貴様のほうだ。己と貴様には使命がある。それを忘れてはならない。己から総てを奪った世界へ報復するのだ。貴様が拒絶するのなら、斬って捨てるだけだ。刎ねた首の切り口から、どぷ、と血なまぐさい液が漏れた。貴様らはどうしてそんなに腑抜けてしまったのだ。以前までは、己と一蓮托生だったのに。
 寄席を出ると、狭い部屋が待ち受けていた。ごうごうと海鳴りがしている。どうやら船室のようだ。目の前に赤い鉢巻きを身につけた男がいた。そうか。とうとう使命の一端に触れたのか。着実に成すべきことへ向かっている。貴様は己を裏切らなかったのだ。心の底から歓喜した。
 だというのに、目の前の男は固く閉められたクローゼットばかり見つめていた。クローゼットには「アケルナ」と貼り紙がされている。その文字を愛おしげに指でなぞり、恍惚の表情で微笑んでいた。間違いなく、その男は戀をしていた。
 己は絶望した。戀などにかまけている暇はないというに、揃いも揃って役立たずばかりだ。戀などいらない。そんなもの、使命には必要無い。
 そんな穢らわしいもの、いらない。
 もう言葉は必要無かった。己は戀に現を抜かしている男の襟首を掴み、引き倒して首を絞めた。遠慮はいらなかった。これは今まで出会ったどの男よりも性質が悪い。早く殺さなくてはならなかった。強く喉仏を押し上げる。ぐえ、と蟾蜍のような声が漏れた。痛いだろう。苦しいだろう。しかし己だってずっとそうだ。貴様らに裏切られ続けた己の心をどうして分かってくれない。何度手を下せばいいのだ。己は。
 やがて男は力尽きた。それでいい。これはいらない。
 ふと、クローゼットの中が気になった。貼り紙には「アケルナ」と書かれているが、確認はしておかなければならないだろう。躊躇せず開けたが、中は青色の空気が充満しているだけでなにも無かった。驚かせるな。
 そうして己は、クローゼットに足をかけた。そのまま暗闇へ落ちていく。次に目を醒ますと、大英帝国の中央刑事裁判所に立っていた。そうか。漸く己はこの場所に。悲願の達成に感極まった。検事側に立っている鉢巻きの男も笑っていた。そうか。貴様も笑ってくれるのか。この素晴らしい大舞台への到着を!
 ようやく復讐を果たせる。父上、母上! 漸く使命を果たせます! どうか見守っていてください。己は必ずや大事を成し遂げましょう! 己は勇んで足を一歩踏み出した。が、検事席にいる男は云う。
「キサマにどうしても見届けてほしかった」
 そう囁く男の顔が、あまりにも幸福に満ち足りていたので。
 ひどく裏切られた気持ちになった。この期に及んでそんな女々しいことをのたまうのか、この男は。己を一切見ていないのも気に食わなかった。己を見ろ。よそ見をするな。使命を果たせ。ずっと、そうして生きてきただろう。どうして今になって、そんなに幸せそうにしているのだ。赦せない。赦せない赦せない赦せない。己は貴様を赦すことなどできない。己たちは幸せになどなれやしないのだ。赦されることもないのだ。この報復の道を歩んでから、運命づけられているからだ。己たちは到底赦されない、魔の道を進んでいるのだ。
 だから、ここで、貴様の首を刎ねるしかない。
 既に脂ぎった血で濡れた狩魔を振った。今までの男たちの血は紅かったのに、この男の血は真っ青だった。刎ねた首は青の血で溺れている。これは安寧の青だ。目が眩むほど美しい青だった。
 そうしてとうとう、己は独りになった。なってしまった。手酷い反逆にあった己は疲れ果てていた。殺しても殺してもきりがない。いつまで殺さなければいけないのだろう。そこまで思い至って、ふと気づいた。
 己が死ねば、総て終わるのではないか。
 裏切りにあうこともなく、幸福を羨むこともなく、総てなくなる。残るのは使命を果たす器だけだ。余計な感情はもう必要無くなる。それが一番手っ取り早い方法だ。どうして今まで気づかなかったのだろう。己は嬉々として己の首に刀身を当てた。背中に汗が滲む。死ぬのは、怖い。けれど何度も死んだだろう。殺してきただろう。己を殺すことなど造作もない。さあ、振れ!
 柄に力を込めた瞬間、背中に衝撃がはしった。
 何事かと振り返ると、見知らぬ男が己の背中にしがみついていた。なんだこの男は。己はこの男は知らない。
 なんだ貴様! 邪魔をするなら貴様も殺してしまうぞ! そう吠えた。しかし男はしがみつく力を緩めない。黒い日本の制服を着ている男は、顔をあげて己を見た。
 その男は、みっともなく泣いていた。
「おまえが好きだよ」
 黒糖のように煌めく目から、ぼろぼろと大きな雫を溢していた。なぜか、掬ってやりたい気持ちになった。しゃくりあげて泣いている。日本男児が泣くなど情けない。貴様の泣き顔など、見たくない。
「だからもうやめてくれ」
 切実な訴えに、なにも言葉が出なくなってしまった。己の腕はただの棒きれだ。すぐに斬り殺せるはずなのに、己ではこの男を斬れなかった。
 どうしてだろう。己は莫迦な男だ。己のことは斬り伏せるのに、貴様だけはどうもそうはいかない。本当に、莫迦な男だ。……戀などするから、こんなことになるのだ。
 なぜ、どうして。戀などしてしまったのだろう。叶うわけもないのに。赦されるはずもないのに。ただただ煌めいていて、苦しい。己のような魔の者が、貴様に触れられるはずがないのに。
 己はその身体を抱きしめてやることすらできず、ただ。
 ただ、目の前の男の幸福だけを祈った。自由であれることを、笑顔であれることを願った。そのためには、己は死んだほうがいい。
 はじめて心の底から笑えた。柄に力を込める。彼の悲鳴が聞こえる。
 貴様が幸せになるために、この戀は殺してしまおう。

 目が醒めた。
 窓から月が覗いていた。月灯に照らされて、親友の顔が浮かぶ。呆としていると、成歩堂は安堵した表情で囁いた。
「起きてくれて良かった。ひどく魘されていたから」
「起こしてしまったか。すまん」
 二人で酒を飲んだ帰り、成歩堂の貸家に泊まった。敷かれた二つの布団には、少し隙間がある。冬も終わる時期だが、夜はまだかなり冷え込む。成歩堂がくしゃみをした。
「寒い。おまえのところに入っていいか」
 うん、とも言わない間に、成歩堂がオレの布団に入ってくる。彼の胸から上が冷え切っていて、少し可哀想だった。相当な時間、オレの様子を窺っていたらしい。成歩堂はオレに足を絡め、首筋に鼻を埋めた。鼻頭がひんやりとしていて擽ったい。彼は呑気に「亜双義ってあったかいな」などと言っている。オレはそれどころではないのだが。
 こうやって未だに無邪気に触れてくる相棒を見ていると、諦めきれない自分がいる。足掻いても祈りは彼に届かないのに、どうしても焦がれてしまう。
 こんな感情、なければ良かったのに。
 いずれは捨てなければいけない気持ちを抱えるのは、ひどく苦しい。こうやって触れてしまえば、離れがたくなる。
「キサマが泣く夢を見た」
「そうなのか?」
「おかしいだろう。キサマの泣く顔など、ほとんど見たことがないというのに」
「一応ぼくも、日本男児だしなあ」
「一応もなにも、日本男児だろう」
 それもそうだなと、成歩堂はふにゃりと笑う。帰国してから、より距離が近くなったように思える。それが余計につらかった。隣に並ぶ相棒が、幸せそうに笑うから。
 しかし、本当に彼の幸福を願うのならば、オレは諦めなければいけない。伝える気すらなかった。誰にもとられたくないのに、自由な親友が好きだったから。この時代で自由でいるには、オレは枷にしかならなかった。
 すぐ傍で優しく微笑む親友に、独り想う。
 友が幸福になるなら、己の戀など斬り殺してしまおう。
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