バッカスの心中

「珍しい酒を貰った。キサマもどうだ」
 五月の爽やかな風が吹く夜に、亜双義に誘われ二人で杯を交わした。窓から一本の大樹が見える狭い下宿の部屋で、二人で身を寄せ合って酒の瓶を見つめる。二人ともいつでも潰れていいように浴衣姿だった。灰色の袖から伸びた亜双義の腕は白い。とくとくと音を立てて、酒の匂いのする液体は猪口に注がれる。透き通った酒は、淡い緑色に光っていた。
「緑色の酒だなんて珍しいな。綺麗だなあ」
 率直な感想を伝えると、親友は「そうだろう」と満足げに頷く。亜双義は世にも珍しい緑色の日本酒を共有したかったらしい。亜双義の狭い部屋で酒盛りをするのは今に始まったことではなく、暇さえあればなにかと理由をつけて訪れていた。成歩堂が訪れるときもあれば、亜双義が成歩堂の下宿を訪れるときもある。今日は亜双義に招かれて、こうして珍しい酒を拝借しているのだった。
「じゃあありがたくいただくよ」
 猪口に口をつけ、緑色の酒を啜る。蝋燭の灯火に照らされた緑は宝石の輝きを持ってつやつやとしていた。色と同じく、爽やかな舌触りが心地よい。さらさらとしていて飲みやすく、酒が苦手な人も飲めるものだった。
「おいしい……」
「だろう?」
 亜双義は陽気に笑いながら、猪口に注がれた酒を一気に呷る。猪口に再び注いで、続けて飲んでいた。親友の肌が次第に赤く染まっていく。暗い部屋に灯された蝋燭の炎が蠢いた。亜双義の影が心なしか大きく見える。まるで狼のような影の形にふと笑う。亜双義と狼はどことなく似ているかもしれないなどと、酒に浮かされた頭でぼんやり考えた。
 機嫌よく飲んでいると、親友が突然囁いた。
「キサマの酒に毒を盛ったと云ったらどうする」
 なにを莫迦なことを、と笑い飛ばそうとしたが、親友の目は真剣そのものだった。思い詰めているその視線に言葉を失ってしまう。しばらく、陰が落ちた亜双義の表情を見つめた。唇を頑なに結んでいる親友に対して、成歩堂が持っている答えは一つだけだった。
 成歩堂は猪口に注がれた緑の酒を一気に飲み干し、けろりと言った。
「お前がぼくに毒なんか盛るわけないだろ」
 そう答えると亜双義は目を見開いた。黒玉の瞳孔が揺れ動いている。そして、成歩堂に身を寄せ、手を伸ばしてきた。
 亜双義。親友の名前を呼ぼうとしたが、あっという間に唇を奪われた。親友の、酒臭い吐息を間近に感じる。亜双義の唇は日本酒の味がした。濡れた感触に皮膚がざわめく。突然の行為は、成歩堂にとってはじめてのものだった。親友の名を呼びたいのに、幾度も口づけをされ、呼ばせてもくれない。繰り返される口吻に酩酊した。は、は、と、呼気が熱を帯びる。亜双義に肩を押され、気がつけば組み敷かれていた。
 ようやく唇が離れていった。冷たくなる舌に寂しさを覚える。もっとしてほしいと、成歩堂はぼんやりと想う。亜双義の顔にも寂寥の陰が滲んでいる。成歩堂の耳の傍に手を置きながら囁いた。
「嫌なら全力で抵抗しろ」
 掠れた声は欲を孕んでいた。今まで見たことのない親友の色香に頭がくらくらする。けれども確かに、成歩堂を組み敷いているのは親友の亜双義一真だった。昼に見た快活な笑顔はそこにはなく、切実な一人の男がいるだけだった。
 恐怖はなかった。
 亜双義の首に腕を回して引き寄せる。背中に手を這わせ、強く浴衣を掴んだ。更に密着した親友に、震える声で言った。
「こ、こういうのははじめてだから、優しくしてくれ!」
 夜伽の空気に似合わない声は、暗い部屋の奥に溶けていった。男だというのに情けない。亜双義も呆れたのか、首元にはあ、と息がかけられた。吐息が擽ったく身を捩ると鼻で笑われる。首元から顔を離した親友の機嫌は良く、目を細めて笑った。
「善処する」
 善処するだけじゃ駄目だろと文句の一つや二つ言いたかったが、言葉ごと唇を食われ、大人しくその温度を甘受する他なかった。唇を食まれ、顎を食まれ、肌を吸われ、撫でられて――。甘やかな痛みと快楽と優しさを注ぎ込まれ、成歩堂は喘ぐことしかできなかった。
 行為に夢中になる二人を、緑の葉をつけた大樹だけが見守っていた。

 …………………………。

 事務所兼家の庭に生えている一本の樹を眺めながら、成歩堂は昔のことを思い出していた。
 あの日の夜もよく晴れていたな、などと懐かしむ。はじめて亜双義に抱かれたあの夜も、緑葉の鳴る季節だった。夜の一部と化した樹を窓越しに眺めて、成歩堂は来客用のテエブルにつまみを用意する。にしんの切り込みやほやを焼いたものなど、どれも寿沙都が用意してくれたものだ。久方ぶりに親友と飲む、と伝えたところ、腕によりをかけてつくってくれた。亜双義と最後に飲んだのはアラクレイ号に密航していたときまで遡る。思えば随分とあの日から遠ざかったものだ。上等な酒を持ってきてくれるというので成歩堂は楽しみにしていた。法務助士が帰宅し、独りになった事務所で宵が耽るのを見つめた。蝋燭の細やかな灯りが揺らめいた途端、玄関を叩く音が聞こえる。出迎えると、着流した格好の亜双義が夜を連れてきた。
「邪魔するぞ」
「いつも昼に来てるだろ。今更だよ」
 仕事の関係上、成歩堂が検事局に赴く場合もあれば、亜双義が成歩堂の事務所を訪れることもあった。こうして私的に会うのははじめてではないが、互いに仕事が忙しく、学生の頃より会う頻度は減っていた。久方ぶりの親友との酒盛りに浮き足立っている。この男と共にいるのは成歩堂にとっては息がしやすかったが、同時に苦しくもあった。
 事務室に通し、つまみの並んだ卓に備えられた椅子ソファへ招いた。亜双義は対面ではなく、成歩堂の隣に座った。相変わらず距離の近い男だ。
「寿沙都さんが用意してくれたんだ」
「ほう。御琴羽法務助士が……。うまそうだ」
「酒を用意してくれたんだろう? 早く飲もうぜ」
 急かすと、亜双義は鞄から日本酒の瓶を取り出した。深緑色の瓶が蝋燭の橙と交じり、倫敦の洋燈のように光を反射する。どこかで見たことのある瓶だった。
 用意してある白い徳利に酒を注ぐ。その酒は五月の葉の色をしていた。つやつやとした緑に、どきりと胸が鳴る。あの夜と同じ酒だった。
「これは……」
「この酒の味が好きだったろう。たまたま上司から譲ってもらってな。有り難くいただこうぜ」
 この酒の爽やかな味が好きだった事実は認めるが、別の記憶も蘇ってしまう。いかがわしい気分になってどうにもいけない。乾杯をして、勇気を出して酒を呷った。鼻から抜ける軽やかな味は変わっていない。しかし、この味に触れてしまうとあの日の痛みと快楽までも思い出してしまう。記憶はまるで毒のように己の身体を侵していく。四杯目を飲む頃には、すっかり酩酊してしまっていた。
「おい。些か早く飲み過ぎてはないか。すぐに酔い潰れるぞ」
「あ、ああ……」
 すぐ傍には酒で目元を紅くした親友がいる。着物から伸びた首筋が白く、思わず喉を鳴らしてしまう。早く潰れなければ、自分がなにをしでかすか分かったものではなかった。今すぐその掌で暴いてほしいだなんて、口に出せるわけがなかった。
 酒が回ってくるといつもは饒舌になるのだが、今日に限って口数が少なくなっていった。空気に漂う気まずさを、酒を呷ることでごまかす。ごまかすことに必死になっていたからだろうか、亜双義が此方を熱心に見つめているのにしばらく気づかなかった。
 目が合い、ど、ど、と血潮が渦巻く。
 亜双義が掠れた声で囁いた。
「キサマの酒に毒を盛ったと云ったらどうする」
 あの夜と同じ文言。あの夜と同じ酒。薄く笑う親友に、己の出せる答えはやはり一つしかない。成歩堂は酒を口に含み、亜双義に唇を寄せた。
 親友の腔内に生ぬるくなった酒を注ぐ。ちゅ、と音を立てて、舌を絡ませる。酒なのか唾液なのか、もう判別もつかなくなっていた。どちらが仕掛けたのか、最早分からない。互いに腔内を貪り合い、淫猥な音を部屋に響かせて、同じ液体を飲み干した。夢中になって互いの粘膜の熱さを確かめる。口を離した頃には、互いに息があがっていた。
 くらくらとする視界の中、成歩堂は亜双義を見据えて言った。
「これが答えだ」
 亜双義の手を握ると、指を絡ませ握り返してくる。体温を分け合っているのに、なぜだか亜双義は眉間に皺を寄せていた。亜双義は欲を孕んだ寂しい声で囁く。
「寝室に連れて行け」
 蝋燭の灯りを片手に持ち、亜双義の手を引いて寝室へと招く。寝室へ向かう道中、互いの掌は火傷しそうなほど熱かった。期待と不安を抱いて、夢心地な道を二人だけで歩くのだった。夜闇に落ちる二人分の陰が、細やかな灯りに照らされて揺れ動いていた。
 お前が毒を盛らなかったらこんなに狂わずにすんだのに。けれども毒を飲んだのは紛れもない自分の意志だった。この毒を、他の誰にもやりたくなかった。
 小さな幸福を胸に宿し、今宵も親友に抱かれた。親友の手は熱くて寂しくて、優しかった。痛みなんてどこにもない、ひたすらに甘い時間だけが過ぎていった。
 二人は空が白むまで睦み合った。濃度のある情交にすっかり酔わされてしまった成歩堂が目を覚ましたのは昼を過ぎた頃だ。気怠さ故に布団から出られないでいると、裸の肩に長着をかけただけの亜双義が窓の外を見やりながら煙草を吸っている。苦くて甘い香りが鼻腔を擽った。木漏れ日が窓に差し込む。緑葉の陰に晒された亜双義の手元はきらきらと輝いていた。
 布団の中が暖かく、微かな幸せに浸っていた。暖かくて、親友が傍にいて、ぼくは幸せだ。成歩堂はそのときまで幸せだった。亜双義が口を開くまでは。
「キサマに善い話がある」
 善い話。その言い方に嫌な予感がして布団から身を起こす。亜双義は無表情のまま続けた。
「善い縁談がある。そろそろ身を固めたらどうだ」
 頭を鈍器で殴られたような衝撃が成歩堂を襲った。己の目の前にいる男は笑えもしない冗談を言っている。そう思いたいのに、亜双義の表情はなにも映していない。二本目の煙草を手に取り、火をつける。窓を開けないせいで部屋が煙い。
「……今云うのかよ」
「オレたちはもう大人だ。いつまでも遊んではいられん」
 お前にとっては遊びだったのか。そう問い詰めたくとも喉が痛んでうまく言葉にならない。泣くな、泣くなと何度も念じると、不思議と涙は引っ込むのだ。幸福に満ちていた心ががらんどうになってしまった。
 ぼくだけが、好きだったのか。
 ようやく自分の気持ちを言葉に表せたのに、伝えるには遅すぎた。
「あそうぎ」
 泣いていないが、涙に濡れた声が口から漏れた。一瞬、亜双義がはっとした目で成歩堂を見やる。それからひどく安堵したように目を細めた。
 木漏れ日に包まれた部屋の中、成歩堂は言った。
「一つだけでいい。ぼくの願いをきいてはくれないか」

………………………………。
 
 真夜中、二人は列車に揺られていた。
 夜行列車に乗り込んだ二人は行き先も決めていない。成歩堂の願いはただ一つ「どこか遠くへ連れて行ってほしい」だった。誰にも旅行先を伝えず、二人ぼっちで夜汽車に揺られる。少し遅い時間に鞄に詰め込んだおにぎりを頬張っていると、亜双義が口元に手を伸ばした。
「ついているぞ。まったく、童子のような奴だな」
 口元についた米粒をそのまま口に突っ込まれた。さすがに子どもっぽいなと恥じる。恥じらいながらも食べていると、亜双義が穏やかに笑った。
「そんなに急いで食べなくとも、時間ならたっぷりあるだろう」
 その言葉は嘘だ。二人に残された時間はあまりに少ないのだと、成歩堂は予感していた。この男は自分を捨て置くつもりなのだ。だから必死に縋り付いていた。情けないと思われてもしょうがない。亜双義が離れないように、彼の左手を強く握った。車窓はすべて黒で塗られている。車内の灯りのせいで黒の面に二人の姿が映った。そこにはいつも通りの顔をしている親友がいる。随分遠くまで来てしまった。
 親友の肩にもたれかかり、一休みする。身体が怠く、ひどく重かった。二人ぼっちの車内で身を寄せ合う。冬でもないのに肌寒かった。亜双義の温もりだけが標だった。泥濘の夜が忍び寄る。
 気がつけば成歩堂は眠っていた。相当疲れていたのか、夢すら見なかった。朝の日差しが車窓に差し込み、目を開ける。暖かな日差しのわりに、身体は冷え切っていた。
 隣に、亜双義はいなかった。
 亜双義。ぽつりと親友の名を呼ぶ。頭の中が混乱して身動きがとれない。一体どこに行ってしまったのだろう。親友の陰を探していると、彼の座っていた場所に書き置きが残されていた。震える指で紙を開く。
『ここから先は一人で行け』
 ばつ、と音を立て、雫が書き置きの上に落ちた。水分を含んだ洋墨が滲む。泣きたくないのに、涙が止まらない。成歩堂のなにかが、決定的に壊された瞬間だった。また、置いていかれてしまった。喉も目も痛い。息ができない。毒が全身を巡って、いよいよ成歩堂を殺そうとしていた。窓から差し込む陽の光が痛かった。
 戀と云う毒を盛った男は、ぼくを捨てた。その毒は、五月の緑の色をしていた。

 成歩堂と駆け落ち同然の旅に出た日から二週間が経った。亜双義は、最後に見た成歩堂の寝顔を思い出しながら一人書類整理をしていた。窓から見える大樹の緑は風に揺れている。燦々と降り注ぐ陽光は線となって硬い床を照らしていた。その光景を見るたび、亜双義は叶わぬ願いに鬱々としたため息を吐き出すのだった。
 あのまま親友と心中できたのならどんなに良かっただろう。成歩堂は心中なんて考えもしていなかったに違いない。亜双義は、あの男を手に入れるためなら本当はなんでもやりたかった。
 ああ、だがしかし、死はあの男には似合わない。
 生きている相棒が好きだった。幸せそうに笑う成歩堂が、好きだった。あの男が平穏な人生を送るには自分といては駄目なのだ。隣で無警戒に眠る成歩堂の頬を、亜双義は幾度も撫でた。柔らかな頬、少し角張った顎の形。成歩堂を象るすべてが愛おしかった。そうして亜双義は、成歩堂を列車に一人残し立ち去った。
 あれから成歩堂とは会っていない。会う必要がなかった。亜双義は検事の仕事に追われていたし、それは成歩堂も同じはずだった。今頃縁談の話が進んでいるだろう。相棒が誰かのものになるのは寂しいが、幸せにやっていけるならそれに越したことはない。亜双義は胸の痛みを無視して仕事に励む日々を送っていた。
 検事局の案内人が来客を報せる。客人は御琴羽寿沙都だった。法廷を共にする機会はしばらくなかったはずだが、彼女が考えなしに訪問してくるとは思えないので通すことにした。
 しばらくして、凜とした佇まいの大和撫子が姿を見せた。深刻な顔つきで亜双義を見据える。否、睨み付けた。その強烈な目の光にたじろいでしまう。
「どうした。……なにかあったのか、御琴羽法務助士」
「一真さま……成歩堂さまに一体なにを仰ったのですか」
「……なぜ成歩堂の話になるのだ」
 彼女はつかつかと歩み寄る。今にも殴りかかってきそうな勢いだ。
「私の目を見てください。一真さま」
 視線を逸らしていると、鋭い彼女はそう言う。彼女は今猛烈に怒っている。なにに怒っているのかは、皆目見当がつかないが。
「もう一度二人でよく話し合ってくださいませ」
「……成歩堂と話すことなどなにもない」
「そうも言ってられなくなるでしょう。今の成歩堂さまの姿を見たら、誰だって……」
「……なんだと?」
「……私は成歩堂さまも一真さまも、本当の家族のように慕っております。だからこそ、あんなお辛そうな成歩堂さまの姿は見たくありません。今一度、話し合いをしてくださいませ」
 彼女は真剣な眼差しで亜双義を諭す。男の世界に口を挟む彼女は度胸がある。しかし、彼女の想いには答えられなかった。亜双義は首を横に振って拒絶する。
「すまないが、奴と話すことはもうない」
「一真さま……」
「これはけじめなのだ」
 亜双義は頑なだった。まだ、成歩堂の余韻が掌に遺っている。今の状態で会えば触れずにはいられないだろう。けれど、成歩堂専属の法務助士も負けじと頑固であった。
「……一真さまの分からず屋!」
「な……うおっ⁉」
 突然亜双義の身体が宙に浮く。あっという間に世界が反転した。寿沙都投げだと気づいたときにはもう遅かった。どん、と背中を強く打ち付ける。無様に床に尻をついていると、目に涙を溜めた寿沙都が拳を振るわせて仁王立ちしていた。
「もう寿沙都は知りません! 失礼します!」
 大和撫子に似つかわしくない足音を立てて、嵐の如く去っていった。しばらく亜双義は彼女の出て行った扉を見つめていたが、やがて痛む尻を払い、椅子に座って書類整理の続きをおこなった。
 あのしっかり者で落ち着いた寿沙都があれだけ声を荒らげるのは珍しい。だが亜双義にも譲れない矜持があった。成歩堂には、相棒には会えない。今更、どんな顔をして会えばいいのか皆目見当もつかない。あの日、二人で列車に乗ったあの日。亜双義は成歩堂と共に恋情を置き去りにした。会えるわけがなかった。
 せめて、自分か相棒のどちらかが女であれば良かったのか。けれども女である成歩堂を愛せるのか。それすらも分からないまま、亜双義は窓から覗く緑葉を呆然と眺めるしかなかった。
 今日の仕事は昼までだった。寿沙都から言われた日に限って仕事が詰まっていない。仕事に集中して、少しでも成歩堂のことを忘れたかった。早めに書類整理が終わった亜双義は手持ち無沙汰になり、仕方なく退勤する。検事局から出ると、爽やかな風が通り過ぎていった。麗らかな午後、春の陽気が亜双義に纏わりつく。成歩堂も陽だまりの匂いがしていたなどと思い出してしまった。相棒の残滓を振り払い、帰路に就く。早く家に帰って静かに過ごしたかった。
 緑葉に染まった道を歩く。かさかさと葉の擦れ合う音が聞こえる。桜は一ヶ月前にはもう咲いていて、今は花を結ばない葉の束が細やかな音を鳴らすだけだ。暖かな春の陽光は葉の隙間から差し込み、水の網模様のように地面を彩っている。緑の水に浸かっている。不思議と酔った気分になった。
 緑に囲まれた己の家の前に、一人の青年が座り込んでいる。今は会いたくない相棒が、小さく身体を丸めて座り込んでいた。
「……そこでなにをやっている」
 しゃがみこんで顔を隠していたので、放っておくわけにもいかない。声をかけると、成歩堂は顔をあげた。
 ひどい顔をしていた。目は赤く腫れているが、顔色は悪い。唇は幾度も噛んだのか血が滲んでいた。少し痩せたのか、まろい輪郭は消え失せている。悲壮な相棒の姿に息をのんだ。明らかに弱っている相棒を放っておくほど、情を捨てられない。立ち上がる成歩堂の肩を掴む。
「なんだその体たらくは。……なにがあった」
「あ、あそうぎ……」
 途端、成歩堂の丸い目から涙が滲んだ。自分の意思で止められないらしく、ひたすら拭っている。涙が溢れるたび、成歩堂は唇を噛んだ。傷口から更に血が溢れる。明らかに弱っている成歩堂に胸が痛んだ。
「唇を噛むな」
「でも、泣いたら男が廃るだろう」
「莫迦を言え。我慢しても出るものは出る。オレの前で無理をするな」
「お前が目の前にいるから、無理をしているんだ」
 しゃくりあげて成歩堂は言う。仕方ないので唇に指を這わせると、ようやく噛むのをやめた。親指に成歩堂の血がついた。
「ごめん、あそうぎ」
 ぼろぼろと泣きながら続ける。
「亜双義の言うことももっともだ。なのにお前を諦めきれなくて、ぼくは」
 成歩堂の言葉で、彼が弱っているのは自分のせいであることに気づいた。自分を想った結果、溌剌とした相棒は衰弱してしまった。その事実に胸が痛んだが、優越感がじわじわと己を苛む。最低な心地に縛られて、亜双義は動けなかった。
「情けないのも、分かってるんだ。で、でも……」
「……なぜ分からんのだ。オレは、キサマが幸せな家庭をつくり、平穏に過ごしている姿を見たい。キサマの子どもも腕に抱きたい。だというのに……」
 素直な気持ちを言葉にすると、成歩堂は涙を溢しながらも真っ直ぐに見据えてきた。そして、悲壮な表情で口を開いた。
「……でも、ぼくは、お前との未来を望んでしまったんだ」
「成歩堂……」
「お願いだ、亜双義……」
 成歩堂が背に腕を回してくる。ジャケットを強く掴んで、嗚咽混じりに成歩堂は言う。抱きしめてくる体温は熱く、まるで酒を飲んだ後のようだった。
「ぼくを捨てないでくれ。もう二度と置き去りにしないでくれ」
 箍の外れた成歩堂は、声をあげて泣き始める。その声があまりにも痛くて、喉が苦しくなる。泣いてほしくないのに、この男は自分を想って泣いている。その事実が、苦しい。
「もうぼくを置いていくな……ぼくも一緒に連れて行ってくれ」
 耳元で「みっともなくてごめん」「相棒失格でごめん」と呟く成歩堂の背を撫でる。相棒失格なものか。成歩堂だけだ。キサマだけなのだ。オレの孤独に寄り添ってくれるのは。
 絡まった思考の中、亜双義は成歩堂の身体を強く抱いた。
「なぜだ……キサマの幸せを見たいというのに、」
 視界がぼやけ、木漏れ日が溶けた。溶けた光景の中、成歩堂の陽だまりの温度だけが傍にある。成歩堂の震える肩に顔を埋めた。
「なぜ、オレなんだ……」
 成歩堂は、涙に溢れた声で、しかしはっきりと告げた。
「だってお前が、ぼくに毒を盛ったんだ」
 新緑の木々が風に煽られ、ざわめいた。
 こんなもの、心中と同じだ。あるはずの未来を潰す行為でしかない。だというのに、この男を突き放せなかった。自分を想ってぼろぼろになった親友を、突き放せるわけがなかった。
「離したくない」
 自然と口から出た言葉は、葉の重なる音に溶けていく。
「成歩堂。キサマを、離したくない」
 一緒に死んでくれなどと、言えるはずがなかった。この男の生き様を最期の瞬間まで見ていたかった。己が隣にいなくてもいい。己を見届けてくれた親友の人生を、今度は自分が見届けられたらそれで良かった。そのために身を引いたというのに、この男はぼろぼろになってまで腕に飛び込んできた。愛おしいこの男を、もう離せるわけがなかった。
 成歩堂に強く抱きしめ返される。
「ぼくも、お前を離さないよ」
 成歩堂の顔を覗き見る。彼は腫らした目を細めて、弱々しく笑っていた。ようやく笑顔を向けてくれた親友は、ひどく幸せそうにしていた。胸が痛い。泣き叫んでしまいそうだった。この想いが間違いだったとしても、成歩堂の笑顔が間違っているはずがない。この男の幸せを、人生を奪ってしまう。奪わずにはいられない。胸が、苦しい。窒息してしまいそうなほど、満たされていく。
 不意に、成歩堂が触れるだけの口づけをしてくる。血の匂いが口の中に広がった。
 それから、成歩堂は笑った。
「毒のお裾分けだ」
 戀という毒に侵された二人は細やかに笑った。毒は静かに身体を巡り、血肉となっていく。木漏れ日に照らされた成歩堂の肌が紅く色づいていく。光に包まれた親友は、美しかった。
 眩しくて、穏やかで、優しい人。貴方の笑顔を愛している。
 最期の刻までオレと心中してくれ。そう呟くと、成歩堂は「ああ」と頷いて、亜双義の震える身体を更に強く抱きしめた。二人でまた、あの旅の続きをしよう。亜双義は親友の温もりに抱かれ、静かに泣いた。
 緑葉の木々たちが二人を見つめる、穏やかな五月のことだった。 
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