還る場所
「この写真はきみが持っていてください」
桜の寿命が尽きる頃、御琴羽教授から写真を手渡された。
鈍色の雲が広がる、お世辞にも天気が良いとは言えない日だった。亜双義の実家である屋敷は線香の香りに満ちていて、湿っぽい空気が流れている。集まっている人の中には大学時代の知り合いもいた。皆一様に悔しがっているのだった。
御琴羽教授から渡された写真には、バンジークス検事、ジーナさん、ホームズさん、アイリスちゃん、そして亜双義の姿があった。溌剌とした表情で、未来への希望に満ち溢れていた。
「これをぼくが、ですか?」
確認すると、御琴羽教授は頷いた。
「そうです。誰でもない、きみに持っていてもらいたいのです」
教授も酷なことをする。けれどぼくは、首を縦に振った。この写真を見つめていたら、少しは哀しみが紛れそうだったので。
「分かりました」
ぼくの親友である亜双義一真は、愛する自国の地を再び踏む願いも叶わず倫敦で亡くなった。
訃報を聞いたのは数ヶ月前だ。倫敦で、ある事件の調査をしていたところ、凶弾に倒れたらしい。亜双義の師であるバンジークス検事が遠路はるばる遺骨を運んでくれた。骨を納骨箱で包まれた姿を見ても、実感がわかなかった。
「小さくなったな、亜双義……」
快男児と恐れられた男は、両手で抱えられるほど小さかった。
葬儀は亜双義の遠い親戚が執り行ってくれた。亜双義を見送る家族は既にもうおらず、集まった者は、ぼくや寿沙都さん、御琴羽教授、そして数人の、かつての友人たちだけだった。静かな葬儀が執り行われるなか、ぼくの意識はぼんやりとしていた。
葬儀が終わり、帰ろうとすると、バンジークス検事に声をかけられた。
「ミスター・ナルホドー」
「どうかしましたか、バンジークス検事」
「彼から預かっているものがある。自分の身が不運に晒されたとき、これを貴公に渡してくれと」
バンジークス検事から渡されたのは一通の手紙だった。ぼくはため息をついて、小さく異議ありと呟いた。
「亜双義から預かった、という部分は嘘ですね」
「なぜそう思う」
「なぜならあいつは、人に頼むくらいなら自力で渡しに来る男だからです」
「……相違ない。彼の私物を整理していたら出てきた。貴公宛だったので中は確認していないが……」
「いえ。ありがとうございます。バンジークス検事」
「……すまなかった。彼を還してやれなかった」
「なにを言ってるんですか。……こうして還してくれたじゃないですか。亜双義の面倒、見てくださってありがとうございます」
「手のかかる不遜の弟子ではあったが、見所はあった……。私は、ゲンシンに続き彼も失ったのだな……」
「バンジークス検事、そう言わないでください。あいつは、後悔してないですよ」
バンジークス検事は頷いて、深い息を吐く。その目の下には隈があった。しばらくの間よく眠れていないのかもしれない。けれどもしっかりとした眼差しで、庭に咲いている桜を見上げた。
「しばらくこの地を見て回ろうと思う。ゲンシンとカズマが生まれた日本という国を見てみたいのだ」
「そうしてくださると、亜双義も喜ぶと思います。ぼくでよければ付き合いますよ」
「……貴公には助けられてばかりだ」
バンジークス検事の視線につられて、散っていく桜の木を眺めやる。既に花はほとんど散っていて、緑の葉が見え隠れしていた。地面に散らばった薄紅色の花弁が絨毯をつくっている。花弁を踏みながら思う。どうせなら、バンジークス検事と亜双義の並ぶ姿を見たかった。
「綺麗な花だ……」
バンジークス検事の寂寥に満ちた声が、ぽつりとこだました。
家の自室で独り。比較的大きめの写真立てを買ったので部屋に飾った。いつでも見つめられるように、机のすぐ近くに立てる。亜双義の明るい表情がいつでも見られる。それでもやはり親友が亡くなった実感は薄く、ひたすら意識が呆としているのだった。バンジークス検事から渡された手紙を開封する勇気もなく、ただ文机の上に置いているだけだ。そこで、亜双義から送られてきた今までの手紙を読み返してみることにした。意外にもぼくと亜双義は密に連絡を取り合っていた。彼の文面から伝わる倫敦の生活が、実にいきいきとしていて好きだった。数ヶ月前の手紙では、ようやく帰国の算段が立ったと書かれていた。
「お前、もう少しだったのになあ」
声に出してみると、音は空間に溶けていく。もう少しでお前と会えるはずだったのになあ。もう一回呟いても、ただ溶けていくだけだった。
確かに、親友に伝えたいことがあった。それなのに、頭に靄がかかって思い出せない。ぼくは真っ白な彼にどうしても伝えたかったのだ。文にも表せなかった想いが、確かにあったのだ。
手紙を端から端まで読んで、はあと息をついた。結局親友の置き土産から逃れられないらしい。写真の中で薄く笑っている亜双義を睨みつける。写真の彼に触れようとして、やめた。写真に余計な手垢はつけたくない。こんなに現実感のある図絵なのに、どこか遠くに感じられた。
手紙を読んでしまったら、彼の死を意識してしまいそうで怖かった。しかし、もう目を背けるのはやめた。彼にしがみついていた自分はアラクレイ号の船室に置き去りにしてきたのだ。覚悟を決めろ、成歩堂龍ノ介。改めて、文机に置いた手紙に触れた。
ゆっくりと、赤い封蝋を剥がす。開かれた封筒から、一枚の紙を取り出した。遺品にしては、枚数が少ない。呼吸を整えて捲った。
一文目に、成歩堂龍ノ介様と書かれている。左の端に亜双義の名前が書かれていた。内容自体は実に単純で、真ん中にぽつりと一文だけ記されていた。
字は震えていて、洋墨溜まりがひどかった。亜双義一真とは思えないほど、迷いのある字だった。
たったそれだけなのに、目から涙が出てきて止まらなかった。ぼつ、ぼつ、と落ちる雫は文を濡らす。ぼくは笑った。伝えたかったことを先に言われてしまった。涙が、とまらなかった。
「ぼくも愛しているよ……」
手紙に額を当てて、天国の親友に届くよう、祈りを込めて唱える。写真に写る姿よりも、彼がぼくに贈ってくれた言葉が嬉しかった。
喉から嗚咽が漏れて、やがて叫びとなった。今だけは泣いてしまうのを赦してくれ。
窓の外では、桜の雨が降っている。
お前をずっと、愛しているよ。
桜の寿命が尽きる頃、御琴羽教授から写真を手渡された。
鈍色の雲が広がる、お世辞にも天気が良いとは言えない日だった。亜双義の実家である屋敷は線香の香りに満ちていて、湿っぽい空気が流れている。集まっている人の中には大学時代の知り合いもいた。皆一様に悔しがっているのだった。
御琴羽教授から渡された写真には、バンジークス検事、ジーナさん、ホームズさん、アイリスちゃん、そして亜双義の姿があった。溌剌とした表情で、未来への希望に満ち溢れていた。
「これをぼくが、ですか?」
確認すると、御琴羽教授は頷いた。
「そうです。誰でもない、きみに持っていてもらいたいのです」
教授も酷なことをする。けれどぼくは、首を縦に振った。この写真を見つめていたら、少しは哀しみが紛れそうだったので。
「分かりました」
ぼくの親友である亜双義一真は、愛する自国の地を再び踏む願いも叶わず倫敦で亡くなった。
訃報を聞いたのは数ヶ月前だ。倫敦で、ある事件の調査をしていたところ、凶弾に倒れたらしい。亜双義の師であるバンジークス検事が遠路はるばる遺骨を運んでくれた。骨を納骨箱で包まれた姿を見ても、実感がわかなかった。
「小さくなったな、亜双義……」
快男児と恐れられた男は、両手で抱えられるほど小さかった。
葬儀は亜双義の遠い親戚が執り行ってくれた。亜双義を見送る家族は既にもうおらず、集まった者は、ぼくや寿沙都さん、御琴羽教授、そして数人の、かつての友人たちだけだった。静かな葬儀が執り行われるなか、ぼくの意識はぼんやりとしていた。
葬儀が終わり、帰ろうとすると、バンジークス検事に声をかけられた。
「ミスター・ナルホドー」
「どうかしましたか、バンジークス検事」
「彼から預かっているものがある。自分の身が不運に晒されたとき、これを貴公に渡してくれと」
バンジークス検事から渡されたのは一通の手紙だった。ぼくはため息をついて、小さく異議ありと呟いた。
「亜双義から預かった、という部分は嘘ですね」
「なぜそう思う」
「なぜならあいつは、人に頼むくらいなら自力で渡しに来る男だからです」
「……相違ない。彼の私物を整理していたら出てきた。貴公宛だったので中は確認していないが……」
「いえ。ありがとうございます。バンジークス検事」
「……すまなかった。彼を還してやれなかった」
「なにを言ってるんですか。……こうして還してくれたじゃないですか。亜双義の面倒、見てくださってありがとうございます」
「手のかかる不遜の弟子ではあったが、見所はあった……。私は、ゲンシンに続き彼も失ったのだな……」
「バンジークス検事、そう言わないでください。あいつは、後悔してないですよ」
バンジークス検事は頷いて、深い息を吐く。その目の下には隈があった。しばらくの間よく眠れていないのかもしれない。けれどもしっかりとした眼差しで、庭に咲いている桜を見上げた。
「しばらくこの地を見て回ろうと思う。ゲンシンとカズマが生まれた日本という国を見てみたいのだ」
「そうしてくださると、亜双義も喜ぶと思います。ぼくでよければ付き合いますよ」
「……貴公には助けられてばかりだ」
バンジークス検事の視線につられて、散っていく桜の木を眺めやる。既に花はほとんど散っていて、緑の葉が見え隠れしていた。地面に散らばった薄紅色の花弁が絨毯をつくっている。花弁を踏みながら思う。どうせなら、バンジークス検事と亜双義の並ぶ姿を見たかった。
「綺麗な花だ……」
バンジークス検事の寂寥に満ちた声が、ぽつりとこだました。
家の自室で独り。比較的大きめの写真立てを買ったので部屋に飾った。いつでも見つめられるように、机のすぐ近くに立てる。亜双義の明るい表情がいつでも見られる。それでもやはり親友が亡くなった実感は薄く、ひたすら意識が呆としているのだった。バンジークス検事から渡された手紙を開封する勇気もなく、ただ文机の上に置いているだけだ。そこで、亜双義から送られてきた今までの手紙を読み返してみることにした。意外にもぼくと亜双義は密に連絡を取り合っていた。彼の文面から伝わる倫敦の生活が、実にいきいきとしていて好きだった。数ヶ月前の手紙では、ようやく帰国の算段が立ったと書かれていた。
「お前、もう少しだったのになあ」
声に出してみると、音は空間に溶けていく。もう少しでお前と会えるはずだったのになあ。もう一回呟いても、ただ溶けていくだけだった。
確かに、親友に伝えたいことがあった。それなのに、頭に靄がかかって思い出せない。ぼくは真っ白な彼にどうしても伝えたかったのだ。文にも表せなかった想いが、確かにあったのだ。
手紙を端から端まで読んで、はあと息をついた。結局親友の置き土産から逃れられないらしい。写真の中で薄く笑っている亜双義を睨みつける。写真の彼に触れようとして、やめた。写真に余計な手垢はつけたくない。こんなに現実感のある図絵なのに、どこか遠くに感じられた。
手紙を読んでしまったら、彼の死を意識してしまいそうで怖かった。しかし、もう目を背けるのはやめた。彼にしがみついていた自分はアラクレイ号の船室に置き去りにしてきたのだ。覚悟を決めろ、成歩堂龍ノ介。改めて、文机に置いた手紙に触れた。
ゆっくりと、赤い封蝋を剥がす。開かれた封筒から、一枚の紙を取り出した。遺品にしては、枚数が少ない。呼吸を整えて捲った。
一文目に、成歩堂龍ノ介様と書かれている。左の端に亜双義の名前が書かれていた。内容自体は実に単純で、真ん中にぽつりと一文だけ記されていた。
字は震えていて、洋墨溜まりがひどかった。亜双義一真とは思えないほど、迷いのある字だった。
たったそれだけなのに、目から涙が出てきて止まらなかった。ぼつ、ぼつ、と落ちる雫は文を濡らす。ぼくは笑った。伝えたかったことを先に言われてしまった。涙が、とまらなかった。
「ぼくも愛しているよ……」
手紙に額を当てて、天国の親友に届くよう、祈りを込めて唱える。写真に写る姿よりも、彼がぼくに贈ってくれた言葉が嬉しかった。
喉から嗚咽が漏れて、やがて叫びとなった。今だけは泣いてしまうのを赦してくれ。
窓の外では、桜の雨が降っている。
お前をずっと、愛しているよ。
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