破られた教科書
「亜双義! ごめん! 教科書見せてくれないか?」
英語学の授業が始まる前、成歩堂が頭を下げて泣きついてきた。成歩堂が教科書を忘れるのはいつものことなので、はあ、と嘆息した。
「成歩堂……キサマはいつになったら覚えるのだ」
「……覚えるようなことあったかしらん」
「オレは再三、今度こそ忘れるなと注意してるだろう。だというに、キサマはいつもいつも……」
「うう、ごめんよお」
成歩堂が情けない声で謝るが、これも毎度のことであった。授業が被るたびに何かしら忘れ物をするこの男が反省しているのは知っている。それにしても頻度があまりにも多い。出会った当初はこんなに忘れ物をするやつだとは思っていなかった。忘れ物をするようになったのはいつ頃だっただろうか。思い出そうとするも、記憶は遥か彼方に過ぎ去ってしまっていて定かではない。もう一度ため息をつくと、成歩堂はがっくりと肩を落とした。
「うう……ぼくは自分が嫌になっちまうよ」
「……仕方ないやつだな。見せてやるから此方へ来い」
席に座り教科書を適当に開くと、成歩堂はぱあと晴れやかな顔をして亜双義の隣に座った。現金な男ではあるが、どうにも憎めない。肩を寄せ合っていると、前の席の男が言った。成歩堂と同じ英語学部の学生だ。
「それにしても、成歩堂も変だな」
「……この男が変なのはいつものことだろう」
「いやところが亜双義、そうじゃないんだ。此奴、亜双義と被らない授業はまったく忘れ物しないんだよ」
「……なんだと?」
知らなかった情報が出てきて、つい成歩堂を睨みつける。対する隣の男は、ぼんやりとした顔で亜双義を見つめていた。亜双義が睨む前からどうやら亜双義に視線を送っていたようである。成歩堂の視線に気づけなかった自分が信じられなかったが、今はそんな話をしている場合ではない。亜双義は成歩堂を問い詰めた。
「成歩堂、一体どういうことだ」
「どういう……って、なにが?」
「話を聞いていなかったのか? キサマがオレと同じ授業のときは決まって忘れ物をするという話だ。一体どういうことだ」
「え……ええ。気づかなかったな。確かに、思い返すとそうかもしれない」
「さては、オレへの嫌がらせか?」
「え……ええ⁉」
半分冗談だったのだが、成歩堂は大袈裟に首を横に振った。必死な形相をしているので嫌がらせではないのだろう。先程までのぼんやりとしていた態度と違い、成歩堂はまくし立てた。
「きみにそんなことするはずないじゃないか! ぼくだって今気づいたのだもの!」
「しかしおかしいだろう。オレと同じ授業のときだけ忘れてくるなど……」
「うう、ぼくにも分からないよ。……あ、でも強いて言えば」
成歩堂は思い当たる節があるようだった。少しだけ目元を赤く染め、へらりと笑う。その愛嬌のある笑顔に、亜双義はなにも言えなくなってしまった。
「お前といるときはいつもより安心するんだ。だから気が緩んでしまうのかもしれない」
とうとう亜双義は絶句した。この男、よくそんなことを恥ずかしげもなく言えるものだ。いや、実際恥ずかしいのかもしれない。成歩堂ははにかみながら、それでも亜双義から視線を逸らさなかった。逸らしたのは亜双義だった。
「……莫迦言え。オレはいつまでもキサマと共にはいられん」
「亜双義……?」
「今日は仕方ないから見せてやるが……次から忘れるなよ」
「あ、ああ。ありがとう、亜双義」
そうして今日も英語学の授業が始まる。亜双義は授業に集中しながらも思わずにはいられなかった。
この男を悲願の土地に連れて行けたらどんなにいいかと。
亜双義の大英帝国往きが決まった。これから最先端の司法を学ぶため、亜双義は彼の地へ向かう。復讐と業火に燃えた、悲願の地に。
秋風の吹く夕暮れ、亜双義は一人大学の裏で焚き火をしていた。無性に焔が見たくなった。
世界は、薄汚れている。
けれども、オレは闘わなくてはならない。例えこの世界に一人きりだとしても、誰も味方がいなくても、オレは闘って闘って闘い抜いてみせる。それが父上の汚辱を拭うことになるのなら、この身くらい平気で投げ出せる。オレは必ず、勝ってみせる。父上、母上、私を見守っていてください。必ずや悲願を果たしてみせましょう。
焔は亜双義を映し出す祈りの鏡だった。赤黒く燃える灯りは、夕暮れの亜双義の顔をうすぼんやりと照らしている。今このとき、亜双義はたった一人きりだった。ある男の声が聞こえてくるまでは。
「亜双義、ここにいたのか」
穏やかで優しい声だった。気がつけば隣に成歩堂がいた。相棒は心配しているのか、亜双義の顔をしきりに覗き込んでくる。
「……成歩堂」
「体調が悪そうだな。焚き火なんかやってないで早く帰ろうぜ」
「ああ、そうだな……」
そのまま無言になる亜双義に、成歩堂は続ける。
「……お前がいなくなったら、教科書を見せてもらえないな」
「やはりわざとだったのか?」
「い、いや、わざとではないとも! でも、やっぱり寂しいさ」
成歩堂は言葉通り、寂しそうに笑う。その目には慈愛が滲んでいた。成歩堂の手には英語学の教科書がある。亜双義は咄嗟に手を伸ばして教科書を奪った。
「あ!」
そのまま焔に放る。轟々と燃える教科書に、成歩堂は暫し呆然としていた。
「なにするんだよ!」
「こんなもの見なくてもいい。オレのを見ればいいだろう」
「な、なにを言ってるんだ。お前……」
途端、強い風がふいた。焔によって焼き裂かれた教科書の残骸が空に舞う。夕闇に焔が灯った。
遠くへ、遠くへ飛んでいく。その瞬間、亜双義は想った。
この男と共に、光ある道を進みたいと。
「……あっはっはっはっはっはっ!」
自然と高笑いが出ていた。もう既に答えは見えていたというのに、今まで気づかなかったのはなぜだろう。訳も分からぬまま、亜双義は満たされていた。
この男となら、オレは前に進める。このぼんやりとしていて、けれど真っ直ぐな眼を持った相棒となら、オレは強くなれる。
憎悪と復讐しかなかった己の人生に光を与えてくれた此奴となら、オレはどこまでだって行けるのだ。
焔の中、亜双義は間抜け面をしている成歩堂の手を取った。
「成歩堂! 大英帝国に行くぞ!」
英語学の授業が始まる前、成歩堂が頭を下げて泣きついてきた。成歩堂が教科書を忘れるのはいつものことなので、はあ、と嘆息した。
「成歩堂……キサマはいつになったら覚えるのだ」
「……覚えるようなことあったかしらん」
「オレは再三、今度こそ忘れるなと注意してるだろう。だというに、キサマはいつもいつも……」
「うう、ごめんよお」
成歩堂が情けない声で謝るが、これも毎度のことであった。授業が被るたびに何かしら忘れ物をするこの男が反省しているのは知っている。それにしても頻度があまりにも多い。出会った当初はこんなに忘れ物をするやつだとは思っていなかった。忘れ物をするようになったのはいつ頃だっただろうか。思い出そうとするも、記憶は遥か彼方に過ぎ去ってしまっていて定かではない。もう一度ため息をつくと、成歩堂はがっくりと肩を落とした。
「うう……ぼくは自分が嫌になっちまうよ」
「……仕方ないやつだな。見せてやるから此方へ来い」
席に座り教科書を適当に開くと、成歩堂はぱあと晴れやかな顔をして亜双義の隣に座った。現金な男ではあるが、どうにも憎めない。肩を寄せ合っていると、前の席の男が言った。成歩堂と同じ英語学部の学生だ。
「それにしても、成歩堂も変だな」
「……この男が変なのはいつものことだろう」
「いやところが亜双義、そうじゃないんだ。此奴、亜双義と被らない授業はまったく忘れ物しないんだよ」
「……なんだと?」
知らなかった情報が出てきて、つい成歩堂を睨みつける。対する隣の男は、ぼんやりとした顔で亜双義を見つめていた。亜双義が睨む前からどうやら亜双義に視線を送っていたようである。成歩堂の視線に気づけなかった自分が信じられなかったが、今はそんな話をしている場合ではない。亜双義は成歩堂を問い詰めた。
「成歩堂、一体どういうことだ」
「どういう……って、なにが?」
「話を聞いていなかったのか? キサマがオレと同じ授業のときは決まって忘れ物をするという話だ。一体どういうことだ」
「え……ええ。気づかなかったな。確かに、思い返すとそうかもしれない」
「さては、オレへの嫌がらせか?」
「え……ええ⁉」
半分冗談だったのだが、成歩堂は大袈裟に首を横に振った。必死な形相をしているので嫌がらせではないのだろう。先程までのぼんやりとしていた態度と違い、成歩堂はまくし立てた。
「きみにそんなことするはずないじゃないか! ぼくだって今気づいたのだもの!」
「しかしおかしいだろう。オレと同じ授業のときだけ忘れてくるなど……」
「うう、ぼくにも分からないよ。……あ、でも強いて言えば」
成歩堂は思い当たる節があるようだった。少しだけ目元を赤く染め、へらりと笑う。その愛嬌のある笑顔に、亜双義はなにも言えなくなってしまった。
「お前といるときはいつもより安心するんだ。だから気が緩んでしまうのかもしれない」
とうとう亜双義は絶句した。この男、よくそんなことを恥ずかしげもなく言えるものだ。いや、実際恥ずかしいのかもしれない。成歩堂ははにかみながら、それでも亜双義から視線を逸らさなかった。逸らしたのは亜双義だった。
「……莫迦言え。オレはいつまでもキサマと共にはいられん」
「亜双義……?」
「今日は仕方ないから見せてやるが……次から忘れるなよ」
「あ、ああ。ありがとう、亜双義」
そうして今日も英語学の授業が始まる。亜双義は授業に集中しながらも思わずにはいられなかった。
この男を悲願の土地に連れて行けたらどんなにいいかと。
亜双義の大英帝国往きが決まった。これから最先端の司法を学ぶため、亜双義は彼の地へ向かう。復讐と業火に燃えた、悲願の地に。
秋風の吹く夕暮れ、亜双義は一人大学の裏で焚き火をしていた。無性に焔が見たくなった。
世界は、薄汚れている。
けれども、オレは闘わなくてはならない。例えこの世界に一人きりだとしても、誰も味方がいなくても、オレは闘って闘って闘い抜いてみせる。それが父上の汚辱を拭うことになるのなら、この身くらい平気で投げ出せる。オレは必ず、勝ってみせる。父上、母上、私を見守っていてください。必ずや悲願を果たしてみせましょう。
焔は亜双義を映し出す祈りの鏡だった。赤黒く燃える灯りは、夕暮れの亜双義の顔をうすぼんやりと照らしている。今このとき、亜双義はたった一人きりだった。ある男の声が聞こえてくるまでは。
「亜双義、ここにいたのか」
穏やかで優しい声だった。気がつけば隣に成歩堂がいた。相棒は心配しているのか、亜双義の顔をしきりに覗き込んでくる。
「……成歩堂」
「体調が悪そうだな。焚き火なんかやってないで早く帰ろうぜ」
「ああ、そうだな……」
そのまま無言になる亜双義に、成歩堂は続ける。
「……お前がいなくなったら、教科書を見せてもらえないな」
「やはりわざとだったのか?」
「い、いや、わざとではないとも! でも、やっぱり寂しいさ」
成歩堂は言葉通り、寂しそうに笑う。その目には慈愛が滲んでいた。成歩堂の手には英語学の教科書がある。亜双義は咄嗟に手を伸ばして教科書を奪った。
「あ!」
そのまま焔に放る。轟々と燃える教科書に、成歩堂は暫し呆然としていた。
「なにするんだよ!」
「こんなもの見なくてもいい。オレのを見ればいいだろう」
「な、なにを言ってるんだ。お前……」
途端、強い風がふいた。焔によって焼き裂かれた教科書の残骸が空に舞う。夕闇に焔が灯った。
遠くへ、遠くへ飛んでいく。その瞬間、亜双義は想った。
この男と共に、光ある道を進みたいと。
「……あっはっはっはっはっはっ!」
自然と高笑いが出ていた。もう既に答えは見えていたというのに、今まで気づかなかったのはなぜだろう。訳も分からぬまま、亜双義は満たされていた。
この男となら、オレは前に進める。このぼんやりとしていて、けれど真っ直ぐな眼を持った相棒となら、オレは強くなれる。
憎悪と復讐しかなかった己の人生に光を与えてくれた此奴となら、オレはどこまでだって行けるのだ。
焔の中、亜双義は間抜け面をしている成歩堂の手を取った。
「成歩堂! 大英帝国に行くぞ!」
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