箱庭に二人、クローゼット
「うーん、暇だなあ」
密航を決行して数日が経った。成歩堂は今日も一人、狭い箱庭の中で身体を降り畳んで呻いている。
正確にはこの船室にいるのは一人ではない。しかし、成歩堂は今この瞬間、暗くて狭い箱の中にいるのだった。
「暇だなあ……」
暗闇に慣れた目で内壁に触れる。いっそこの壁一面に落書きでもしてやろうかしらんと悪知恵を働かせてみる。自分の絵で満たされる壁はそれはもう鮮やか、なのかもしれない。呟きが外に漏れ出ていたのか、とんとんとノックされる。しばらくしてクローゼットの扉が開かれた。逆光が眩しく、つい目を細めてしまう。光によって黒く塗られた人影は間違いなく親友、亜双義一真のものだった。
「やかましいぞ成歩堂。気が散る」
「だって、本当に退屈なんだもの」
成歩堂を見下ろす亜双義の表情は陰ってしまってよく見えない。ぼやけた目を擦って、ようやく彼の姿がはっきりと見えた。頭に巻かれた立派な鉢巻きが空に靡いている。相変わらずどこから風がそよいでいるのか分からない。
目が光に慣れてきたところで、亜双義の顔が目に入る。彼は真剣な眼差しで思案していた。顎に手を当て、クローゼット全体を見つめている。そして一人頷いて、クローゼットの扉に手をかけた。
「ふむ……キサマの言うことは一理ある」
「……はあ?」
「オレも時間を持て余していたところだ。キサマに付き合ってやらなくもない」
亜双義は精悍な顔つきににやりと悪童めいた笑みを閃かせた。「どうして上から目線なんだよ……」と不満を言うが、成歩堂の言葉はもう届いていないだろう。その証拠に、亜双義はクローゼットに足をかけてきた。
「え、な、なにやってるんだよ」
「キサマの置かれている状況を、身をもって体験するのもいいかと思ってな。邪魔だ。もっと詰めろ」
「既に詰まってるのだけど⁉」
両膝を掴まれ、無理矢理折り畳まれる。痛いと抗議するが、この親友はまったく話を聞いてくれなかった。そうして亜双義に流されるまま、クローゼットの中に二人入ってしまった。亜双義が満足げに扉を内側から閉める。しっかりとは閉められないのでほんの少しだけ開いていた。微かな光が二人の間に差し込み、線を引いている。若干とは言え灯があるので、異様なまでの距離の近さに照れが勝つ。普段どんなに距離が近くとも気にしなかったというのに、状況が異質すぎて頭がおかしくなってしまったのかもしれなかった。
「熱いな」と吐息混じりに亜双義がぼやく。その吐息すらも間近に感じてしまう。クローゼットに男二人は無理なのではないかしらん、と言いたくてしょうがない。言ったとしても亜双義は話を聞かないだろうが。
「よくこんなところで眠れるな」
「どこでも眠れるのがぼくの特技だからな」
「それは随分のんきな特技だな……成歩堂?」
亜双義が微かな灯の線を頼りに成歩堂の頬を撫でる。熱気のせいで頬がひどく熱い。亜双義の冷えた掌が心地よかった。
灯の線に彩られた睫毛、闇の中でも明瞭な輪郭。何よりも、黒玉の目に宿る炎が成歩堂を魅了してやまない。観念して、成歩堂は素直に述べた。
「ご、ごめんよ……。近くで見ても、亜双義ってかっこいいよな」
へらりと笑ってそう言うと、亜双義は分かりやすくため息をついた。吐息が鼻に当たって熱い。熱すぎる体温に心臓が鳴り止まない。こんなにも傍にいるのに、表情が暗くてよく見えないのが怖かった。
ふと、唇にかさついた感触が宿った。なんの感触か不思議に思ったときには遅かった。唇をそのままがぶりと食まれる。ただでさえ空気の足りないクローゼットの中で、更に息苦しさが増した。窒息しそうな二人だけの箱庭で、呼吸すらも奪われる。ちゅ、と音を立てて何度も重ねられる唇に頭がくらくらとした。やっと解放され、はあはあと息を整える。亜双義は舌打ちをして呟いた。
「痴れ者が……」
「うう、なんだよ」
「キサマの将来が心配になってくるな」
「お前はぼくの親なのか……?」
「親がこんなことするものか」
親友は軽薄に笑い、再び接吻してくる。やはり息苦しいし呼吸ができない。唇が離れるたびにぜえぜえと喘ぐと、亜双義は満足そうに頬を撫でてくるのだった。
「ふふ……たまにはキサマとクローゼットに入ってもいいな」
「あ、あそうぎ、苦しい……」
「まだだ、成歩堂」
男二人が入るには狭すぎる箱庭で幾度も口づけをした。亜双義の身体の匂いがクローゼットに籠る。狭い水槽に生かされた魚のように、成歩堂は親友に溺れるしかなかった。
どちらにしろ一緒に行くと決めた時点でこの男に溺れているようなものだ。成歩堂は亜双義が用意した箱庭の中で生きるのを良しとした。
傍に親友がいてくれるだけで、成歩堂の箱庭は満たされていた。
そうして成歩堂は独り、内壁をなぞる。
「ここに目一杯落書きしたら、さぞ楽しいだろうな」
親友の片割れである狩魔を抱きしめ、クローゼットに閉じこもる。成歩堂の世界であった亜双義はもういない。暗くて狭い空間で、静かに目を瞑った。
扉は既に開かれた。成歩堂は親友の代理として大英帝国へ向かう。隣に亜双義はいない。もうこの世界のどこにもいない。
あの日の灼かれそうな口づけを思い出す。なにも描かれていない壁に接吻した。祈りと決意と、寂寥の混じった口づけだった。
あの日の思い出はここに置いていく。さよならだ、亜双義。ちゃんと別れるから、今日だけはこの箱庭で眠らせてくれ。
二人ぼっちだった箱庭に、今は一人だけだった。成歩堂は先に扉を開けて去った親友を想い、その背中を夢見て眠った。
密航を決行して数日が経った。成歩堂は今日も一人、狭い箱庭の中で身体を降り畳んで呻いている。
正確にはこの船室にいるのは一人ではない。しかし、成歩堂は今この瞬間、暗くて狭い箱の中にいるのだった。
「暇だなあ……」
暗闇に慣れた目で内壁に触れる。いっそこの壁一面に落書きでもしてやろうかしらんと悪知恵を働かせてみる。自分の絵で満たされる壁はそれはもう鮮やか、なのかもしれない。呟きが外に漏れ出ていたのか、とんとんとノックされる。しばらくしてクローゼットの扉が開かれた。逆光が眩しく、つい目を細めてしまう。光によって黒く塗られた人影は間違いなく親友、亜双義一真のものだった。
「やかましいぞ成歩堂。気が散る」
「だって、本当に退屈なんだもの」
成歩堂を見下ろす亜双義の表情は陰ってしまってよく見えない。ぼやけた目を擦って、ようやく彼の姿がはっきりと見えた。頭に巻かれた立派な鉢巻きが空に靡いている。相変わらずどこから風がそよいでいるのか分からない。
目が光に慣れてきたところで、亜双義の顔が目に入る。彼は真剣な眼差しで思案していた。顎に手を当て、クローゼット全体を見つめている。そして一人頷いて、クローゼットの扉に手をかけた。
「ふむ……キサマの言うことは一理ある」
「……はあ?」
「オレも時間を持て余していたところだ。キサマに付き合ってやらなくもない」
亜双義は精悍な顔つきににやりと悪童めいた笑みを閃かせた。「どうして上から目線なんだよ……」と不満を言うが、成歩堂の言葉はもう届いていないだろう。その証拠に、亜双義はクローゼットに足をかけてきた。
「え、な、なにやってるんだよ」
「キサマの置かれている状況を、身をもって体験するのもいいかと思ってな。邪魔だ。もっと詰めろ」
「既に詰まってるのだけど⁉」
両膝を掴まれ、無理矢理折り畳まれる。痛いと抗議するが、この親友はまったく話を聞いてくれなかった。そうして亜双義に流されるまま、クローゼットの中に二人入ってしまった。亜双義が満足げに扉を内側から閉める。しっかりとは閉められないのでほんの少しだけ開いていた。微かな光が二人の間に差し込み、線を引いている。若干とは言え灯があるので、異様なまでの距離の近さに照れが勝つ。普段どんなに距離が近くとも気にしなかったというのに、状況が異質すぎて頭がおかしくなってしまったのかもしれなかった。
「熱いな」と吐息混じりに亜双義がぼやく。その吐息すらも間近に感じてしまう。クローゼットに男二人は無理なのではないかしらん、と言いたくてしょうがない。言ったとしても亜双義は話を聞かないだろうが。
「よくこんなところで眠れるな」
「どこでも眠れるのがぼくの特技だからな」
「それは随分のんきな特技だな……成歩堂?」
亜双義が微かな灯の線を頼りに成歩堂の頬を撫でる。熱気のせいで頬がひどく熱い。亜双義の冷えた掌が心地よかった。
灯の線に彩られた睫毛、闇の中でも明瞭な輪郭。何よりも、黒玉の目に宿る炎が成歩堂を魅了してやまない。観念して、成歩堂は素直に述べた。
「ご、ごめんよ……。近くで見ても、亜双義ってかっこいいよな」
へらりと笑ってそう言うと、亜双義は分かりやすくため息をついた。吐息が鼻に当たって熱い。熱すぎる体温に心臓が鳴り止まない。こんなにも傍にいるのに、表情が暗くてよく見えないのが怖かった。
ふと、唇にかさついた感触が宿った。なんの感触か不思議に思ったときには遅かった。唇をそのままがぶりと食まれる。ただでさえ空気の足りないクローゼットの中で、更に息苦しさが増した。窒息しそうな二人だけの箱庭で、呼吸すらも奪われる。ちゅ、と音を立てて何度も重ねられる唇に頭がくらくらとした。やっと解放され、はあはあと息を整える。亜双義は舌打ちをして呟いた。
「痴れ者が……」
「うう、なんだよ」
「キサマの将来が心配になってくるな」
「お前はぼくの親なのか……?」
「親がこんなことするものか」
親友は軽薄に笑い、再び接吻してくる。やはり息苦しいし呼吸ができない。唇が離れるたびにぜえぜえと喘ぐと、亜双義は満足そうに頬を撫でてくるのだった。
「ふふ……たまにはキサマとクローゼットに入ってもいいな」
「あ、あそうぎ、苦しい……」
「まだだ、成歩堂」
男二人が入るには狭すぎる箱庭で幾度も口づけをした。亜双義の身体の匂いがクローゼットに籠る。狭い水槽に生かされた魚のように、成歩堂は親友に溺れるしかなかった。
どちらにしろ一緒に行くと決めた時点でこの男に溺れているようなものだ。成歩堂は亜双義が用意した箱庭の中で生きるのを良しとした。
傍に親友がいてくれるだけで、成歩堂の箱庭は満たされていた。
そうして成歩堂は独り、内壁をなぞる。
「ここに目一杯落書きしたら、さぞ楽しいだろうな」
親友の片割れである狩魔を抱きしめ、クローゼットに閉じこもる。成歩堂の世界であった亜双義はもういない。暗くて狭い空間で、静かに目を瞑った。
扉は既に開かれた。成歩堂は親友の代理として大英帝国へ向かう。隣に亜双義はいない。もうこの世界のどこにもいない。
あの日の灼かれそうな口づけを思い出す。なにも描かれていない壁に接吻した。祈りと決意と、寂寥の混じった口づけだった。
あの日の思い出はここに置いていく。さよならだ、亜双義。ちゃんと別れるから、今日だけはこの箱庭で眠らせてくれ。
二人ぼっちだった箱庭に、今は一人だけだった。成歩堂は先に扉を開けて去った親友を想い、その背中を夢見て眠った。
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