錆びたカトラリー
「亜双義。お前、今日おかしくないか?」
弁護士としての仕事が終わった後、検事である亜双義と話し合っていた。亜双義が日本に戻ってから一年、互いの仕事も軌道にのり、落ち着いて話せる機会が増えた。なので普段とどこか違う親友を指摘すると、本人は快活に笑う。
「おかしいとは失礼だな。オレはいたっていつも通りだが」
「うーん。おかしいな……。あ、寿沙都さん」
手続きに赴いていた寿沙都さんに手を振ると、小さな彼女は笑った。控室はよりいっそう華やかになる。窓には桜の枝葉の影が落ちていて、季節はすっかり春だ。晴れた空が覗く午後、亜双義は確かに変だった。
亜双義はいつものとおり堂々と胸を張っており、変わったところなど何一つない。だというのに違和感を覚えるのはなぜだろう。首を傾げるばかりだ。
「寿沙都さんも思いませんか? 今日の亜双義、やっぱりどこか変ですよ」
「そうですね……。私もそう思います。しかし、変と言うよりは……」
寿沙都さんの言葉を遮って、亜双義は言う。表情もいつもと変わらない。けれども普段と若干違う彼に戸惑うばかりだ。
「ばかなことを言ってないで、そろそろ仕事に戻るとするか。では、失礼する」
「おい、亜双義!」
まるでこの場から一刻も早く逃げ去りたいとでも言うように、亜双義は足早に控室を出ようとする。すれ違う亜双義の腕を咄嗟に掴んだ。すると、突然目の前から亜双義が消えた。
亜双義が床に力なく崩れ落ちている。急にしゃがみこんでしまった親友を放っておけるほど薄情な性格はしていない。亜双義に視線を合わせるために同じくしゃがんだ。亜双義の顔は真っ青だった。唇からは血の気が引いている。試しに額に触れてみると、火傷しそうなほど熱かった。
ぼくはため息をついて、寿沙都さんに頼む。
「やっぱり体調が悪かったんじゃないか。すみません、寿沙都さん。こいつを家に連れて帰るので検事局に連絡を入れてもらってもいいですか?」
「はい。私も後で向かいます。成歩堂さま、一真さまをよろしくお願いしますね」
担ごうとすると、頑なな親友は抵抗する。きっ、と恨みがましく睨まれた。亜双義は彫りが深いのでそんな剣呑な目で睨まれると怖い。
「勝手に話を進めるな。オレはまだやれる」
「いや無理だろ。ほら、立って。お前、今はどこに住んでるんだ?」
強情な親友をなんとか説き伏せて住所を尋ねる。住所で粗方亜双義の住処は把握できた。
あの辺は大きな家が建ち並んでいる。ぼくら二人は一度、その場所へ赴いたことがあった。
「お前、そこって……」
相当体調が悪い亜双義の耳に、ぼくの戸惑いは聞こえなかったらしい。そのことに安堵しつつ、亜双義の腕を首に回し、引きずるようにして運んだ。
ぼくは一度だけ亜双義に連れられてその場所……屋敷を訪れたことがある。誰も住んでいない、がらんどうとした広くて寂しい屋敷に。
ああ、そっか。お前は今そこに住んでいるのだなと、妙な切なさが胸を締めつけた。
布団を敷いて亜双義を寝かせたり手ぬぐいを用意したり忙しなく動いていると、屋敷に医者を連れた寿沙都さんがやってきた。医者嫌いを公言している立場としては不愉快だったが、致し方ないだろう。こんなに具合の悪そうな親友を見ているとそうも思えてくる。布団で横になっている亜双義の顔は変わらず蒼く、息も荒かった。医者によると、どうやら風邪を拗らせたらしい。薬を処方してもらった。寿沙都さんも果物を用意してくれた。果物ならさっぱりしていて食べやすいだろう。いちごやみかんが籠にいくつか入っていた。
日も暮れてきたので寿沙都さんを家に帰す。寿沙都さんは終始心配していたが、うら若き女性を夜まで滞在させるのもどうかと思うので(今更すぎる話だけれども)今日はひとまず帰ってもらった。明日また訪ねてきてくれるらしい。帰り際に夕飯までつくってくれた寿沙都さんには感謝してもしきれない。
日も暮れたので縁側の戸を閉める。春と言えども夜は少しばかり寒い。
亜双義を見ながら夕飯の魚をつまんでいると、亜双義が呻きながら目を覚ました。
「亜双義、大丈夫か?」
「う……ここ、は……」
「お前の家だよ。ぼくが運んだ。まったく、重たくてくたびれたよ」
顔が真っ青なまま起き上がろうとするので無理するなと手で制した。亜双義の額に置いた、濡らした手ぬぐいをとってやる。
「なにか食べられるか?」
亜双義は無言で首を横に振る。「果物なら?」と尋ねると、渋々こくりと頷く。その様子があどけなく、つい笑ってしまった。
「ちょっと待ってろ。準備してくるから」
汗に濡れた髪を手で梳いてやると、亜双義は安心したように目をつむった。子どものような表情に胸が苦しくなる。この寂寥感はどう言葉にしたらいいのだろう。
冷やしておいた果物を取りに台所へ向かう。フォークがあったほうが食べやすいだろうと食器棚を眺めた。
あの日と変わらない、錆びたカトラリーが置いてあった。
大事に大事に仕舞われた、家族分のカトラリー。一人用の、綺麗なカトラリーの隣に、三人分の錆びたカトラリーが並んでいた。子ども用のカトラリーは完全に錆びてしまっていた。ぼくは子ども用のフォークを手に取って、宵闇に透かす。
「錆って、磨けばとれるのかしらん……」
錆を取ってやりたいなと思った。少しばかり時間はかかってしまうかもしれないが、綺麗にしてやりたい。子どもは錆びついて止まったままなのだ。ぼくはフォークを一旦戻し、新品のフォークと果物を手に取って亜双義の元へ戻った。
「亜双義、起きられるか?」
寝ている亜双義に呼びかけると、ゆっくりと身体を起こしてくれた。果物を皿に装い、フォークと共に渡す。いちごの先端を口に含み、緩慢な動作で咀嚼していた。相当参っているらしい。ぼくもいちごを一粒もらった。冷たくて甘酸っぱい香りが鼻腔を満たす。今年のいちごは甘く、食べやすかった。おいしかったのか、亜双義は次々に果物を口に運んでいる。あまりにも単調に食べているので、皿を一旦奪った。
「そんなに急いで食べたら消化に悪いだろ。ほら、フォークもよこせ」
そう言うと、亜双義は大人しくフォークを渡してくれた。今日の亜双義は静かなので調子が狂う。蜜柑をフォークで刺して、亜双義の口元に持っていった。
「ほら」
「……え」
「お前のペースに任せていたらひやひやするよ。だから、ほら」
「……子ども扱いするな。一人で食べられる」
亜双義は、む、と口を曲げてそっぽをむく。それでもしつこく口元に持って行くと、観念したのか渋々口を開いて食べ始めた。最初から大人しく従っていたらよかったのに。
「うまいか?」
「……ん」
やはりまだ体調が悪いのか、頭がふらふらとしている。器によそった果物を一頻り食べらせた後、薬を飲ませた。横になった亜双義の額に、再び洗って冷やした手ぬぐいをおく。
たらいの水を捨てに行こうとすると、亜双義がぼくの長着の袖を掴んだ。
「あ……」
無意識のうちに掴んでいたらしく、亜双義も目を瞠り、慌てて手を離した。
気まずそうにしているので、思わず笑ってしまう。その熱い手を両手で包むと、亜双義は更に目を丸くしてぼくを凝視していた。
「どこにも行かないよ」
そう言えば、亜双義はひどく安心した、そしてどこか傷ついた顔をして目をつむった。弱く手を握り返される。強くて真っ直ぐな親友はそこにはおらず、弱さを曝け出した一人の人間が横たわっていた。
なんだか泣けてきてしまった。ずっと独りぼっちだった親友を、少しは分かってやれているのだろうか。そうしてぼくは、何度も親友の掌の温度を確かめるのだった。
その日は亜双義の屋敷に泊まった。幸運にも布団がもう一組あったので、様子を確認できるように亜双義の隣に敷いて眠った。亜双義は夜中、何度も魘されていた。父と母を呼ぶときもあった。その度に彼の手を握って、ひとりじゃないよと呟いた。
浅い眠りを幾度か繰り返して、朝。今日も外は良い天気だ。縁側の戸を開けると、春の穏やかな空気が家中になだれこむ。庭の桜は満開で、縁側にそよそよと薄紅色の花弁が舞い落ちる。健やかな青空の下、ぐっと背筋を伸ばした。
「成歩堂」
後ろから親友の声がする。振り向くと、布団から起き上がった亜双義が覚束ない足取りで歩いてきているところだった。
「もういいのか?」
「ああ、大分らくになった。それと、すまない」
「謝るなよ。ぼくとお前の仲だろ」
「そうではなく……」
亜双義は長い睫毛を伏せる。目元が少しだけ紅かった。なにか疚しいことがあるのか、ぼくの顔を見ようとしない。
「その……キサマに醜態を晒してしまった、と」
醜態と言われても思い当たることはない。よく分からなかったので、「そう思うなら今度なにか奢れよ」とだけ返した。すると亜双義は険しい顔をして詰め寄ってきた。
「キサマ、なにも理解していないだろう」
「は、ははは……それよりもさ」
「話を変えようとするな」
「いや、大事な話だよ。……ここ、お前の家だったんだな」
すると、亜双義は息を詰めた。唇を噛んで拳を握る。しばらく、穏やかな花弁の擦れる音だけが鳴っていた。花弁の音が聞こえるほど、この家は静かだった。縁側から入ってくる春の風は色彩豊かなのに、彼だけが鈍色をしていた。あの冷たい台所に飾られた、錆びたカトラリーのように。
やがて、亜双義は深く息を吐いた。
「父上が大英帝国で亡くなって、母上も病に臥せた。まだ幼かったオレはこの家を相続できなかった。オレが相続できる歳になるまで、親戚が管理してくれていた」
「亜双義……」
「しかしこの家に帰ったとて、意味はない。……オレが愛した家は、もうない」
亜双義は傷ついた笑みをひたすらに浮かべていた。自嘲ともとれる笑みだった。
家を取り戻しても家族は戻ってこない。亜双義は独りで住んでいてなにを感じたのだろう。静かすぎる家に、なにを想っていたのだろう。独りで故人を悼む日々を送っていたのか。寂しくて広い屋敷で、たった一人。
ぼくは咄嗟に、声に出していた。
「ぼくじゃだめか?」
それは唐突な言葉だった。しかしぼくの口からは迷いなく言葉がすらすらと出てくる。
「ぼくで足りなかったら、寿沙都さんも御琴羽教授も呼ぶ。この家に人を呼ぼうぜ」
「成歩堂……」
「ああ……でもそういう問題じゃないよな。ううん、うまく言葉にできないや」
迷いはなかった。腕を大きく広げると、亜双義はとうとう身を強ばらせてしまった。ぼくは苦笑して続けた。
「ぼくには……これくらいのことしかできない」
「なにが、」
「昔言っただろ? 抱きしめてやりたいって」
亜双義が一歩後ずさる。ぼくが一歩歩み寄る。亜双義は逃げるように、一歩、二歩と後ずさる。その姿が、迷子になった子どものようだった。
「やめろ。オレは子どもじゃない」
「知ってる」
「そんな情は要らない……!」
「お前ならそう言うと思った。だから」
大きく足を開いて、一歩で距離を詰めた。そのまま亜双義を抱きしめて、続ける。
「ぼくが行くしかないよな」
亜双義ならぼくを突き飛ばすことくらい造作もないはずなのに、突き飛ばすどころか抵抗もしなかった。亜双義の肩から力が抜ける。寒いのか、身体が震えていた。汗で冷えてしまった身体を温めてやりたかった。
「お前はもう独りじゃない」
そう呟くと、亜双義は恐る恐るぼくの背中に手を回した。そして、泣きじゃくる童のように強くしがみついて、ぼくの肩に顔を埋めた。
「う、――、」
静かな嗚咽が、花弁と共に家を満たしていく。寂しい家だ。ずっと孤独な親友を置き去りにする家だ。この家も親友も、寂しさで満ちていた。でも、哀しくはない。もう、哀しくなんてない。お前が望むなら、ぼくが傍にいてやる。だからもう、独りで哀しむのはやめてほしかった。
親友の温度を感じながら、やっぱりあのカトラリーを綺麗にしてやりたいなと、青い空に想いを馳せた。
弁護士としての仕事が終わった後、検事である亜双義と話し合っていた。亜双義が日本に戻ってから一年、互いの仕事も軌道にのり、落ち着いて話せる機会が増えた。なので普段とどこか違う親友を指摘すると、本人は快活に笑う。
「おかしいとは失礼だな。オレはいたっていつも通りだが」
「うーん。おかしいな……。あ、寿沙都さん」
手続きに赴いていた寿沙都さんに手を振ると、小さな彼女は笑った。控室はよりいっそう華やかになる。窓には桜の枝葉の影が落ちていて、季節はすっかり春だ。晴れた空が覗く午後、亜双義は確かに変だった。
亜双義はいつものとおり堂々と胸を張っており、変わったところなど何一つない。だというのに違和感を覚えるのはなぜだろう。首を傾げるばかりだ。
「寿沙都さんも思いませんか? 今日の亜双義、やっぱりどこか変ですよ」
「そうですね……。私もそう思います。しかし、変と言うよりは……」
寿沙都さんの言葉を遮って、亜双義は言う。表情もいつもと変わらない。けれども普段と若干違う彼に戸惑うばかりだ。
「ばかなことを言ってないで、そろそろ仕事に戻るとするか。では、失礼する」
「おい、亜双義!」
まるでこの場から一刻も早く逃げ去りたいとでも言うように、亜双義は足早に控室を出ようとする。すれ違う亜双義の腕を咄嗟に掴んだ。すると、突然目の前から亜双義が消えた。
亜双義が床に力なく崩れ落ちている。急にしゃがみこんでしまった親友を放っておけるほど薄情な性格はしていない。亜双義に視線を合わせるために同じくしゃがんだ。亜双義の顔は真っ青だった。唇からは血の気が引いている。試しに額に触れてみると、火傷しそうなほど熱かった。
ぼくはため息をついて、寿沙都さんに頼む。
「やっぱり体調が悪かったんじゃないか。すみません、寿沙都さん。こいつを家に連れて帰るので検事局に連絡を入れてもらってもいいですか?」
「はい。私も後で向かいます。成歩堂さま、一真さまをよろしくお願いしますね」
担ごうとすると、頑なな親友は抵抗する。きっ、と恨みがましく睨まれた。亜双義は彫りが深いのでそんな剣呑な目で睨まれると怖い。
「勝手に話を進めるな。オレはまだやれる」
「いや無理だろ。ほら、立って。お前、今はどこに住んでるんだ?」
強情な親友をなんとか説き伏せて住所を尋ねる。住所で粗方亜双義の住処は把握できた。
あの辺は大きな家が建ち並んでいる。ぼくら二人は一度、その場所へ赴いたことがあった。
「お前、そこって……」
相当体調が悪い亜双義の耳に、ぼくの戸惑いは聞こえなかったらしい。そのことに安堵しつつ、亜双義の腕を首に回し、引きずるようにして運んだ。
ぼくは一度だけ亜双義に連れられてその場所……屋敷を訪れたことがある。誰も住んでいない、がらんどうとした広くて寂しい屋敷に。
ああ、そっか。お前は今そこに住んでいるのだなと、妙な切なさが胸を締めつけた。
布団を敷いて亜双義を寝かせたり手ぬぐいを用意したり忙しなく動いていると、屋敷に医者を連れた寿沙都さんがやってきた。医者嫌いを公言している立場としては不愉快だったが、致し方ないだろう。こんなに具合の悪そうな親友を見ているとそうも思えてくる。布団で横になっている亜双義の顔は変わらず蒼く、息も荒かった。医者によると、どうやら風邪を拗らせたらしい。薬を処方してもらった。寿沙都さんも果物を用意してくれた。果物ならさっぱりしていて食べやすいだろう。いちごやみかんが籠にいくつか入っていた。
日も暮れてきたので寿沙都さんを家に帰す。寿沙都さんは終始心配していたが、うら若き女性を夜まで滞在させるのもどうかと思うので(今更すぎる話だけれども)今日はひとまず帰ってもらった。明日また訪ねてきてくれるらしい。帰り際に夕飯までつくってくれた寿沙都さんには感謝してもしきれない。
日も暮れたので縁側の戸を閉める。春と言えども夜は少しばかり寒い。
亜双義を見ながら夕飯の魚をつまんでいると、亜双義が呻きながら目を覚ました。
「亜双義、大丈夫か?」
「う……ここ、は……」
「お前の家だよ。ぼくが運んだ。まったく、重たくてくたびれたよ」
顔が真っ青なまま起き上がろうとするので無理するなと手で制した。亜双義の額に置いた、濡らした手ぬぐいをとってやる。
「なにか食べられるか?」
亜双義は無言で首を横に振る。「果物なら?」と尋ねると、渋々こくりと頷く。その様子があどけなく、つい笑ってしまった。
「ちょっと待ってろ。準備してくるから」
汗に濡れた髪を手で梳いてやると、亜双義は安心したように目をつむった。子どものような表情に胸が苦しくなる。この寂寥感はどう言葉にしたらいいのだろう。
冷やしておいた果物を取りに台所へ向かう。フォークがあったほうが食べやすいだろうと食器棚を眺めた。
あの日と変わらない、錆びたカトラリーが置いてあった。
大事に大事に仕舞われた、家族分のカトラリー。一人用の、綺麗なカトラリーの隣に、三人分の錆びたカトラリーが並んでいた。子ども用のカトラリーは完全に錆びてしまっていた。ぼくは子ども用のフォークを手に取って、宵闇に透かす。
「錆って、磨けばとれるのかしらん……」
錆を取ってやりたいなと思った。少しばかり時間はかかってしまうかもしれないが、綺麗にしてやりたい。子どもは錆びついて止まったままなのだ。ぼくはフォークを一旦戻し、新品のフォークと果物を手に取って亜双義の元へ戻った。
「亜双義、起きられるか?」
寝ている亜双義に呼びかけると、ゆっくりと身体を起こしてくれた。果物を皿に装い、フォークと共に渡す。いちごの先端を口に含み、緩慢な動作で咀嚼していた。相当参っているらしい。ぼくもいちごを一粒もらった。冷たくて甘酸っぱい香りが鼻腔を満たす。今年のいちごは甘く、食べやすかった。おいしかったのか、亜双義は次々に果物を口に運んでいる。あまりにも単調に食べているので、皿を一旦奪った。
「そんなに急いで食べたら消化に悪いだろ。ほら、フォークもよこせ」
そう言うと、亜双義は大人しくフォークを渡してくれた。今日の亜双義は静かなので調子が狂う。蜜柑をフォークで刺して、亜双義の口元に持っていった。
「ほら」
「……え」
「お前のペースに任せていたらひやひやするよ。だから、ほら」
「……子ども扱いするな。一人で食べられる」
亜双義は、む、と口を曲げてそっぽをむく。それでもしつこく口元に持って行くと、観念したのか渋々口を開いて食べ始めた。最初から大人しく従っていたらよかったのに。
「うまいか?」
「……ん」
やはりまだ体調が悪いのか、頭がふらふらとしている。器によそった果物を一頻り食べらせた後、薬を飲ませた。横になった亜双義の額に、再び洗って冷やした手ぬぐいをおく。
たらいの水を捨てに行こうとすると、亜双義がぼくの長着の袖を掴んだ。
「あ……」
無意識のうちに掴んでいたらしく、亜双義も目を瞠り、慌てて手を離した。
気まずそうにしているので、思わず笑ってしまう。その熱い手を両手で包むと、亜双義は更に目を丸くしてぼくを凝視していた。
「どこにも行かないよ」
そう言えば、亜双義はひどく安心した、そしてどこか傷ついた顔をして目をつむった。弱く手を握り返される。強くて真っ直ぐな親友はそこにはおらず、弱さを曝け出した一人の人間が横たわっていた。
なんだか泣けてきてしまった。ずっと独りぼっちだった親友を、少しは分かってやれているのだろうか。そうしてぼくは、何度も親友の掌の温度を確かめるのだった。
その日は亜双義の屋敷に泊まった。幸運にも布団がもう一組あったので、様子を確認できるように亜双義の隣に敷いて眠った。亜双義は夜中、何度も魘されていた。父と母を呼ぶときもあった。その度に彼の手を握って、ひとりじゃないよと呟いた。
浅い眠りを幾度か繰り返して、朝。今日も外は良い天気だ。縁側の戸を開けると、春の穏やかな空気が家中になだれこむ。庭の桜は満開で、縁側にそよそよと薄紅色の花弁が舞い落ちる。健やかな青空の下、ぐっと背筋を伸ばした。
「成歩堂」
後ろから親友の声がする。振り向くと、布団から起き上がった亜双義が覚束ない足取りで歩いてきているところだった。
「もういいのか?」
「ああ、大分らくになった。それと、すまない」
「謝るなよ。ぼくとお前の仲だろ」
「そうではなく……」
亜双義は長い睫毛を伏せる。目元が少しだけ紅かった。なにか疚しいことがあるのか、ぼくの顔を見ようとしない。
「その……キサマに醜態を晒してしまった、と」
醜態と言われても思い当たることはない。よく分からなかったので、「そう思うなら今度なにか奢れよ」とだけ返した。すると亜双義は険しい顔をして詰め寄ってきた。
「キサマ、なにも理解していないだろう」
「は、ははは……それよりもさ」
「話を変えようとするな」
「いや、大事な話だよ。……ここ、お前の家だったんだな」
すると、亜双義は息を詰めた。唇を噛んで拳を握る。しばらく、穏やかな花弁の擦れる音だけが鳴っていた。花弁の音が聞こえるほど、この家は静かだった。縁側から入ってくる春の風は色彩豊かなのに、彼だけが鈍色をしていた。あの冷たい台所に飾られた、錆びたカトラリーのように。
やがて、亜双義は深く息を吐いた。
「父上が大英帝国で亡くなって、母上も病に臥せた。まだ幼かったオレはこの家を相続できなかった。オレが相続できる歳になるまで、親戚が管理してくれていた」
「亜双義……」
「しかしこの家に帰ったとて、意味はない。……オレが愛した家は、もうない」
亜双義は傷ついた笑みをひたすらに浮かべていた。自嘲ともとれる笑みだった。
家を取り戻しても家族は戻ってこない。亜双義は独りで住んでいてなにを感じたのだろう。静かすぎる家に、なにを想っていたのだろう。独りで故人を悼む日々を送っていたのか。寂しくて広い屋敷で、たった一人。
ぼくは咄嗟に、声に出していた。
「ぼくじゃだめか?」
それは唐突な言葉だった。しかしぼくの口からは迷いなく言葉がすらすらと出てくる。
「ぼくで足りなかったら、寿沙都さんも御琴羽教授も呼ぶ。この家に人を呼ぼうぜ」
「成歩堂……」
「ああ……でもそういう問題じゃないよな。ううん、うまく言葉にできないや」
迷いはなかった。腕を大きく広げると、亜双義はとうとう身を強ばらせてしまった。ぼくは苦笑して続けた。
「ぼくには……これくらいのことしかできない」
「なにが、」
「昔言っただろ? 抱きしめてやりたいって」
亜双義が一歩後ずさる。ぼくが一歩歩み寄る。亜双義は逃げるように、一歩、二歩と後ずさる。その姿が、迷子になった子どものようだった。
「やめろ。オレは子どもじゃない」
「知ってる」
「そんな情は要らない……!」
「お前ならそう言うと思った。だから」
大きく足を開いて、一歩で距離を詰めた。そのまま亜双義を抱きしめて、続ける。
「ぼくが行くしかないよな」
亜双義ならぼくを突き飛ばすことくらい造作もないはずなのに、突き飛ばすどころか抵抗もしなかった。亜双義の肩から力が抜ける。寒いのか、身体が震えていた。汗で冷えてしまった身体を温めてやりたかった。
「お前はもう独りじゃない」
そう呟くと、亜双義は恐る恐るぼくの背中に手を回した。そして、泣きじゃくる童のように強くしがみついて、ぼくの肩に顔を埋めた。
「う、――、」
静かな嗚咽が、花弁と共に家を満たしていく。寂しい家だ。ずっと孤独な親友を置き去りにする家だ。この家も親友も、寂しさで満ちていた。でも、哀しくはない。もう、哀しくなんてない。お前が望むなら、ぼくが傍にいてやる。だからもう、独りで哀しむのはやめてほしかった。
親友の温度を感じながら、やっぱりあのカトラリーを綺麗にしてやりたいなと、青い空に想いを馳せた。
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