みちのく珍道中
「成歩堂、美味いものを食いたくないか?」
亜双義がなんの脈絡もなくそう云ってくるので、成歩堂は首を傾げた。奢ってくれるのかと期待したが、亜双義になにかしてやった記憶はない。なんならいつも亜双義におんぶに抱っこ状態だ。なので奢られることはない、と思う。亜双義は腕を組んで不敵に笑っている。良くないことを考えているときの顔だ。嫌な予感を覚えながらも、成歩堂は尋ねた。
「そりゃあ、不味いものより美味しいものを食べるほうが嬉しいけど……突然どうしたんだ? 藪から棒に」
「では、明晩決行するぞ。遠出の支度をしろ」
大学の講義室内、二人だけの空間で亜双義は高々と声をあげる。時刻はもう夕方で、雪が降っていることもあってすっかり暗かった。日が当たらない講義室で、成歩堂の親友はにやりと笑う。あ、これはろくなことではないなと成歩堂は頭の隅で思った。
「北の国まで食い倒れといこうではないか、相棒!」
そうしてやってきた本州の北。列車から降りると、待っていたのは極寒だった。外套を掴み、風で飛ばされそうな鞄を強く握った。
「さむっ」
東京ですら今の時期は雪が降っていて寒いというのに、北の国はそれ以上だった。辺り一面銀世界。駅舎には雪が積もっており、今にも雪崩れ込んできそうだった。雪が降っていないのは、運が良かったが。
鼻頭を赤くした亜双義が豪快に笑う。
「まったく、鍛錬が足りてないな」
「亜双義は平気そうだな……。ぼくは凍え死んでしまいそうだよ」
「まあそう言うな。今から良いところに連れてってやる」
「良いところ? こんな時間にか?」
時刻は夜三時を少し過ぎたところだった。今の時間だと開いている店もないだろう。朝の光すら差さない暗闇の中、亜双義の吐く息の白だけはっきりと見えた。
「つべこべ言わずついてこい。さて、馬車でもつかまえるか……」
「ま、待ってくれ亜双義。足元が滑って、うわあっ」
足元の雪が絡みついてひっくり返ってしまう。なんとか受け身を取ったが尻の辺りが痛かった。ひっくり返って雪まみれになった成歩堂に、亜双義は苦笑して手を差し伸べた。
「まったく。鈍くさいやつだな」
そう云う亜双義は言葉と裏腹に優しい笑みを浮かべていた。再び転ばないように、手を繋いで歩く。二人して足元は覚束ない。けれども笑いながら先を進んだ。途中で馬車を拾い、雪道を駆けていく。凍える寒さの中、成歩堂は赤くなる指先を吐息で溶かしていた。
「亜双義、どこへ行くんだ?」
「着いてからのお楽しみってやつだ。まあ、到着まで休め」
そう云われても、雪道はがたがたしていて安定せず、寝るにしても馬車の椅子は固い。そうしているうちに馬車が大きく揺れ、舌を噛んでしまった。まったく、踏んだり蹴ったりだ。愉快そうに笑うこの親友は、いつだって突拍子もなく成歩堂を巻き込むのだ。
しばらくして馬車が止まった。降りると一段と冷たい風が頬を切り裂く、凍える風が運んでくるのは、間違いない、磯の香りだった。
「海か?」
「察しがいいな」
親友が薄闇で笑む。朝日が昇るまでまだまだ時間がある。海に沿うように港を歩いた。やがて、先の方に灯火の集団が見える。どうやら屋台を出しているらしい。歩いていると、徐々に夜の濃度が薄くなっていくのだった。
「朝市だ」
亜双義がぽつりと云う。なぜ彼はわざわざ東北の朝市に足を運んだのだろう。朝市など、東京の海辺でもやっているのに。白煙を吐く親友の顔がぼやけて見えた。
朝市は年末ということもあり賑わっていた。魚介をおいている屋台や漬物を売っている屋台が所狭しと並んでいる。ぎゅうぎゅうに詰め込まれた人の波に押し流されてしまいそうだった。
「まったくキサマは。日本男児がそう易々と流されるんじゃない」
亜双義に腕をむんずと掴まれ、ずるずると引っ張られる。彼方此方で美味しそうな匂いがする。鼻孔を擽る食べ物の匂いに誘われて、成歩堂の腹の虫が盛大に鳴った。亜双義は笑う。
「無様だな。成歩堂龍ノ介!」
「うう、ひどいや……」
亜双義は快活にあっはっはと笑う。そして、ある屋台の前で立ち止まって成歩堂に指で示した。
「ちょうどいい。温かいものでも食って暖をとろうではないか」
そう言って亜双義は屋台の男性に声をかける。楽しそうに笑っているが、どこかぼやけた印象の背中を見つめながら、成歩堂は亜双義のされるがままになっていた。親友の考えていることがこれっぽっちも分からなかった。
屋台の奥にある椅子に座ると、器が運ばれてくる。どうやら汁物らしい。お吸い物のような薄い色をしている。汁は白く濁っていて、仄かに酒の匂いもした。箸でかき混ぜてみると、雲丹と鮑が入っていた。
「これは一体なんだい?」
「いちご煮という汁物らしい。とにかく食してみようではないか」
亜双義に促されるまま器に口をつける。ほんのり海の匂いがしたかと思えば、強烈な海鮮の出汁が舌を襲う。今まで口にしたことのない強烈な味だったが、なぜか胸が温かくなった。
「なんだか、安心する味だな」
そう言うと、亜双義は目を細める。その表情が幸福の形をしていて、直視してはいけない気持ちになった。それでも視線を逸らさずに見つめていると、親友は整った顔を曇らせて首を傾げる。
「どうした」
「……いや、なんでも」
一緒にいるのに、なんだか親友は寂しそうだなどと思ってしまった。このいちご煮というものは、涙の味がする。だから優しいのかもしれない。成歩堂はこの涙の味がするいちご煮をゆっくり味わった。
屋台の男性から雲丹や鮑を買ったあと、二人で再び海沿いを歩いた。太平洋から朝陽が零れ落ちてくる。朝の匂いが鼻を満たした。二人で並んで歩く。亜双義が静かに云った。
「宿に着いたら女将さんに調理してもらおう」
「うん」
「その前に眠らなくてはな。列車内で仮眠をとったとはいえ、少しばかり眠い」
「……なあ、亜双義」
呼びかけると、彼は静かに此方を見る。成歩堂は呟くように問うた。
「どうして北の海だったんだ」
「……どうして、とは」
「海が見たいなら地元でも良かったじゃないか。どうしてこんなところまで足を運んだんだ」
亜双義は眩しそうに此方を見やる。朝陽が眩しいのかもしれなかった。白い糸が徐々に空へ広がっていく。糸の光を一身に受けた親友は、やはり寂しそうだった。
やがて、ぽつりと囁く。
「……見てみたかったのだ。北の海というものが。東京の海も、四国の海も、青く鮮やかだからな」
「ここも同じじゃないか」
「同じなものか。……北の海は灰色だ。生を感じない」
そう云われても、成歩堂には東京の海も北の海も同じ色に見える。目を凝らしてよく見ても、さっぱり分からなかった。ただ、それでも一つだけ理解できた。
「ここは寒いな」
朝の光が雪に反射し、一層寒さが増す。迷子の目をした親友に笑いかけた。
「早く宿に行こうぜ。冷えてしまうよ」
亜双義は無言で頷いて、海に背を向けた。東京から北の国へやってきた二人は、そうして雪を踏みしめた。
死の海から背を向けて――あるいは視線を逸らし、二人は宿への道をゆっくり歩くのだった。
亜双義がなんの脈絡もなくそう云ってくるので、成歩堂は首を傾げた。奢ってくれるのかと期待したが、亜双義になにかしてやった記憶はない。なんならいつも亜双義におんぶに抱っこ状態だ。なので奢られることはない、と思う。亜双義は腕を組んで不敵に笑っている。良くないことを考えているときの顔だ。嫌な予感を覚えながらも、成歩堂は尋ねた。
「そりゃあ、不味いものより美味しいものを食べるほうが嬉しいけど……突然どうしたんだ? 藪から棒に」
「では、明晩決行するぞ。遠出の支度をしろ」
大学の講義室内、二人だけの空間で亜双義は高々と声をあげる。時刻はもう夕方で、雪が降っていることもあってすっかり暗かった。日が当たらない講義室で、成歩堂の親友はにやりと笑う。あ、これはろくなことではないなと成歩堂は頭の隅で思った。
「北の国まで食い倒れといこうではないか、相棒!」
そうしてやってきた本州の北。列車から降りると、待っていたのは極寒だった。外套を掴み、風で飛ばされそうな鞄を強く握った。
「さむっ」
東京ですら今の時期は雪が降っていて寒いというのに、北の国はそれ以上だった。辺り一面銀世界。駅舎には雪が積もっており、今にも雪崩れ込んできそうだった。雪が降っていないのは、運が良かったが。
鼻頭を赤くした亜双義が豪快に笑う。
「まったく、鍛錬が足りてないな」
「亜双義は平気そうだな……。ぼくは凍え死んでしまいそうだよ」
「まあそう言うな。今から良いところに連れてってやる」
「良いところ? こんな時間にか?」
時刻は夜三時を少し過ぎたところだった。今の時間だと開いている店もないだろう。朝の光すら差さない暗闇の中、亜双義の吐く息の白だけはっきりと見えた。
「つべこべ言わずついてこい。さて、馬車でもつかまえるか……」
「ま、待ってくれ亜双義。足元が滑って、うわあっ」
足元の雪が絡みついてひっくり返ってしまう。なんとか受け身を取ったが尻の辺りが痛かった。ひっくり返って雪まみれになった成歩堂に、亜双義は苦笑して手を差し伸べた。
「まったく。鈍くさいやつだな」
そう云う亜双義は言葉と裏腹に優しい笑みを浮かべていた。再び転ばないように、手を繋いで歩く。二人して足元は覚束ない。けれども笑いながら先を進んだ。途中で馬車を拾い、雪道を駆けていく。凍える寒さの中、成歩堂は赤くなる指先を吐息で溶かしていた。
「亜双義、どこへ行くんだ?」
「着いてからのお楽しみってやつだ。まあ、到着まで休め」
そう云われても、雪道はがたがたしていて安定せず、寝るにしても馬車の椅子は固い。そうしているうちに馬車が大きく揺れ、舌を噛んでしまった。まったく、踏んだり蹴ったりだ。愉快そうに笑うこの親友は、いつだって突拍子もなく成歩堂を巻き込むのだ。
しばらくして馬車が止まった。降りると一段と冷たい風が頬を切り裂く、凍える風が運んでくるのは、間違いない、磯の香りだった。
「海か?」
「察しがいいな」
親友が薄闇で笑む。朝日が昇るまでまだまだ時間がある。海に沿うように港を歩いた。やがて、先の方に灯火の集団が見える。どうやら屋台を出しているらしい。歩いていると、徐々に夜の濃度が薄くなっていくのだった。
「朝市だ」
亜双義がぽつりと云う。なぜ彼はわざわざ東北の朝市に足を運んだのだろう。朝市など、東京の海辺でもやっているのに。白煙を吐く親友の顔がぼやけて見えた。
朝市は年末ということもあり賑わっていた。魚介をおいている屋台や漬物を売っている屋台が所狭しと並んでいる。ぎゅうぎゅうに詰め込まれた人の波に押し流されてしまいそうだった。
「まったくキサマは。日本男児がそう易々と流されるんじゃない」
亜双義に腕をむんずと掴まれ、ずるずると引っ張られる。彼方此方で美味しそうな匂いがする。鼻孔を擽る食べ物の匂いに誘われて、成歩堂の腹の虫が盛大に鳴った。亜双義は笑う。
「無様だな。成歩堂龍ノ介!」
「うう、ひどいや……」
亜双義は快活にあっはっはと笑う。そして、ある屋台の前で立ち止まって成歩堂に指で示した。
「ちょうどいい。温かいものでも食って暖をとろうではないか」
そう言って亜双義は屋台の男性に声をかける。楽しそうに笑っているが、どこかぼやけた印象の背中を見つめながら、成歩堂は亜双義のされるがままになっていた。親友の考えていることがこれっぽっちも分からなかった。
屋台の奥にある椅子に座ると、器が運ばれてくる。どうやら汁物らしい。お吸い物のような薄い色をしている。汁は白く濁っていて、仄かに酒の匂いもした。箸でかき混ぜてみると、雲丹と鮑が入っていた。
「これは一体なんだい?」
「いちご煮という汁物らしい。とにかく食してみようではないか」
亜双義に促されるまま器に口をつける。ほんのり海の匂いがしたかと思えば、強烈な海鮮の出汁が舌を襲う。今まで口にしたことのない強烈な味だったが、なぜか胸が温かくなった。
「なんだか、安心する味だな」
そう言うと、亜双義は目を細める。その表情が幸福の形をしていて、直視してはいけない気持ちになった。それでも視線を逸らさずに見つめていると、親友は整った顔を曇らせて首を傾げる。
「どうした」
「……いや、なんでも」
一緒にいるのに、なんだか親友は寂しそうだなどと思ってしまった。このいちご煮というものは、涙の味がする。だから優しいのかもしれない。成歩堂はこの涙の味がするいちご煮をゆっくり味わった。
屋台の男性から雲丹や鮑を買ったあと、二人で再び海沿いを歩いた。太平洋から朝陽が零れ落ちてくる。朝の匂いが鼻を満たした。二人で並んで歩く。亜双義が静かに云った。
「宿に着いたら女将さんに調理してもらおう」
「うん」
「その前に眠らなくてはな。列車内で仮眠をとったとはいえ、少しばかり眠い」
「……なあ、亜双義」
呼びかけると、彼は静かに此方を見る。成歩堂は呟くように問うた。
「どうして北の海だったんだ」
「……どうして、とは」
「海が見たいなら地元でも良かったじゃないか。どうしてこんなところまで足を運んだんだ」
亜双義は眩しそうに此方を見やる。朝陽が眩しいのかもしれなかった。白い糸が徐々に空へ広がっていく。糸の光を一身に受けた親友は、やはり寂しそうだった。
やがて、ぽつりと囁く。
「……見てみたかったのだ。北の海というものが。東京の海も、四国の海も、青く鮮やかだからな」
「ここも同じじゃないか」
「同じなものか。……北の海は灰色だ。生を感じない」
そう云われても、成歩堂には東京の海も北の海も同じ色に見える。目を凝らしてよく見ても、さっぱり分からなかった。ただ、それでも一つだけ理解できた。
「ここは寒いな」
朝の光が雪に反射し、一層寒さが増す。迷子の目をした親友に笑いかけた。
「早く宿に行こうぜ。冷えてしまうよ」
亜双義は無言で頷いて、海に背を向けた。東京から北の国へやってきた二人は、そうして雪を踏みしめた。
死の海から背を向けて――あるいは視線を逸らし、二人は宿への道をゆっくり歩くのだった。
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