夜を釣る
大学の教室で独り予習をしていたら、すっかり日が暮れてしまった。
構内を出た亜双義一真は、夜の道を歩いていた。街中は夜の色に染められていて、屋台の灯がふわりと空中に浮かんでいる。秋の初め、食べ物が美味しい季節だ。どこかで世話になってから帰るかと、適当な食堂の暖簾を潜る。気軽に入ったつもりだったが、亜双義は眉間に皺を寄せる羽目になった。
「……む、キサマは」
「あ、亜双義くん」
目の前の席に座っていたのは、かの弁論大会で勝利を手にした成歩堂龍ノ介だった。そうなると、亜双義は表情を曇らせざるを得ない。この男に敗れた人間としては、どうしても彼のことが気になってしまうのだ。こんな腑抜けた雰囲気の男が、なぜ自分を打ち負かしたのか、どうしても知りたい。亜双義は成歩堂の隣にどかりと座って睨めつけた。その視線に気づいているのか否か、成歩堂はのんびりと飯を食らっている。牛鍋御膳を頼んだらしい。
「亜双義くんはなにか食べないのかい?」
成歩堂が言うので、亜双義も牛鍋御膳を頼んだ。食べるものはなんでも良かったので、成歩堂と同じものにする。それでものんびりとした彼は、「ここの牛鍋うまいんだぜ」と笑った。
牛鍋御膳が運ばれるまで無言で待っていた。さすがの成歩堂もちらちらと覗き見ている。その視線を鬱陶しいと思いつつ、出された牛鍋御膳に手をつける。ほくほくの白米に湯気の立つ牛鍋。鍋はくつくつと煮えていて、野菜と牛肉のだしが香る。つややかな生卵に漬けて、まずは肉を食らう。温かな味が頬に沁みる。醤油と砂糖、それに赤味噌が絶妙に絡み合っている。確かに、ここの牛鍋は他のところとは一線を画していた。まず肉の質が良い。筋張っておらず柔らかい口当たりで食べやすい。夢中でがっつくと、成歩堂が「な? だから言っただろう?」と自信満々に胸を張った。どうしたことか、成歩堂は亜双義の食いっぷりを一通り見つめていた。食べ終わる頃になると、成歩堂ははっと我に還り、足元に置いていた荷物を持った。
「さて、そろそろ行こうかな」
「……なんだ、それは」
見たところ、釣り竿と魚をあげる籠のようだった。成歩堂は無邪気ににかりと笑って、釣り竿を掲げる。
「おじさんに貰ったんだ。使わないと損だろう? 今から夜釣りに行くんだ」
「夜釣りだと?」
亜双義は最後の白飯を一口飲み込んだ。この成歩堂龍ノ介という男は掴み所がなく、なにを考えているのか分からない。そのせいだろうか。彼がなにを考えているのか知りたい。興味を抑えきれず、亜双義はつっけんどんに口を開いた。
「オレも、ついていこう」
貴様のような軟弱者が夜の海など危険だ、などと屁理屈をつけて成歩堂の後をついていく。亜双義ほどではないが彼も日本人としては背丈があり、早々危険な目に遭うようには見えない。しかし成歩堂の、どことなく柔い雰囲気は物騒な事柄とはほど遠い世界のものであることは分かる。この男がどうして自分に勝てたのか、その謎を追求できる絶好の機会かもしれない。どこからどう見ても己に勝るとは思えないこの男が、鮮やかに亜双義から勝利を奪っていた。その理由を、亜双義は純粋に知りたかった。当の本人は、呑気に夜道で鼻歌を奏でているが。
亜双義に背を向けて海沿いを歩く成歩堂は、釣りをする場所を見計らっている。やがて港の一角に座りこんで、釣り紐を準備し始めた。手に持っていた赤い提灯で手元を照らして、細々としたことを器用にやっている。真っ黒な海水を籠に注いでから、紐をさざめく海に垂らした。白い糸が提灯の火に照らされて、てらてらと不思議な色合いを見せる。そんな彼の後ろで突っ立っていると、成歩堂は振り返った。
「きみも座りなよ。疲れるだろう?」
亜双義はその言葉に返答はしなかった。その代わり、返答に返答を重ねた。
「……なぜ、夜釣りなのだ」
「え?」
「魚を釣るのであれば、別に昼でも良かろう。手元も暗がりで見えづらくなるわけではない。なぜ、夜なのだ」
「なぜ、って言われてもなあ……」
静寂の夜に、成歩堂の情けない唸り声が鳴る。その唸り声は潮騒に負けず、亜双義の耳にはっきりと届いた。成歩堂はしばらく唸っていたが、結局困ったように眉を寄せてへらりと笑った。
「ぼくが、そうしたかったからかな」
気の抜けた返事に、亜双義は肩をすくめた。成歩堂龍ノ介という男は、底知れない。この夜の海のように、どこまでも果てしないものがある気がした。秋の海風が鼻を擽る。魚の匂いと一緒だ。先程食べた牛鍋とは違う、磯の匂い。獣とは違う生命が、確実にこの果てしなく暗い夜の海にいる。
成歩堂の釣り竿がしなった。夜の海に丸い線を描いて、釣り竿は魚を釣ろうと身体を曲げる。成歩堂は手早く釣り竿を引いた。紐に食らいついていたのは名前も知らぬ小さな魚だった。
釣れたというのに成歩堂は大きく喜びもせず、海水を注いだ籠に粛々と魚を放す。そしてまた紐の先に餌を刺して、広大な海に投げ入れた。その動作を幾度も繰り返す間、亜双義と成歩堂は無言だった。偶に成歩堂が気遣わしげな視線を亜双義に寄こすのだが、亜双義はそれに知らぬ振りをした。籠の中が魚で満ちる頃、成歩堂は立ち上がって大きく伸びをした。
「さて、と」
粗方満足したのだろう、成歩堂は釣り紐を海から引き上げた。重くなった籠を持ち帰るのだとばかり亜双義は思っていたのだが、予想に反して成歩堂は籠の中身をひっくり返し、魚を全部海へと還してしまった。
「あ!」
その行動に思わず亜双義は大声を出してしまう。成歩堂は「なんだよ」と顔を顰めるばかりだ。亜双義は腕を組んで、成歩堂に詰め寄った。
「なぜ放流した。勿体ない」
「だって、ぼくひとりじゃあの量を捌けないのだもの」
「だったら、なぜ釣りなどしたのだ」
「だから言っただろ。ぼくがそうしたかったからだって」
そう言われてしまえば、もう嘆息する他なかった。この男は、先程釣ったどの魚よりも自由気ままで掴み所がなさ過ぎる。だからこそ、彼の不思議な魅力に抗えなかった。
亜双義は観念して、成歩堂の隣に寄った。
「オレが全部捌いてやる。だからもう一度釣ってみろ」
先程より距離が近くなったせいで、成歩堂の顔が暗がりでもよく見えた。提灯の明かりで薄ぼんやりとしていた彼の輪郭が現実味を帯びていく。成歩堂は目を幾度か瞬かせた後、今日一番の笑顔を見せた。そんな笑顔を向けられるのはいつぶりだろう。亜双義は息を詰め、なにも言えなくなってしまった。
「じゃあ、二人で魚祭りだな」
この男と一緒なら、広い海の中でも寂しくないのかもしれない。今度は二人で地べたに座りながら、亜双義は独り想った。
構内を出た亜双義一真は、夜の道を歩いていた。街中は夜の色に染められていて、屋台の灯がふわりと空中に浮かんでいる。秋の初め、食べ物が美味しい季節だ。どこかで世話になってから帰るかと、適当な食堂の暖簾を潜る。気軽に入ったつもりだったが、亜双義は眉間に皺を寄せる羽目になった。
「……む、キサマは」
「あ、亜双義くん」
目の前の席に座っていたのは、かの弁論大会で勝利を手にした成歩堂龍ノ介だった。そうなると、亜双義は表情を曇らせざるを得ない。この男に敗れた人間としては、どうしても彼のことが気になってしまうのだ。こんな腑抜けた雰囲気の男が、なぜ自分を打ち負かしたのか、どうしても知りたい。亜双義は成歩堂の隣にどかりと座って睨めつけた。その視線に気づいているのか否か、成歩堂はのんびりと飯を食らっている。牛鍋御膳を頼んだらしい。
「亜双義くんはなにか食べないのかい?」
成歩堂が言うので、亜双義も牛鍋御膳を頼んだ。食べるものはなんでも良かったので、成歩堂と同じものにする。それでものんびりとした彼は、「ここの牛鍋うまいんだぜ」と笑った。
牛鍋御膳が運ばれるまで無言で待っていた。さすがの成歩堂もちらちらと覗き見ている。その視線を鬱陶しいと思いつつ、出された牛鍋御膳に手をつける。ほくほくの白米に湯気の立つ牛鍋。鍋はくつくつと煮えていて、野菜と牛肉のだしが香る。つややかな生卵に漬けて、まずは肉を食らう。温かな味が頬に沁みる。醤油と砂糖、それに赤味噌が絶妙に絡み合っている。確かに、ここの牛鍋は他のところとは一線を画していた。まず肉の質が良い。筋張っておらず柔らかい口当たりで食べやすい。夢中でがっつくと、成歩堂が「な? だから言っただろう?」と自信満々に胸を張った。どうしたことか、成歩堂は亜双義の食いっぷりを一通り見つめていた。食べ終わる頃になると、成歩堂ははっと我に還り、足元に置いていた荷物を持った。
「さて、そろそろ行こうかな」
「……なんだ、それは」
見たところ、釣り竿と魚をあげる籠のようだった。成歩堂は無邪気ににかりと笑って、釣り竿を掲げる。
「おじさんに貰ったんだ。使わないと損だろう? 今から夜釣りに行くんだ」
「夜釣りだと?」
亜双義は最後の白飯を一口飲み込んだ。この成歩堂龍ノ介という男は掴み所がなく、なにを考えているのか分からない。そのせいだろうか。彼がなにを考えているのか知りたい。興味を抑えきれず、亜双義はつっけんどんに口を開いた。
「オレも、ついていこう」
貴様のような軟弱者が夜の海など危険だ、などと屁理屈をつけて成歩堂の後をついていく。亜双義ほどではないが彼も日本人としては背丈があり、早々危険な目に遭うようには見えない。しかし成歩堂の、どことなく柔い雰囲気は物騒な事柄とはほど遠い世界のものであることは分かる。この男がどうして自分に勝てたのか、その謎を追求できる絶好の機会かもしれない。どこからどう見ても己に勝るとは思えないこの男が、鮮やかに亜双義から勝利を奪っていた。その理由を、亜双義は純粋に知りたかった。当の本人は、呑気に夜道で鼻歌を奏でているが。
亜双義に背を向けて海沿いを歩く成歩堂は、釣りをする場所を見計らっている。やがて港の一角に座りこんで、釣り紐を準備し始めた。手に持っていた赤い提灯で手元を照らして、細々としたことを器用にやっている。真っ黒な海水を籠に注いでから、紐をさざめく海に垂らした。白い糸が提灯の火に照らされて、てらてらと不思議な色合いを見せる。そんな彼の後ろで突っ立っていると、成歩堂は振り返った。
「きみも座りなよ。疲れるだろう?」
亜双義はその言葉に返答はしなかった。その代わり、返答に返答を重ねた。
「……なぜ、夜釣りなのだ」
「え?」
「魚を釣るのであれば、別に昼でも良かろう。手元も暗がりで見えづらくなるわけではない。なぜ、夜なのだ」
「なぜ、って言われてもなあ……」
静寂の夜に、成歩堂の情けない唸り声が鳴る。その唸り声は潮騒に負けず、亜双義の耳にはっきりと届いた。成歩堂はしばらく唸っていたが、結局困ったように眉を寄せてへらりと笑った。
「ぼくが、そうしたかったからかな」
気の抜けた返事に、亜双義は肩をすくめた。成歩堂龍ノ介という男は、底知れない。この夜の海のように、どこまでも果てしないものがある気がした。秋の海風が鼻を擽る。魚の匂いと一緒だ。先程食べた牛鍋とは違う、磯の匂い。獣とは違う生命が、確実にこの果てしなく暗い夜の海にいる。
成歩堂の釣り竿がしなった。夜の海に丸い線を描いて、釣り竿は魚を釣ろうと身体を曲げる。成歩堂は手早く釣り竿を引いた。紐に食らいついていたのは名前も知らぬ小さな魚だった。
釣れたというのに成歩堂は大きく喜びもせず、海水を注いだ籠に粛々と魚を放す。そしてまた紐の先に餌を刺して、広大な海に投げ入れた。その動作を幾度も繰り返す間、亜双義と成歩堂は無言だった。偶に成歩堂が気遣わしげな視線を亜双義に寄こすのだが、亜双義はそれに知らぬ振りをした。籠の中が魚で満ちる頃、成歩堂は立ち上がって大きく伸びをした。
「さて、と」
粗方満足したのだろう、成歩堂は釣り紐を海から引き上げた。重くなった籠を持ち帰るのだとばかり亜双義は思っていたのだが、予想に反して成歩堂は籠の中身をひっくり返し、魚を全部海へと還してしまった。
「あ!」
その行動に思わず亜双義は大声を出してしまう。成歩堂は「なんだよ」と顔を顰めるばかりだ。亜双義は腕を組んで、成歩堂に詰め寄った。
「なぜ放流した。勿体ない」
「だって、ぼくひとりじゃあの量を捌けないのだもの」
「だったら、なぜ釣りなどしたのだ」
「だから言っただろ。ぼくがそうしたかったからだって」
そう言われてしまえば、もう嘆息する他なかった。この男は、先程釣ったどの魚よりも自由気ままで掴み所がなさ過ぎる。だからこそ、彼の不思議な魅力に抗えなかった。
亜双義は観念して、成歩堂の隣に寄った。
「オレが全部捌いてやる。だからもう一度釣ってみろ」
先程より距離が近くなったせいで、成歩堂の顔が暗がりでもよく見えた。提灯の明かりで薄ぼんやりとしていた彼の輪郭が現実味を帯びていく。成歩堂は目を幾度か瞬かせた後、今日一番の笑顔を見せた。そんな笑顔を向けられるのはいつぶりだろう。亜双義は息を詰め、なにも言えなくなってしまった。
「じゃあ、二人で魚祭りだな」
この男と一緒なら、広い海の中でも寂しくないのかもしれない。今度は二人で地べたに座りながら、亜双義は独り想った。
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