夜行列車、銀河往き
大学の下見を終え、実家へ帰るところだった。
帝都勇盟大学への進学が決まったぼくは、この雪の降る季節に都心へ足を運んでいた。帝都は華やかで活気があり、人々の笑顔が溢れる場所だった。ついうろうろと歩いていたら、帰りの列車は深夜帯のものしか残っていなかった。夜の帝都はお前のようなお坊ちゃんが出歩くところではない、と親戚から注意されたというのにこの体たらくだ。白い雪は満遍なく駅舎の屋根に降り注ぐ。さすがに冬の夜は冷える。はあ、とかじかむ指に息を吐いて寒さをごまかした。列車の来ない駅構内は侘しく、人も片手で数えるほどしかいない。しんしんと、冬の静寂だけが鳴っている。そのうち、ごうごうと、車輪の燃え盛る音が遠方から聞こえてきた。ぼくが乗る夜行列車だ。金属の擦り合う音が耳をつんざく。雪の静けさを切り裂いた黒い獣がぼくの目の前で停車した。ようやく寒さを凌げる。いそいそと列車に乗り込み、暖色の電灯に照らされた通路を歩いた。適当な座席を見繕い、荷物を上段の網棚に置く。長椅子にどっかり座ればようやく息をつけた。対面の席には誰も座っていない。どうやらこの車両にはぼく一人しかいないらしい。車窓の外は真っ暗で、まるで黒の窓掛けが張られているようだ。叩きつける斑点模様の雪の白と、ぼくのとぼけた顔が窓の中で溶けていく。明るい車内の様子が見て取れた。
そのとき、車両の扉が開かれた。
扉の奥から現れたのは外套を身に纏った若い男だった。袴を身につけているようではあったが、ハンチング帽に長靴(ブーツ)と、和洋折衷の装いであった。肩には雪がまばらに降りかかっている。目元は帽子の陰に隠れて見えなかったが、ぼくと同年代のようであった。背筋をぴんと伸ばし、堂々とした出で立ちだった。その男はぼくと視線が合うと、軽く会釈をして、少し離れた座席に座った。なぜぼくと同年代の男がこんな時間に列車に乗っているのか、俄然興味があった。ここで会ったのもなにかの縁だ。ぼくはなんとなく、その男に話しかけてみることにした。席を立って、男が座っている座席へ向かう。
「こんばんは」
挨拶をすると、男は怪訝そうな声で、それでも挨拶を返してくれた。
「・・・・・・こんばんは」
「今宵は冷えますね」
外套の雪を手で払ってやると、男は愛想よく「ありがとうございます」と頭を下げた。随分警戒心の強い人だが、確かに知らない人間に話しかけられるのは怖いかもしれない。ぼくは苦笑した。
「こちらへ座っても?」
「・・・・・・なぜです?」
「だって、貴方と話をしてみたいと思ったのです。この車両には、ぼくら二人しかいませんからね」
男は息を呑んで、帽子を目深に被る。呆れているのか、鼻を鳴らしていた。
「・・・・・・驚いた。どうやら貴方は、警戒心のない御仁であるようだ」
「あはは、よく言われます。世間知らずの坊ちゃんだと」
「世間知らずの坊ちゃん・・・・・ですか」
「はい。春に進学する予定で、今日は大学の下見に帝都まで」
席に座って彼と対面した。帽子のせいで顔は見えないが、すらりとした鼻筋が精悍な面立ちを想起させる。引き結ばれた形のよい唇がゆっくりと開いた。
「自分も、この春に進学します」
「おお! そうなのですか! ちなみにどこへ?」
「帝都勇盟大学です」
まさか同じ大学だとは思っていなかったので笑ってしまった。
「ぼくと同じじゃないですか! じゃあ、同学年ということになるのか。同志に会えて嬉しいなあ」
「同志ですって?」
返された言葉には苛立ちが混じっていた。どうやらなにかが気に食わなかったらしい。首を傾げると、男は咳払いをした。帽子の鍔のせいで彼の目は見えない。陰鬱な口元がぼくを真っ向から否定していた。だというのに、この不思議な男に惹かれている。彼の空気は強ばっていて、ひどく頑丈だ。男は静かに話した。鬱屈とした声だった。
「・・・・・・私は、成し遂げなければいけないことがあるのです。必ず」
そう言って、男は窓の外を眺める。線の整った横顔が美しかった。その線は少しもぶれることなく、真っ直ぐに彼を形作っている。
「人と戯れている時間など、私には・・・・・・」
「なあ」
男の言葉を遮って、ぼくは懐から小包を取り出した。
「手を出してくれ」
男は渋々といった体で、左手の甲を差し出す。ぼくはその手をひっくり返して、その冷たい手の平に小さな小包を掴ませてやった。そのままその手を丸めると、男は首を傾げた。手を離すと、男は緩慢な動作で手を開く。
「・・・・・・これは?」
「べっこう飴」
男の手には、琥珀色のべっこう飴が輝いていた。薄い膜で覆われたべっこう飴は、灯を反射してきらきらとしている。この男が、甘いものでも食べて少しでも幸福になってくれたらいいと思った。
すると、丁度甲高い汽笛が鳴る。どうやらぼくの目的地が近づいているようだ。
「もう行かなくちゃ」
立ち上がり、元の席に戻って荷物を取った。男のほうを振り返ると、彼は帽子越しにぼくを見つめていた。その姿が、置いてきぼりにされた幼子のようで、少しばかりかわいそうであった。だから、ぼくは気休め程度にしかならない言葉を吐いた。
「美しいヒト、貴方が幸せになるのを願っています」
そうしてぼくは無言の彼に背を向けて、停まった列車から降りた。外は雪がやんでいた。しん、とした夜の静寂がうるさい。あの男の、美しい声色はもう二度と聴けないだろうなと思った。そうして、駅舎を出ようとした。
すると、車窓の開く音が聞こえる。
「おい!」
振り返ると、先程の男が窓から身を乗り出して此方を見ていた。風に煽られ、ハンチング帽が夜空へと消えていく。ぶわりと舞い上がった帽子が、雪のようだった。彼の表情は、暗闇に被ってよく見えなかった。
「キサマ、名はなんという!」
声を必死で張り上げる男に、ぼくは手を振る。ぼう、と汽笛の鳴る音とぼくの声が重なった。
「成歩堂! 成歩堂龍ノ介!」
表情は見えなかったのに、瞳に宿った彼の強い光だけは、鮮明に記憶に焼きついた。
ぼう、ぼう、と。静かな世界に響く。雪雲は遥か遠くに消え、煌々と輝く銀河が空に満ちていた。銀河のように不思議な煌めきを持った男は、白い息を吐いていた。
彼の姿がどんどん遠ざかっていく。黒い獣が彼を乗せて走り去っていく。
甲高い汽笛の鳴る世界で、男がぼくの名前を聞き取ってくれたのかは分からなかった。
夏。青空の広がる季節、ぼくは亜双義と列車に乗っていた。
二人で小旅行に行こうという話になり、近郊の旅館に向かっている。試験のため勉学に励んでいる亜双義の息抜きに少しでもなればいい。着替えが入っている旅行鞄を網棚に置くために背を伸ばした。背中の汗がシャツにじわりと滲んだ。少しでも涼もうと亜双義が車窓を開けてくれる。どっかりと背もたれにぼくが寄りかかると、親友は苦々しく呟いた。
「それにしても暑いな」
反対側に座っている亜双義はシャツの襟をぱたぱたと煽ぎ、暑さから逃れようとしている。車窓からなだれ込む風だけが救いだった。窓の外では太陽が燦々と輝き、すべての命を焼き尽くそうとしている。強風を受け、亜双義の髪が揺れていた。その横顔の線に既視感を覚えた。
「そういえばさ、亜双義」
「どうした」
「昔、夜行列車に乗ったときに、すごく美しいヒトに出会ったんだ」
「ほう」
亜双義は此方に視線を合わせて話を聞いてくれる。あの男とは違い、親友はぼくの目を見てくれた。
「そのヒトは男の人でさ、つい気になって話しかけてしまったんだ。帽子を深く被っていて、ぼくを見ようともしなかったんだけど」
「惚れたのか?」
「茶化さないで聞いてくれよ」
頬を膨らませて苦言を呈すと、亜双義はあっはっはと笑って形だけの謝罪をしてくる。そしてぼくの話を聞く体勢で、静かに微笑んだ。
「続けろ」
「ああ。そのヒトはぼくと同い年で、勇盟大学に進学するって言っていた。どこか思い詰めてるようだったから、少しでも元気になればいいと思って飴をあげたよ」
「・・・・・・飴?」
「うん。これくらいのべっこう飴」
指先で飴の大きさを示すと、亜双義は息を詰めて、そして目を細めた。笑みを消し、顎に手を当てて考えるそぶりをしている。そして独り納得したのか、大きく頷いた。
「・・・・・・で? その話の終着点はどこにある」
「いや、そのヒトの学部を尋ねるの忘れてたなって。もしかしたら友達になれていたかもしれないしな」
「しかし、キサマの目を見ないヤツだったのだろう? そんな薄情なヤツ、捨て置けばいい」
「そうかなあ・・・・・・。なんとなく、仲良くなれそうな気がしたんだけど」
亜双義は深く息を吐いた。「まったくキサマというヤツは・・・・・・」「お人好しも大概にしろ」などと小言を言われる。それを全部聞き流して、開いた車窓から吹き抜ける涼風を受けていた。亜双義の小言はどこか甘さを含んでいるから、聞き流してもいいのだ。
「ところで、なぜそんな話を?」
「ふと思い出してさ、亜双義に似てたなって」
「その男と、オレが?」
「ああ。お前と違って、どことなく儚いヒトだったけど」
「キサマ、まるでオレが図太いとでも言いたげだな」
「実際その通りだろ」
亜双義は爽やかなヤツだが、こういうところは執念深い。また小言を言われるかしらん、と横目で見やると、思いの他穏やかな笑みを浮かべていて拍子抜けした。
「・・・・・・なんだよ、にやにやして」
「くく・・・・・・そうか」
「だからなんだよ」
「キサマ、オレを美しいと思っているのか」
そう言われて、一瞬頭が真っ白になる。此奴は、なにを言っているのか。そこで自分の発言を振り返ってみる。確かに、あの男と亜双義はよく似ている。ぼくはあの男を美しいと感じた。つまりは――。
「・・・・・・こ、」
急激に、額に熱気が襲う。ただでさえ暑いのにこれは敵わない。額どころか頬や首も熱い。熱で詰まった声はぶるぶるとみっともなく震えてしまっている。親友のにやけ面が恨めしい。ぼくを魅了してやまないこの男に意地悪されている。
「言葉のあや、だろ」
「ほう?」
亜双義が愉快げにしているので、いたたまれなくなりそっぽをむく。先程まで涼んでいたというのに、台無しだ。そんなぼくに苦笑して、親友が手を差し出してきた。
「ほら」
「ん」
その左手を自分の右手で繋ぐと、「は」と驚きの声があがる。亜双義を見やれば、豆鉄砲を喰らった鳩のような表情をしていた。ぼくは眉間を寄せて、「なんだよ」と問うてやった。亜双義の耳殻が、うっすら赤く染まっている。暑いのだろうか。
「いや、オレは・・・・・・腹が減ったからなにか寄こせ、と」
「は?」
つまり、亜双義はぼくと手を繋ぐ予定はさらさらなかったのだ。ぼくだけが勘違いして手を差し出した。目の前が一瞬のうちに赤く染まる。あまりにも恥ずかしすぎる。穴があったら入りたい。残念なことに、列車内に穴など到底ありはしないのだけれど。
「なかったことにしてくれ」
手を離そうとすれば、亜双義は離すまいと左手に力を込めてきた。その手は熱く、汗ばんでいて、湿っていた。普段なら不快であろうその感触も、親友のものだと思えば許せてしまう。じわじわと熱が噎せ返り、脳まで茹だってしまいそうだった。
「このままでいい」
親友はぼくの手を取ったまま、額に当てる。赤い鉢巻きの布の感触が手の甲に触れた。
「これがいい」
明瞭な声で、親友は懇願した。指を絡ませた手は、しっかりと繋がれていた。
眩しい青空に目が眩んだ。夜行列車で出会った男にも、ぼくの目の前で微笑んでいる親友にも、同じ銀河があるな、などと思った。あの冬の夜に見上げた銀河がある。ぼくは親友に、どこまでも広がる青の銀河を見た。
ああ、もう、やだなあと独りごちる。握ったこの手を離せるわけがなかった。
ぼくの親友は、銀河のように美しいヒトだ。
帝都勇盟大学への進学が決まったぼくは、この雪の降る季節に都心へ足を運んでいた。帝都は華やかで活気があり、人々の笑顔が溢れる場所だった。ついうろうろと歩いていたら、帰りの列車は深夜帯のものしか残っていなかった。夜の帝都はお前のようなお坊ちゃんが出歩くところではない、と親戚から注意されたというのにこの体たらくだ。白い雪は満遍なく駅舎の屋根に降り注ぐ。さすがに冬の夜は冷える。はあ、とかじかむ指に息を吐いて寒さをごまかした。列車の来ない駅構内は侘しく、人も片手で数えるほどしかいない。しんしんと、冬の静寂だけが鳴っている。そのうち、ごうごうと、車輪の燃え盛る音が遠方から聞こえてきた。ぼくが乗る夜行列車だ。金属の擦り合う音が耳をつんざく。雪の静けさを切り裂いた黒い獣がぼくの目の前で停車した。ようやく寒さを凌げる。いそいそと列車に乗り込み、暖色の電灯に照らされた通路を歩いた。適当な座席を見繕い、荷物を上段の網棚に置く。長椅子にどっかり座ればようやく息をつけた。対面の席には誰も座っていない。どうやらこの車両にはぼく一人しかいないらしい。車窓の外は真っ暗で、まるで黒の窓掛けが張られているようだ。叩きつける斑点模様の雪の白と、ぼくのとぼけた顔が窓の中で溶けていく。明るい車内の様子が見て取れた。
そのとき、車両の扉が開かれた。
扉の奥から現れたのは外套を身に纏った若い男だった。袴を身につけているようではあったが、ハンチング帽に長靴(ブーツ)と、和洋折衷の装いであった。肩には雪がまばらに降りかかっている。目元は帽子の陰に隠れて見えなかったが、ぼくと同年代のようであった。背筋をぴんと伸ばし、堂々とした出で立ちだった。その男はぼくと視線が合うと、軽く会釈をして、少し離れた座席に座った。なぜぼくと同年代の男がこんな時間に列車に乗っているのか、俄然興味があった。ここで会ったのもなにかの縁だ。ぼくはなんとなく、その男に話しかけてみることにした。席を立って、男が座っている座席へ向かう。
「こんばんは」
挨拶をすると、男は怪訝そうな声で、それでも挨拶を返してくれた。
「・・・・・・こんばんは」
「今宵は冷えますね」
外套の雪を手で払ってやると、男は愛想よく「ありがとうございます」と頭を下げた。随分警戒心の強い人だが、確かに知らない人間に話しかけられるのは怖いかもしれない。ぼくは苦笑した。
「こちらへ座っても?」
「・・・・・・なぜです?」
「だって、貴方と話をしてみたいと思ったのです。この車両には、ぼくら二人しかいませんからね」
男は息を呑んで、帽子を目深に被る。呆れているのか、鼻を鳴らしていた。
「・・・・・・驚いた。どうやら貴方は、警戒心のない御仁であるようだ」
「あはは、よく言われます。世間知らずの坊ちゃんだと」
「世間知らずの坊ちゃん・・・・・ですか」
「はい。春に進学する予定で、今日は大学の下見に帝都まで」
席に座って彼と対面した。帽子のせいで顔は見えないが、すらりとした鼻筋が精悍な面立ちを想起させる。引き結ばれた形のよい唇がゆっくりと開いた。
「自分も、この春に進学します」
「おお! そうなのですか! ちなみにどこへ?」
「帝都勇盟大学です」
まさか同じ大学だとは思っていなかったので笑ってしまった。
「ぼくと同じじゃないですか! じゃあ、同学年ということになるのか。同志に会えて嬉しいなあ」
「同志ですって?」
返された言葉には苛立ちが混じっていた。どうやらなにかが気に食わなかったらしい。首を傾げると、男は咳払いをした。帽子の鍔のせいで彼の目は見えない。陰鬱な口元がぼくを真っ向から否定していた。だというのに、この不思議な男に惹かれている。彼の空気は強ばっていて、ひどく頑丈だ。男は静かに話した。鬱屈とした声だった。
「・・・・・・私は、成し遂げなければいけないことがあるのです。必ず」
そう言って、男は窓の外を眺める。線の整った横顔が美しかった。その線は少しもぶれることなく、真っ直ぐに彼を形作っている。
「人と戯れている時間など、私には・・・・・・」
「なあ」
男の言葉を遮って、ぼくは懐から小包を取り出した。
「手を出してくれ」
男は渋々といった体で、左手の甲を差し出す。ぼくはその手をひっくり返して、その冷たい手の平に小さな小包を掴ませてやった。そのままその手を丸めると、男は首を傾げた。手を離すと、男は緩慢な動作で手を開く。
「・・・・・・これは?」
「べっこう飴」
男の手には、琥珀色のべっこう飴が輝いていた。薄い膜で覆われたべっこう飴は、灯を反射してきらきらとしている。この男が、甘いものでも食べて少しでも幸福になってくれたらいいと思った。
すると、丁度甲高い汽笛が鳴る。どうやらぼくの目的地が近づいているようだ。
「もう行かなくちゃ」
立ち上がり、元の席に戻って荷物を取った。男のほうを振り返ると、彼は帽子越しにぼくを見つめていた。その姿が、置いてきぼりにされた幼子のようで、少しばかりかわいそうであった。だから、ぼくは気休め程度にしかならない言葉を吐いた。
「美しいヒト、貴方が幸せになるのを願っています」
そうしてぼくは無言の彼に背を向けて、停まった列車から降りた。外は雪がやんでいた。しん、とした夜の静寂がうるさい。あの男の、美しい声色はもう二度と聴けないだろうなと思った。そうして、駅舎を出ようとした。
すると、車窓の開く音が聞こえる。
「おい!」
振り返ると、先程の男が窓から身を乗り出して此方を見ていた。風に煽られ、ハンチング帽が夜空へと消えていく。ぶわりと舞い上がった帽子が、雪のようだった。彼の表情は、暗闇に被ってよく見えなかった。
「キサマ、名はなんという!」
声を必死で張り上げる男に、ぼくは手を振る。ぼう、と汽笛の鳴る音とぼくの声が重なった。
「成歩堂! 成歩堂龍ノ介!」
表情は見えなかったのに、瞳に宿った彼の強い光だけは、鮮明に記憶に焼きついた。
ぼう、ぼう、と。静かな世界に響く。雪雲は遥か遠くに消え、煌々と輝く銀河が空に満ちていた。銀河のように不思議な煌めきを持った男は、白い息を吐いていた。
彼の姿がどんどん遠ざかっていく。黒い獣が彼を乗せて走り去っていく。
甲高い汽笛の鳴る世界で、男がぼくの名前を聞き取ってくれたのかは分からなかった。
夏。青空の広がる季節、ぼくは亜双義と列車に乗っていた。
二人で小旅行に行こうという話になり、近郊の旅館に向かっている。試験のため勉学に励んでいる亜双義の息抜きに少しでもなればいい。着替えが入っている旅行鞄を網棚に置くために背を伸ばした。背中の汗がシャツにじわりと滲んだ。少しでも涼もうと亜双義が車窓を開けてくれる。どっかりと背もたれにぼくが寄りかかると、親友は苦々しく呟いた。
「それにしても暑いな」
反対側に座っている亜双義はシャツの襟をぱたぱたと煽ぎ、暑さから逃れようとしている。車窓からなだれ込む風だけが救いだった。窓の外では太陽が燦々と輝き、すべての命を焼き尽くそうとしている。強風を受け、亜双義の髪が揺れていた。その横顔の線に既視感を覚えた。
「そういえばさ、亜双義」
「どうした」
「昔、夜行列車に乗ったときに、すごく美しいヒトに出会ったんだ」
「ほう」
亜双義は此方に視線を合わせて話を聞いてくれる。あの男とは違い、親友はぼくの目を見てくれた。
「そのヒトは男の人でさ、つい気になって話しかけてしまったんだ。帽子を深く被っていて、ぼくを見ようともしなかったんだけど」
「惚れたのか?」
「茶化さないで聞いてくれよ」
頬を膨らませて苦言を呈すと、亜双義はあっはっはと笑って形だけの謝罪をしてくる。そしてぼくの話を聞く体勢で、静かに微笑んだ。
「続けろ」
「ああ。そのヒトはぼくと同い年で、勇盟大学に進学するって言っていた。どこか思い詰めてるようだったから、少しでも元気になればいいと思って飴をあげたよ」
「・・・・・・飴?」
「うん。これくらいのべっこう飴」
指先で飴の大きさを示すと、亜双義は息を詰めて、そして目を細めた。笑みを消し、顎に手を当てて考えるそぶりをしている。そして独り納得したのか、大きく頷いた。
「・・・・・・で? その話の終着点はどこにある」
「いや、そのヒトの学部を尋ねるの忘れてたなって。もしかしたら友達になれていたかもしれないしな」
「しかし、キサマの目を見ないヤツだったのだろう? そんな薄情なヤツ、捨て置けばいい」
「そうかなあ・・・・・・。なんとなく、仲良くなれそうな気がしたんだけど」
亜双義は深く息を吐いた。「まったくキサマというヤツは・・・・・・」「お人好しも大概にしろ」などと小言を言われる。それを全部聞き流して、開いた車窓から吹き抜ける涼風を受けていた。亜双義の小言はどこか甘さを含んでいるから、聞き流してもいいのだ。
「ところで、なぜそんな話を?」
「ふと思い出してさ、亜双義に似てたなって」
「その男と、オレが?」
「ああ。お前と違って、どことなく儚いヒトだったけど」
「キサマ、まるでオレが図太いとでも言いたげだな」
「実際その通りだろ」
亜双義は爽やかなヤツだが、こういうところは執念深い。また小言を言われるかしらん、と横目で見やると、思いの他穏やかな笑みを浮かべていて拍子抜けした。
「・・・・・・なんだよ、にやにやして」
「くく・・・・・・そうか」
「だからなんだよ」
「キサマ、オレを美しいと思っているのか」
そう言われて、一瞬頭が真っ白になる。此奴は、なにを言っているのか。そこで自分の発言を振り返ってみる。確かに、あの男と亜双義はよく似ている。ぼくはあの男を美しいと感じた。つまりは――。
「・・・・・・こ、」
急激に、額に熱気が襲う。ただでさえ暑いのにこれは敵わない。額どころか頬や首も熱い。熱で詰まった声はぶるぶるとみっともなく震えてしまっている。親友のにやけ面が恨めしい。ぼくを魅了してやまないこの男に意地悪されている。
「言葉のあや、だろ」
「ほう?」
亜双義が愉快げにしているので、いたたまれなくなりそっぽをむく。先程まで涼んでいたというのに、台無しだ。そんなぼくに苦笑して、親友が手を差し出してきた。
「ほら」
「ん」
その左手を自分の右手で繋ぐと、「は」と驚きの声があがる。亜双義を見やれば、豆鉄砲を喰らった鳩のような表情をしていた。ぼくは眉間を寄せて、「なんだよ」と問うてやった。亜双義の耳殻が、うっすら赤く染まっている。暑いのだろうか。
「いや、オレは・・・・・・腹が減ったからなにか寄こせ、と」
「は?」
つまり、亜双義はぼくと手を繋ぐ予定はさらさらなかったのだ。ぼくだけが勘違いして手を差し出した。目の前が一瞬のうちに赤く染まる。あまりにも恥ずかしすぎる。穴があったら入りたい。残念なことに、列車内に穴など到底ありはしないのだけれど。
「なかったことにしてくれ」
手を離そうとすれば、亜双義は離すまいと左手に力を込めてきた。その手は熱く、汗ばんでいて、湿っていた。普段なら不快であろうその感触も、親友のものだと思えば許せてしまう。じわじわと熱が噎せ返り、脳まで茹だってしまいそうだった。
「このままでいい」
親友はぼくの手を取ったまま、額に当てる。赤い鉢巻きの布の感触が手の甲に触れた。
「これがいい」
明瞭な声で、親友は懇願した。指を絡ませた手は、しっかりと繋がれていた。
眩しい青空に目が眩んだ。夜行列車で出会った男にも、ぼくの目の前で微笑んでいる親友にも、同じ銀河があるな、などと思った。あの冬の夜に見上げた銀河がある。ぼくは親友に、どこまでも広がる青の銀河を見た。
ああ、もう、やだなあと独りごちる。握ったこの手を離せるわけがなかった。
ぼくの親友は、銀河のように美しいヒトだ。
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