夢でもお前を救えない
あっはっはっはっはっ。
高らかに笑って夜の街を駆ける。重かった身体はどこまでも軽い。今なら遠くへ行けそうだ。己は陽気に夜闇の真ん中を走る。街中は夜だというのに祭りのように騒がしい。春の麗らかな風が己の白い袖を揺らした。
左手に空を、右手に狩魔を持ってひたすらに笑う。
抜き身の刀を月灯に照らすと、銀の線に紐が絡まっていた。真っ赤な紐が。
ひ、と通りがかった男性が己を見て異様に怯える。そんなに怯えなくてもいい。これは怖いものではない。貴方も極楽浄土へ連れて行ってやろう。狩魔を一振りすると、刀に纏わりついていた紐が雫となって地面に染みこむ。どうやら紐ではなかったらしい。もっと、液体状の、脂で湿った、紅いなにかだった。
聞くに堪えない声をあげ、背中を見せて逃げる男の襟足を掴み、ばっさりと刀で斬り伏せる。衣の割ける音。皮膚がぱっくり割れる音。その中に組み込まれた、軋んだ骨の感触に鳥肌が立った。全神経が悦びで支配されている。人間を割くのは、果物を割るのとそう変わりはない。割れた身体から紅い果汁が噴き出す。無花果のように熟れて腐った身体だった。
心底愉しくて、大笑いした。
あっはっはっはっはっ!
様々な種類の果物を斬った。細い果物、太い果物、大きな果物、小さな果物。その度に己の手は紅の果汁で汚れた。狩魔は刀らしく、脂でぬらぬらと光っていた。
見ているか! キサマらが己を育てたのだ! 父上と母上を見殺しにしたキサマらが、己を育んだのだ!
斬っても斬っても満たされない。人間が憎い。憎い憎い憎い憎い憎い。だから何度も斬った。骨を断ち、内臓を抉り、原形もなくなるほど壊してやった。腸は生暖かく、ぎとぎとと滑っていた。笑いが込み上げてくる。
キサマらだってそうしたのだ。己の両親を、そうやって壊したのだ。
目の前に小さな果実がいた。齢は十ほどだろうか。己を見て、涙を流して震えていた。そして小さな唇を開いて云った。
ヒ、ト、ゴ、ロ、シ、
己は首を傾げた。この童子はなにを云っているのか、理解ができない。人殺しは己ではなくキサマらだ。この世界のすべてが人殺しなのだ。己の大切なものを奪っておいて、そんな戯言を吐くのか。己はもう赦せない。人間を、世界を、全部全部全部全部全部。だからキサマらの大事なものもすべて奪ってやる。それだけのことだ。
この少年も解体してやろうと思った。或る日の誰かを見ているようで、気分が悪かった。
刀を振りかざそうとした。その時、その少年を庇うように一人の男が前に立ちはだかった。
真っ直ぐな眼の、書生姿の青年だった。人のよさそうな、優しい顔をしている。背丈は己より若干低い程度だが、己ほど鍛えているわけではなさそうだった。涙より笑顔の似合う、清廉な男だった。己はこの男を知っている。否、知っているはずがない。己はこの男なんか知らない。知らない、はずなのだ。誰だ。一体キサマは、誰なのだ。
「この子を斬るなら、ぼくを斬ってからにしろ」
男の黒い眼球に己の姿が映っているのがはっきり見えた。男の眼は、暗澹たる闇の中でも星のようにちかちかと瞬いていた。
ひどく憔悴し、傷ついた顔をした男の姿が、その眼には映っていた。
「亜双義」
青年は己の名を呼ぶ。己がずっと大事に抱えていた名を、なぜ彼が知っているのか。名前を呼ばれた瞬間、吐き気が込み上げた。
違う。己はキサマの思うような人間ではない。惨めで醜い生き物なのだ。キサマの前で美しくあろうとしているだけの矮小な生き物に過ぎない。だからもうやめてくれ。尊ぶように名前を呼ばないでくれ。真っ直ぐな眼で己を見ないでくれ。
だのに此奴は、両手を己に伸ばした。
「帰ろう」
血に濡れた己に構わず、健気に抱き留めようとするその姿に、ぞっとした。嫌だ。やめてくれ。己に近寄るな。キサマまで殺したくない。己はきっと殺してしまう。警告音が響いているのに、青年は歩み寄ってくる。やめろ、近づくな。殺したくない。キサマは、キサマだけは。
歩み寄る彼に、己は。
「うあああああああ!」
絶叫した。恐かった。逃げ出したかった。大切な彼を守りたいのに、己は、己という愚か者は。
狩魔を振りかざして、そして、親友の、胸を。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
気がつけば、白塗りの天井を見上げていた。
天井の白は夜の月に照らされ、藍色に発光していた。狭い座敷の一室で、は、は、と自分の荒い息づかいが聞こえる。身を起こして、自らの両手を眺めた。血に塗れていた両手は、今は月灯に白く照らされている。荒くなる呼吸をとめられず、その両手で口を塞いだ。
「亜双義」
同じ布団で寝ていた親友が目覚め、枕元に置いていた手ぬぐいをオレの首元に当てる。そこでようやく、自分がひどく汗をかいていることに気づいた。
「やめろ、オレは・・・・・・」
震える声で親友を拒絶する。それでも成歩堂はオレに身を寄せて、甲斐甲斐しく汗を拭っていた。親友を殺してしまうかもしれない。恐怖心を夢から引きずり出して、歯噛みした。成歩堂はじ、とオレの眼を覗く。その眼にオレの姿は映っていたが、仔細は分からなかった。
枕元に用意してあった水と錠剤を、親友が傍に寄せる。白い錠剤を手に取った成歩堂を、再び拒んだ。
「やめろ。寝たくない」
「亜双義・・・・・・」
「オレは大丈夫だ。だから・・・・・・」
「じゃあ、ぼくが飲むよ」
そう言って、成歩堂は錠剤を口に入れ、水を煽る。安堵したのも束の間、突然肩を強い力で押され、布団に縫い付けられた。成歩堂の意図に気づいたときには、唇がぴったりと合っていた。頑なに口を閉じていたが、舌でこじ開けられ、侵入を許してしまう。抵抗する間もなく、舌で錠剤を押し込められ、水を流された。その勢いで嚥下してしまう。
「キサマ・・・・・・!」
唇を離した親友を突き放そうとしたが、今度は上から覆い被さったままオレの頭を抱きしめてきた。成歩堂の忙しない心臓の音が聞こえてくる。些か早すぎる鼓動は、オレにありったけの生を伝えてきた。つん、と鼻に沁みる。親友は生きている。オレはまだ、此奴を殺していない。
「お前は悪い夢を見ているだけだ」
成歩堂が子守唄を歌うような音色で囁く。オレの髪をいたずらに撫でる仕草に、胸が苦しくなる。成歩堂の背中に手をまわした。オレの両手は面白いくらいに震えていた。
キサマがこうして隣で眠っていてくれるのなら、まだ狂わずにいられるだろうか。
朧気になる世界で、成歩堂の暖かな声だけがはっきりと聞こえた。
「おやすみ、亜双義」
高らかに笑って夜の街を駆ける。重かった身体はどこまでも軽い。今なら遠くへ行けそうだ。己は陽気に夜闇の真ん中を走る。街中は夜だというのに祭りのように騒がしい。春の麗らかな風が己の白い袖を揺らした。
左手に空を、右手に狩魔を持ってひたすらに笑う。
抜き身の刀を月灯に照らすと、銀の線に紐が絡まっていた。真っ赤な紐が。
ひ、と通りがかった男性が己を見て異様に怯える。そんなに怯えなくてもいい。これは怖いものではない。貴方も極楽浄土へ連れて行ってやろう。狩魔を一振りすると、刀に纏わりついていた紐が雫となって地面に染みこむ。どうやら紐ではなかったらしい。もっと、液体状の、脂で湿った、紅いなにかだった。
聞くに堪えない声をあげ、背中を見せて逃げる男の襟足を掴み、ばっさりと刀で斬り伏せる。衣の割ける音。皮膚がぱっくり割れる音。その中に組み込まれた、軋んだ骨の感触に鳥肌が立った。全神経が悦びで支配されている。人間を割くのは、果物を割るのとそう変わりはない。割れた身体から紅い果汁が噴き出す。無花果のように熟れて腐った身体だった。
心底愉しくて、大笑いした。
あっはっはっはっはっ!
様々な種類の果物を斬った。細い果物、太い果物、大きな果物、小さな果物。その度に己の手は紅の果汁で汚れた。狩魔は刀らしく、脂でぬらぬらと光っていた。
見ているか! キサマらが己を育てたのだ! 父上と母上を見殺しにしたキサマらが、己を育んだのだ!
斬っても斬っても満たされない。人間が憎い。憎い憎い憎い憎い憎い。だから何度も斬った。骨を断ち、内臓を抉り、原形もなくなるほど壊してやった。腸は生暖かく、ぎとぎとと滑っていた。笑いが込み上げてくる。
キサマらだってそうしたのだ。己の両親を、そうやって壊したのだ。
目の前に小さな果実がいた。齢は十ほどだろうか。己を見て、涙を流して震えていた。そして小さな唇を開いて云った。
ヒ、ト、ゴ、ロ、シ、
己は首を傾げた。この童子はなにを云っているのか、理解ができない。人殺しは己ではなくキサマらだ。この世界のすべてが人殺しなのだ。己の大切なものを奪っておいて、そんな戯言を吐くのか。己はもう赦せない。人間を、世界を、全部全部全部全部全部。だからキサマらの大事なものもすべて奪ってやる。それだけのことだ。
この少年も解体してやろうと思った。或る日の誰かを見ているようで、気分が悪かった。
刀を振りかざそうとした。その時、その少年を庇うように一人の男が前に立ちはだかった。
真っ直ぐな眼の、書生姿の青年だった。人のよさそうな、優しい顔をしている。背丈は己より若干低い程度だが、己ほど鍛えているわけではなさそうだった。涙より笑顔の似合う、清廉な男だった。己はこの男を知っている。否、知っているはずがない。己はこの男なんか知らない。知らない、はずなのだ。誰だ。一体キサマは、誰なのだ。
「この子を斬るなら、ぼくを斬ってからにしろ」
男の黒い眼球に己の姿が映っているのがはっきり見えた。男の眼は、暗澹たる闇の中でも星のようにちかちかと瞬いていた。
ひどく憔悴し、傷ついた顔をした男の姿が、その眼には映っていた。
「亜双義」
青年は己の名を呼ぶ。己がずっと大事に抱えていた名を、なぜ彼が知っているのか。名前を呼ばれた瞬間、吐き気が込み上げた。
違う。己はキサマの思うような人間ではない。惨めで醜い生き物なのだ。キサマの前で美しくあろうとしているだけの矮小な生き物に過ぎない。だからもうやめてくれ。尊ぶように名前を呼ばないでくれ。真っ直ぐな眼で己を見ないでくれ。
だのに此奴は、両手を己に伸ばした。
「帰ろう」
血に濡れた己に構わず、健気に抱き留めようとするその姿に、ぞっとした。嫌だ。やめてくれ。己に近寄るな。キサマまで殺したくない。己はきっと殺してしまう。警告音が響いているのに、青年は歩み寄ってくる。やめろ、近づくな。殺したくない。キサマは、キサマだけは。
歩み寄る彼に、己は。
「うあああああああ!」
絶叫した。恐かった。逃げ出したかった。大切な彼を守りたいのに、己は、己という愚か者は。
狩魔を振りかざして、そして、親友の、胸を。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
気がつけば、白塗りの天井を見上げていた。
天井の白は夜の月に照らされ、藍色に発光していた。狭い座敷の一室で、は、は、と自分の荒い息づかいが聞こえる。身を起こして、自らの両手を眺めた。血に塗れていた両手は、今は月灯に白く照らされている。荒くなる呼吸をとめられず、その両手で口を塞いだ。
「亜双義」
同じ布団で寝ていた親友が目覚め、枕元に置いていた手ぬぐいをオレの首元に当てる。そこでようやく、自分がひどく汗をかいていることに気づいた。
「やめろ、オレは・・・・・・」
震える声で親友を拒絶する。それでも成歩堂はオレに身を寄せて、甲斐甲斐しく汗を拭っていた。親友を殺してしまうかもしれない。恐怖心を夢から引きずり出して、歯噛みした。成歩堂はじ、とオレの眼を覗く。その眼にオレの姿は映っていたが、仔細は分からなかった。
枕元に用意してあった水と錠剤を、親友が傍に寄せる。白い錠剤を手に取った成歩堂を、再び拒んだ。
「やめろ。寝たくない」
「亜双義・・・・・・」
「オレは大丈夫だ。だから・・・・・・」
「じゃあ、ぼくが飲むよ」
そう言って、成歩堂は錠剤を口に入れ、水を煽る。安堵したのも束の間、突然肩を強い力で押され、布団に縫い付けられた。成歩堂の意図に気づいたときには、唇がぴったりと合っていた。頑なに口を閉じていたが、舌でこじ開けられ、侵入を許してしまう。抵抗する間もなく、舌で錠剤を押し込められ、水を流された。その勢いで嚥下してしまう。
「キサマ・・・・・・!」
唇を離した親友を突き放そうとしたが、今度は上から覆い被さったままオレの頭を抱きしめてきた。成歩堂の忙しない心臓の音が聞こえてくる。些か早すぎる鼓動は、オレにありったけの生を伝えてきた。つん、と鼻に沁みる。親友は生きている。オレはまだ、此奴を殺していない。
「お前は悪い夢を見ているだけだ」
成歩堂が子守唄を歌うような音色で囁く。オレの髪をいたずらに撫でる仕草に、胸が苦しくなる。成歩堂の背中に手をまわした。オレの両手は面白いくらいに震えていた。
キサマがこうして隣で眠っていてくれるのなら、まだ狂わずにいられるだろうか。
朧気になる世界で、成歩堂の暖かな声だけがはっきりと聞こえた。
「おやすみ、亜双義」
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