朝市

「うう・・・・・・眠い」
 ぼくと亜双義は、早朝、まだ日の昇らない時刻に外出していた。
 年末、どこも年越しの準備で人が溢れかえっている。冬に、しかも陽光の差していない海辺は耳の端が痛んでしまうほど寒い。こんな寒い朝に皆よく外出できるなと思いながら、ぼくも亜双義に連れられて歩いているのだった。明朝伍時、夏ならともかく冬の合間は日の昇らない時刻だ。薄闇の空に月が照っている。まるで絹のように淡い色彩の空だった。前を進む亜双義は、朝だというのに溌剌とした表情でぼくを振り返る。いささか呆れた様子で腰に手をあてていた。
「まったく、鍛錬が足りていないな」
「だって、眠いし、寒いし、凍死してしまうよ」
「そんなことを言っていたら、ここにいる人間は皆凍死してしまうがな」
 しょうがないじゃないか。寒いのだもの。と文句を言っても、普段の鍛錬の賜物なのか親友は涼しい顔をしている。仕方なく指先を擦り合わせていると、亜双義が片方の手を繋いだ。
「これで多少はマシになるだろう。きびきびと歩け」
「亜双義・・・・・・手が冷たい」
「文句の多いヤツだな。そもそもキサマが朝市に行こうと言ったのではないか」
 目の前に広がる小屋の群衆を眺める。両端に揃えられた小屋たちは、食べ物や娯楽商品などで溢れかえっている。ぼくたちは、海辺で開催される朝市に来ていた。朝市では普段お目にかかれないおいしいものが品出しされると級友から聞いたのだ。亜双義と年越しを過ごす予定だったので、どうせなら奮発しておいしいものを食べようと提案した。両端に並べられた小屋たちは、祭りの屋台みたいで心が躍る。薄闇にぼけた小さな灯がそれぞれの小屋の屋根に設置されている。夜闇の中でも品が見えるように工夫されていた。
「だって、年末くらいおいしいものを食べたいじゃないか」
「だって、だってと、『だって』の多いヤツだな」
「亜双義も好きだろ? おいしいもの」
 そう言えば、亜双義は目を伏せて言葉に迷っていた。なにを迷う必要があるのか。素直に「おいしいものが好きです」と言えばいいのに。
 寒さで鼻頭を赤くした亜双義が、一つ咳払いをした。
「まあいい。で、なにが食べたいのだ」
「魚介」
「これはまたざっくりとした要望だな・・・・・・」
「わざわざ決める必要ないだろ。おいしそうなものを買えばいいだけのことだし」
「キサマ、雑すぎないか?」
「いいから行こうぜ」
 亜双義の手を握り返す。親友は白い息を盛大に吐いて、ぼくと並んで歩いた。少し歩くと、魚介を扱っている小屋を見つける。店番をしている中年の男の人は陽気に笑っていた。
「兄ちゃんたち、仲いいね」
「此奴が寒い寒いとうるさく言うものですから。それはそうと、お薦めの品はありますか」
「そうだな。ちょうど生きてる雲丹がいるぜ」
 そう言って男の人は小屋の奥の水槽から黒い棘ばかりの生き物を取り出した。そんな棘を直で触って痛くないのだろうか。男の人に「試食していくかい?」と問われ、首を縦に振った。するとその人は見たこともない工具で雲丹を割り始めた。小さな雲丹は生きたまま手際よく解体されていく。どうして簡単に解体できるのか尋ねると「口を抉ればいいんだよ」と教えてもらった。殻の中から黒い線のようなものを取り出している。それが終わると、手を出すように言われた。空いたほうの手を差し出すと、殻の中の雲丹を少量手に乗せられた。柔らかく、粘膜で濡れた感触がして、先程までこの雲丹は生きていたのだと思った。
「いただきます」
 命を食すことへの感謝しつつ、潰れてしまいそうな雲丹を啜った。口に入れた瞬間、潮の匂いが身体中を満たす。舌で押しつぶすと、唾液と混ざり合いあっさりと溶けてしまった。途端、頬に襲いかかる激痛。
「う、うまい・・・・・・」
 亜双義のほうを見やれば、彼も目を輝かせていた。
「これは美味ですね」
「だろう? 捌きたてはなんでもうまいぞ。腹が緩くなるから、食べ過ぎは禁物だがな」
 亜双義と視線を交わし、二人で頷く。ぼくらは雲丹を少量だけ買うことにした。男の人にお礼を言って次に向かう。人の声に紛れて潮騒が聞こえる。朝市を行う港の音は騒がしい。それなのに、この冬の冷たい空気はいつもしんしんと張り詰めている。冷えた亜双義の手に触れていると体温が奪われるばかりなのに、なぜか温かい。ぼくらはこの後も、年越しを迎えるための食材を探した。雲丹に蟹にお吸い物の材料に、日本酒も足して。そうして満足できる分食材を買ったぼくらは、空いた手に膨らんだ鞄をぶら下げて帰路についた。
「これだけあれば年越しは大丈夫だな、亜双義」
「・・・・・・ああ」
 話しかければ、亜双義は静かに微笑んだ。漁港に沿って歩いていると、水平線から一筋の光が現れる。夜明けのはじまりだ。亜双義の姿が夜明けの一筋と重なる。いつだってぼくの親友は眩しい。光に溶けそうな亜双義の目が、なんだか雲丹みたいだなあと思った。親友を食べたらおいしいのかしらん。
「・・・・・・くだらないことを考えているだろう」
「なんで分かるんだよお前は」
「キサマが顔に出すぎるのだ」
 はあ、と亜双義は盛大なため息をつく。そこまで呆れなくてもいいじゃないかと思いつつ、どことなく元気がなさそうだったので顔を覗いてやった。
「亜双義、どうしたんだ?」
「別に、どうということはない」
「そうか?」
 夜明け色の目を見つめていると、彼は気まずそうに顔をそらした。弱音を吐かない亜双義にしては珍しい殊勝な態度だった。
 彼の背景には、一筋の暁光に波打つ海があった。冷たい潮風にあてられ、ぶわりと親友の前髪が広がる。乱れた佇まいを直すことなく、彼は呟いた。
「・・・・・・本当に、良かったのか」
「なにがだ?」
「大切な年越しを、オレと過ごすことにして」
 亜双義は思い詰めた声で言った。
「実家に帰って家族の顔を拝んだほうが良かっただろうと思ってな」
「ううん、確かにその通りではあるんだけど」
 夜明けの瞳に影の焔が宿る。暗い灯火も似合っているが、今は楽しそうに笑う親友が見たかった。こんなに、おいしい食べ物ばかりあるのだから。鬱蒼とした朝焼けよ、どうか親友の姿を隠さないでおくれ。亜双義の乱れた前髪に触れて、その繊細な黒の髪を一房撫でた。
「今年は、お前といたかったから」
 繋いだ手を強く握り、答えを返した。
「だから、いいんだ」
 笑って断言すると、亜双義は眉間に皺を寄せ、唇をかんだ。その表情が泣いているように見えたので、もう片方の手も取ってやった。
「なんだ亜双義、泣いているのか?」
「そんなわけあるか」
「だよなあ。お前、そういうたまじゃないし」
「失礼だな。オレだって、多少なりとも感受性はある」
 亜双義の手は指先まで冷え切っている。ぼくも海風にあてられて冷えているが、亜双義の温度はぼくよりもずっと下がっていた。さすがに可哀想になって、亜双義の両手に口を近づけ、はあ、と息をかけてやる。白い煙がもくもくと立ち上がる。煙が紫の空に溶けた頃、亜双義の背に太陽が昇り始めた。親友の肩に、頬に、髪に、朝の粉塵がかかる。静謐な煌めきを纏った親友は、もう泣きそうな顔などしていなかった。
「亜双義、帰ってちょっと休んだら年越しの準備するぞ。まずはおせち作りからだな。それと餅をついて・・・・・・」
「待て成歩堂。一度にやろうとしてもうまくはいかないぞ。そうだな、まずは・・・・・・」
 亜双義は片手を離して、共に歩む。もう片方の手は繋いだままだった。そこでようやく恥ずかしさを感じたが、今日はずっとこうしていたから今更なのかもしれない。亜双義が恥ずかしがらずに楽しげに笑っているので、それだけで良かった。お前の眩しい笑顔が、ずっと好きだから。
 亜双義は屈託のない笑みを浮かべて、高らかに言った。
「まずは、一休みに熱い茶でも飲もうか」
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