千の手紙
それから船での事件を皮切りに大英帝国で弁護士の修業をすることになり、すっかり慌ただしい日常を過ごすことになった。忙しい日々を過ごしていく中で、手紙を貰っていたことなどすっかり忘れてしまっていた。現に、大英帝国にいる間は一通も降ってこなかったのだ。そうして大英帝国で一年を過ごした頃、死んだと思われていた亜双義と再会して、ぼくらは共闘した。共闘、と言っても良かったと思う。亜双義は、どう感じているのかは知らないが。
ホームズさんやアイリスちゃん、そして親友と別れて、帰航するぼくと寿沙都さん。遠く離れていく彼らを見守り、大海原へと出た。
白い衣装を着た親友は、遥か彼方にいる。お前が生きていたことを知ったときのぼくの気持ちなんて、お前には分からないのだろうな。
そしてぼくは思い出すことになるのだ。その日の夜、己の船室で。
はらり、とどこからともなく、手紙が降ってきた。
『貴方は私の暁光でした』
その日から毎日のように手紙はぼくの元へ降ってきた。そこが船室だろうと、新しく設立した事務所の寝室だろうとお構いなしだ。そんな日々が一年と半年以上経った。下宿先から引きあげた分を含むと九百通を超えた。それだけの量の文を読んでいたらぼくでも分かることがあった。どうやらこの手紙の送り主は、恋情と友情の区別がついていないようだ。やはりぼくと同じじゃないかと独りごちる。稀に送られてくる亜双義からの手紙は定型的で、そこには情熱の欠片もない。亜双義の手紙と恋文を並べて読んでみると、やはり筆跡は同じだった。違うのは情が籠もっているか否かであった。
亜双義が帰国すると連絡を受けたその日、ぼくは手紙を全部寝室にぶちまけた。無数の手紙たちは雪崩のように畳の上を浸食していく。狭い寝室はすぐに手紙まみれになった。寿沙都さんが見たら怒るだろうな、と思いつつ、ぼくはその手紙たちの上に横たわった。丸い月が奇行にはしったぼくの姿を窓から覗き込んでいる。ほらまた、どこからか手紙が降ってくる。それを空中で掴んで、月灯に照らした。封を開けもせず便箋に口づけをする。無機質な手紙から、微かな温かさを感じた。
そうして手紙にまみれて眠ること、数十日。晴れた昼時、青い空が眩しかった。強い風が吹く日、とうとう亜双義が帰ってきた。ようやく親友に会えるというのに、ぼくの心は凪いでいた。港で船から下りた亜双義はハンチングスタイルで、いかにも大英帝国から帰ってきた人間の風情だった。皆が帰国を喜ぶ中、きっとぼくだけが真剣な顔をしている。挨拶もそこそこに、朗らかに対応する亜双義の手を掴んだ。
「一緒に来てほしいところがある」
ろくに顔も見ずにそう言って、亜双義の手を引く。寿沙都さんは驚いた顔を、御琴羽教授は穏やかな顔をしていた。二人には悪かったが、亜双義だけを引き連れて自分の事務所へ向かった。
「どうしたのだ成歩堂。キサマらしくない」
亜双義の言い分はもっともだった。二人を置いて亜双義だけ、だなんてぼくらしくない。でも、もうぼくは「あんなもの」を独りで抱えきれなかった。亜双義の言葉に返答せず、事務所にあがらせる。
寝室の前に辿り着いて、ようよく口が開けた。喉がからからに渇いていた。
「これを見てほしいんだ」
そうして、狭い寝室の扉を開いた。
亜双義は絶句していた。それはそうだろう。床一面、手紙、手紙、手紙・・・・・・。こんな光景を見せられたら誰だって驚く。ぼくはそれらを踏みつけて部屋の奥の窓を開いた。強い風が一気に部屋になだれこんでくる。一斉に、手紙がぶわりと部屋中を舞った。
「これは・・・・・・」
「ぼくが今まで貰った手紙たちだ。すごいだろう?」
亜双義は空中に漂った手紙を手に取って、既に封が開けてある中身を読む。すると、さっと親友の顔色が変わった。頬から血の気が引き、唇が戦慄いている。手紙から視線を逸らしたかと思えば、鬼の形相でぼくを睨みつけた。
「どうして、こんなものを、キサマが」
「やっぱり、覚えがあるみたいだな」
そう言えば、亜双義はぐうと唸る。図星であるらしい。親友は震える唇で、絞り出すようにして呟いた。
「なぜ、これが。燃やしていたのに」
「へえ」
部屋の中に青空が満ちる。窓の外に広がる青が、白い便箋に映り込んでいた。ばさばさと白い鳥のように舞う手紙が眩しくて目を細める。こんなに美しいものたちを燃やしていただなんて、勿体ない。手紙から漂う温度は、炎の残滓だったのかもしれない。
目の前で呆然と立ちすくむ亜双義が言う。
「・・・・・・みっともないだろう。こんなオレを、キサマは軽蔑するのだろうな」
親友の声は震えていた。今にも泣き出してしまいそうな声だった。いつも胸を張って堂々としている姿とは大違いだった。
「こんな、わけの分からぬ情念に焦がれた男など・・・・・・」
「亜双義、この部屋には九九九通の手紙がある」
目の前に立って、彼を呼ぶ。
「千通目はいらないよ」
亜双義の肩がぴくりと揺れた。そんなに怯えなくてもいいのに、彼の瞼は青く染まっていた。
ぼくは懐から一通の手紙を取り出した。それを亜双義に差し向ける。
「千通目は、ぼくから。返事が遅くなってすまない」
可哀想な親友は震える手でそれを受け取った。封を開ける素振りを見せない親友に笑いたくもなるが、そんな余裕は此方にもなかった。
「もう、手紙だけじゃ嫌だ」
親友の手と同じく、ぼくの声も震えていた。こんな想いを数年に渡って毎日浴びせられたぼくの気持ちにもなってほしい。気持ちを返したくても返せなかった、ぼくの気持ちを少しは考えてくれよ。
泣くのを堪えて、言った。
「手紙だけじゃなくて、お前自身の言葉で、教えてくれよ」
途端、亜双義の顔がくしゃくしゃに歪んだ。ぼくはそんな親友を抱きしめた。彼は震える手でぼくの背中に手を回した。
「・・・・・・会いたかった」
「ああ」
「キサマを独り占めしたいと思うことが何度もあった」
「ああ」
「成歩堂、キサマに出会えて良かった」
「ああ」
「・・・・・・愛している」
「・・・・・・うん」
ぼくら二人しかいない部屋の中、手紙が舞っている。天使の羽のように舞っている。
親友の祈りを乗せた九九九通の手紙が、羽ばたいている。
親友の肩から額を離すと、苦しげな表情がすぐ近くにあった。もう苦しまなくていいのに、どうしてぼくの親友はこんなにもつらそうにしているのか。ぼくは亜双義に触れるだけの口づけをして、笑い飛ばしてやった。
千通目の手紙は、ぼくの隣でゆっくり読んでくれ。
ホームズさんやアイリスちゃん、そして親友と別れて、帰航するぼくと寿沙都さん。遠く離れていく彼らを見守り、大海原へと出た。
白い衣装を着た親友は、遥か彼方にいる。お前が生きていたことを知ったときのぼくの気持ちなんて、お前には分からないのだろうな。
そしてぼくは思い出すことになるのだ。その日の夜、己の船室で。
はらり、とどこからともなく、手紙が降ってきた。
『貴方は私の暁光でした』
その日から毎日のように手紙はぼくの元へ降ってきた。そこが船室だろうと、新しく設立した事務所の寝室だろうとお構いなしだ。そんな日々が一年と半年以上経った。下宿先から引きあげた分を含むと九百通を超えた。それだけの量の文を読んでいたらぼくでも分かることがあった。どうやらこの手紙の送り主は、恋情と友情の区別がついていないようだ。やはりぼくと同じじゃないかと独りごちる。稀に送られてくる亜双義からの手紙は定型的で、そこには情熱の欠片もない。亜双義の手紙と恋文を並べて読んでみると、やはり筆跡は同じだった。違うのは情が籠もっているか否かであった。
亜双義が帰国すると連絡を受けたその日、ぼくは手紙を全部寝室にぶちまけた。無数の手紙たちは雪崩のように畳の上を浸食していく。狭い寝室はすぐに手紙まみれになった。寿沙都さんが見たら怒るだろうな、と思いつつ、ぼくはその手紙たちの上に横たわった。丸い月が奇行にはしったぼくの姿を窓から覗き込んでいる。ほらまた、どこからか手紙が降ってくる。それを空中で掴んで、月灯に照らした。封を開けもせず便箋に口づけをする。無機質な手紙から、微かな温かさを感じた。
そうして手紙にまみれて眠ること、数十日。晴れた昼時、青い空が眩しかった。強い風が吹く日、とうとう亜双義が帰ってきた。ようやく親友に会えるというのに、ぼくの心は凪いでいた。港で船から下りた亜双義はハンチングスタイルで、いかにも大英帝国から帰ってきた人間の風情だった。皆が帰国を喜ぶ中、きっとぼくだけが真剣な顔をしている。挨拶もそこそこに、朗らかに対応する亜双義の手を掴んだ。
「一緒に来てほしいところがある」
ろくに顔も見ずにそう言って、亜双義の手を引く。寿沙都さんは驚いた顔を、御琴羽教授は穏やかな顔をしていた。二人には悪かったが、亜双義だけを引き連れて自分の事務所へ向かった。
「どうしたのだ成歩堂。キサマらしくない」
亜双義の言い分はもっともだった。二人を置いて亜双義だけ、だなんてぼくらしくない。でも、もうぼくは「あんなもの」を独りで抱えきれなかった。亜双義の言葉に返答せず、事務所にあがらせる。
寝室の前に辿り着いて、ようよく口が開けた。喉がからからに渇いていた。
「これを見てほしいんだ」
そうして、狭い寝室の扉を開いた。
亜双義は絶句していた。それはそうだろう。床一面、手紙、手紙、手紙・・・・・・。こんな光景を見せられたら誰だって驚く。ぼくはそれらを踏みつけて部屋の奥の窓を開いた。強い風が一気に部屋になだれこんでくる。一斉に、手紙がぶわりと部屋中を舞った。
「これは・・・・・・」
「ぼくが今まで貰った手紙たちだ。すごいだろう?」
亜双義は空中に漂った手紙を手に取って、既に封が開けてある中身を読む。すると、さっと親友の顔色が変わった。頬から血の気が引き、唇が戦慄いている。手紙から視線を逸らしたかと思えば、鬼の形相でぼくを睨みつけた。
「どうして、こんなものを、キサマが」
「やっぱり、覚えがあるみたいだな」
そう言えば、亜双義はぐうと唸る。図星であるらしい。親友は震える唇で、絞り出すようにして呟いた。
「なぜ、これが。燃やしていたのに」
「へえ」
部屋の中に青空が満ちる。窓の外に広がる青が、白い便箋に映り込んでいた。ばさばさと白い鳥のように舞う手紙が眩しくて目を細める。こんなに美しいものたちを燃やしていただなんて、勿体ない。手紙から漂う温度は、炎の残滓だったのかもしれない。
目の前で呆然と立ちすくむ亜双義が言う。
「・・・・・・みっともないだろう。こんなオレを、キサマは軽蔑するのだろうな」
親友の声は震えていた。今にも泣き出してしまいそうな声だった。いつも胸を張って堂々としている姿とは大違いだった。
「こんな、わけの分からぬ情念に焦がれた男など・・・・・・」
「亜双義、この部屋には九九九通の手紙がある」
目の前に立って、彼を呼ぶ。
「千通目はいらないよ」
亜双義の肩がぴくりと揺れた。そんなに怯えなくてもいいのに、彼の瞼は青く染まっていた。
ぼくは懐から一通の手紙を取り出した。それを亜双義に差し向ける。
「千通目は、ぼくから。返事が遅くなってすまない」
可哀想な親友は震える手でそれを受け取った。封を開ける素振りを見せない親友に笑いたくもなるが、そんな余裕は此方にもなかった。
「もう、手紙だけじゃ嫌だ」
親友の手と同じく、ぼくの声も震えていた。こんな想いを数年に渡って毎日浴びせられたぼくの気持ちにもなってほしい。気持ちを返したくても返せなかった、ぼくの気持ちを少しは考えてくれよ。
泣くのを堪えて、言った。
「手紙だけじゃなくて、お前自身の言葉で、教えてくれよ」
途端、亜双義の顔がくしゃくしゃに歪んだ。ぼくはそんな親友を抱きしめた。彼は震える手でぼくの背中に手を回した。
「・・・・・・会いたかった」
「ああ」
「キサマを独り占めしたいと思うことが何度もあった」
「ああ」
「成歩堂、キサマに出会えて良かった」
「ああ」
「・・・・・・愛している」
「・・・・・・うん」
ぼくら二人しかいない部屋の中、手紙が舞っている。天使の羽のように舞っている。
親友の祈りを乗せた九九九通の手紙が、羽ばたいている。
親友の肩から額を離すと、苦しげな表情がすぐ近くにあった。もう苦しまなくていいのに、どうしてぼくの親友はこんなにもつらそうにしているのか。ぼくは亜双義に触れるだけの口づけをして、笑い飛ばしてやった。
千通目の手紙は、ぼくの隣でゆっくり読んでくれ。
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