千の手紙

 亜双義が「共に大英手国に行こう」と言うので、ぼくは笑って快諾した。当の本人はまさかぼくが頷くだなんて思ってもいなかったのだろう。亜双義と大英帝国へ渡る、ということは、密航という大きな危険を冒すことでもあるからだ。もし見つかったら亜双義もただでは済まないだろう。ぼくなんかなにも取り柄もないから海に投げ捨てられるかもしれない。そんな危険を冒してまでついていくだなんて、亜双義だけではなく誰だって驚くものだ。それでもぼくは亜双義のいる世界を見てみたかった。たとえ道半ばで海の藻屑と消え去ってしまっても。
「なあ、亜双義」
 無事船室内に潜入して十日が経った頃、ぼくはクローゼットから出て亜双義の寝台でだらけていた。この船室に着いてからというもの、手紙は一枚も降ってこない。毎日ぼくの元に届いていたものがないといささか寂しい。なので亜双義に話を振ってみることにした。
「ぼく、実はずっと恋文を貰っていてさ」
「ああ・・・・・・暫く前に言っていたあれか。やはりキサマのことだったか」
「うん。だからさ、恋文を書いてみてくれよ」
「・・・・・・は?」
 亜双義にとっては脈絡のない話だ。ぼくの中では繋がっているのだが。亜双義が書いた恋文と、下宿先の部屋に置いてある手紙を見比べたら、亜双義が書いているのか分かると思ったのだ。
「ぼくを想って書くのが難しいなら他の人宛でもいいからさ」
 そう言っていて虚しいのは自分自身なのに、表向きのぼくはあっけらかんとしている。まるで道化者だ。だからだろうか。亜双義は眉間に皺を寄せて言った。
「そもそも、想っていないことは書けん」
「・・・・・・、そうか」
 今、失敗した。表情がうまくつくれなかった。ぼくはどんな表情をしてしまったのだろうか、亜双義は余計皺を深くしている。亜双義は「想っていないことは書けない」と言ったのだ。つまり、ぼくに抱いている感情は・・・・・・少なくとも恋情ではないのだ。なにを残念がる必要があるのだろうか。あの恋文自体、「愛」は謳っていても「恋」は謳っていないじゃないか。なぜ自分はこんなにも欲しがりなのだろう。だって、仕方ないじゃないか。親友のすべてを欲しいと思うのは、・・・・・・思うだけなら、罪ではないはずだ。
 横たわっているぼくの傍に腰をかけて、顔の良い親友が覗き込んでくる。亜双義は顔から皺を取り払い、軽薄な調子で笑った。
「・・・・・・オレの恋文など、きっと目に毒だ」
「そうなのか?」
「到底見せられないカタチをしているに違いない。『あんなもの』など見たら汚れるぞ」
 あ、と声をあげた。覗き込む亜双義の笑顔はどこか苦しそうだった。
「それに、オレたちの間に手紙など不要だ。言葉で伝え合えばいい」
「・・・・・・そう、だよな」
「弁護士とは口で戦うものだ」
「お前はぼくと戦いたいのかよ・・・・・・」
 亜双義は高らかに笑った。
「さあな。そういう未来もあるかもしれぬ」
「想像できないな。お前と戦うなんて」
 亜双義の鉢巻きに触れると、彼は身を捩る。ぼくの横に手をついて見下ろしている。亜双義の表情は灯の影になった。鬱屈した暗い表情の亜双義は、硬い掌で頬を撫でてくる。擽ったくてくふくふと笑っていると、顔を寄せてきた。いつも距離が近いが、今日は近すぎる気がする。互いの鼻頭がくっついたところで、ぼくはようやく亜双義の向かう先を知った。急激に熱くなる、頬と耳。
 接吻キッスをされてしまう。慌てて亜双義の口元を自分の掌で覆い隠した。
「ま、まってくれ」
 ぼくの声は情けなく震えていた。心の準備ができていない。そんな雰囲気ではなかったはずなのに、どうして。喜びより戸惑いが強く、ぼくはつい亜双義を拒んでしまった。亜双義に掌を舐められ、泣きそうになる。亜双義の舌は熱くてぬめぬめとしていて、ひどく心が満たされる。不思議な感覚に胸がいっぱいになるのが怖くて、身体が震えた。
 亜双義は身を起こして、「冗談だ」と笑った。ぼくの頭を撫でてから身を起こした亜双義はぼくを蹴って床へ転がす。先程と違って乱雑すぎやしないか。
「もう寝ろ。オレは寝る」
「ええ。いきなりだな・・・・・・。まあいいや、おやすみ」
 亜双義にクローゼットを閉めてもらう。亜双義の姿が深い影になってしまってよく見えなかった。ぱたん、と重い音が鳴る。この狭くて暗い世界にも慣れてしまった。
 一人になって、後悔ばかりに苛まれる。
 どうしてぼくは、亜双義を拒んでしまったのだろう。もしぼくが拒まなかったら、亜双義はどうしたろうか。やはり接吻を、してしまっていただろうか。亜双義の唇はどんな味がするのか。悶々と考えてしまう卑しい己を心の中で叱りつける。暗闇はそんなぼくを近くでじ、と見つめていた。
 亜双義に舌で触れられた掌を唇に当ててみる。少し湿っている。舌でなぞってみる。亜双義の感触なんて、少しもない。心が虚しくなるばかりだった。
 接吻キッスの代替行為に、味などなにもなかった。
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