千の手紙

 今日の大学の講義がすべて終わり、講義室から出ようとしたときだ。
 強い柑橘の色をした夕焼けが窓から差し込む黄昏時。たまたま通りがかった法学部の友人に呼び止められた。彼は亜双義から紹介された人で、朗らかな性格だった。
「成歩堂、すまん。亜双義から言伝を頼まれていてな」
 友人は明るい調子で小さな紙を渡してきた。丁寧に折り畳まれた紙を開くと、そこには『牛鍋屋ニテ 花見』と乱雑に書かれていた。友人が顔を覗かせて「お前ら、本当に仲いいな」と笑った。彼に「ありがとう」と感謝を口にして、講義室を足早に抜け出す。廊下には窓から差し込む強い橙の光が床に照らし出されていた。日光に当たった校内は木造建築物特有の匂いを発している。強い陽光を余分に含んだ匂い。ぼくの親友の匂いに似ていた。
 校舎を出て目的地へと急ぐ。空の向こうは薄い紫で霞みがかっていた。もう暫くするとこの街に夜の帳が降りるのだろう。暗くなる前にもう一度、小さな紙に記された文字を見直す。つい足が止まってしまった。先程は気づかなかったが、妙な既視感を覚えた。この筆跡をどこかで見たことがある。ぼくはこの字を、毎日毎日食い入るように見つめている。記憶に新しいのだから忘れるはずがない。
 この字は、毎日送られる手紙のものとよく似ていた。
 胸がざわついた。亜双義があんな殊勝な文章など書けるものか。しかし、目の前の字は何度見ても手紙の筆跡と酷似している。そんな莫迦な。あり得ない。亜双義が、ぼくを愛しているだなんて。夢物語みたいなこと、あるはずがない。なんだか空中を漂ってしまいそうなふわふわとした心地で、歩みを再開した。
 もし本当に亜双義だとしたら、ぼくはどうしたら良いのだろう。素直に喜ぶべきなのだろうか。しかし、あの手紙たちが「送るのを前提としていない」のはよく分かる。それほど赤裸々な文章が描かれているのだ。亜双義であれば、人に読ませるのであればもう少し体裁を整えるはずだ。小さな紙を夕焼けに翳す。親友の走り書きは瞬く間に紫色へ変化した。
「成歩堂」
 小さな紙の向こう側に亜双義がいる。牛鍋屋の前で、言伝のとおり親友が待っていた。
「どうした。ぼんやりしているな」
「ああ、いや・・・・・・」
「疲れているのか? まあいい。今日は夕餉を食ったら花見に行くぞ」
 牛鍋屋に入ったはいいけれど、ぼくの頭は手紙のことばかりだった。もしあの手紙が亜双義のものだったら・・・・・・などと、本人を目の前に考えている。考えても仕方のないことだとは思いつつ、それでもぐるぐると思考は回る。亜双義が「顔が赤いな。熱でもあるのか」と額を寄せてくるものだから、尚更脳みそはゆでだこ状態だ。折角の牛鍋なのに、肉の味が全然しない。亜双義が心配そうに覗き込んでくる。お前のせいだからな、とは口に出せなかった。
 牛鍋屋で貰った日本酒の瓶とびいどろの杯を手にして、ぼくらは外へ出た。
 近くに芝生の生えた広場があるので、そこへと向かう。目の前の亜双義の赤がゆらゆらとはためいている。すっかり暗くなった空に、彼の赤はよく映える。やがて、桜が咲く広場へ辿り着いた。桜の色は夜色と溶け、淡く発光している。色が混ざり合う中間に、亜双義の赤が差し込まれた。それだけなのに、背筋が凍るほど幻想的だった。亜双義の姿が桜並木に隠れ、朧気になる。「亜双義」と呼びかけると、ようやく彼は振り返ってくれた。優しく微笑む彼が消えるわけはないのに、ぼくの目に儚く映った。
「どうした、成歩堂」
「・・・・・・ぼく、なんだか疲れちゃったよ」
「今日はずっと心ここにあらずといった様子だったからな。だから鍛錬を欠かすなと言うに・・・・・・」
 亜双義が小言を挟んでくるので、桜の木の下に寝転ぶ。ぼくが疲れているのはお前のせいなのに、それを知らない親友は楽しそうだ。ぼくに倣って、亜双義も横たわる。花見に来たのだから桜を見ればいいのに、この男はぼくを熱心に見つめていた。照れくさくなってしまう。
「なんだよ」
「別に?」
 亜双義は愉快げに喉奥で笑った。四月の終わり、桜の花は惜しみなく命を散らす。彼の四肢に、容赦なく桜の花びらが降り積もる。肩に落ちた花弁を払ってやると、親友はぼくの手を取って指を絡ませてきた。酒などまだ飲んでいないのに、亜双義の機嫌はすこぶる良かった。繋げた手に、淡い桜色が積もる。
「なあ、亜双義」
「なんだ」
「毎日恋文を貰ったとしたら、お前ならどうする?」
 親友に鎌をかけてみることにした。少しでもいい、あの手紙が亜双義からのものだという確証が欲しかった。だというのに、ぼくの親友ときたら眉を少し動かして、「へえ」と言うだけだった。
「なんだ。貰ってるのか?」
「いや、例えばの話さ」
「毎日、か。相当な執念の持ち主だと思われるが・・・・・・まずは返信をするだろうな」
「返信」
「告白を受けるにしろ受けないにしろ、返事はするものだろう。最低限の礼儀だ」
「もし相手が返事を求めてなかったらどうする?」
「・・・・・・先程からやけに具体的だな」
 ぐ、と繋ぐ手に力が込められる。痛い、という間もなく、亜双義が身を起こしてぼくを見下ろしてきた。桜の光を宿した親友の目は、どこか潤んでいるようにも見えた。胸に引っかかるものがあったが、それを掴む前に亜双義は視線を逸らした。繋いでいた手をするりと解いて、彼はグラスに酒を注ぐ。離れてしまった掌が急激に冷えていく。寂しくなって、ぼくも身を起こして亜双義に寄り添った。
「キサマも飲むだろう?」
 そう言う亜双義の表情はやはり優しかった。透明な水面に桜の花びらが浮かぶ。水面に映った親友の顔が波紋で揺らめいた。ぼくはそのグラスを受け取って、一気に煽った。やはり、ぼくは、酩酊してしまっているようだった。
 その日の手紙には、こう書かれていた。
『貴方が他の方に懸想しているのを想像して、思わず泣けてきてしまいました。どうかいつまでも、私だけを見ていてください』
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