千の手紙
ある朝、下宿先の部屋に手紙が落ちていた。
置かれていたのではない、落ちていたのである。それこそ、部屋の真ん中にぽつんと。
誰かの悪戯かと思ったが、宛先を見るにどうやらぼく宛らしい。ぼくの名前が殴り書きされている。明らかに人に読ませるために書かれたものではなかった。筆感が想いを伝えるには無骨すぎるのだ。どこかで見たことのある筆跡に首を傾げる。異様に愛着のある筆跡だった。ぼく宛なので、とりあえず開封してみる。紫の洋墨で、一行だけ書かれていた。
『貴方を愛しています』
どうにかこうにか捻りだした言葉だったようで、字はところどころ力が入って滲んでいた。たった一文に必死になっているのが伝わる。不器用だったが素敵な手紙だった。ぼくはその手紙を引き出しの奥に大切に仕舞った。
「おい、成歩堂。まだか」
背後の扉から友人の声が聞こえてくる。ぼくを急かすその男は亜双義一真といった。少し前に知り合い、気がつけば共にいる時間が増えていた。今日も一緒に登校していたのだが、途中で万年筆を忘れてしまったことに気づき、部屋に戻ってきたのだった。
「今行く」
文机の上に転がっていた万年筆を引っ掴み、懐に仕舞う。扉を開けると、部屋の前まで着いてきていた亜双義が渋い顔をしていた。
「急げ。一限に間に合わなくなる」
「はいはい。分かってるよ」
「『はい』は一回でいい」
足早に下宿の外へ出ると小雨が降っていた。各々の傘を開き天空へ差し向ける。亜双義の番傘の赤は、曇り空でも冴えていた。
「それにしても、やけに遅かったではないか」
亜双義が痛いところをついてくるので、どうにかしてごまかす。さすがに恋文を貰ったなどと言えなかった。
「万年筆探すのに手間取ってさ」
「まったく、だから整理整頓をしろとあれほど・・・・・・」
「いつもならどこに置いてあるか分かってるから大丈夫さ」
「今日は大丈夫ではなかっただろうが」
「ああ、もう。ぼくのことはいいだろ。お前はぼくのお母さんなのか?」
そんなくだらない話をしながら大学へ向かう。亜双義とはいつもこのような調子だ。友人と話していると、今日の朝に送られた恋文の存在などすぐ忘れてしまった。きっと誰かが冷やかしで置いていったのだろう。夜になる頃には、ぼくの頭の中には手紙のことなど欠片も残っていなかった。
だというのに、次の日も恋文は置かれていた。というよりも降ってきた。それは夜も更ける頃、講義の復習をしていたときに突然現れた。目の前にはらりはらりと落ちてくる封筒にぎょっとした。一体どこから落ちてきたのだろうか。訝しんで天上にぶら下げてある灯の影を覗き見たが、特に異常はない。突然姿を現した手紙に怯えながらも、ぼくは便箋の封を切った。
『貴方の姿は星のようです』
昨日より随分叙情的な文章だった。また一行しか書かれていなかったが、なんとか絞り出したようで、少しだけ線が震えていた。それをまた引き出しに仕舞って、どうにかして送り主を見つけようと決心した。こんなに必死に伝えてくれているのに、返事をしないなんて失礼だ。なんだか上の空になってしまい、復習を途中で切り上げて眠りについた。
その日から、毎日手紙を送ってくる主を探そうと躍起になった。しかし、手紙は突如として部屋に落ちてくるのだ。まるで切れ端みたいに、ひらひらと。それが二十日も続くと、送り主を探すのも諦めてしまった。手紙を読んでいると、送り主が読ませるのを前提に書いていないことくらいすぐに分かってしまった。
一文だけ簡潔に書かれているものもあれば、執着を滲ませた長文が書かれていることもあった。読んでいる此方が恥ずかしくなってしまうほど熱烈な文が、毎日毎日とめどなく降ってくる。気がつけば引き出しがいっぱいになっていたので、手紙を仕舞うための箱を買った。毎日送られる恋文を読むのが日課になってしまっていた。
ある春の日、寝坊したときに降ってこられたことがあった。内容が気になったが遅刻してしまうので帰りの楽しみにしていた。それを亜双義に見破られてしまった。
「なんだ成歩堂。そわそわして」
「い、いや、なんでも」
「さては・・・・・・好い女性 でもできたな?」
悪戯っぽく笑う亜双義に違うよと返しながら、そういえば手紙の送り主は女性なのかしらん、と首を傾げた。無骨な筆致で、時に荒っぽいところがある。女性の筆跡というよりは男性のような気がした。それこそ、目の前の親友のように、爽やかで、熱くて――。
「どうした。呆として」
「な、なんでもない」
そこまで思い至って、あり得ないと自分に言い聞かせた。もし手紙の送り主が亜双義だったら、彼はきっと読まれたくなかったと言うだろう。今この場で詮索するのは良くない。ぼくはあやふやに笑ってその場をやり過ごした。彼が手紙の送り主だったならば、どれほど幸福なことだっただろう。
その夜、降ってきた手紙の内容はこうだった。
『嗚呼、貴方様はきっと私を見てはくださらないのでしょう』
切実な言葉にどきりとした。ぼくの心情を見破られたのかと思ったのだ。哀しみに暮れた文を人差し指でなぞる。まるでぼくのような文章だ。ぼくの心はこんなにも惨めで苦しいというのに、手紙の文章はどこまでも澄んでいる。それでいてどこか諦念の含んだ文字の羅列を、静かに胸に抱いた。きっと送り主は手紙の返事など求めていない。この感情の行く末は、誰にも掬えないのだ。だって、ぼくもそうだから。
手紙と向き合っていたら、自分の気持ちに気づいてしまった。恋情とも友情ともつかぬこの感情を、自分一人でどう処理すればいいのか分からない。しかし相手に伝えるわけにもいかない。この感情は奥深くに仕舞わなければいけないものだ。それこそ、この手紙のように引き出しの中に隠すしかない。送り主もきっとぼくと似た感情を抱いているに違いなかった。相手に知られてはいけない。知られたくない。名前のつけられない感情を、彼に押しつけてはいけない。いつもは箱の中に片付ける便箋を、今日は引き出しに仕舞った。
この手紙をくれる人が、彼であれば良かったのに。
置かれていたのではない、落ちていたのである。それこそ、部屋の真ん中にぽつんと。
誰かの悪戯かと思ったが、宛先を見るにどうやらぼく宛らしい。ぼくの名前が殴り書きされている。明らかに人に読ませるために書かれたものではなかった。筆感が想いを伝えるには無骨すぎるのだ。どこかで見たことのある筆跡に首を傾げる。異様に愛着のある筆跡だった。ぼく宛なので、とりあえず開封してみる。紫の洋墨で、一行だけ書かれていた。
『貴方を愛しています』
どうにかこうにか捻りだした言葉だったようで、字はところどころ力が入って滲んでいた。たった一文に必死になっているのが伝わる。不器用だったが素敵な手紙だった。ぼくはその手紙を引き出しの奥に大切に仕舞った。
「おい、成歩堂。まだか」
背後の扉から友人の声が聞こえてくる。ぼくを急かすその男は亜双義一真といった。少し前に知り合い、気がつけば共にいる時間が増えていた。今日も一緒に登校していたのだが、途中で万年筆を忘れてしまったことに気づき、部屋に戻ってきたのだった。
「今行く」
文机の上に転がっていた万年筆を引っ掴み、懐に仕舞う。扉を開けると、部屋の前まで着いてきていた亜双義が渋い顔をしていた。
「急げ。一限に間に合わなくなる」
「はいはい。分かってるよ」
「『はい』は一回でいい」
足早に下宿の外へ出ると小雨が降っていた。各々の傘を開き天空へ差し向ける。亜双義の番傘の赤は、曇り空でも冴えていた。
「それにしても、やけに遅かったではないか」
亜双義が痛いところをついてくるので、どうにかしてごまかす。さすがに恋文を貰ったなどと言えなかった。
「万年筆探すのに手間取ってさ」
「まったく、だから整理整頓をしろとあれほど・・・・・・」
「いつもならどこに置いてあるか分かってるから大丈夫さ」
「今日は大丈夫ではなかっただろうが」
「ああ、もう。ぼくのことはいいだろ。お前はぼくのお母さんなのか?」
そんなくだらない話をしながら大学へ向かう。亜双義とはいつもこのような調子だ。友人と話していると、今日の朝に送られた恋文の存在などすぐ忘れてしまった。きっと誰かが冷やかしで置いていったのだろう。夜になる頃には、ぼくの頭の中には手紙のことなど欠片も残っていなかった。
だというのに、次の日も恋文は置かれていた。というよりも降ってきた。それは夜も更ける頃、講義の復習をしていたときに突然現れた。目の前にはらりはらりと落ちてくる封筒にぎょっとした。一体どこから落ちてきたのだろうか。訝しんで天上にぶら下げてある灯の影を覗き見たが、特に異常はない。突然姿を現した手紙に怯えながらも、ぼくは便箋の封を切った。
『貴方の姿は星のようです』
昨日より随分叙情的な文章だった。また一行しか書かれていなかったが、なんとか絞り出したようで、少しだけ線が震えていた。それをまた引き出しに仕舞って、どうにかして送り主を見つけようと決心した。こんなに必死に伝えてくれているのに、返事をしないなんて失礼だ。なんだか上の空になってしまい、復習を途中で切り上げて眠りについた。
その日から、毎日手紙を送ってくる主を探そうと躍起になった。しかし、手紙は突如として部屋に落ちてくるのだ。まるで切れ端みたいに、ひらひらと。それが二十日も続くと、送り主を探すのも諦めてしまった。手紙を読んでいると、送り主が読ませるのを前提に書いていないことくらいすぐに分かってしまった。
一文だけ簡潔に書かれているものもあれば、執着を滲ませた長文が書かれていることもあった。読んでいる此方が恥ずかしくなってしまうほど熱烈な文が、毎日毎日とめどなく降ってくる。気がつけば引き出しがいっぱいになっていたので、手紙を仕舞うための箱を買った。毎日送られる恋文を読むのが日課になってしまっていた。
ある春の日、寝坊したときに降ってこられたことがあった。内容が気になったが遅刻してしまうので帰りの楽しみにしていた。それを亜双義に見破られてしまった。
「なんだ成歩堂。そわそわして」
「い、いや、なんでも」
「さては・・・・・・好い
悪戯っぽく笑う亜双義に違うよと返しながら、そういえば手紙の送り主は女性なのかしらん、と首を傾げた。無骨な筆致で、時に荒っぽいところがある。女性の筆跡というよりは男性のような気がした。それこそ、目の前の親友のように、爽やかで、熱くて――。
「どうした。呆として」
「な、なんでもない」
そこまで思い至って、あり得ないと自分に言い聞かせた。もし手紙の送り主が亜双義だったら、彼はきっと読まれたくなかったと言うだろう。今この場で詮索するのは良くない。ぼくはあやふやに笑ってその場をやり過ごした。彼が手紙の送り主だったならば、どれほど幸福なことだっただろう。
その夜、降ってきた手紙の内容はこうだった。
『嗚呼、貴方様はきっと私を見てはくださらないのでしょう』
切実な言葉にどきりとした。ぼくの心情を見破られたのかと思ったのだ。哀しみに暮れた文を人差し指でなぞる。まるでぼくのような文章だ。ぼくの心はこんなにも惨めで苦しいというのに、手紙の文章はどこまでも澄んでいる。それでいてどこか諦念の含んだ文字の羅列を、静かに胸に抱いた。きっと送り主は手紙の返事など求めていない。この感情の行く末は、誰にも掬えないのだ。だって、ぼくもそうだから。
手紙と向き合っていたら、自分の気持ちに気づいてしまった。恋情とも友情ともつかぬこの感情を、自分一人でどう処理すればいいのか分からない。しかし相手に伝えるわけにもいかない。この感情は奥深くに仕舞わなければいけないものだ。それこそ、この手紙のように引き出しの中に隠すしかない。送り主もきっとぼくと似た感情を抱いているに違いなかった。相手に知られてはいけない。知られたくない。名前のつけられない感情を、彼に押しつけてはいけない。いつもは箱の中に片付ける便箋を、今日は引き出しに仕舞った。
この手紙をくれる人が、彼であれば良かったのに。
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