いいないいな
「オレが学年一位をとったら甘やかせよ、成歩堂」
人気の少ない珈琲店で、二人で試験勉強していたときだ。黙々と勉学に励んでいた亜双義が、突如そんな不可解なことを口にした。
「へ?」
「だから、今の試験でオレが一等をとったら甘やかせ」
「はあ?」
意味が分からず、再び聞き返す。店の中は静かではあるが、客がぼくらしかいないので多少は声をあげても怒られない。あまり人が入らない珈琲店ではあるが、知る人ぞ知る名店ではある。亜双義は、冬場はここでブラックコーヒーを頼む。コーヒーの香ばしい匂いに心が穏やかになるものだ。今は夏真っ盛りなので、亜双義はアイスコーヒー、ぼくはメロンソーダを頼んでいる。亜双義の言葉を噛み砕こうと、ひとまずメロンソーダに差したストローを咥えた。泡立った炭酸が喉を通り抜けていく。爽やかな後味とは対照的に、亜双義の言葉に嫌な予感を抱いていた。
亜双義は、む、と不機嫌に口を曲げた。
「キサマ、よもやこの前のことを忘れたわけではなかろうな」
「この前・・・・・・とは?」
「しらばっくれるな。なんならここでキサマの有りと有らゆる恥辱を暴露してもいいのだぞ」
「う・・・・・・」
客がいないといえども、マスターがカウンターで仕事をしている。あの時の出来事をここで喋られたら憤死しかねない。ぼくは黙って唇を噛むしかなかった。
亜双義の言っている「この前」とは、ぼくが課題終わりの睡眠不足でハイになったときだ。眠気で気が狂ってしまったぼくは亜双義に甘やかしてくれとせがみ・・・・・・亜双義の言うとおり恥辱の限りを尽くしたのである。あの時に戻れるのなら、狂ったぼくをぶん殴って気絶させて何事もなかったことにしたい。厄介なのは、あの日から亜双義の機嫌がすこぶる良いことだ。ふざけたことを言うなとぼくを突っぱねればそれで済んだはずなのに、この男はぼくが望んだことをすべて叶えた挙げ句、その後もあの日をネタにして茶化すこともなかった。なのでここで蒸し返されるとは思っていなかったのだ。
メロンソーダの泡を飲み下して、答える。
「別に、いいけど」
「約束だからな」
「分かってるよ」
亜双義の言葉に耳を傾ける振りをして、窓から降り注ぐ夏の日差しを見つめた。太陽光が強いのか、店内はセピア色のカーテンが敷かれていて、甘いブラウンの光で満ちていた。以前亜双義と飲んだ、カルーアミルクの色だった。カウンターからはお洒落なジャズが流れている。ホームズさんやアイリスちゃんなら曲名が分かるのかもしれないなとぼんやり思った。
「あた、」
亜双義にペンで額を押された。親友は愉快そうに笑って、再びノートに視線をはしらせた。ぼくはといえば、それどころではない。なにせ、亜双義を甘やかさなければいけないのだ。試験どころではなかった。
最近見せてくれるようになった亜双義の甘い笑顔ばかりがちらつく。それこそ、カルーアミルクのように甘くて吐いてしまいそうだった。
そうして、なんとか無事に試験が終わった八月。
試験の結果が大学の掲示板に貼り出されていた。法学部では、やはり彼奴の名前が一番上に表記されているのであった。
この大学に入ってから、ぼくの隣にいる男に勝てた者は一人もいない。故に亜双義は傑物扱いされていた。親友はいつだって堂々としていて、いつだって正しかった。この男の軸がぶれているところなど、見たことがない。周りの羨望と、少しの嫉妬。それらの視線すらはね除ける熱い男だった。話してみると、結構抜けていてかわいいところもあるのだけれど。
ちなみにぼくも、集中できなかったわりにまあまあ良いところまで行った。亜双義の隣に立つからには頑張りたい気持ちもあった。正直なところ、運が良かったのもあるのだが。
「よし、では行くぞ」
「行くって、どこへ?」
問うと、亜双義は身を固くした。
「・・・・・・なにも考えていなかった」
「なんだよそれ」
「よくよく考えたらキサマに甘やかされるのはいいものの、内容がすっかり頭から抜けていた。甘えるとは、どうすれば良いのだ」
「・・・・・・なんだよ、それ」
亜双義はあからさまに困った顔をしていた。これは冗談ではなく、本気で言っている。亜双義は普段から真面目で、一人で立っている男だから、甘え方を知らないのかもしれない。ぼくも顎に手を当て、共に考えてやった。
「そうだなあ・・・・・・。自分がしてもらいことを相手にしてもらう、とか」
「前回のキサマみたいにか」
「ぼくのことは蒸し返すなよ。それが難しかったら、そうだなあ・・・・・・酒の力を借りるとか、か?」
亜双義は素直に、うん、と頷く。その様子が聞き分けのいい子どもみたいでおかしかった。ほら、やっぱり抜けていてかわいいところがあるじゃないか。
「では、適当にどこか寄るか。酒のつまみでも買って・・・・・・」
「宅飲みか。試験も終わったしいいんじゃないか? 今日もお前のとこでいいだろ。お泊まりセットも置いてあるし」
そう言うと、亜双義は穏やかに目を細めて笑った。亜双義が優しい表情をするとき、心の底から楽しんでくれている気がする。他の友人たちは彼のこの表情を知っているのだろうか。ぼくだけが知っていたとしたらなんだか勿体ない。けれどほんの少し擽ったくもあった。
「行くか」
「・・・・・・うん」
さて、どうやって親友を甘やかしてやろうか。くふくふと笑っていると、目元をほんのり朱で滲ませた親友に肘でど突かれてしまった。
「今回はこれだ」
買い物を終えたぼくらは、亜双義の部屋の卓袱台に食べ物を並べていた。どん、と卓袱台に置かれた瓶は深いブラウンの光を湛えている。ボトルを手にとり、翠で縁取られたラベルの文字を眺めた。
「・・・・・・これ、カルーアか? だから牛乳とか買ってたのか」
「久々に甘いものが飲みたくなってな。二人きりなのだから問題はないだろう」
「ああ、お前、わりと人前で飲むとき酒選んでるもんな」
ぼくにはよく分からないが、周囲の人々は相手によって酒の種類を選ぶ。男性の友達と飲むときは苦いビールだとか、恋人と飲むときは甘いカクテルだとか。ぼくはあまり人の視線を気にしない性質なので(だってわざわざ美味しいと思えないものを口にしたくないのだもの)、みんな大変だなあと思う。亜双義は人前で飲むときはいつもビールだ。以前話を聞いたら、比較的アルコール度数も抑えられていて、馬鹿にされないからだと言っていた。アルコールも付き合いで飲んでいるだけに過ぎないようだったので、ならぼくと共に飲もうと、居酒屋を梯子して様々な種類の酒を試してみたこともあった。甘ったるい苺のカクテルを飲んだとき、「甘いな」と顰めっ面をしていたのを思い出す。ぼくは甘いお酒が好きなので、その日はぼくが沢山飲んでへべれけになって亜双義に引きずられて帰った。そのときのことを思い出して、ボトルを卓袱台に置いた。
「珍しいな。お前が甘いお酒を飲むなんて」
「興が乗った」
「ぼくは今回飲んじゃ駄目なんだよな」
「当たり前だ。キサマが潰れたら今回の趣旨からずれるだろう」
今日の飲みでは、ぼくは飲んではいけないことになっている。それはそうだ。そもそもこの宅飲み自体、「亜双義を甘やかす」ことの延長線にしかない。酒を飲んでしまえば、亜双義より早く潰れるのが目に見えて分かっていた。早々に亜双義が潰れることはないので、のんびり飲んで食べて、いつものように楽しもうと思っていた。
楽しもうと、思っていたのだが。
「なるほどおぉぉ・・・・・・」
なんと、あの亜双義が早々に潰れていた。コーヒーリキュールは味こそ甘いが、度数が高い。しかしまさかこれほどまでとは思わなかった。卓袱台の上に置かれたコップは何杯目だろう。氷を含んだカルーアミルクが半分まで入っていた。
亜双義は耳まで赤くして、ぼくにもたれかかっていた。ぐいぐいと肩で押してくるので、倒れないようにするので精一杯だった。親友は実に上機嫌ににへらと笑ってぼくにくっついてくる。普段だったら絶対見られない亜双義の姿が少し面白い。
「そろそろ横になるか?」
「んー・・・・・・」
話を聞いているのか聞いていないのか、亜双義はぼくの首元に擦り寄ってくる。まるで猫みたいな仕草だ。後頭部を撫でてやれば、首筋をがぶりと噛まれた。やっぱり猫じゃないか。
「ほら、もう寝るぞ。そんなにふらふらじゃ危ないし」
「なるほどう」
亜双義はこうなってからずっとぼくの名前を呼んでいる。お前本当にぼくのこと大好きだよな、と笑えば、亜双義が静かな目で見つめ返してきた。
ふと、キスしてしまいそうな距離感。
どきりとした。熱のこもった濡羽色の目に、ぼくの姿が映っている。なんとも言えない、ちんちくりんなぼくの表情がそこにはあった。ここまで近づいて初めて気づく。この男の睫毛は随分長かった。アルコールを摂取していないのに、動悸で目眩がした。
「あ」
乾いた声で、なんとか絞り出そうとする。
「あそ、」
名前を呼ぼうとしたら、その声ごと食われてしまった。触れた唇はひどく甘い。軽く触れられて離されて、もう一度重なる。熱い体温とは反対の、慎重な口づけに笑いが溢れた。笑ったことに腹を立てたのか、唇を割ってぬるりとした舌が侵入してくる。歯列をなぞられ、舌を吸われ、腰のあたりがぞくぞくとした。絡ませた舌からは強いアルコールと、コーヒーとミルクの甘い味がする。甘い。吐きそうなほど甘い。亜双義の唇から香り立つその甘さに、頭がくらくらした。
ちゅ、と音を立てて、ようやく解放される。火照った熱が冷めていくのが寂しくて、思わずシャツから伸びた亜双義の腕を掴んだ。亜双義は視線を少しだけ彷徨わせている。ぼくはそんな彼に言った。
「お前、そんなに酔ってないだろ」
「バレたか」
「目を見れば分かるさ」
指摘すれば、亜双義は自嘲の笑みを見せた。唇の端を歪めた、傷ついた笑いだった。
「軽蔑したか」
かと思えば的外れなことを言ってくるので、ぼくは肩を落とした。
「亜双義、お前、甘えるの下手だな」
なにも分かっていないこの男の胸ぐらを掴んで引き寄せる。そのまま亜双義の首に腕を回して、ぼくからキスをしてやった。触れるだけの、それでも近い距離を意識せざるを得ないキスをしてやった。お前なんかより不慣れではあるかもしれないが、誰よりも近くでお前を見てきたぼくだからこそできる口づけを贈りたかった。唇を離して、驚いて見開いている亜双義の目を見やる。顔に熱が溜まる。亜双義のアルコールが移ってしまったに違いなかった。
「ぼくと一緒に寝ろ、亜双義。お前に甘え方を教えてやる」
人を甘やかすことはできるのに、他人に甘えられないこの親友に言ってやった。声はみっともなく震えてしまっていたが、意図は伝わったらしく、亜双義は唇を噛んだり舐めたりしていた。どうやらひどく乾くらしい。ぼくがもう一度キスをすると、後頭部を引き寄せられて深い口づけをされた。
そのまま床に倒される。覆い被さる亜双義の影に目が眩んだ。ぼくは亜双義の背中に手を回して、下から見える景色を眺めた。
卓袱台に置かれたカルーアミルクの氷が、からんと音を立てて溶けた。
人気の少ない珈琲店で、二人で試験勉強していたときだ。黙々と勉学に励んでいた亜双義が、突如そんな不可解なことを口にした。
「へ?」
「だから、今の試験でオレが一等をとったら甘やかせ」
「はあ?」
意味が分からず、再び聞き返す。店の中は静かではあるが、客がぼくらしかいないので多少は声をあげても怒られない。あまり人が入らない珈琲店ではあるが、知る人ぞ知る名店ではある。亜双義は、冬場はここでブラックコーヒーを頼む。コーヒーの香ばしい匂いに心が穏やかになるものだ。今は夏真っ盛りなので、亜双義はアイスコーヒー、ぼくはメロンソーダを頼んでいる。亜双義の言葉を噛み砕こうと、ひとまずメロンソーダに差したストローを咥えた。泡立った炭酸が喉を通り抜けていく。爽やかな後味とは対照的に、亜双義の言葉に嫌な予感を抱いていた。
亜双義は、む、と不機嫌に口を曲げた。
「キサマ、よもやこの前のことを忘れたわけではなかろうな」
「この前・・・・・・とは?」
「しらばっくれるな。なんならここでキサマの有りと有らゆる恥辱を暴露してもいいのだぞ」
「う・・・・・・」
客がいないといえども、マスターがカウンターで仕事をしている。あの時の出来事をここで喋られたら憤死しかねない。ぼくは黙って唇を噛むしかなかった。
亜双義の言っている「この前」とは、ぼくが課題終わりの睡眠不足でハイになったときだ。眠気で気が狂ってしまったぼくは亜双義に甘やかしてくれとせがみ・・・・・・亜双義の言うとおり恥辱の限りを尽くしたのである。あの時に戻れるのなら、狂ったぼくをぶん殴って気絶させて何事もなかったことにしたい。厄介なのは、あの日から亜双義の機嫌がすこぶる良いことだ。ふざけたことを言うなとぼくを突っぱねればそれで済んだはずなのに、この男はぼくが望んだことをすべて叶えた挙げ句、その後もあの日をネタにして茶化すこともなかった。なのでここで蒸し返されるとは思っていなかったのだ。
メロンソーダの泡を飲み下して、答える。
「別に、いいけど」
「約束だからな」
「分かってるよ」
亜双義の言葉に耳を傾ける振りをして、窓から降り注ぐ夏の日差しを見つめた。太陽光が強いのか、店内はセピア色のカーテンが敷かれていて、甘いブラウンの光で満ちていた。以前亜双義と飲んだ、カルーアミルクの色だった。カウンターからはお洒落なジャズが流れている。ホームズさんやアイリスちゃんなら曲名が分かるのかもしれないなとぼんやり思った。
「あた、」
亜双義にペンで額を押された。親友は愉快そうに笑って、再びノートに視線をはしらせた。ぼくはといえば、それどころではない。なにせ、亜双義を甘やかさなければいけないのだ。試験どころではなかった。
最近見せてくれるようになった亜双義の甘い笑顔ばかりがちらつく。それこそ、カルーアミルクのように甘くて吐いてしまいそうだった。
そうして、なんとか無事に試験が終わった八月。
試験の結果が大学の掲示板に貼り出されていた。法学部では、やはり彼奴の名前が一番上に表記されているのであった。
この大学に入ってから、ぼくの隣にいる男に勝てた者は一人もいない。故に亜双義は傑物扱いされていた。親友はいつだって堂々としていて、いつだって正しかった。この男の軸がぶれているところなど、見たことがない。周りの羨望と、少しの嫉妬。それらの視線すらはね除ける熱い男だった。話してみると、結構抜けていてかわいいところもあるのだけれど。
ちなみにぼくも、集中できなかったわりにまあまあ良いところまで行った。亜双義の隣に立つからには頑張りたい気持ちもあった。正直なところ、運が良かったのもあるのだが。
「よし、では行くぞ」
「行くって、どこへ?」
問うと、亜双義は身を固くした。
「・・・・・・なにも考えていなかった」
「なんだよそれ」
「よくよく考えたらキサマに甘やかされるのはいいものの、内容がすっかり頭から抜けていた。甘えるとは、どうすれば良いのだ」
「・・・・・・なんだよ、それ」
亜双義はあからさまに困った顔をしていた。これは冗談ではなく、本気で言っている。亜双義は普段から真面目で、一人で立っている男だから、甘え方を知らないのかもしれない。ぼくも顎に手を当て、共に考えてやった。
「そうだなあ・・・・・・。自分がしてもらいことを相手にしてもらう、とか」
「前回のキサマみたいにか」
「ぼくのことは蒸し返すなよ。それが難しかったら、そうだなあ・・・・・・酒の力を借りるとか、か?」
亜双義は素直に、うん、と頷く。その様子が聞き分けのいい子どもみたいでおかしかった。ほら、やっぱり抜けていてかわいいところがあるじゃないか。
「では、適当にどこか寄るか。酒のつまみでも買って・・・・・・」
「宅飲みか。試験も終わったしいいんじゃないか? 今日もお前のとこでいいだろ。お泊まりセットも置いてあるし」
そう言うと、亜双義は穏やかに目を細めて笑った。亜双義が優しい表情をするとき、心の底から楽しんでくれている気がする。他の友人たちは彼のこの表情を知っているのだろうか。ぼくだけが知っていたとしたらなんだか勿体ない。けれどほんの少し擽ったくもあった。
「行くか」
「・・・・・・うん」
さて、どうやって親友を甘やかしてやろうか。くふくふと笑っていると、目元をほんのり朱で滲ませた親友に肘でど突かれてしまった。
「今回はこれだ」
買い物を終えたぼくらは、亜双義の部屋の卓袱台に食べ物を並べていた。どん、と卓袱台に置かれた瓶は深いブラウンの光を湛えている。ボトルを手にとり、翠で縁取られたラベルの文字を眺めた。
「・・・・・・これ、カルーアか? だから牛乳とか買ってたのか」
「久々に甘いものが飲みたくなってな。二人きりなのだから問題はないだろう」
「ああ、お前、わりと人前で飲むとき酒選んでるもんな」
ぼくにはよく分からないが、周囲の人々は相手によって酒の種類を選ぶ。男性の友達と飲むときは苦いビールだとか、恋人と飲むときは甘いカクテルだとか。ぼくはあまり人の視線を気にしない性質なので(だってわざわざ美味しいと思えないものを口にしたくないのだもの)、みんな大変だなあと思う。亜双義は人前で飲むときはいつもビールだ。以前話を聞いたら、比較的アルコール度数も抑えられていて、馬鹿にされないからだと言っていた。アルコールも付き合いで飲んでいるだけに過ぎないようだったので、ならぼくと共に飲もうと、居酒屋を梯子して様々な種類の酒を試してみたこともあった。甘ったるい苺のカクテルを飲んだとき、「甘いな」と顰めっ面をしていたのを思い出す。ぼくは甘いお酒が好きなので、その日はぼくが沢山飲んでへべれけになって亜双義に引きずられて帰った。そのときのことを思い出して、ボトルを卓袱台に置いた。
「珍しいな。お前が甘いお酒を飲むなんて」
「興が乗った」
「ぼくは今回飲んじゃ駄目なんだよな」
「当たり前だ。キサマが潰れたら今回の趣旨からずれるだろう」
今日の飲みでは、ぼくは飲んではいけないことになっている。それはそうだ。そもそもこの宅飲み自体、「亜双義を甘やかす」ことの延長線にしかない。酒を飲んでしまえば、亜双義より早く潰れるのが目に見えて分かっていた。早々に亜双義が潰れることはないので、のんびり飲んで食べて、いつものように楽しもうと思っていた。
楽しもうと、思っていたのだが。
「なるほどおぉぉ・・・・・・」
なんと、あの亜双義が早々に潰れていた。コーヒーリキュールは味こそ甘いが、度数が高い。しかしまさかこれほどまでとは思わなかった。卓袱台の上に置かれたコップは何杯目だろう。氷を含んだカルーアミルクが半分まで入っていた。
亜双義は耳まで赤くして、ぼくにもたれかかっていた。ぐいぐいと肩で押してくるので、倒れないようにするので精一杯だった。親友は実に上機嫌ににへらと笑ってぼくにくっついてくる。普段だったら絶対見られない亜双義の姿が少し面白い。
「そろそろ横になるか?」
「んー・・・・・・」
話を聞いているのか聞いていないのか、亜双義はぼくの首元に擦り寄ってくる。まるで猫みたいな仕草だ。後頭部を撫でてやれば、首筋をがぶりと噛まれた。やっぱり猫じゃないか。
「ほら、もう寝るぞ。そんなにふらふらじゃ危ないし」
「なるほどう」
亜双義はこうなってからずっとぼくの名前を呼んでいる。お前本当にぼくのこと大好きだよな、と笑えば、亜双義が静かな目で見つめ返してきた。
ふと、キスしてしまいそうな距離感。
どきりとした。熱のこもった濡羽色の目に、ぼくの姿が映っている。なんとも言えない、ちんちくりんなぼくの表情がそこにはあった。ここまで近づいて初めて気づく。この男の睫毛は随分長かった。アルコールを摂取していないのに、動悸で目眩がした。
「あ」
乾いた声で、なんとか絞り出そうとする。
「あそ、」
名前を呼ぼうとしたら、その声ごと食われてしまった。触れた唇はひどく甘い。軽く触れられて離されて、もう一度重なる。熱い体温とは反対の、慎重な口づけに笑いが溢れた。笑ったことに腹を立てたのか、唇を割ってぬるりとした舌が侵入してくる。歯列をなぞられ、舌を吸われ、腰のあたりがぞくぞくとした。絡ませた舌からは強いアルコールと、コーヒーとミルクの甘い味がする。甘い。吐きそうなほど甘い。亜双義の唇から香り立つその甘さに、頭がくらくらした。
ちゅ、と音を立てて、ようやく解放される。火照った熱が冷めていくのが寂しくて、思わずシャツから伸びた亜双義の腕を掴んだ。亜双義は視線を少しだけ彷徨わせている。ぼくはそんな彼に言った。
「お前、そんなに酔ってないだろ」
「バレたか」
「目を見れば分かるさ」
指摘すれば、亜双義は自嘲の笑みを見せた。唇の端を歪めた、傷ついた笑いだった。
「軽蔑したか」
かと思えば的外れなことを言ってくるので、ぼくは肩を落とした。
「亜双義、お前、甘えるの下手だな」
なにも分かっていないこの男の胸ぐらを掴んで引き寄せる。そのまま亜双義の首に腕を回して、ぼくからキスをしてやった。触れるだけの、それでも近い距離を意識せざるを得ないキスをしてやった。お前なんかより不慣れではあるかもしれないが、誰よりも近くでお前を見てきたぼくだからこそできる口づけを贈りたかった。唇を離して、驚いて見開いている亜双義の目を見やる。顔に熱が溜まる。亜双義のアルコールが移ってしまったに違いなかった。
「ぼくと一緒に寝ろ、亜双義。お前に甘え方を教えてやる」
人を甘やかすことはできるのに、他人に甘えられないこの親友に言ってやった。声はみっともなく震えてしまっていたが、意図は伝わったらしく、亜双義は唇を噛んだり舐めたりしていた。どうやらひどく乾くらしい。ぼくがもう一度キスをすると、後頭部を引き寄せられて深い口づけをされた。
そのまま床に倒される。覆い被さる亜双義の影に目が眩んだ。ぼくは亜双義の背中に手を回して、下から見える景色を眺めた。
卓袱台に置かれたカルーアミルクの氷が、からんと音を立てて溶けた。
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