いいないいな

「おわっ・・・・・・た」
 憔悴しきった成歩堂がパソコンの前で呟いた。どうやら溜まっていた課題をようやく終えたらしい。時刻はもう深夜十二時をまわっている。丸一日徹夜をした成歩堂の頭は既にふらふらで、横に傾いたり上下に傾いたりしていた。そろそろ眠る頃合いだろうと、エアコンを止める。そのまま寝入ってしまいそうな成歩堂にアイスココアをいれてやった。成歩堂は眠らないようにするためか、コップを勢いよく掴み一気に煽る。氷がまだ溶けきっておらず、それほど冷たくもないだろうに、成歩堂は躊躇うそぶりすらなかった。
 からん、とコップの中の氷たちが音を立てる。寝る準備をしようと布団を敷いていたら、成歩堂が面倒くさい絡み方をしてきた。足にしがみつかれ、思わず成歩堂を見下ろす。
「・・・・・・どうした」
「やくそく」
「は?」
「ぼくを甘やかしてくれるんじゃなかったのか?」
 大きな目をくるくると動かしてそう言ってくるあたり、妙に小動物を想起させる。成歩堂の頭を押し退けようとしたが、涙目の相棒を放っておくわけにもいかず、頭をくしゃりと撫でるだけに留めておいた。
「分かっている。約束はしっかり果たす。その前に準備は必要だろう」
「準備?」
「平たく言えば寝る準備だな」
「ねむい・・・・・・」
「待て。そのまま寝るな。寝る前に風呂だ。しばらくシャワーも浴びていないだろう。さすがに体臭がな・・・・・・」
 我ながらひどい言い方をした。実際のところ、成歩堂の体臭はそこまできつくはない。普段から体臭を感じさせない男だ。いつも清潔な衣類を身に纏い、白い百合のように潔白な心を持っていた。首元からは甘い匂いがするのだが、この男は普段から甘味をよく食べるので甘い匂いが漂っていてもおかしくはない。成歩堂は「ひどい!」ときゃんきゃん鳴きながらも、大人しくオレの足から手を離した。そのままぼんやりと布団を敷くのを見ていたが、うつらうつらと船を漕ぎ始める。布団が敷き終わってから、成歩堂の肩を叩いて起こしてやった。
「成歩堂、風呂だ」
「うぅん・・・・・・ねむいよう・・・・・・」
「そうだと思ったからオレが入れてやる。ほら、腕を貸せ」
 成歩堂の身体を抱えて起き上がらせ、風呂場まで引きずる。脱衣室でぼんやりと立っている彼の服をどうしようか悩んだ。
「成歩堂、服は自分で脱げるな?」
「やだ」
 思わぬ駄々に、つい「は、」と声をあげてしまった。相当眠いのか、呂律が回っていない。幼子のような言い分がやけにかわいげがあり、困ってしまった。
「亜双義がぬがせてくれよぉ・・・・・・」
「キサマ・・・・・・正気か?」
「だめか?」
 さも脱がされるのが当然かのように、成歩堂はあどけない調子で首を傾げる。あまりにも純な態度に、さすがのオレも辟易した。幾ら親友だからと言って、そこまで明け渡すのはどうかと思うぞ、相棒。
 この男は意外と頑固なところがあるので、あれこれ言っても聞かないかもしれない。眠気で理性を失っている今は特にだ。理性が働いている間はよく他人に流されている性分だが、たまに、異様にこだわるときがある。これは腹を括って脱がせてやるしかなかった。
「・・・・・・手を上にあげろ」
「まるで脅し文句みたいだな」
 オレの気持ちを知りもしないで、この忌ま忌ましい相棒はけたけたと笑っている。フードのついたTシャツを捲りあげると、あまり鍛えられていない腹が見えた。
「キサマ、また体積が増えたな?」
「体積ってなんだよ・・・・・・」
「太った、ということだ。また甘味でもばかすか食べたのだろう。今度オレと鍛錬だな」
「お前に付き合っていたら体力が幾らあっても足りないよ!」
 そう言いながらも大人しく脱がされている成歩堂は、やはり警戒心が薄い。この男、どこか知らぬ輩にいつか攫われるのではと余計な心配をしてしまう。さすがに下は自分で脱ぐことにしたのか、覚束ない手つきでパンツと下着を脱いでいる。その間、オレは自分の衣類を脱ぎ去って洗濯籠に入れていた。視線を感じたので見やれば、成歩堂は素っ裸でぼんやりとオレを見つめていた。
「どうした」
「なんでお前も脱ぐんだ?」
「そんなふらふらな友を風呂に放置できるか。ほら、入るぞ」
 成歩堂の背中を叩いて風呂場に押し込む。そこで湯船を張っていなかったことに気づく。普段はシャワーしか使わないのですっかり見落としていた。身体を洗っている間に溜まるだろうと栓で塞ぎ、湯を溜める。成歩堂は風呂用の椅子に座らせた。シャワーの湯を人肌まで温め、成歩堂の頭の上に被せる。いつもとんがっている髪が水分を吸って萎びた。髪全体に水分を行き渡らせるために、髪に指を通す。質が硬いのか、漆黒の髪は湯を弾いた。やわやわと揉んでいると、成歩堂が再び眠たそうに言った。
「きもちいい・・・・・・」
 うなじを擦ってやると、くふくふと笑い始める。どうやらお気に召したらしい。しっかり水分が芯まで通ったところで、シャンプーを手に馴染ませ頭皮を洗ってやった。
「亜双義、美容師の素質あるな」
「馬鹿なことを言うな。どうもオレにはあの手の職種は合わん」
「そうだよなあ」
 オレの話を聞いているのかどうかすら分からない。ただ成歩堂は楽しげに小さく笑っているばかりだ。シャワーで流してやると、白い泡が成歩堂の背中を伝っていく。なんだか見てはいけない光景のような気がして、どうにももどかしい。なぜこんなに心臓が鳴っているのか、自分でも理解ができなかった。
 次は身体を洗ってやる。タオルで背中に触れ、痛くないよう注意深く背筋をなぞる。やはりなにかが成歩堂のツボに入るようで、ずっと笑ってばかりだ。
「おい。なにがおかしい」
「だって、亜双義が優しいのだもの」
 そう言われてしまえば、口を噤むしかない。成歩堂は終始ご機嫌で身体を洗われていた。
 シャワーで流し終えると、ちょうどよく湯船の準備ができる。成歩堂は緩慢とした動作で湯船に浸かって、火照った顔を蕩けさせた。
「うあああああ・・・・・・」
「おい、沈むな。起きろ」
「亜双義も早く来いよ」
「・・・・・・は?」
 成歩堂と湯船を共にするなど微塵も考えていなかった。適当にシャワーを浴びて成歩堂を引き揚げてそれで終わりにしようと思っていたのだ。相棒は口を尖らせてオレの腕を引っ張る。
「お前も入るんだよ」
「・・・・・・分かった。分かったから引っ張るな」
 また新たな使命が下ったらしい。シャワーを浴びていても、背中に視線が突き刺さる。オレを見てなにが楽しいのだ。
 成歩堂と対面する形で湯船に浸かる。夏と言えども、エアコンで冷えた身体にじんわりと沁みる。成歩堂は本当に楽しそうににこにこと笑うばかりだ。色々と大変ではあるが、親友が楽しそうならいいかとオレもつられて笑いそうになる。
 結局、笑えなかった。なぜなら成歩堂が腕を広げて抱きついてきたからだ。
 生々しい肌の感触に動揺してしまう。成歩堂の肌は水分を多く含んでいて、オレの皮膚に吸着した。突然のことに頭が真っ白になっていると、成歩堂の唇がオレの唇に重なる。余計、わけが分からなくなった。成歩堂の唇は濡れていた。
 一度だけ口づけを交わすと、親友はオレの首元に擦り寄った。
「あったかい」
 色気の含んだ行為とは裏腹に、親友の声は子どものようにあどけない。成歩堂は満足した表情を浮かべていた。
「お、おい」
 ようやく絞り出した声は、ひっくり返っていた。なぜオレが動揺しているのか分かっていない様子の成歩堂は、こてんと首を傾げる。
「なんだ?」
「それを聞きたいのはこっちのほうだ。なんだ、さっきのは」
「だって、甘やかしてくれるって言ったんじゃないか、お前が」
 確かに甘やかす約束はした。しかし、どう考えても親友の領域を超えてしまっている。キサマの貞操観念はどうなっているのだと注意したくてたまらない。ふと、悪戯心がよぎってしまい、彼の背筋を下から上へなぞった。成歩堂は身体を震わせ、「きもちいい」と呟いて・・・・・・それ以上はやめておいた。これ以上の接触は戻れなくなる気がした。
 その代わり、成歩堂の髪をくしゃりと撫でてやる。成歩堂は終始満足した様子でうとうととしていた。睡眠を摂るのは人間には必要不可欠だと、身を持って知った。
 身体が温まったところで(オレはそれどころではなかったが)、湯船から上がり、成歩堂にシャツと短パンを身につけさせた。オレも寝間着に着替えて床につく。なんだかどっと疲れた。人を甘やかすのは、なんと難しいことなのだろうか。
 布団が一組しかないので、成歩堂が泊まりに来たときは一緒に寝ている。今日も例に漏れず、隣で横になったのだが。
「あそうぎ」
 やけに甘えたな声に嫌な予感がした。風呂場で聞いたときと同じ声だ。甘いものばかり食べていたらそんな甘い声が出せるようになるのだろうか、実に不思議だ。
「・・・・・・なんだ」
「腕枕してくれよ」
 もうこうなったらどうとでもなれ、だ。ため息をつきながら成歩堂の頭の下に腕を通してやる。そのまま囲うように成歩堂を抱き込めば、彼はオレの首筋に鼻を埋めて、深呼吸をした。
「あそうぎの匂いがする」
「匂うか」
「いや。なんだか安心する」
 成歩堂の頭に鼻を埋めると、石鹸の香りと、成歩堂の汗の匂いが混じっていた。暑い夏だというのに、オレたちは一体なにをやっているのだろう。じっとりと汗ばんでくるので、傍に置いていたリモコンのボタンを押した。エアコンが無機質な音を立てながら起動する。これで少しは涼しくなるだろう。成歩堂を見下ろせば、彼はもう健やかな寝息を立てていた。相当眠たかったらしい。朝になれば、きっと彼は恥ずかしさでのた打つのだろう。その様子が見てみたかった。
「・・・・・・やっぱり暑いな」
 誰も聞いていないのを承知の上で呟いてから、エアコンの温度設定をもう一段階下げた。
 

 朝、先に目が醒めたのはオレだった。
 少し涼しくなった室内に身震いして、毛布に沈む。オレに囲われた成歩堂は、未だのんきに寝ていた。カーテンから差し込む朝の日差しは、まだ柔らかい。薄暗い室内で、相棒の穏やかな寝顔を眺めていた。
 やがて、成歩堂がむずかる。うぅんと悩ましい声をあげてもぞもぞと動いてから、ゆっくりと瞼をあげた。
 しばらく寝ぼけて、オレの首元に擦り寄ってしがみついていた。やがて覚醒してきたのか、勢いよくオレから身を離す。しかしがっちりと成歩堂の腰に手を回していたため、可哀想な親友の抵抗は無意味だった。オレは爽やかに努めた。
「お早う」
「うわあああああ・・・・・・」
 成歩堂はトマトのように熟れた顔を両手で覆い、喉奥から呻いた。やはり睡眠は侮れない。此奴にもいい薬になっただろう。
 耳どころか首まで赤くした相棒が大層哀れで、つい意地悪に笑ってしまう。
「さて、次はどうされたい? 飯でも食うか?」
「わ、忘れてくれ。亜双義」
「ここまで来たらオレはなにも怖くないがな」
「ぼくは怖いよ!」
 そうしてまたきゃんきゃんと鳴き始めたので、その喧しい口を己の唇で塞いでやった。途端に大人しくなって、真っ赤な顔で、涙目で身体を震わせる。それがどうにもおかしく、何度も口づけしてやった。
 エアコンの温度はもう一段階下げなくてはいけないようだ。
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