おまえにめとられたい
急な坂を車で下っていく。晩秋、枯れ果てた森を抜ければ、下方には鈍色の海が広がった。海まで続く道の中腹には、成歩堂の実家がある。久方ぶりの帰郷に、静かな懐かしさを胸に抱いた。
『やり残したことがあるのなら、後悔する前になさってください』
寿沙都に退職を勧められた成歩堂は、良い機会だと思って実家に帰った。彼女に己の後悔を見破られていたのは驚いた。弁護士としての成歩堂をずっと支えていた彼女には、なにもかもお見通しだったのかもしれない。事務所を寿沙都に託し、成歩堂は今ここにいる。
久しぶりの我が家には既に人はいなかった。両親はとうの昔に他界していた。大人数で住むには狭く、一人で住むには広すぎる家に、鞄三つ分だけ自分の荷物を入れる。散々放置されていた我が家の整理に明け暮れる日々をまず過ごすことになった。
そうして一ヶ月、手続きや家の今後を親戚に頼み、地元の友人や知り合いに挨拶をし、荒れ果てた庭を整備して、好きなものを食べた。実家の独特な土の匂いに、やはり望郷の念が湧き上がるのだった。この家も見納めか。そう思うと、少しだけ寂しかった。
幼い自分はこの家に育てられたのだと、改めて実感する。深夜、黒のカーテンに散りばめられた星々に見守られながら、成歩堂は家の外観を眺めていた。還暦を迎えたこの身には、夜の秋の寒さは堪える。シャツの上から羽織った黒い外套の襟で口元を隠した。
良い天気だ。思えば、彼と会うときはいつも晴れていた。蛇神は雨乞いの神様ではないのかと、一人で静かに笑んだ。彼の抜け殻を納めた巾着を片手に持って、成歩堂は家の裏の大樹に向かった。
大樹も寒さには勝てないらしく、葉は朽ち、裸の枝が夜空に貼りついていた。相変わらずの獣道を抜け、大樹の元にたどり着く。空いた手を大樹に翳し、天空に伸ばした。
「亜双義、遅くなってすまない」
張り上げる声にもう若さはない。年相応の静謐さを保った自分の声は、もう彼には届かないのかもしれない。
しかし、酸いも甘いも経験した今だからこそ言える。誇りを持って、堂々と。
「ぼくを娶ってくれないか」
頭上から返答はない。大樹の上にいるのは分かっているのに、彼は姿を見せてくれない。
お前に会いたいよ、亜双義。
「それとも、こんなおじいさんになったぼくは嫌いか?」
それはそうだ。神様だって若い人間のほうがいいに決まっている。うっかり自嘲の笑みを浮かべて、成歩堂は目を細めた。
すると、若かりし頃のように。白の化身が、着物の裾を翻して上空から降りたった。
秋にも花の香りを纏わせた美丈夫は、あの日と変わらず、目元を仮面で隠して成歩堂の目の前にいた。凜とした佇まいも、遥か昔の記憶と変わらない。否、記憶よりも遥かに澄んだ空気を含んで、その男は立っていた。
亜双義は、不機嫌そうに口を曲げていた。
「・・・・・・なぜ待てんのだ」
「なにをだ?」
「キサマが人生を全うするのを、だ。人間の生など、一瞬で終わる。人間の一生くらい、オレは待っていられる。生き急がなくても良い」
「ぼくはそこまで待っていられないよ。人間の一生はお前より短いからな」
「生きているうちに娶れば、突然消えたキサマを心配する者もいる」
「だからさ、いろいろ済ませてきたんだ」
首を傾げる亜双義の様子が幼子のようで、成歩堂は笑ってしまった。
「身辺整理してきた。ぼくがいなくなった後のことは、信頼できる人に頼んである。だから、」
亜双義の手に、巾着を乗せる。ずっと自分を護ってくれていた、彼の一部だったもの。巾着ののった手を、皺だらけの両手で包んだ。
「ぼくと一緒にいてくれ、亜双義」
亜双義。彼の名前を呼ぶと、空気が一変した。枯れた枝は風に煽られざわつき、背筋に得体の知れない気配が這い上がってくる。もう一度彼の名前を呼ぶと、亜双義は成歩堂の老いた身体を抱き寄せた。
「本当は、もっと早くに連れ去ってやろうと思っていた。キサマがオレの領域から離れると云ったとき、どんな想いで、オレが」
途切れ途切れの言の葉は、震えていた。亜双義の手が白髪交じりの頭をくしゃりと撫でる。ひんやりとした温度が心地よく、暖かかった。成歩堂は両手を亜双義の背中に回し、赤子をあやすように撫でてやる。
「お前の隣に立てるようになりたかったんだ。お前と一緒になるんだったら、そこまでしなくちゃだめなんだって」
「莫迦者。オレの隣に並ぶとは、不敬にも程がある」
「だってお前、いつも寂しそうだったのだもの」
成歩堂の記憶にある亜双義は、いつも寂しそうだった。白い花に囲まれた横顔は、今にも消えてしまいそうに儚く。いつも遠くの景色を見ている人だった。仮面の下に隠された目が一体なにを映しているのか、成歩堂はずっと気になっていた。
美しくて儚くて、いつも寂しそうな、ぼくの大事な人。
彼の孤独を埋めようと、ずっと繋いでいた手。生白い手の温度を、今でも覚えている。
「キサマはきっと、オレの本当の姿を見れば恐れおののく」
「ぼくが恐がったら、そのときは喰ってくれ。一思いに丸呑みにしろよ」
亜双義が少しだけ身体を離して、至近距離で見つめてくる。
「お前の姿を見せてくれ、亜双義」
「・・・・・・霊体化してしまえば、もう人間には戻れなくなるぞ」
「人間じゃないぼくは嫌いか?」
「そんなわけがあるか。キサマがキサマである限り、オレは焦がれ続けるだろうさ」
なるほどう、と名前を呼ばれ、顎に指がかけられる。色づいた唇が近づいて、成歩堂は咄嗟に手で亜双義の顔を抑えた。
「ま、待ってくれ」
「なんだ。怖じ気づいたか?」
「そ、そうじゃなくて・・・・・・。ぼくは六十のおじいさんだぞ。お前はおじいさんにキスをするのか?」
亜双義は再び首を傾げた。本当に分からないといった風の態度であった。
「・・・・・・なにか問題でもあるのか?」
「そ、そりゃあ、神様からしてみたらぼくなんて赤子も同然だろうけど」
「よく分かってるじゃないか。まあ、赤子だろうが、老人だろうが」
力の入らない成歩堂の手首を掴んで、亜双義は妖艶な笑みを口元に浮かべる。拒めないのを悟り、強く目を瞑った。
「キサマがキサマであれば、それでいい」
柔らかい唇が、己のかさついた唇と重なった。いつぞやのように、軽く息を吹きかけられる。すると、重かった身体が突然軽くなった。
今まで感じたことのない気配にはっと目を開ける。亜双義に預けた巾着から這い出た抜け殻が、徐々に枝に変化し、成歩堂の身体を呑み込んだ。枝の勢いに圧され、亜双義がぐんぐんと遠ざかっていく。白の花煙に巻かれ、亜双義の陰が見えなくなった。
亜双義。名前を呼んで手を伸ばすが、口腔にも鼻腔にも白い花びらを詰められ、もみくちゃにされた。
次にはっと息をつくと、成歩堂の皺だらけの手は若かりし頃のようにぴんと皮膚が張っていた。
疑問に思う前に、白い花々に押し出されるようにして空に落とされる。身につけた外套が音を立てて強くはためいた。成歩堂が状況を整理する前に、身体が地面に向かって落下していく。呼吸するのも難しい上空で、成歩堂は目を凝らした。下を見ると、夜闇でもはっきりと見えた。
真っ白く美しい、巨大な蛇が。
見知った町の中央、山から海まで一本通った太い道に、一匹の巨大な蛇が横たわっている。夜空に浮かぶ星のように、鱗はきらきらと輝き、不思議な色彩を帯びていた。これはなんという名の白だろう。成歩堂は真っ逆さまに蛇の頭に向かって落ちていく。手を蛇に向けて、名を目一杯叫んだ。
「亜双義!」
ぼくの白。ぼくだけの白。
――ぼくの、親友の白。
白い花弁が成歩堂の身体を包む。夜を滑空していく白い花弁は淡く発光し、星のように乱れ舞った。
上空から落ちた成歩堂の伸ばした手に、指が絡んだ。
大蛇の頭の上で、亜双義が手を伸ばして成歩堂の手と繋いだ。
そうしてそのまま、亜双義の腕の中に飛び込んだ。繋いだ手は離さず、存在を確かめ合うように身体を寄せる。はらはらと、肩に花弁が舞い落ちる。
「亜双義、やっぱりお前はすごいよ」
亜双義の冷たい頬に擦り寄り、成歩堂は言った。
「こうしてぼくらを、ぼくらの町を、護ってくれていたんだな」
町を守護する土地神は、花弁まみれの成歩堂の肩に額を押しつけ、弱々しく呟いた。
「恐くなかったか」
「なにがだ?」
「オレが」
「莫迦だな。お前は綺麗だよ。恐いわけがないだろう?」
漸く亜双義は肩から額を離して、仮面越しに成歩堂を見つめた。彼の目の前で成歩堂は空いたもう片方の手をひらひらと翳してみせる。
「それにしても、これはどういうことなんだ? 手が若返ってるのだけど」
「老いた身体では衝撃に耐えられないだろうと、キサマの年齢を戻した」
「へえ。神様ってそんなこともできるのか」
「今のキサマは霊体だ。実体は既にない。それくらいは、いずれ己の力で自由自在にできるようになる」
「今、何歳くらいだ?」
悪戯っぽく聞けば、亜双義はむ、と不機嫌に唇を曲げた。
「知らん」
「じゃあ二十代くらいかな」
「オレの知らないキサマの時代など、知らんと云っている」
「そんな不機嫌になるなよ」
拗ねた子どものような態度をするので、成歩堂は閃かせた手を静かに亜双義の仮面に伸ばした。断りも入れず、仮面を外す。仮面は想定よりも容易く外れた。その仮面を手放せば、蛇の頭の上に音も立てずに転がった。
陰を含んだ、濡羽色の目。
この世のなによりも美しい黒だった。陰は蜜のように目の中で溶けている。精悍な顔立ちをしているが、目の色は異様に繊細で、自然と惹きつけられた。すっとした鼻筋に指で触れると、擽ったそうに目が細められる。ひどく美しい神様だった。
「こんな目をしていたんだな」
前髪を払いのけ、今まで見られなかった分まで見つめる。亜双義が笑む。つられて成歩堂も微笑んだ。
「お前の目が見てみたかったんだ」
そう言って、亜双義の着物の衿を片手で引き寄せた。触れた唇は、やはり柔らかい。成歩堂ははじめて、この孤独な神様の唇を自分から奪いに行った。もう片方の手は繋いだままだった。
白い花弁が、大蛇の頭上に舞い落ちる。
目も眩むような幻想的な世界で、二人。
離れていた期間を埋め合うように、何度も何度も、互いに口づけをした。繋いだ手を強く握って、泣きたくなるほどの切なさに胸が痛んだ。
やっと、お前の相棒になれた。
孤独な親友の手を、もう二度と離さない。成歩堂はその幸せに目を瞑って、亜双義から贈られる優しさを甘受した。
白い花弁が、降り積もる。夜空に咲く花々が、寂しい二人を照らしていた。
成歩堂が失踪したと聞いた寿沙都は、一人、成歩堂の地元まで足を運んだ。
長年仕事を共にしていたよしみで、ふと訪れてみたくなったのだ。警察や、成歩堂の関係者がてんやわんやと騒いでいる中、寿沙都だけが落ち着いていた。
いつか、こんな日が来るとは思っていた。
成歩堂は人好きのする笑顔を浮かべる、優しい人だった。かと思えば、素っ頓狂なことを言ったり、少し隙があったりする面もあった。しかし、人の良い彼が時折見せる寂しそうな横顔を、寿沙都はずっと見ていた。
成歩堂は、きっとなにかを引きずっている。そう思って、退職を勧めたのは寿沙都だ。そのアドバイスをしたことに後悔はなかった。
きっとあのまま放っておいても、成歩堂はつらかったはずだ。だからこれで良かったのだ。
どうせなら成歩堂の暮らしたこの町を見て回ろうと思い、誰も住んでいない彼の家に厄介になっている。庭が整備されているので、春頃には綺麗な花が咲くだろう。のんびりと家の裏に回り込む。
ふわりと、白い花弁が鼻を擽った。
雪のように花びらが舞っている。寿沙都が手を伸ばすと、容易に掴めてしまった。晴れた晩秋の青空に視線を送ると、目の前には名前も知らぬ白い花を咲かせた大樹が聳え立っていた。
「まあ、綺麗な花・・・・・・」
季節外れの白い花が、満開に咲き誇っていた。
町の住民である成歩堂龍ノ介が、ある日忽然と姿を消した。
ある者は自殺、またある者は神隠しだと噂した。彼が身辺整理をしているのを、関係者は把握していた。
警察が総動員して彼を捜索したが、結局死体すら見つからなかった。
この小さな町には、昔から伝わる伝説がある。
町の天辺に聳え立つ岳から下方の海まで続く、一本の道がある。その道には、一匹の巨大な白蛇がいたという。
天辺の岳には蛇の頭、海には蛇の尻尾。その巨大な白蛇は、この町の守り神だそうだ。
この町には、ある都市伝説がある。
代々霊感の強い者が生まれていたという成歩堂家の家の裏。そこには神様が遊び場にしている大樹があるという。
季節になると名の知らぬ白い花が咲くのを、家の裏の道を通りがかる人々は幸せそうに見上げる。
その大樹の天辺の枝に、二人の人影が見えることがあるらしい。
二人は耳元でなにかを囁き合っているのだが、此方にはその話の内容までは聞こえてこない。柔らかい雰囲気を纏った二人は、静かに、そして幸せそうに笑い合っているのだそうだ。
その姿は、まるで大樹に咲く白い花のようなのだという。
『やり残したことがあるのなら、後悔する前になさってください』
寿沙都に退職を勧められた成歩堂は、良い機会だと思って実家に帰った。彼女に己の後悔を見破られていたのは驚いた。弁護士としての成歩堂をずっと支えていた彼女には、なにもかもお見通しだったのかもしれない。事務所を寿沙都に託し、成歩堂は今ここにいる。
久しぶりの我が家には既に人はいなかった。両親はとうの昔に他界していた。大人数で住むには狭く、一人で住むには広すぎる家に、鞄三つ分だけ自分の荷物を入れる。散々放置されていた我が家の整理に明け暮れる日々をまず過ごすことになった。
そうして一ヶ月、手続きや家の今後を親戚に頼み、地元の友人や知り合いに挨拶をし、荒れ果てた庭を整備して、好きなものを食べた。実家の独特な土の匂いに、やはり望郷の念が湧き上がるのだった。この家も見納めか。そう思うと、少しだけ寂しかった。
幼い自分はこの家に育てられたのだと、改めて実感する。深夜、黒のカーテンに散りばめられた星々に見守られながら、成歩堂は家の外観を眺めていた。還暦を迎えたこの身には、夜の秋の寒さは堪える。シャツの上から羽織った黒い外套の襟で口元を隠した。
良い天気だ。思えば、彼と会うときはいつも晴れていた。蛇神は雨乞いの神様ではないのかと、一人で静かに笑んだ。彼の抜け殻を納めた巾着を片手に持って、成歩堂は家の裏の大樹に向かった。
大樹も寒さには勝てないらしく、葉は朽ち、裸の枝が夜空に貼りついていた。相変わらずの獣道を抜け、大樹の元にたどり着く。空いた手を大樹に翳し、天空に伸ばした。
「亜双義、遅くなってすまない」
張り上げる声にもう若さはない。年相応の静謐さを保った自分の声は、もう彼には届かないのかもしれない。
しかし、酸いも甘いも経験した今だからこそ言える。誇りを持って、堂々と。
「ぼくを娶ってくれないか」
頭上から返答はない。大樹の上にいるのは分かっているのに、彼は姿を見せてくれない。
お前に会いたいよ、亜双義。
「それとも、こんなおじいさんになったぼくは嫌いか?」
それはそうだ。神様だって若い人間のほうがいいに決まっている。うっかり自嘲の笑みを浮かべて、成歩堂は目を細めた。
すると、若かりし頃のように。白の化身が、着物の裾を翻して上空から降りたった。
秋にも花の香りを纏わせた美丈夫は、あの日と変わらず、目元を仮面で隠して成歩堂の目の前にいた。凜とした佇まいも、遥か昔の記憶と変わらない。否、記憶よりも遥かに澄んだ空気を含んで、その男は立っていた。
亜双義は、不機嫌そうに口を曲げていた。
「・・・・・・なぜ待てんのだ」
「なにをだ?」
「キサマが人生を全うするのを、だ。人間の生など、一瞬で終わる。人間の一生くらい、オレは待っていられる。生き急がなくても良い」
「ぼくはそこまで待っていられないよ。人間の一生はお前より短いからな」
「生きているうちに娶れば、突然消えたキサマを心配する者もいる」
「だからさ、いろいろ済ませてきたんだ」
首を傾げる亜双義の様子が幼子のようで、成歩堂は笑ってしまった。
「身辺整理してきた。ぼくがいなくなった後のことは、信頼できる人に頼んである。だから、」
亜双義の手に、巾着を乗せる。ずっと自分を護ってくれていた、彼の一部だったもの。巾着ののった手を、皺だらけの両手で包んだ。
「ぼくと一緒にいてくれ、亜双義」
亜双義。彼の名前を呼ぶと、空気が一変した。枯れた枝は風に煽られざわつき、背筋に得体の知れない気配が這い上がってくる。もう一度彼の名前を呼ぶと、亜双義は成歩堂の老いた身体を抱き寄せた。
「本当は、もっと早くに連れ去ってやろうと思っていた。キサマがオレの領域から離れると云ったとき、どんな想いで、オレが」
途切れ途切れの言の葉は、震えていた。亜双義の手が白髪交じりの頭をくしゃりと撫でる。ひんやりとした温度が心地よく、暖かかった。成歩堂は両手を亜双義の背中に回し、赤子をあやすように撫でてやる。
「お前の隣に立てるようになりたかったんだ。お前と一緒になるんだったら、そこまでしなくちゃだめなんだって」
「莫迦者。オレの隣に並ぶとは、不敬にも程がある」
「だってお前、いつも寂しそうだったのだもの」
成歩堂の記憶にある亜双義は、いつも寂しそうだった。白い花に囲まれた横顔は、今にも消えてしまいそうに儚く。いつも遠くの景色を見ている人だった。仮面の下に隠された目が一体なにを映しているのか、成歩堂はずっと気になっていた。
美しくて儚くて、いつも寂しそうな、ぼくの大事な人。
彼の孤独を埋めようと、ずっと繋いでいた手。生白い手の温度を、今でも覚えている。
「キサマはきっと、オレの本当の姿を見れば恐れおののく」
「ぼくが恐がったら、そのときは喰ってくれ。一思いに丸呑みにしろよ」
亜双義が少しだけ身体を離して、至近距離で見つめてくる。
「お前の姿を見せてくれ、亜双義」
「・・・・・・霊体化してしまえば、もう人間には戻れなくなるぞ」
「人間じゃないぼくは嫌いか?」
「そんなわけがあるか。キサマがキサマである限り、オレは焦がれ続けるだろうさ」
なるほどう、と名前を呼ばれ、顎に指がかけられる。色づいた唇が近づいて、成歩堂は咄嗟に手で亜双義の顔を抑えた。
「ま、待ってくれ」
「なんだ。怖じ気づいたか?」
「そ、そうじゃなくて・・・・・・。ぼくは六十のおじいさんだぞ。お前はおじいさんにキスをするのか?」
亜双義は再び首を傾げた。本当に分からないといった風の態度であった。
「・・・・・・なにか問題でもあるのか?」
「そ、そりゃあ、神様からしてみたらぼくなんて赤子も同然だろうけど」
「よく分かってるじゃないか。まあ、赤子だろうが、老人だろうが」
力の入らない成歩堂の手首を掴んで、亜双義は妖艶な笑みを口元に浮かべる。拒めないのを悟り、強く目を瞑った。
「キサマがキサマであれば、それでいい」
柔らかい唇が、己のかさついた唇と重なった。いつぞやのように、軽く息を吹きかけられる。すると、重かった身体が突然軽くなった。
今まで感じたことのない気配にはっと目を開ける。亜双義に預けた巾着から這い出た抜け殻が、徐々に枝に変化し、成歩堂の身体を呑み込んだ。枝の勢いに圧され、亜双義がぐんぐんと遠ざかっていく。白の花煙に巻かれ、亜双義の陰が見えなくなった。
亜双義。名前を呼んで手を伸ばすが、口腔にも鼻腔にも白い花びらを詰められ、もみくちゃにされた。
次にはっと息をつくと、成歩堂の皺だらけの手は若かりし頃のようにぴんと皮膚が張っていた。
疑問に思う前に、白い花々に押し出されるようにして空に落とされる。身につけた外套が音を立てて強くはためいた。成歩堂が状況を整理する前に、身体が地面に向かって落下していく。呼吸するのも難しい上空で、成歩堂は目を凝らした。下を見ると、夜闇でもはっきりと見えた。
真っ白く美しい、巨大な蛇が。
見知った町の中央、山から海まで一本通った太い道に、一匹の巨大な蛇が横たわっている。夜空に浮かぶ星のように、鱗はきらきらと輝き、不思議な色彩を帯びていた。これはなんという名の白だろう。成歩堂は真っ逆さまに蛇の頭に向かって落ちていく。手を蛇に向けて、名を目一杯叫んだ。
「亜双義!」
ぼくの白。ぼくだけの白。
――ぼくの、親友の白。
白い花弁が成歩堂の身体を包む。夜を滑空していく白い花弁は淡く発光し、星のように乱れ舞った。
上空から落ちた成歩堂の伸ばした手に、指が絡んだ。
大蛇の頭の上で、亜双義が手を伸ばして成歩堂の手と繋いだ。
そうしてそのまま、亜双義の腕の中に飛び込んだ。繋いだ手は離さず、存在を確かめ合うように身体を寄せる。はらはらと、肩に花弁が舞い落ちる。
「亜双義、やっぱりお前はすごいよ」
亜双義の冷たい頬に擦り寄り、成歩堂は言った。
「こうしてぼくらを、ぼくらの町を、護ってくれていたんだな」
町を守護する土地神は、花弁まみれの成歩堂の肩に額を押しつけ、弱々しく呟いた。
「恐くなかったか」
「なにがだ?」
「オレが」
「莫迦だな。お前は綺麗だよ。恐いわけがないだろう?」
漸く亜双義は肩から額を離して、仮面越しに成歩堂を見つめた。彼の目の前で成歩堂は空いたもう片方の手をひらひらと翳してみせる。
「それにしても、これはどういうことなんだ? 手が若返ってるのだけど」
「老いた身体では衝撃に耐えられないだろうと、キサマの年齢を戻した」
「へえ。神様ってそんなこともできるのか」
「今のキサマは霊体だ。実体は既にない。それくらいは、いずれ己の力で自由自在にできるようになる」
「今、何歳くらいだ?」
悪戯っぽく聞けば、亜双義はむ、と不機嫌に唇を曲げた。
「知らん」
「じゃあ二十代くらいかな」
「オレの知らないキサマの時代など、知らんと云っている」
「そんな不機嫌になるなよ」
拗ねた子どものような態度をするので、成歩堂は閃かせた手を静かに亜双義の仮面に伸ばした。断りも入れず、仮面を外す。仮面は想定よりも容易く外れた。その仮面を手放せば、蛇の頭の上に音も立てずに転がった。
陰を含んだ、濡羽色の目。
この世のなによりも美しい黒だった。陰は蜜のように目の中で溶けている。精悍な顔立ちをしているが、目の色は異様に繊細で、自然と惹きつけられた。すっとした鼻筋に指で触れると、擽ったそうに目が細められる。ひどく美しい神様だった。
「こんな目をしていたんだな」
前髪を払いのけ、今まで見られなかった分まで見つめる。亜双義が笑む。つられて成歩堂も微笑んだ。
「お前の目が見てみたかったんだ」
そう言って、亜双義の着物の衿を片手で引き寄せた。触れた唇は、やはり柔らかい。成歩堂ははじめて、この孤独な神様の唇を自分から奪いに行った。もう片方の手は繋いだままだった。
白い花弁が、大蛇の頭上に舞い落ちる。
目も眩むような幻想的な世界で、二人。
離れていた期間を埋め合うように、何度も何度も、互いに口づけをした。繋いだ手を強く握って、泣きたくなるほどの切なさに胸が痛んだ。
やっと、お前の相棒になれた。
孤独な親友の手を、もう二度と離さない。成歩堂はその幸せに目を瞑って、亜双義から贈られる優しさを甘受した。
白い花弁が、降り積もる。夜空に咲く花々が、寂しい二人を照らしていた。
成歩堂が失踪したと聞いた寿沙都は、一人、成歩堂の地元まで足を運んだ。
長年仕事を共にしていたよしみで、ふと訪れてみたくなったのだ。警察や、成歩堂の関係者がてんやわんやと騒いでいる中、寿沙都だけが落ち着いていた。
いつか、こんな日が来るとは思っていた。
成歩堂は人好きのする笑顔を浮かべる、優しい人だった。かと思えば、素っ頓狂なことを言ったり、少し隙があったりする面もあった。しかし、人の良い彼が時折見せる寂しそうな横顔を、寿沙都はずっと見ていた。
成歩堂は、きっとなにかを引きずっている。そう思って、退職を勧めたのは寿沙都だ。そのアドバイスをしたことに後悔はなかった。
きっとあのまま放っておいても、成歩堂はつらかったはずだ。だからこれで良かったのだ。
どうせなら成歩堂の暮らしたこの町を見て回ろうと思い、誰も住んでいない彼の家に厄介になっている。庭が整備されているので、春頃には綺麗な花が咲くだろう。のんびりと家の裏に回り込む。
ふわりと、白い花弁が鼻を擽った。
雪のように花びらが舞っている。寿沙都が手を伸ばすと、容易に掴めてしまった。晴れた晩秋の青空に視線を送ると、目の前には名前も知らぬ白い花を咲かせた大樹が聳え立っていた。
「まあ、綺麗な花・・・・・・」
季節外れの白い花が、満開に咲き誇っていた。
町の住民である成歩堂龍ノ介が、ある日忽然と姿を消した。
ある者は自殺、またある者は神隠しだと噂した。彼が身辺整理をしているのを、関係者は把握していた。
警察が総動員して彼を捜索したが、結局死体すら見つからなかった。
この小さな町には、昔から伝わる伝説がある。
町の天辺に聳え立つ岳から下方の海まで続く、一本の道がある。その道には、一匹の巨大な白蛇がいたという。
天辺の岳には蛇の頭、海には蛇の尻尾。その巨大な白蛇は、この町の守り神だそうだ。
この町には、ある都市伝説がある。
代々霊感の強い者が生まれていたという成歩堂家の家の裏。そこには神様が遊び場にしている大樹があるという。
季節になると名の知らぬ白い花が咲くのを、家の裏の道を通りがかる人々は幸せそうに見上げる。
その大樹の天辺の枝に、二人の人影が見えることがあるらしい。
二人は耳元でなにかを囁き合っているのだが、此方にはその話の内容までは聞こえてこない。柔らかい雰囲気を纏った二人は、静かに、そして幸せそうに笑い合っているのだそうだ。
その姿は、まるで大樹に咲く白い花のようなのだという。
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