おまえにめとられたい
「成歩堂さんって結婚とかしないんすか?」
部下が突拍子もないことを言い始め、思わず緑茶を吹き出してしまった。
自分の事務所を立ち上げて早三年。最近は商売も軌道に乗って、部下も出来た。東京での生活もこれで十七年目になる。成歩堂は三十五歳になっていた。
胸を叩いてどうにか平静を取り戻そうと努めた。
「こら、その発言はセクシャルハラスメントにあたりますよ」
そう言って部下を窘めたのは、長年成歩堂の片腕を務めている法務助士の御琴羽寿沙都だ。彼女はまだ二十代だが、しっかりとした気性で、成歩堂事務所を支えてくれている。
「だって、寿沙都さんも気になりません? 確かにとぼけた風ではありますけど、モテないわけじゃないですし」
「成歩堂様は人が良すぎますからね」
部下を窘めておきながら、寿沙都も気になっているようで、成歩堂に視線を注いでいる。成歩堂は困った顔で笑うしかない。
「そんなに褒めても、なにも出ませんよ」
成歩堂はそう言って、いつも身につけている青の巾着に触れた。この巾着の中には、赤の布で巻かれた亜双義の抜け殻が入っている。亜双義の忠告通り、肌身離さず持ち歩いていた。おかげで障りを受ける回数も減り、霊力も安定している。ほとんどお守りのようなものだった。
「結婚は考えてないです。今のところは」
首を傾げて寿沙都が尋ねてくる。
「以前聞いた話では、地元に好いたお人がいるとか・・・・・・」
「え⁉ それって、相手を待たせてるってことっすか?」
二人とも鋭いところを突いてくる。あははと笑って軽く流した。
「もう相手は忘れてるかもしれません。ぼくが、あいつ以外には考えられないだけですよ」
そう言うと、寿沙都は丸い目を輝かせた。
「成歩堂様・・・・・・なんて純なんでしょう! この寿沙都、感激いたしました!」
「ええ? そうっすか? 俺からしたら責任逃れしてるみたいに聞こえますけど・・・・・・」
寿沙都と違い、辛辣な部下の言葉に喉が詰まる。
責任逃れかあ。言ってくれるなあ。
窓を開けて換気をする。十月の暮れ、過ごしやすい気温になり、夏特有の噎せ返る熱気は既にない。ビルの二階を借りているのでそれなりに風通しは良かった。穏やかな風が外の香りを運んでくる。橙色に染まった空に、いつぞやの景色を見ていた。空の遥か彼方、ビル群の隙間から紫が見える。橙と紫が混じった黄昏色が揺らめく。湿っぽい風が鼻孔を擽った。
結局、幾度帰省しても亜双義には会えなかった。
帰省するたびに大樹に向かい、亜双義に語りかけるが、なんの返答もない。それでも聞いてくれていると信じて、幼い日のようにいろいろなことを語った。
大学を無事卒業した、大学院の課程が難しい、司法試験に受かった、毎日疲れるよ、今度、事務所を設立することになったんだ。少しは誇れるようになっただろうか。
亜双義、お前に会いたいよ。
最後に決まってそう言い、大樹を離れる。その瞬間の侘しさといったらない。自分で決めたことだとはいえ、別離に身が裂かれてしまう。その痛みも、十七年続けていたら慣れてしまった。今でも亜双義の佇まいを覚えているのに、声は思い出せない。このまま彼を忘れていくのかと思うと、寂しさで胸がいっぱいになった。
この十月の暮れは、一瞬だけ亜双義の気配を感じるときがある。本当に、一瞬の間だけだ。十月は神様が出張する月だと聞いたことがあるから、そのついでに覗きに来ているのかもしれない。そうであればいい。彼に忘れられるのが一番堪える。
そろそろ退勤の時間だと室内を振り返った。そのとき、ふわりと香った。
成歩堂の視界に入ってきた、一枚の小さな白い花びら。その花びらは窓の外から流れてきたらしく、成歩堂の目の前でくるくると踊っている。途端、噎せ返るほどの花の匂いがした。
咄嗟に、事務所を飛び出した。
いきなり駆けていった成歩堂に驚いたのか、背後から寿沙都の呼び声が聞こえる。二人に悪いとは思いつつ、逸る足をとめられなかった。大きな足音を立てて階段を下り、外に出る。目の前には車通りのある車道。
成歩堂は街路に立って、声を張り上げた。
「亜双義! どこにいるんだ!」
気配を手繰ろうとするが、神ともなると気配を隠すのがうまい。なんとか気配の痕跡を追って駆ける。道行く人々の視線が刺さったが、気にしていられなかった。
「亜双義! 姿を見せてくれ! あそうぎ! あ、」
亜双義。名前を繰り返し叫んでいると、突然腕を掴まれ路地裏に引きずり込まれた。一瞬、たちの悪い人間に絡まれたかと思ったが、そのひんやりとした手の平の温度に覚えがあった。
日も差さない路地裏で、成歩堂は抱きしめられていた。
外の喧噪は遠くにあった。風の音だけが鼓膜を震わせる。いつぞや聞いていた枝葉の擦れる音によく似ていた。
上等な白い着物、景色を彩る朱の羽織、ひんやりとした肌、首元を彩る花の匂い。
ずっと会いたかった親友に、成歩堂は抱かれていた。
「・・・・・・あ、あそうぎ」
声が震えた。必死に泣くのを堪える。もう昔みたいには泣けなかった。
亜双義は無言のまま、成歩堂の頬に擦り寄る。その温度が懐かしかった。
亜双義の背中に手を回すと、彼の身体は白い花弁になった。花弁の花束が成歩堂の腕の中で円を描いて落ちていく。親友のいた場所に、沢山の白い花びらが散っていた。
成歩堂は白い花弁の一つを手に取り、握りしめた。
亜双義、会いたい。
ぽつりと呟いた声は、虚しく空気に溶けていった。肩に降り積もった花びらを払いもせず、路地裏から見える夕焼け空を仰いだ。
あの頃と変わらない、優しくて暖かな匂いだった。
部下が突拍子もないことを言い始め、思わず緑茶を吹き出してしまった。
自分の事務所を立ち上げて早三年。最近は商売も軌道に乗って、部下も出来た。東京での生活もこれで十七年目になる。成歩堂は三十五歳になっていた。
胸を叩いてどうにか平静を取り戻そうと努めた。
「こら、その発言はセクシャルハラスメントにあたりますよ」
そう言って部下を窘めたのは、長年成歩堂の片腕を務めている法務助士の御琴羽寿沙都だ。彼女はまだ二十代だが、しっかりとした気性で、成歩堂事務所を支えてくれている。
「だって、寿沙都さんも気になりません? 確かにとぼけた風ではありますけど、モテないわけじゃないですし」
「成歩堂様は人が良すぎますからね」
部下を窘めておきながら、寿沙都も気になっているようで、成歩堂に視線を注いでいる。成歩堂は困った顔で笑うしかない。
「そんなに褒めても、なにも出ませんよ」
成歩堂はそう言って、いつも身につけている青の巾着に触れた。この巾着の中には、赤の布で巻かれた亜双義の抜け殻が入っている。亜双義の忠告通り、肌身離さず持ち歩いていた。おかげで障りを受ける回数も減り、霊力も安定している。ほとんどお守りのようなものだった。
「結婚は考えてないです。今のところは」
首を傾げて寿沙都が尋ねてくる。
「以前聞いた話では、地元に好いたお人がいるとか・・・・・・」
「え⁉ それって、相手を待たせてるってことっすか?」
二人とも鋭いところを突いてくる。あははと笑って軽く流した。
「もう相手は忘れてるかもしれません。ぼくが、あいつ以外には考えられないだけですよ」
そう言うと、寿沙都は丸い目を輝かせた。
「成歩堂様・・・・・・なんて純なんでしょう! この寿沙都、感激いたしました!」
「ええ? そうっすか? 俺からしたら責任逃れしてるみたいに聞こえますけど・・・・・・」
寿沙都と違い、辛辣な部下の言葉に喉が詰まる。
責任逃れかあ。言ってくれるなあ。
窓を開けて換気をする。十月の暮れ、過ごしやすい気温になり、夏特有の噎せ返る熱気は既にない。ビルの二階を借りているのでそれなりに風通しは良かった。穏やかな風が外の香りを運んでくる。橙色に染まった空に、いつぞやの景色を見ていた。空の遥か彼方、ビル群の隙間から紫が見える。橙と紫が混じった黄昏色が揺らめく。湿っぽい風が鼻孔を擽った。
結局、幾度帰省しても亜双義には会えなかった。
帰省するたびに大樹に向かい、亜双義に語りかけるが、なんの返答もない。それでも聞いてくれていると信じて、幼い日のようにいろいろなことを語った。
大学を無事卒業した、大学院の課程が難しい、司法試験に受かった、毎日疲れるよ、今度、事務所を設立することになったんだ。少しは誇れるようになっただろうか。
亜双義、お前に会いたいよ。
最後に決まってそう言い、大樹を離れる。その瞬間の侘しさといったらない。自分で決めたことだとはいえ、別離に身が裂かれてしまう。その痛みも、十七年続けていたら慣れてしまった。今でも亜双義の佇まいを覚えているのに、声は思い出せない。このまま彼を忘れていくのかと思うと、寂しさで胸がいっぱいになった。
この十月の暮れは、一瞬だけ亜双義の気配を感じるときがある。本当に、一瞬の間だけだ。十月は神様が出張する月だと聞いたことがあるから、そのついでに覗きに来ているのかもしれない。そうであればいい。彼に忘れられるのが一番堪える。
そろそろ退勤の時間だと室内を振り返った。そのとき、ふわりと香った。
成歩堂の視界に入ってきた、一枚の小さな白い花びら。その花びらは窓の外から流れてきたらしく、成歩堂の目の前でくるくると踊っている。途端、噎せ返るほどの花の匂いがした。
咄嗟に、事務所を飛び出した。
いきなり駆けていった成歩堂に驚いたのか、背後から寿沙都の呼び声が聞こえる。二人に悪いとは思いつつ、逸る足をとめられなかった。大きな足音を立てて階段を下り、外に出る。目の前には車通りのある車道。
成歩堂は街路に立って、声を張り上げた。
「亜双義! どこにいるんだ!」
気配を手繰ろうとするが、神ともなると気配を隠すのがうまい。なんとか気配の痕跡を追って駆ける。道行く人々の視線が刺さったが、気にしていられなかった。
「亜双義! 姿を見せてくれ! あそうぎ! あ、」
亜双義。名前を繰り返し叫んでいると、突然腕を掴まれ路地裏に引きずり込まれた。一瞬、たちの悪い人間に絡まれたかと思ったが、そのひんやりとした手の平の温度に覚えがあった。
日も差さない路地裏で、成歩堂は抱きしめられていた。
外の喧噪は遠くにあった。風の音だけが鼓膜を震わせる。いつぞや聞いていた枝葉の擦れる音によく似ていた。
上等な白い着物、景色を彩る朱の羽織、ひんやりとした肌、首元を彩る花の匂い。
ずっと会いたかった親友に、成歩堂は抱かれていた。
「・・・・・・あ、あそうぎ」
声が震えた。必死に泣くのを堪える。もう昔みたいには泣けなかった。
亜双義は無言のまま、成歩堂の頬に擦り寄る。その温度が懐かしかった。
亜双義の背中に手を回すと、彼の身体は白い花弁になった。花弁の花束が成歩堂の腕の中で円を描いて落ちていく。親友のいた場所に、沢山の白い花びらが散っていた。
成歩堂は白い花弁の一つを手に取り、握りしめた。
亜双義、会いたい。
ぽつりと呟いた声は、虚しく空気に溶けていった。肩に降り積もった花びらを払いもせず、路地裏から見える夕焼け空を仰いだ。
あの頃と変わらない、優しくて暖かな匂いだった。