おまえにめとられたい
「亜双義!」
三月。この地方ではまだ雪がちらつく季節。はらり、はらりと雪の華が舞い落ちる。鼻頭についた雪も気にせず、成歩堂は一目散に大樹に向かって走った。
夕焼けの橙に反射した雪は妙な煌めきを見せる。太陽が見えるのに雪がちらつくのは珍しい。まだ花の咲かない大樹の下、亜双義は雪に手を差し伸べながら待ってくれていた。
亜双義の元まで駆けつけた成歩堂は、堪えきれず満面に笑みを咲かせた。
「大学、受かったぞ!」
「そうか。よく頑張ったな」
穏やかに笑む亜双義に褒められ、成歩堂は余計に嬉しくなってしまった。この一年勉学に励んだ甲斐があったというものだ。
黄昏の空に、枯れた枝の陰が貼りつく。亜双義の背後にある夕焼けが邪魔をして、彼の表情がよく見えなかった。
「遠方の学問所に通うのだろう? 精々頑張れよ」
亜双義の声がやけに響いて聞こえた。寂寥の念がこめられた声に、成歩堂も笑みを消した。
「あ、ああ。これでぼくも晴れて東京行きだ」
東京に行くということは、暫くは亜双義に会えない。それを自覚して、成歩堂は下唇を軽く噛んだ。
「帰省したらお前に真っ先に会いに行く。だから、お前も・・・・・・」
「そのことなんだが、成歩堂」
風のない世界で、亜双義の着物だけが揺れる。白い裾が、舞い降りる雪のように靡いた。その白だけは、夕焼けの色にも染まらず、成歩堂の目にはっきりと焼き付くのであった。
「オレは暫く、キサマに姿を見せない」
しん、と空気が張り詰めた。
耳が痛くなるほどの静寂に、肌に沁みる雪の冷たさ。口から漏れる白煙が邪魔だった。「キサマがなにかを信じてひたむきに努力しているのをオレは知っている。その道程に、オレは不要だ」
心が黒い線でぐちゃぐちゃになっていく。だって、ぼくは、お前の隣に立ちたくて、お前の背に、追いつきたくて、追いつけなくて。だから、頑張ってきたのに。
ぼくにはお前が必要だ。その一言が、成歩堂はまだ言えなかった。
「キサマが一人前になったら、また会おう。そのときまで一人でやっていけ」
「そう、だよな。いつまでも、お前に甘えるわけにもいかないもんな」
唇が震える。喉がひりつく。視界が霞んで、亜双義の姿がよく見えない。爪が食い込むほど拳を握りしめて、それでもどうしても。
どうしても、涙を堪えきれなかった。
堪えようとしたのに、嗚咽がとまらなかった。
「すまない、亜双義」
途切れ途切れになる言葉を必死に繋げる。彼の姿を忘れたくない一心で目を開くが、涙が邪魔をする。頬に流れる雫は冷たい空気に晒され、体温を奪っていく。
「ぼくは、まだ、こどもだから。だから、泣いてしまうのを許してくれ」
大人になりきれないから、別離が苦しい。しゃくりあげてしまうのをとめられない。もう背丈も亜双義と差はないが、埋められない溝が哀しい。どうしたら亜双義と共にいられるのか。――どうしたら自分を娶ってくれるのか、成歩堂はずっと試行錯誤していた。
「娶る」の意味を知ったのは小学生の頃だ。亜双義から言われた「娶る」という言葉が胸に引っかかり、辞書で引いたのだ。
ああ、ぼく、あの人とけっこんするんだ。
指切りまでした約束が、子どもながら嬉しかった。嬉しくて、擽ったくて、優しい感情。あのとき感じた幸福感を、成歩堂は今でも覚えている。
それから、亜双義と共にいるにはどうすればいいか、自分なりに考えていた。パートナーとなるからには、亜双義に頼るばかりではなく、頼ってもらえるくらいでないといけない。互いに助け合うのが、相棒でありパートナーであると、短い人生の中で思うようになった。そのためには一人の人間として、一人前にならなければいけないと結論づけた。
将来を見据えて、難関大学への受験に向けて勉強した。そうして成歩堂は、来月、東京にある大学の法学部へと進学する。まずは一人で立てるようにならなくてはならなかった。
亜双義と別れる覚悟は、決めていた。
覚悟は決めていたのに、涙がこぼれてしまう。本当は離れたくない。ずっと傍らで彼の笑顔を見つめていたい。そう思ってしまう己をとめられない。
とまれ、とまれ。必死にそう念じていると、亜双義の手が成歩堂の頬に触れた。雪よりも暖かく、ひんやりとした手の平だった。
亜双義の顔がゆっくり近づいてくる。そうして唇同士が重なった。亜双義の唇は、以前触れたときと変わらない、柔らかな感触だった。
触れるだけの口づけをして、ゆっくりと離れていく。亜双義に肩を抱かれ、とうとう決壊した。もう、とめられなかった。
「ずるいぞ、亜双義。お前のこと、忘れられなくなる」
「莫迦だな。オレとて、人間の云う接吻がどんな意味を持つか知っている」
橙色の空を背にした亜双義の口元には、暗い笑みが閃いていた。仮面で隠れている目がなにを映しているのか気になってしまう。
「――忘れられてなるものか」
暗い笑みすら美しい親友に、ひどく目が眩んだ。
成歩堂は亜双義の手を取って、祈りをこめて握った。いつかまた、この親友に会えるようにと、強く祈った。
黄昏の刻、二人は幾度も触れるだけの口づけを交わした。離れがたさをごまかすように、忘れないように――何度も。
三月。この地方ではまだ雪がちらつく季節。はらり、はらりと雪の華が舞い落ちる。鼻頭についた雪も気にせず、成歩堂は一目散に大樹に向かって走った。
夕焼けの橙に反射した雪は妙な煌めきを見せる。太陽が見えるのに雪がちらつくのは珍しい。まだ花の咲かない大樹の下、亜双義は雪に手を差し伸べながら待ってくれていた。
亜双義の元まで駆けつけた成歩堂は、堪えきれず満面に笑みを咲かせた。
「大学、受かったぞ!」
「そうか。よく頑張ったな」
穏やかに笑む亜双義に褒められ、成歩堂は余計に嬉しくなってしまった。この一年勉学に励んだ甲斐があったというものだ。
黄昏の空に、枯れた枝の陰が貼りつく。亜双義の背後にある夕焼けが邪魔をして、彼の表情がよく見えなかった。
「遠方の学問所に通うのだろう? 精々頑張れよ」
亜双義の声がやけに響いて聞こえた。寂寥の念がこめられた声に、成歩堂も笑みを消した。
「あ、ああ。これでぼくも晴れて東京行きだ」
東京に行くということは、暫くは亜双義に会えない。それを自覚して、成歩堂は下唇を軽く噛んだ。
「帰省したらお前に真っ先に会いに行く。だから、お前も・・・・・・」
「そのことなんだが、成歩堂」
風のない世界で、亜双義の着物だけが揺れる。白い裾が、舞い降りる雪のように靡いた。その白だけは、夕焼けの色にも染まらず、成歩堂の目にはっきりと焼き付くのであった。
「オレは暫く、キサマに姿を見せない」
しん、と空気が張り詰めた。
耳が痛くなるほどの静寂に、肌に沁みる雪の冷たさ。口から漏れる白煙が邪魔だった。「キサマがなにかを信じてひたむきに努力しているのをオレは知っている。その道程に、オレは不要だ」
心が黒い線でぐちゃぐちゃになっていく。だって、ぼくは、お前の隣に立ちたくて、お前の背に、追いつきたくて、追いつけなくて。だから、頑張ってきたのに。
ぼくにはお前が必要だ。その一言が、成歩堂はまだ言えなかった。
「キサマが一人前になったら、また会おう。そのときまで一人でやっていけ」
「そう、だよな。いつまでも、お前に甘えるわけにもいかないもんな」
唇が震える。喉がひりつく。視界が霞んで、亜双義の姿がよく見えない。爪が食い込むほど拳を握りしめて、それでもどうしても。
どうしても、涙を堪えきれなかった。
堪えようとしたのに、嗚咽がとまらなかった。
「すまない、亜双義」
途切れ途切れになる言葉を必死に繋げる。彼の姿を忘れたくない一心で目を開くが、涙が邪魔をする。頬に流れる雫は冷たい空気に晒され、体温を奪っていく。
「ぼくは、まだ、こどもだから。だから、泣いてしまうのを許してくれ」
大人になりきれないから、別離が苦しい。しゃくりあげてしまうのをとめられない。もう背丈も亜双義と差はないが、埋められない溝が哀しい。どうしたら亜双義と共にいられるのか。――どうしたら自分を娶ってくれるのか、成歩堂はずっと試行錯誤していた。
「娶る」の意味を知ったのは小学生の頃だ。亜双義から言われた「娶る」という言葉が胸に引っかかり、辞書で引いたのだ。
ああ、ぼく、あの人とけっこんするんだ。
指切りまでした約束が、子どもながら嬉しかった。嬉しくて、擽ったくて、優しい感情。あのとき感じた幸福感を、成歩堂は今でも覚えている。
それから、亜双義と共にいるにはどうすればいいか、自分なりに考えていた。パートナーとなるからには、亜双義に頼るばかりではなく、頼ってもらえるくらいでないといけない。互いに助け合うのが、相棒でありパートナーであると、短い人生の中で思うようになった。そのためには一人の人間として、一人前にならなければいけないと結論づけた。
将来を見据えて、難関大学への受験に向けて勉強した。そうして成歩堂は、来月、東京にある大学の法学部へと進学する。まずは一人で立てるようにならなくてはならなかった。
亜双義と別れる覚悟は、決めていた。
覚悟は決めていたのに、涙がこぼれてしまう。本当は離れたくない。ずっと傍らで彼の笑顔を見つめていたい。そう思ってしまう己をとめられない。
とまれ、とまれ。必死にそう念じていると、亜双義の手が成歩堂の頬に触れた。雪よりも暖かく、ひんやりとした手の平だった。
亜双義の顔がゆっくり近づいてくる。そうして唇同士が重なった。亜双義の唇は、以前触れたときと変わらない、柔らかな感触だった。
触れるだけの口づけをして、ゆっくりと離れていく。亜双義に肩を抱かれ、とうとう決壊した。もう、とめられなかった。
「ずるいぞ、亜双義。お前のこと、忘れられなくなる」
「莫迦だな。オレとて、人間の云う接吻がどんな意味を持つか知っている」
橙色の空を背にした亜双義の口元には、暗い笑みが閃いていた。仮面で隠れている目がなにを映しているのか気になってしまう。
「――忘れられてなるものか」
暗い笑みすら美しい親友に、ひどく目が眩んだ。
成歩堂は亜双義の手を取って、祈りをこめて握った。いつかまた、この親友に会えるようにと、強く祈った。
黄昏の刻、二人は幾度も触れるだけの口づけを交わした。離れがたさをごまかすように、忘れないように――何度も。