おまえにめとられたい

 春、桜の花が舞う季節。成歩堂は中学生になった。
 ぴかぴかの真っ黒な学生服を身に纏い、入学式後の帰りに大樹へ足を運ぶ。大樹の花はいつも桜の時期より少し遅く咲く。桜によく似ているのに、その実、桜ではない。名前も知らない花だったが、その白は親友の色だから好きだった。
 まだ花の咲かない樹を見上げれば、冬を過ぎ去ったばかりの枝葉が見える。これから毎年のように目にしている美しい景色が見られるのだろう。青空に、影絵のように暗い陰を落とした枝がよく映える。入学式にふさわしい天気だなと、成歩堂は笑って天上に呼びかけた。
「ただいま」
 すると、いつものようにその人は天上から降りてくる。朱の羽織が風に煽られて枝の影と重なった。青空に似合う爽快な笑みを口元に浮かべていた。
「おかえり、成歩堂。・・・・・・今まで着たことのない装束だな。海沿いにある学問所のものか」
「ああ。今日でぼくも立派な中学生だ」
「フ・・・・・・人間の成長は早いな。最近まで鼻水垂らしてた小僧だったというに」
「は、鼻水は垂らしてないだろ。多分」
 成歩堂はその堂々とした姿を見せつけるように手を広げる。
「どうだ? 似合うか?」
「ああ。よく似合っている。ちんちくりんではあるがな」
「褒められてるのか貶されてるのか分からないな・・・・・・」
 そうしてその人はいつものように成歩堂を抱きかかえ、いつもの枝に下ろす。最近、その行為が少し恥ずかしい。ひんやりとした体温や、染みついた清廉な花の匂いをまざまざと感じてしまって、どうも落ち着かないのだ。もっと触れていたいのに、それを願うのは良くない気がしてしまう。自覚しつつある燻りを認めてしまえば、疚しい感情ばかりが溢れ出るのではないかと怖くなる。幼い頃から手を重ね合ってきたが、最近は恥ずかしさが勝ってしまう。離れがたいから、成歩堂は自分からは言わないことに決めているが。
「なあ、入学祝いに聞いていいか?」
「内容によるな」
「そう言うなって。・・・・・・じゃあ、ぼくの推理を聞いてくれるか?」
「む。・・・・・・いいだろう。述べてみろ」
 その人の手の平の温度は冷たいが、成歩堂にとってなによりも暖かいものだった。
「お前、やっぱ人間じゃないだろ」
「・・・・・・それは昔から気づいていただろう?」
「それはそうだけど・・・・・・人間ではないなら、それならお前はなんなんだ? って話になる。幽霊なのかはたまた妖怪なのか・・・・・・」
 その人は口を噤む。成歩堂は遥か昔に答えを導き出していたのだが、追求できずにいた。しかし、己の霊力が強まればいつかは明るみに出てしまう。ならば今ここで親友を明かしてしまおうと思ったのだった。
「ぼくは気づいていたともさ、親友」
 黙り込んでいるその人の正体を、はっきり口にした。
「お前・・・・・・土地神だろう?」
 そう言うと、無言だった親友は静かに口を開いた。
「・・・・・・驚いた。そこまで『視える』ようになっていたとは」
「お母さんからこの樹には神様が遊びに来るって話を聞いていたのもあるんだけど・・・・・・この町にいると、お前の気配を四六時中感じるんだ」
「気配・・・・・・抑えているはずなんだが」
「ずっとさ、お前の匂いがするんだよ。花の匂いがさ。それと、この町の・・・・・・ほら、この樹のすぐ傍にある一本道」
 樹のすぐ傍を見下ろすと、公園の手前に一本道がある。岳から海まで続く長い一本道なのだが、そこにはある伝説があった。
「あの道にみっちり収まるほどの巨大な白蛇がいたって伝説。それ、お前なんだろ?」
「それで?」
「え?」
 突然、重ねるだけだった手を強く握られた。骨がみしりと音を立てるほどの強さに、さすがの成歩堂も顔を顰める。親友の正体を暴いたから怒っているのだろうか。
「い、痛い。痛いって・・・・・・」
「それで、キサマはどうする? そうだ。オレは人間ではない。怖いだろう? 逃げ出したいだろう?」
「え? 別に?」
 その人が変なことを言い始めるものだから、咄嗟に言葉が出た。その人も「え」と素っ頓狂な声を出す。握られた手が緩んだ。冷たい手を握り返すと、親友の肩が揺れた。
「だって、お前はお前だろ? なんで怖がらなきゃいけないんだよ」
 ざわざわと、枝葉が鳴る。
 濡羽色の髪が風に煽られて乱れたので、手を伸ばし直してやった。しっかりしているのに繊細な髪質だった。
「お前の気配、いい匂いがするし、優しくてあったかくて、好きだよ」
 暫く親友は言葉を失っていた。その姿が寂しそうだったので、髪の房を一掬いして撫でてみる。やがてその人は深い息を吐いて、成歩堂の肩に額を押しつけた。花の匂いが鼻孔を擽る。やはり成歩堂は、少し恥ずかしかった。
「どうしたんだよ」
「・・・・・・・・・・・・もう来てくれないと思った」
「ははは、大袈裟だなあ」
 それっきり、親友は身体を成歩堂にべったりと寄せて、離れようとしなかった。そんなに不安がらせてしまったのかしらん、と反省する。恥ずかしくはあるが、親友と触れ合うのは安心できた。
 ふと、その人が呟いた。
「・・・・・・亜双義」
「え?」
「オレの名前の一部だ。特別に教えてやる。忘れるなよ」
 瞬間、背筋の産毛が逆立った。あれだけ駄々をこねても教えてくれなかった名前を、やっと教えてくれた。強い歓喜の心が、己の身体を支配する。
 やっと親友を名前で呼べる。たったそれだけのことが、こんなにも嬉しかった。
「あそうぎ、」
「なんだ、成歩堂」
「・・・・・・亜双義」
 美しい名を噛みしめるように何度も呼んだ。そのたびにその人は笑って、「成歩堂」と呼ぶ。
 ぼく、ずっとお前の名前を呼びたかったんだよ。
 亜双義を抱きしめたい衝動を堪えて、青空の下、成歩堂は謳うように親友の名前を呼び続けた。
 風に煽られた葉が舞う。名前と風の旋律が混じり、優しい音楽を奏でていた。

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