おまえにめとられたい

 この小さな町には、昔から伝わる伝説がある。
 町の天辺に聳え立つ岳から、下方の海まで続く、一本の道がある。その道には一匹の巨大な白蛇がいたという。
 天辺の岳には蛇の頭、海には蛇の尻尾。その巨大な白蛇は、この町の守り神だそうだ。
 その道の中腹に成歩堂家があった。成歩堂家は分家でありながらも、代々強い霊感を持つ者が生まれた。成歩堂家の本家は神事の血筋ではなかったので、なぜ力を持つ者ばかりが生まれるのか理由は定かではない。
 そんな家に生まれたのが、成歩堂龍ノ介だった。

「家の裏にある大樹に、神様が遊びに来ているのよ」
 母親に小さい頃教えてもらった、家の裏にある大樹の秘密。家の陰に隠れたその場所に人は滅多に訪れない。獣道であるため、近所の子どもたちも避けて通っていた。だというのに、その家に生まれた長男、成歩堂龍ノ介だけは違った。
 家の者すら足を運ばない大樹の下で遊ぶのが、物心ついたときから好きだった。天空に広がった樹木は地面に陰をつくる。木々の隙間から見える青空は澄んでいて、小さな自分の足元に木漏れ日を注いでいた。風がそよぐたび、きらきらと木漏れ日が揺れる。微かに届く太陽の光に手を透かして遊んでいた。
 あまり大仰に遊ぶ子ではなかったが、よくその大樹に登って涼んでいた。それほど高くは登れなかったが、登れば木々の匂いが濃くなり、気分が良かった。春には名前の知れぬ白い花が咲く。小さな白い花々を、子どもながらに美しいと感じていた。
 小学校に入学したばかりの成歩堂は考える。この木でブランコでもしたら、きっと楽しいのではないのかしらん。
 思い立ったが吉日、成歩堂は家の倉庫で見つけた紐を持って大樹の下にやってきた。木の枝に紐を引っかけて、どうにかブランコをつくれないかと思ったのだ。
 小さいながらも必死に背伸びをして、木の枝に紐を通した。
 その紐を結ぼうとしたとき、上から声が降ってきた。
「――キサマ、なにをしている」
 聞く者をはっとさせる、清廉な声だった。この場で人に出会ったことがない成歩堂は驚いて固まってしまう。大樹の上を見ても、白い花々の陰ばかりで、これといった人影は無かった。
 無かったはずなのだが、徐々に視認できた。
 その人は真っ白で、上等な着物を着ていた。成歩堂が紐を引っかけた枝までまっすぐ降りてきて、片足で枝に着地する。肩にかけた朱の羽織がふわりと舞う。重力を感じさせないしなやかさで、瞬く間に成歩堂の目の前まで降りてきた。
 枝に腰掛けたその人は、成歩堂を見下ろしている。強い花の香りがした。不思議な形をした面をつけているため目元は分からなかったが、口元は隠れていなかった。
 この人、人間じゃない。
 直感がそう訴えた。物心ついた頃からこの手の「人間ではないもの」がよく見えている。最近まではよく泣いていたが、今は驚きのほうが強く、どうすればいいのか分からない。
 あ、あ、と戸惑っていると、再びその人が問いかける。
「・・・・・・だから、なにをしていたと聞いているんだ」
 ため息交じりの優しい問いかけに、漸く返答できた。
「ブランコ」
「・・・・・・は?」
「ブランコ、つくろうとおもって。ここでブランコしたらきもちいいだろうから」
 そう答えると、一拍間が空く。その人が微動だにしないので戸惑っていると、やがてあっはっはと豪快に笑った。
「ははは! そうか、ブランコか! まったく、人間の子は奇っ怪なことを考える」
「・・・・・・だめですか?」
「だめだ。紐なんかで括ってしまえばそこから傷んで木が腐りかねん」
「・・・・・・? 木がいたむ・・・・・・木もいたいっておもうの?」
「まあ、そんなところだ」
「それじゃあ、だめだな・・・・・・」
 ブランコはしたかったが、木を痛めつけたいわけではない成歩堂は諦めることにした。子供心に、少し残念ではあった。
 その気持ちを汲んだのか、その人は手を伸ばしてきた。咄嗟にその手を取ると、ぐん、と身体が持ち上がる。気がつけばその人に抱きかかえられ、大樹の頂まで飛び上がった。
「わ、わ」
 その人の着物の衿をぎゅっと掴んで目を見張る。ざああ、と、白い花たちが目の前に広がり、息ができなくなる。花吹雪にもみくちゃにされたと思えば、気がつけば随分と高いところまで来ていた。
 そこが大樹の頂に一番近いところなのだろう。太い枝に下ろされる。隣に座ったその人は、愉快げにころころと笑っていた。
 下の様子がよく見えた。近くの公園で遊ぶ子どもたちの姿も見える。深い青色の空がより近く感じた。なにより、ふわふわとした白い花に囲まれたこの景色が、一番綺麗だった。
「お前、成歩堂家の者だろう。よく知っている」
 白い花の陰を一身に浴びるその人は、男性の形をしていた。花の隙間から木漏れ日が差し込む。唇に弧を描くその笑みは、くらくらとしてしまうほど美しかった。
 白い花弁が、一枚、ひらりと落ちる。
 成歩堂の小さい鼻頭についたその花弁を指先で摘まんで、薄紅の唇で喰む。その光景が、少年の心に焼き付いてしまった。
 頭を優しく撫でてくれるその人の名前を、成歩堂はまだ知らない。
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