そのほか詰め
大学に行くから、などとタイラから言われたのは夏のことだった。それは報告の響きであって相談の類ではなかった。行くから、という一言だけだ。最上は『はあ、またこの子どもは何か言い出したな』と幾分か呆れ、少々の期待を込めて「学園祭か何かお邪魔するという意味ですか?」と尋ねた。
「いや、俺が大学生になるから」
「そうですか。ご存知ないかもしれませんが、大学生というのは試験に合格してお金を振り込まなければなれません。学校の先生に訊いてみるといいでしょう」
「うん。俺、センター受けるから」
最上はつとめて冷静に「誰に何を吹きこまれたか知りませんが、お前に何かやりたいことがあるのですか?」と訊く。タイラもまた冷静に「そういうわけじゃない」と答えた。
「でも、教員免許を取ろうと思ってる。夢とかそういうんじゃないけど」
「教員免許? お前が?」
これには最上も些か驚いた。もしや本気なのだろうかと訝しむ。
それからタイラは、古本屋でもらったような辛気くさい紙袋を出してみせる。紙幣だ。そこには、わずかばかりの厚みを持った札束が入っていた。
「大学に行くから」と、再度タイラは宣言する。一切の否定を受け付けない響きがあった。
この子どもが、とにかく朝から晩まで学校に行っている以外の時間をアルバイトに費やしていることを最上は知っていた。少なくとも、中学生の時分にはすでにそうだった。一度、『それほど金を稼いで一体何に使っているのか』と詰問したほどだ。それがこのような成果となって目の前に現れたとしても何ら不思議ではなかった。
ああこれは何を言っても無駄だな、と最上は直感的に悟った。
それでも、焼け石に水をかけるような心持ちで最上は「うちにはいくらかツテがあります」と話す。
「高校まで卒業すれば、それなりにいい仕事を紹介できるでしょう。少なくとも食うに困らない生活ぐらいは送れる。お前、その金で大学に行っても生活は苦しいですよ」
「そうかな? まあ、そうかな……。俺も随分高い買い物だと思うんだ。でも、悪くない買い物だろ?」
最上はため息をついた。教育者であるなら、決して否定できない言葉だった。もちろん、教育の機会というものには値段以上の価値がある。間違いなくそうだ。
もとより説得などするつもりはなかったが、もう諭すのを辞めることにして最上は「お前は勉強が好きだったのですか。知りませんでした」と呟く。
「勉強は……どうだろうな。好きってほどじゃないんだけど」
「なんですって?」
「でも……、そうだな。海を見に行こうと思って」
「海?」
「俺は殊勝な蛙だから、井戸の外には海があると知っている」
そして、タイラはそのことについてそれ以上語ろうとはしなかった。なんとなく言っている意味がわかって、最上も深くは訊かなかった。代わりに、「よく集めたものですね」と紙袋の中を覗く。
「なぜもっと早く相談しなかったのです? もう少し楽な道を教えられたと思いますが」
タイラは瞬きをする。それからにっこり笑って、「だけどこの金がなかったら、あんたですら俺を笑ったろ?」と言った。
ショックを、受けていた。
目の前の少年が、決して自分を責めているようではないということも尚更ショックだった。
タイラは続ける。
「あんたは正しい。あんたはずっと、正しかった。普通なら、こんな金見せたって『無駄なこと』と言ったはずだ。だけどあんたは、それなりの覚悟を見せれば誠実でいてくれると思ってた。そういう人だから」
その後、二人とも無言だった。
やがて最上は力を抜くようにため息をついて、「教員免許を……取ると言っていましたね?」と口を開く。
「なら、死ぬ気で取りなさい。そして、最悪就職がまったくダメでも、うちに来なさい」
そう、言った。それだけ。応援も、鼓舞する言葉も、それ以上かけなかった。
タイラは「言ってろ!」と笑って、部屋を出て行く。
一人残された最上は、長く息を吐きながら天井を見た。
ここは、決して裕福な施設ではない。子どもたち一人一人の可能性を尊重する余裕もない。それでも、そうでさえなければ、何か変わっただろうか。
そんなこと。もはや過ぎた話になりつつある。
あの子どもに“人を信じる”ということを、ついぞ教えることができなかった。ただそれだけの話なのだ。
「いや、俺が大学生になるから」
「そうですか。ご存知ないかもしれませんが、大学生というのは試験に合格してお金を振り込まなければなれません。学校の先生に訊いてみるといいでしょう」
「うん。俺、センター受けるから」
最上はつとめて冷静に「誰に何を吹きこまれたか知りませんが、お前に何かやりたいことがあるのですか?」と訊く。タイラもまた冷静に「そういうわけじゃない」と答えた。
「でも、教員免許を取ろうと思ってる。夢とかそういうんじゃないけど」
「教員免許? お前が?」
これには最上も些か驚いた。もしや本気なのだろうかと訝しむ。
それからタイラは、古本屋でもらったような辛気くさい紙袋を出してみせる。紙幣だ。そこには、わずかばかりの厚みを持った札束が入っていた。
「大学に行くから」と、再度タイラは宣言する。一切の否定を受け付けない響きがあった。
この子どもが、とにかく朝から晩まで学校に行っている以外の時間をアルバイトに費やしていることを最上は知っていた。少なくとも、中学生の時分にはすでにそうだった。一度、『それほど金を稼いで一体何に使っているのか』と詰問したほどだ。それがこのような成果となって目の前に現れたとしても何ら不思議ではなかった。
ああこれは何を言っても無駄だな、と最上は直感的に悟った。
それでも、焼け石に水をかけるような心持ちで最上は「うちにはいくらかツテがあります」と話す。
「高校まで卒業すれば、それなりにいい仕事を紹介できるでしょう。少なくとも食うに困らない生活ぐらいは送れる。お前、その金で大学に行っても生活は苦しいですよ」
「そうかな? まあ、そうかな……。俺も随分高い買い物だと思うんだ。でも、悪くない買い物だろ?」
最上はため息をついた。教育者であるなら、決して否定できない言葉だった。もちろん、教育の機会というものには値段以上の価値がある。間違いなくそうだ。
もとより説得などするつもりはなかったが、もう諭すのを辞めることにして最上は「お前は勉強が好きだったのですか。知りませんでした」と呟く。
「勉強は……どうだろうな。好きってほどじゃないんだけど」
「なんですって?」
「でも……、そうだな。海を見に行こうと思って」
「海?」
「俺は殊勝な蛙だから、井戸の外には海があると知っている」
そして、タイラはそのことについてそれ以上語ろうとはしなかった。なんとなく言っている意味がわかって、最上も深くは訊かなかった。代わりに、「よく集めたものですね」と紙袋の中を覗く。
「なぜもっと早く相談しなかったのです? もう少し楽な道を教えられたと思いますが」
タイラは瞬きをする。それからにっこり笑って、「だけどこの金がなかったら、あんたですら俺を笑ったろ?」と言った。
ショックを、受けていた。
目の前の少年が、決して自分を責めているようではないということも尚更ショックだった。
タイラは続ける。
「あんたは正しい。あんたはずっと、正しかった。普通なら、こんな金見せたって『無駄なこと』と言ったはずだ。だけどあんたは、それなりの覚悟を見せれば誠実でいてくれると思ってた。そういう人だから」
その後、二人とも無言だった。
やがて最上は力を抜くようにため息をついて、「教員免許を……取ると言っていましたね?」と口を開く。
「なら、死ぬ気で取りなさい。そして、最悪就職がまったくダメでも、うちに来なさい」
そう、言った。それだけ。応援も、鼓舞する言葉も、それ以上かけなかった。
タイラは「言ってろ!」と笑って、部屋を出て行く。
一人残された最上は、長く息を吐きながら天井を見た。
ここは、決して裕福な施設ではない。子どもたち一人一人の可能性を尊重する余裕もない。それでも、そうでさえなければ、何か変わっただろうか。
そんなこと。もはや過ぎた話になりつつある。
あの子どもに“人を信じる”ということを、ついぞ教えることができなかった。ただそれだけの話なのだ。
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