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タイノンつめ

 記憶を失っていた。らしい。
 ほんの些細な事故で頭を打って、一か月ほど。その時のことはよく覚えていない。たぶん病院でぼうっとしていただけだろう。みんな会いに来てくれたというけれど、本当に入院していた時のことは思い出せないのだ。
ふとした拍子に記憶が戻って、みんな喜んでくれて、ユメノなどは泣いてしまって、大袈裟だなぁと思いながら退院して家に帰った。

 その日から、妙な夢を見る。

 いつもの酒場でノゾムは誰かと話していて、楽しいというか、心地よさを感じている。相手は男のようだが、どうも顔が見えない。笑っているのだと思う。夢の中では、その人が誰なのか不思議に思ったことは一度もない。
 夢から覚めてようやく、それが誰なのか気になるのだ。顔さえ見えれば思い出せそうなものを。そう考えて、すぐに首を横に振る。あれは誰でもない。夢の中に出てくるだけの人物のはずだ。ただの客や『どこかで見たことがある』程度の知人にしては、あまりにも自然すぎる。
 そんな夢を何度か見て、ノゾムは不快感こそなかったが、妙な焦燥感を覚えていた。
 だからだろう。ある時みんなで食事をしているときに冗談めかして言った。

「子供の頃って、何度も同じ夢を見たせいでそれが本当にあったことだと勘違いすることってあるじゃないですか。最近オレもそんな感じで、このカウンターの端にいつも同じ人が座っている夢を見て、それが本当にあったことのように錯覚したりするんですよ」

 そうすると、みんなはひどく驚いた。そうしてカツトシがぽつりと「そういえばあんたは、事故の日から一度もあいつのことを話題に出していなかったわね」と言った。

 ノゾムが夢の中の住人だと思っていた人物は、現実に存在する人だった。

 仲間たちはみんなその人物について語りたがらなかったし、その表情を見ればそれ以上話を聞こうという気にもならなかった。おそらくは記憶障害の余波だろうということで、その日は終わってしまった。
 しかし、いつまで経ってもその人に関する記憶は戻らない。ほかに欠けた記憶はないが、どうしてだかその人のことだけ、いつまでも思い出せない。
 瀬戸麗美という人は、それを聞いて「ふうん。思い出せないならあなた自身が思い出したくないんじゃない。別にそのままでもいいと思うけど」と言葉とは裏腹につらそうにそう言った。
 宝木七尾という人は、「平和一という人間のことなら思い出したほうがいいだろう。あの男とのこれまでは、きっと君に必要な経験だったはずだよ」と言った。

 ノゾムも、できるなら思い出したかった。いつからか夢の中では、その人の消えそうな背中に手を伸ばすシーンばかり見せられるようになっていた。戻ってきてほしいと痛いほど思うのに、その人の名前も呼べないでいる。思い出したい、と思う。思い出せないのに、その人のまなざしが焼き付いているような気がして。

 夜中に起きて、眠れなくて、突発的に電車に揺られ、海を訪れた。
夜の海は静かで、こんな夜にあの人と話をしたような気がした。どうだろう。気のせいかもしれないし、夢で見ただけかもしれない。なんせ話した内容も、その人の表情も、何も思い出せないのだ。
 自分はその人のことを『先輩』と呼んでいたらしい。ノゾムの出身校の卒業生だったからだ。
 先輩。先輩、どこから来て、どこへ行ってしまった人なのか。どうしてあなたのことを思い出せないのか。オレはあなたのことを忘れたかったのか。それならどうしてこうもあなたのことを思い出したくてもがいているのか。

 ためしに「先輩」と口に出して呟いてみると、ありふれた言葉なのに、自分とその人にしっくりくる気がして不思議だった。
 不意に、強い風が吹く。陸風はノゾムの髪を撫でるように絡まって、海のほうへ通り過ぎて行った。
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