タイノンつめ
夜中に目が覚め、ノゾムは水でも飲もうと下の階に降りる。キッチンの中に入り、ついでに冷蔵庫を開けて物色したりして、ふと顔を上げるとカウンターの上に煙草が置いてあった。
いつものタイラの席だから、おそらく客の忘れ物でもないだろう。
寝ぼけていたというよりはむしろ夜中に起きて興奮しており、ノゾムはそれを手に取ってしげしげと見つめてしまった。ご丁寧にライターも一緒に置いてある。
ノゾムはちょっと周りを見渡して、誰もいないことを確認してから煙草を一本手に取った。手に取ったからには止まることは許されない。口に咥え、ライターで火をつけようとする。
(カッッッタこのライター。固すぎて全然火つかないんですけど)
しばらく奮闘していると、「あのねえ、ノゾムくん」と声をかけられた。あまりにもびっくりしすぎてリアクションも取れなかった。
「それね、チャイルドロック」
タイラが腕組みをし、後ろから覗きこんでいた。
気配がしなかった。どこから現れたのかわからない。
タイラはといえば、面白がっている様子でもなく、呆れた様子でもなく、ともすればノゾムのことを心配しているように見える表情でそれを指摘している。
一瞬で、色々なことを考えた。言い訳をいくつか、どうすれば面目が保たれるかを一生懸命に考えたが、どうもこの状況は詰んでいるように思えた。段々と思考がヤケクソになってくる。
「早く言ってくださいよ」
どう考えても理不尽の極みだった。
そうわかってはいても、なんかもう逆ギレするしかないような気がした。
タイラはといえば『ああ……うん……』みたいな曖昧な反応で、明らかに煙草を返してほしそうにしている。
「大体どこから現れたんです?」
「そこのカウンターの外側に隠れてた」
「なんで隠れてんだよ!」
「カツトシだったら怒られるなと思って」
言いながら、タイラはそっと袋麺を置く。ノゾムはじっとそれを見て、「黙っててあげましょうか? オレの分で手を打ちますよ」と言ってみた。タイラは「そうなると思ったんだよな」とちょっと嘆く。
それからタイラはコンロの火を二台ともつけて、片方でヤカンを、もう片方でフライパンを熱する。フライパンには油をしき、手早く刻んだ鷹の爪を入れる。
「お前も二十歳だ。別に煙草を吸うのは構わないが」
「うわ、その話に戻ります??」
「先輩の煙草盗んで吸おうとするなんて悪ガキだな」
話しながらタイラはキャベツをこぎみよく刻み、もやしと共にフライパンへ投入する。しばらく炒めて水と何か混ぜたものを入れると、フライパンの中身がとろみを帯びてきた。
なんとはなしに、ノゾムはずっと握りしめていたライターをじっくり見る。先ほど指摘されたチャイルドロックと思しき突起をカチッと押して、もう一度挑戦してみる。風に飛ばされそうな小さな火がついて、思わず「あちっ」と悲鳴を上げてタイラを見た。
「…………」
「なんでこっち見んだよ。俺のせいか?」
ノゾムは煙草を口に咥え、ライターの火を近づける。なかなか燃え移らなくて、煙草を口から離して火をつけようと奮闘する羽目になった。
「? なんか、先の方焦げるだけでなかなか……燃えないんすけど」
「そうか」
「『まあそうだろうな……』って顔やめてもらっていいですか? コツがあるなら教えてくださいよ」
「気が向いたらな」
「あんたが『気が向いたらやる』つったこと、本当にやった試しがないじゃないすか」
「そんなことねえよ」
お湯が沸き、タイラは麺の入った器にそれを注ぎ込む。蓋をして数分待ち、しっかりほぐした麺の上にフライパンの中身を手際よく載せた。それで完成らしく、ノゾムの目の前にも器が置かれる。
いただきます、とノゾムが素早く手を合わせるとタイラは喉を鳴らして「お行儀がいいですね、坊ちゃん」と茶化した。
「……美味いです」
「なんでそんな複雑そうな顔を?」
「深夜にインスタント麺作るつってひと手間加えてくる人、嫌味だな……って」
「もうお前には食わせてやんない」
麺をすすりながら「これ豚肉入れたらもっと美味くないですか?」と言うと、タイラは妙に憐れみのこもった目で「お前は味覚は正常なのにな」と言われた。ちょっとどういう意味かわからなかった。
「肉なんて勝手に使ったらいよいよカツトシに殺される」
「アイちゃんさんに怯えすぎでしょ」
しばらく、麺をすする音だけが聞こえた。
「……こんな時間まで仕事すか?」
「まあな」
「本当に仕事好きですよね」
「え? ああ……そうだな……」
タイラは煙草をくわえ、「お仕事大好き。働くために生まれてきたようなもんだよ」と言いながら火をつける。煙草の先が素直に燃えて、ノゾムは釈然としない気持ちになった。昔観た映画で、魔法使いの言うことしか聞かない火の悪魔をヒロインが脅迫するシーンを思い出す。
「先輩っていくらぐらい資産あるんですか」
「お前、ついに俺を殺して資産を奪う気なのか?」
「ちがっ……そうですよ」
そうですよ、とオウム返ししてタイラは吹き出した。「計算したことはないが、期待するほどはないだろう」と瞬きをする。それから豪快に麺をすすって、もぐもぐしながら「まあ」と続けた。
「一部は竹吉に預けてあるから、何か困ったことがあったら言ってみろ。実直なだけが取り柄の俺の友人だ。空回りする癖はあるが」
「大丈夫ですか……? 空回りする癖っていうか空回りしてるところしか見たことない気がするんですけど」
「いいやつなんだよ、デリカシーに欠けるだけで」
「というかあんたがあの人のこと友人だと思ってたことにびっくりしてます」
「なんでだよ、友人だろ。今でも草野球する仲だぞ」
「……ちなみにイマダって人はなんなんですか?」
「あれも俺の古い友人だ。知ってるだろ」
「…………」
スープを飲んで、「それから一部は……」と言い出すのでノゾムは思わず「いいですよもう!」と耳を塞いでしまう。
「というかそんな大事なことを簡単に喋るぐらいなら煙草の吸い方を教えろくださいよ!? オレが本当に財産目当てであんたのこと殺したらどーすんだよ!」
タイラは楽しそうに喉を鳴らして「そんなタマかよ、お前がよ」と笑った。「だが、もし本当にその気になった時は」とノゾムのことを横目で見る。
「一人占めするなよ」
からかいの色を帯びながらも真っ直ぐなその目に、ノゾムはちょっと身を竦ませる。それから黙って麵をすすった。なんだか呑み込めないままで、ずっと喉に残っている気がする。
金にも命にも頓着しないなら、何のために。
「何が楽しくて生きて るんですかね」
食べ終えたらしいタイラが箸を弄びながら「難しいこと言うねえ、お前は」と呟く。
「世間一般的な話をした方がいいのか?」
「あんたに世間一般的な話ができるもんなら……」
「俺は別に楽しくて働いているわけではない」
「金のためですか?」
「当たり前だろ」
「金を稼ぐのは何のためですか? 生きるため?」
「まあ、そうだな」
じゃあなんで金も命も大事にしないんだよ。一生わかんねえよ。
手持ち無沙汰そうなタイラがじっとこちらを見ているので、ノゾムは「なんすか」と眉をひそめる。
「いや……食い終わるのおっせえなぁと思って」
「すみませんでしたね!」
つうかあんたが食い終わるの早すぎんだよ、と思いながらノゾムは麺をすすった。なんだか妙に惨めな気持ちになって、無言でラーメンに向き合う。
「今度は何に拗ねてる?」
「拗ねてませんけど」
「お前を見ていると、何かたまらん気持ちになる。これがお前を可愛く思う気持ちなのか共感性羞恥なのか測りかねている」
「オレがいつ恥ずかしいことしました??」
横を見ると、頬杖をついて眠そうにしたタイラが瞬きをするところだった。
「ゆっくり食え」
「さっき“おっせえ”って言ったでしょ」
「おっせえなぁ、ゆっくり食え」
「寝ぼけてます?」
立ちのぼっていく煙草のけむりを見ながら、「お前は少し危ういところがあるからな」とタイラが口を開く。
「要領は悪くないはずなんだが、いかんせん勝負が下手だ、お前は。度胸があるのにカードの切り方が下手だ」
「なんで突然賭け事の話を始めたんですか」
「金なんてのは所詮、手持ちのカードに過ぎない。有用なカードだからあればあるほどいいが、必要があれば切らなければならない」
「金が手札なら何を賭けてるんですか。命?」
「それは人によるだろう」
ようやく麺のなくなったスープを飲んで、ノゾムは一旦器を置いた。「あんたは何を賭けてるんですか?」と尋ねてみる。珍しく素直に、その答えを訊いてみたかった。タイラはいつものように気負いなく笑って、「賭けてんじゃない、これでも必死に守ってんだ。じり貧だからな」と言う。
「どんなカードを切りまくってでも守り抜きたいものなんて、そう多くはないだろう」
「たとえば?」
「そうだな。尊厳とか、そういう風に呼ぶのかな」
「尊厳……?」
あまりにも意外すぎて、ノゾムはタイラのことをまじまじと見つめてしまった。
「そんなに難しいもんじゃない。『何か強制されることなく、好きに生きていける権利』みたいなもんだよ。どんなに少ない選択肢からでも、それでも、選ぶのはあくまで自分であるということを主張し続ける権利だ。金は大抵の場合、この尊厳を守ってくれる。命ですら、そうだ」
「尊厳を守る為に命を切るつもりでいるんですか……?」
「まあ、普通はしねえよな。切るにしたって、大抵の場合早すぎる。他に切れるカードがあるのにそんなデカいカード切ってたらそれこそ勝負下手にも程があるからな。お前はたまにこれをしようとする気配があるからビビる」
「オレの話!!?」
「お前の話だよ。お前は、切るべきタイミングでカードを惜しんで切るのをためらい、切るべきでないタイミングでデカいカードを切りたがるから勝負下手だ」
「はぁ~~~~????」
頬杖をついたまま、煙草を灰皿に擦りつけて「まあ、若い時分なんてみんなそんなもんだよ」とタイラは言う。それからどこか懐かしそうに目を細めて、「やっぱりお前が可愛いのかもな」と独りごちた。
「さっきから何の話してます?」
「煙草の吸い方なら、いずれ俺が教えてやる」
「マジで何の話してんだ」
「それまで勝手に調べたりするなよ」
それから不意に顔を上げ、「まずい」と言いながらタイラは立ち上がってやかんを火にかけ始める。数秒後、ノゾムの耳に階段を降りてくる誰かの足音が聞こえた。
足音の主が顔を出し、「ちょっとアンタたち」と口を開いた瞬間に、タイラがラーメンの上に炒めたキャベツともやしを載せたものをカウンターに置いた。
「っす、カツトシさんお疲れさまっす。よかったらどうぞっす」
妙な口調でタイラがへりくだる。カツトシは顔をしかめ、しばらくそのタイラ特製のラーメンを見つめ、「ったく……こんな時間に信じらんない」と言いながら器を持ち上げ麺をすすり始めた。
「何の話してたの?」
「ノゾムくんは可愛いねって話だよ」
「あっそう」
「お前も可愛いよ」
「これ豚肉入れたら美味しくない?」
「言ったな? 次から勝手に使うぞ」
「それを許すかどうかはその時の僕の気分によるわ」
「確率的にはどんなもんなんでしょうかね」
「まあ、7割9分ぐらい怒る」
「クソゲー」
それからカツトシは「何言われたか知らないけど、ふてくされてんじゃないわよ。めんどくさいわね!」とノゾムの背中を思い切り叩く。ノゾムは「アイちゃんさんまでそうやって」と嘆き、タイラは喉を鳴らして笑っていた。
いつものタイラの席だから、おそらく客の忘れ物でもないだろう。
寝ぼけていたというよりはむしろ夜中に起きて興奮しており、ノゾムはそれを手に取ってしげしげと見つめてしまった。ご丁寧にライターも一緒に置いてある。
ノゾムはちょっと周りを見渡して、誰もいないことを確認してから煙草を一本手に取った。手に取ったからには止まることは許されない。口に咥え、ライターで火をつけようとする。
(カッッッタこのライター。固すぎて全然火つかないんですけど)
しばらく奮闘していると、「あのねえ、ノゾムくん」と声をかけられた。あまりにもびっくりしすぎてリアクションも取れなかった。
「それね、チャイルドロック」
タイラが腕組みをし、後ろから覗きこんでいた。
気配がしなかった。どこから現れたのかわからない。
タイラはといえば、面白がっている様子でもなく、呆れた様子でもなく、ともすればノゾムのことを心配しているように見える表情でそれを指摘している。
一瞬で、色々なことを考えた。言い訳をいくつか、どうすれば面目が保たれるかを一生懸命に考えたが、どうもこの状況は詰んでいるように思えた。段々と思考がヤケクソになってくる。
「早く言ってくださいよ」
どう考えても理不尽の極みだった。
そうわかってはいても、なんかもう逆ギレするしかないような気がした。
タイラはといえば『ああ……うん……』みたいな曖昧な反応で、明らかに煙草を返してほしそうにしている。
「大体どこから現れたんです?」
「そこのカウンターの外側に隠れてた」
「なんで隠れてんだよ!」
「カツトシだったら怒られるなと思って」
言いながら、タイラはそっと袋麺を置く。ノゾムはじっとそれを見て、「黙っててあげましょうか? オレの分で手を打ちますよ」と言ってみた。タイラは「そうなると思ったんだよな」とちょっと嘆く。
それからタイラはコンロの火を二台ともつけて、片方でヤカンを、もう片方でフライパンを熱する。フライパンには油をしき、手早く刻んだ鷹の爪を入れる。
「お前も二十歳だ。別に煙草を吸うのは構わないが」
「うわ、その話に戻ります??」
「先輩の煙草盗んで吸おうとするなんて悪ガキだな」
話しながらタイラはキャベツをこぎみよく刻み、もやしと共にフライパンへ投入する。しばらく炒めて水と何か混ぜたものを入れると、フライパンの中身がとろみを帯びてきた。
なんとはなしに、ノゾムはずっと握りしめていたライターをじっくり見る。先ほど指摘されたチャイルドロックと思しき突起をカチッと押して、もう一度挑戦してみる。風に飛ばされそうな小さな火がついて、思わず「あちっ」と悲鳴を上げてタイラを見た。
「…………」
「なんでこっち見んだよ。俺のせいか?」
ノゾムは煙草を口に咥え、ライターの火を近づける。なかなか燃え移らなくて、煙草を口から離して火をつけようと奮闘する羽目になった。
「? なんか、先の方焦げるだけでなかなか……燃えないんすけど」
「そうか」
「『まあそうだろうな……』って顔やめてもらっていいですか? コツがあるなら教えてくださいよ」
「気が向いたらな」
「あんたが『気が向いたらやる』つったこと、本当にやった試しがないじゃないすか」
「そんなことねえよ」
お湯が沸き、タイラは麺の入った器にそれを注ぎ込む。蓋をして数分待ち、しっかりほぐした麺の上にフライパンの中身を手際よく載せた。それで完成らしく、ノゾムの目の前にも器が置かれる。
いただきます、とノゾムが素早く手を合わせるとタイラは喉を鳴らして「お行儀がいいですね、坊ちゃん」と茶化した。
「……美味いです」
「なんでそんな複雑そうな顔を?」
「深夜にインスタント麺作るつってひと手間加えてくる人、嫌味だな……って」
「もうお前には食わせてやんない」
麺をすすりながら「これ豚肉入れたらもっと美味くないですか?」と言うと、タイラは妙に憐れみのこもった目で「お前は味覚は正常なのにな」と言われた。ちょっとどういう意味かわからなかった。
「肉なんて勝手に使ったらいよいよカツトシに殺される」
「アイちゃんさんに怯えすぎでしょ」
しばらく、麺をすする音だけが聞こえた。
「……こんな時間まで仕事すか?」
「まあな」
「本当に仕事好きですよね」
「え? ああ……そうだな……」
タイラは煙草をくわえ、「お仕事大好き。働くために生まれてきたようなもんだよ」と言いながら火をつける。煙草の先が素直に燃えて、ノゾムは釈然としない気持ちになった。昔観た映画で、魔法使いの言うことしか聞かない火の悪魔をヒロインが脅迫するシーンを思い出す。
「先輩っていくらぐらい資産あるんですか」
「お前、ついに俺を殺して資産を奪う気なのか?」
「ちがっ……そうですよ」
そうですよ、とオウム返ししてタイラは吹き出した。「計算したことはないが、期待するほどはないだろう」と瞬きをする。それから豪快に麺をすすって、もぐもぐしながら「まあ」と続けた。
「一部は竹吉に預けてあるから、何か困ったことがあったら言ってみろ。実直なだけが取り柄の俺の友人だ。空回りする癖はあるが」
「大丈夫ですか……? 空回りする癖っていうか空回りしてるところしか見たことない気がするんですけど」
「いいやつなんだよ、デリカシーに欠けるだけで」
「というかあんたがあの人のこと友人だと思ってたことにびっくりしてます」
「なんでだよ、友人だろ。今でも草野球する仲だぞ」
「……ちなみにイマダって人はなんなんですか?」
「あれも俺の古い友人だ。知ってるだろ」
「…………」
スープを飲んで、「それから一部は……」と言い出すのでノゾムは思わず「いいですよもう!」と耳を塞いでしまう。
「というかそんな大事なことを簡単に喋るぐらいなら煙草の吸い方を教えろくださいよ!? オレが本当に財産目当てであんたのこと殺したらどーすんだよ!」
タイラは楽しそうに喉を鳴らして「そんなタマかよ、お前がよ」と笑った。「だが、もし本当にその気になった時は」とノゾムのことを横目で見る。
「一人占めするなよ」
からかいの色を帯びながらも真っ直ぐなその目に、ノゾムはちょっと身を竦ませる。それから黙って麵をすすった。なんだか呑み込めないままで、ずっと喉に残っている気がする。
金にも命にも頓着しないなら、何のために。
「何が楽しくて
食べ終えたらしいタイラが箸を弄びながら「難しいこと言うねえ、お前は」と呟く。
「世間一般的な話をした方がいいのか?」
「あんたに世間一般的な話ができるもんなら……」
「俺は別に楽しくて働いているわけではない」
「金のためですか?」
「当たり前だろ」
「金を稼ぐのは何のためですか? 生きるため?」
「まあ、そうだな」
じゃあなんで金も命も大事にしないんだよ。一生わかんねえよ。
手持ち無沙汰そうなタイラがじっとこちらを見ているので、ノゾムは「なんすか」と眉をひそめる。
「いや……食い終わるのおっせえなぁと思って」
「すみませんでしたね!」
つうかあんたが食い終わるの早すぎんだよ、と思いながらノゾムは麺をすすった。なんだか妙に惨めな気持ちになって、無言でラーメンに向き合う。
「今度は何に拗ねてる?」
「拗ねてませんけど」
「お前を見ていると、何かたまらん気持ちになる。これがお前を可愛く思う気持ちなのか共感性羞恥なのか測りかねている」
「オレがいつ恥ずかしいことしました??」
横を見ると、頬杖をついて眠そうにしたタイラが瞬きをするところだった。
「ゆっくり食え」
「さっき“おっせえ”って言ったでしょ」
「おっせえなぁ、ゆっくり食え」
「寝ぼけてます?」
立ちのぼっていく煙草のけむりを見ながら、「お前は少し危ういところがあるからな」とタイラが口を開く。
「要領は悪くないはずなんだが、いかんせん勝負が下手だ、お前は。度胸があるのにカードの切り方が下手だ」
「なんで突然賭け事の話を始めたんですか」
「金なんてのは所詮、手持ちのカードに過ぎない。有用なカードだからあればあるほどいいが、必要があれば切らなければならない」
「金が手札なら何を賭けてるんですか。命?」
「それは人によるだろう」
ようやく麺のなくなったスープを飲んで、ノゾムは一旦器を置いた。「あんたは何を賭けてるんですか?」と尋ねてみる。珍しく素直に、その答えを訊いてみたかった。タイラはいつものように気負いなく笑って、「賭けてんじゃない、これでも必死に守ってんだ。じり貧だからな」と言う。
「どんなカードを切りまくってでも守り抜きたいものなんて、そう多くはないだろう」
「たとえば?」
「そうだな。尊厳とか、そういう風に呼ぶのかな」
「尊厳……?」
あまりにも意外すぎて、ノゾムはタイラのことをまじまじと見つめてしまった。
「そんなに難しいもんじゃない。『何か強制されることなく、好きに生きていける権利』みたいなもんだよ。どんなに少ない選択肢からでも、それでも、選ぶのはあくまで自分であるということを主張し続ける権利だ。金は大抵の場合、この尊厳を守ってくれる。命ですら、そうだ」
「尊厳を守る為に命を切るつもりでいるんですか……?」
「まあ、普通はしねえよな。切るにしたって、大抵の場合早すぎる。他に切れるカードがあるのにそんなデカいカード切ってたらそれこそ勝負下手にも程があるからな。お前はたまにこれをしようとする気配があるからビビる」
「オレの話!!?」
「お前の話だよ。お前は、切るべきタイミングでカードを惜しんで切るのをためらい、切るべきでないタイミングでデカいカードを切りたがるから勝負下手だ」
「はぁ~~~~????」
頬杖をついたまま、煙草を灰皿に擦りつけて「まあ、若い時分なんてみんなそんなもんだよ」とタイラは言う。それからどこか懐かしそうに目を細めて、「やっぱりお前が可愛いのかもな」と独りごちた。
「さっきから何の話してます?」
「煙草の吸い方なら、いずれ俺が教えてやる」
「マジで何の話してんだ」
「それまで勝手に調べたりするなよ」
それから不意に顔を上げ、「まずい」と言いながらタイラは立ち上がってやかんを火にかけ始める。数秒後、ノゾムの耳に階段を降りてくる誰かの足音が聞こえた。
足音の主が顔を出し、「ちょっとアンタたち」と口を開いた瞬間に、タイラがラーメンの上に炒めたキャベツともやしを載せたものをカウンターに置いた。
「っす、カツトシさんお疲れさまっす。よかったらどうぞっす」
妙な口調でタイラがへりくだる。カツトシは顔をしかめ、しばらくそのタイラ特製のラーメンを見つめ、「ったく……こんな時間に信じらんない」と言いながら器を持ち上げ麺をすすり始めた。
「何の話してたの?」
「ノゾムくんは可愛いねって話だよ」
「あっそう」
「お前も可愛いよ」
「これ豚肉入れたら美味しくない?」
「言ったな? 次から勝手に使うぞ」
「それを許すかどうかはその時の僕の気分によるわ」
「確率的にはどんなもんなんでしょうかね」
「まあ、7割9分ぐらい怒る」
「クソゲー」
それからカツトシは「何言われたか知らないけど、ふてくされてんじゃないわよ。めんどくさいわね!」とノゾムの背中を思い切り叩く。ノゾムは「アイちゃんさんまでそうやって」と嘆き、タイラは喉を鳴らして笑っていた。