二章 不退転

その日も、俺は太宰の家で彼の弾くピアノを聴いていた。
平日は俺が太宰の家に行き、休日の夜には太宰が俺のバイト先に来て俺の滑るところを見る。
それが、変わり映えのない、然し輝いていた日常だった。

「なあ、太宰さあ、コンクールとか出る気ないか?」
「へぁ?」

唐突に、思い浮かんだことをそのまま言ってみた。
太宰は見事に奇声を発し、手に持っていた楽譜をばさりと取り落とした。

「え、…な、えっとコンクール?」
「…ああ」

太宰は驚きに満ちた目で俺を見つめる。
どこか居心地が悪くなって、膝の上で握った拳へ視線を下げた。
思い付きで物を喋るんじゃ無かった。

「……考えたことも無かったなぁ…」

ぼんやりとした口調の太宰は、うーんと考え込んでいる。

「でも、一寸気になるかな。ね、見て」

顔を上げると、眼前に太宰のスマホが突き出された。

「うおっ」

華々しい雰囲気の中、凍てつくような雰囲気を持った男性が、光を反射して光り輝く大きな黒の前に座る。
彼は、太宰と似たような雰囲気だった。

でも、それ(・・)の手懐け方がまるで違う。
太宰とは全くちがう、音を出した。


「すげぇ…」

太宰とは違う音。
それは、とてもとても美しかった。

正直、太宰とその男、どちらが上手いかは判らなかった。
けれど、違う種類の「上手い」だということは解った。

「なあ、これ、太宰も出てみろよ!絶対入賞するだろ!」
「ええ?私なんてほぼ独学のドのつく素人レベルだよ?」

無理に決まってるじゃない、とひらひら手を振る太宰に詰め寄る。
この太宰の才を俺の耳のみに留まらせておくことがひどく惜しかった。
こんなに俺を動かしたんだ、この音を雑音と一緒に埋させて置くのは納得できない、そんな気がした。

「ふうん…前回の優勝者、ヒョードル・ドストエフスキー…か」

画面いっぱいに、オーケストラとの協奏が映し出される。
その眼は睨まれたら竦んで足が動かなくなりそうな程、真っ昏だった。
然し、それは同時に人を捉えて吸い込みそうな暗黒孔(ブラックホール)のように見えた。
不思議なことに、そんな絶望のひかりを宿した眼に見覚えがある。

あ、と思わず声が出た。

…俺は、この眼を見た事がある。
もちろん、此奴に会ったことがある訳でもなく別人なのだが。
でもはっきりと、鮮明に覚えている。
その眼で睨まれたことを、迚も善く覚えている。

–––––––『中原中也……お前はいずれ後悔する、覚えとけ屑が』

思い出さない、ように、していた、のに。

「…っ、」
「……中也?どうしたの?」

太宰の声に、はっと我に返る。
…もう二年も前のことだというのに、まだ吹っ切れてもいない。

「…否、なんでもねえよ。悪い、今日はもう帰るな。用事思い出しちまって」
「そう?…判った。じゃあ、また明日ね」
「おう」

疑心感の拭なさそうな太宰の顔に、胸がぎゅうぎゅうと締め付けられる。
そのまま、息ができなくなればいいのに。

ただただ苦しさの中で、太宰の家を後にする。
ぱたん、と玄関の扉を閉めてしまって、大きく息を吐き出す。

「はぁー、……くそ」

精一杯、どれだけ精一杯忘れようとしても、嫌な記憶程鮮明に残るものだ。
忘れようとすればするほど、焼きつくように。

俺が選手を引退した、本当のことはまだ太宰にも話せそうにない。
兄貴にすら。
…誰にも、話せないままだ。

「…畜生、情けねえな、…ははは」

上手く、笑う事すらできない。
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